第9話 全館呼びは世界を燃やす
魔法学校の廊下は、相変わらずうるさい。
うるさいのに、みんな“静かにしているつもり”なのが一番うるさい。
図書館の司書長なら、この廊下だけで三人くらい黙らせられると思う。
私はローブの袖を直しながら、教室の扉の前で一度だけ深呼吸した。
「……今日の授業、何だっけ」
隣のリゼが即答する。
「“遠くに届ける魔法”」
「嫌な予感がする」
「ユウの好きなやつだよ」
「好きじゃない。慣れてるだけ」
リゼが笑った。
「それを好きって言うんだよ」
言い返せなかった。
悔しい。
———
教室に入ると、ルドーが黒板の前に立っていた。
目つきが悪い。今日も安定して悪い。
「座れ」
短く言うだけで教室が静かになる。
この人の才能、魔法じゃなくて声だと思う。
ルドーは黒板に大きく書いた。
『遠くに届けるのは、魔法より難しい』
生徒の何人かが「は?」という顔をした。
その反応は正しい。魔法学校で言う台詞じゃない。
ルドーは机の上に、木箱を三つ置いた。
どれも同じ箱だが、蓋の上に札が貼ってある。
青。白。黒。
「今日はこれでやる。難しい話をするなと思うな。難しいのは現場だ」
ルドーは淡々と続ける。
「お前らは“届く”を当然と思っている。
近くなら、確かに届く。知ってる相手なら、なおさらだ」
ルドーが指を鳴らす。
机の上に小さな紙片が現れた。授業用の薄い紙だ。
「リゼ」
「はい」
リゼが前へ出る。
「お前の机の上に置いた紙片を、教室の端の机に移せ」
リゼが短い詠唱をすると、紙片がふわりと滑り、指定した机に移った。
「できる」
ルドーが言う。
「では――王都の反対側にいる者の机に、同じことをしろ」
教室がざわついた。
リゼが一瞬だけ言葉に詰まって、首を振る。
「……場所が分かりません。机も分かりません」
「正しい」
ルドーはあっさり言った。
「お前らの転移は、“知っている場所”と“知っている対象”に依存する。
つまり、便利だが狭い」
狭い。
万能じゃない世界は、まだ信じられる。
「だから遠くには郵便がある」
ルドーは黒板に書き足した。
『郵便:届けば運がいい』
生徒が笑った。
笑えないのに笑うの、やめてほしい。
「笑うな。事実だ」
———
ルドーは青い箱の蓋を開け、紙片を一枚入れた。
「これは“通り道”の箱だ。紙片はここを通って移動する。
だが通り道だけでは届かない」
次に白い箱を叩く。
「白は“宛先”の箱だ。遠くの住所。『王都のどの区画へ』という大枠だ」
最後に黒い箱を指で弾いた。
「黒は“隣人”の箱だ。次に渡す相手。目の前の担当者。
遠くへ行くにも、まず隣に渡せなければ一歩も進めない」
生徒が首を傾げる。
「隣人……?」
ルドーは嫌そうに頷いた。
「そうだ。嫌でも隣人だ。現実だ」
そしてルドーは紙片を一枚取り出し、表に大きくこう書いた。
『宛先:東区・湯の町 宛名:公衆浴場』
教室が少しざわつく。
タイムリーすぎる。
ルドーはその紙片を白い箱に入れる。
「白は書ける。誰でも書ける。
問題は黒だ」
———
ルドーが黒板にもう一つ書いた。
『問題:次に誰へ渡す?』
そして教室全体に問う。
「質問だ。黒札(隣人)が分からない。どうする?」
生徒の手が上がる。元気だな。
「全館に問いかけます!」
別の生徒も続く。
「街中に知らせます! 誰か知ってるはずです!」
ルドーがゆっくりと目を細めた。
「……世界が燃える」
その瞬間、教室が静かになった。
“燃える”は効く。
ルドーは机の上に、小さなベルを置いた。
学校の連絡用ベルだ。
「今から、“全館呼び”をやってやる。後悔しろ」
ルドーがベルを鳴らした。
チン。
すると、教室の隅に置いてあった小さな連絡札が一斉に光った。
廊下の方からも、カチカチと音がする。別の教室の札も反応しているらしい。
ルドーが大声で叫んだ。
「黒札を知っている者は返答せよ!
