第96話 往来を集めるな
術負け病は、まだ王都から去っていなかった。
朝の市場は半分だけ開き、役所の窓口は細くなり、学校の講義は遠話鏡と講堂を行き来している。
離れ勤めも離れ講義も広がった。
だが、対面を完全になくすことはできない。
食べ物は配らなければならない。
薬草は届けなければならない。
役所の札には、どうしても本人確認が要るものがある。
学校にも、術盤を実際に触らなければ分からない授業がある。
人は集まる。
集まれば、触れ移る危うさが生まれる。
そして、後から言う。
あの時、誰と近かったのか分かればよかった。
同時に、別の声もある。
でも、自分の往来を全部知られるのは嫌だ。
どちらも正しい。
正しいもの同士がぶつかると、だいたい面倒になる。
最悪だ。
———
朝食の台所で、リゼは小さな紙片を見ていた。
市場の御触れ写しだ。
出入りの混雑を避けるため、買い物の刻を町区ごとにずらす、とある。
「面倒ね」
「必要ではある」
「それはそう。でも、どこへ行ったかを全部書けって言われたら嫌」
「嫌だな」
「でも、あとで危なかったかどうかだけは知りたい」
「そこが難しい」
リゼは椀を置いた。
「役所に日記を預けるのは嫌。でも、自分のしおりに、すれ違った印だけ残るなら少し違う」
「今日の授業で、その話になると思う」
「また私の台所が先に授業してる」
「かなりしている」
リゼは少し得意そうな顔をした。
恋人になっても、こういう顔は変わらない。
安心する。
———
講義は、半分だけ講堂で開かれた。
席は間隔を空け、窓は開け放たれている。
残りの学生は遠話鏡越しだ。
声が少し遅れる。
だが、昨日よりは慣れてきた。
人類は不便にも慣れる。
よいことなのか、悪いことなのかは分からない。
ルドーが表示盤の前に立った。
「問い」
短い。
今日はよく聞こえた。
「病を広げぬため、誰が誰に近づいたか後から知りたい」
学生たちが静かになる。
「だが、王都が民の往来を丸ごと抱えるのは気味が悪い」
ルドーは私を見た。
「両方立つか」
「立てられます」
「ユウ」
「はい」
「はいは一回だ」
「はい」
今日は一回で済んだ。
少し成長した気がする。
———
私はまず、わざと悪い案を書いた。
出入りのたび名を書く
役所が通行記録を全部持つ
どこで誰と会ったかを中央へ送り続ける
学生の一人が顔をしかめた。
「重そうです」
「重いです」
別の学生が言った。
「漏れたら怖い」
「かなり怖い」
遠話鏡の向こうから声が届く。
「監視に見えます」
「見えます」
私は頷いた。
「接触確認のために、必要以上の情報を集めています」
表示盤の中央に大きな帳面を描く。
そこへ人の名前と場所と時刻が集まる線を引く。
「誰が、どこで、誰と会ったか。これを王都が全部持つ。確かに後から追えます。しかし重いし、漏れた時の被害が大きい。市民も嫌がる」
「でも、全部集めた方が確実では」
学生が聞いた。
「確実に近づく代わりに、別の危うさを作ります」
私は帳面を指した。
「病を防ぐための仕組みが、往来を丸ごと見る仕組みになる。それは目的を超えています」
———
次に、小さな札を取り出した。
掌に乗る薄い木札だ。
表面には、何も名前が書かれていない。
「触れ札と呼びます」
表示盤に書く。
触れ札
移ろい印
知らせ印
手元照合
「会ったという事実は、王都が持たなくていい。会った者同士の触れ札にだけ残せばよい」
学生たちが少し身を乗り出した。
「名前ですか」
「名前ではありません」
私は札の上に、短い光の印を出した。
すぐに別の形へ変わる。
「その場限りで変わる移ろい印です。日ごと、刻ごとに変わる。古い印は自然に消える」
リゼが遠話鏡の向こうで言った。
「名札じゃなくて、その時だけのしるしなのね」
「そう」
「すれ違ったしおり同士が、互いの一時的な印だけ挟んでおく」
「かなり近い」
「役所に日記を預けない」
「預けません」
私は二枚の触れ札を近づけた。
札同士が淡く光り、互いの移ろい印を短く写す。
名前は出ない。
場所も出ない。
ただ、ある刻に近くにいた札の印だけが残る。
———
次に、知らせ印の話をした。
「後になって、ある人に術負け病が確認されたとします」
私は一枚の札を示す。
「その人が、最近の自分の移ろい印を束ねて知らせ印として公開します」
学生が身を硬くした。
「名前を公開するのですか」
「いいえ。公開するのは移ろい印の束です」
「それで誰が危なかったか分かるのですか」
「王都には分かりません」
ざわつき。
当然だ。
王都に分からない仕組みを、王都が採る。
管理する側は不安になる。
「他の触れ札が、手元でだけ照らし合わせます。自分の記録に同じ移ろい印があれば、その札の持ち主にだけ注意を出す」
表示盤に書く。
王都は誰と誰が会ったかを持たない
本人の札だけが一致を知る
一致した者にだけ注意を出す
ルドーが短く言った。
「見すぎるな」
「はい」
今日は、はいは一回だとは言われなかった。
———
リゼが腕を組んだ。
「誰とどこで会ったかまで王都に知られるのは嫌」
「はい」
「でも、自分が危なかったかだけ分かれば十分」
「はい」
「だったら、役所に日記を預けるんじゃなくて、手元のしおり同士にすれ違った印だけ残す」
「その通りです」
学生たちの顔が少し明るくなった。
また台所の言葉が勝った。
強い。
私は補足した。
「触れ札の持ち主以外は、過去の記録を勝手に見られません。古い記録も残し続けません。これは、全部分かる帳面ではなく、本人だけが危うさに気づける札です」
遠話鏡の向こうから、別の学生が言った。
「王都が全部見なくても、役に立つのですか」
「立ちます」
私は答えた。
「目的は、全員の往来を知ることではありません。危うさに早く気づいて、必要な人だけが動けるようにすることです」
———
授業の終わり際、王城術務室からまた魔文が届いた。
最近の魔文は、こちらの都合を見ない。
魔文とはそういうものだ。
内容は短かった。
王都は接触確認の仕組みに関心がある。
ただし、一部の役人は不安を示している。
中央で見えない仕組みで本当に足りるのか。
市民に持たせてよいのか。
知らせ印を出してもらえるのか。
私は読み終えて、表示盤の帳面を消した。
「全部見える必要はありません」
講堂が静かになった。
「むしろ、全部見えないように作ることが、信頼につながる場合があります」
ルドーが頷いた。
「明日、試せ」
「はい」
「範囲は絞れ」
「はい」
「はいは一回だ」
最後に来た。
油断した。
それでも、明日の方針は決まった。
往来を集めるのではない。
危うさだけを、必要な手元へ返す。