“宛先:東区・湯の町 宛名:公衆浴場”!」
次の瞬間。
廊下から返事が飛んできた。
「知らん!」
「うちの担当じゃない!」
「公衆浴場ってどれだよ!」
「東区って広いだろ!」
「今授業中だぞ!」
さらに、教室内の連絡札が勝手に鳴り始める。
返答が返答を呼び、音が増える。
ルドーは淡々と言った。
「見ろ。黒札が欲しいだけなのに、全員に聞いた。
全員が返した。返事を処理する者がいない。
結果、誰も“届ける”仕事ができなくなる」
私は思わず、ぼそりと呟いた。
「……これ、郵便局が毎日やってるやつだろ」
リゼが小声で言う。
「ユウ、顔が死んでる」
「想像しただけで胃が痛い」
ルドーがこちらをちらりと見た。
「今、何と言った」
しまった。声に出た。
私は言い訳する前に、口が勝手に動いた。
「……範囲を区切らないと地獄になります」
教室が私を見た。
最悪だ。注目されたくない。
でも、ルドーは少しだけ口元を歪めた。
「そうだ」
その一言が、やけに重い。
ルドーは黒板に大きく書いた。
『全館呼び禁止』
続けて書く。
『聞くなら、近所だけ』
「問いかけるなら“近所”だけにしろ。
近所の外に投げるな。外に出すなら、“門番”に渡せ」
門番。
ルドーの言い方は雑だが、絵は分かる。
ルドーは教室の床に、チョークで四角い枠を描き始めた。
枠は三つ。教室を三つの小区画に分けた。
「ここを“近所”とする」
ルドーは各区画の端に、小さな札立てを置いた。
「札立てが門番だ。
近所の外へ出すのは門番だけ。門番が次の門番へ渡す」
生徒が眉をひそめる。
「それ、遅くないですか?」
「遅い。だが燃えない」
ルドーが即答した。
「速くて燃えるか。遅くて届くか。
まず届かせろ。速さはその次だ」
現場の真理みたいなことを言うな。
腹立つのに納得してしまう。
———
後半は演習だった。
ルドーが紙片を配る。全員に一枚ずつ。
内容はバラバラ。近い宛先もあれば遠い宛先もある。
「白札(宛先)は紙に書いてある。
黒札(隣人)は――門番に聞け」
生徒たちはまず、同じ区画の中で相談を始めた。
近所だけなら声は小さい。まだ平和だ。
ところが、すぐに詰まる。
「えっと……東区って、こっち?」
「門番ってどっちに出すの?」
「え、門番札が空いてない!」
「次の門番が受け取ってないって言ってる!」
小さな混乱が増える。
でも“全館呼び”の地獄より、ずっとマシだ。
ルドーは一度だけ、意地悪く言った。
「よし。どうしても黒札が分からない者は、全館呼びしていい」
生徒の一人が、嬉しそうに叫んだ。
「全館に問いかけます! この宛先の黒札、誰ですか!」
瞬間、連絡札がまた鳴り始める。
返答が来る。返答が返答を呼ぶ。
演習は止まる。
ルドーが冷たい声で言った。
「それだ。これが“燃える”だ」
生徒が青ざめる。
体験すると早い。人間は痛みで学ぶ。
———
授業の終わり。
ルドーは黒板に宿題を書いた。
『宿題:遠くに届ける仕組みを設計せよ』
『役割を分けて書け』
生徒たちが「紙でいいなら助かる」といった顔をする。
それを読んで、ルドーは言った。
「紙でいい。明日まで」
安堵のため息が漏れる。
――そこで、ルドーが一拍置いた。
視線が私に刺さる。
「……ユウ」
やめてくれ。
心の中で先に言っておいた。無駄だろうけど。
「前へ」
教室がざわつく。
全館呼びより、こっちの方が居心地が悪い。
私は前に出た。
ルドーは声を落として言った。
「お前は紙で出すな」
「……は?」
「紙は誰でも書ける。書いて終わる。
お前の宿題は“動く形”だ」
私は眉をひそめた。
「動く形って……」
ルドーが言う。
「現場で作れ。現場で回せ。現場で壊せ。現場で直せ。
それができなければ、ただの作文だ」
ひどい。
でも、否定できないのが腹立つ。
ルドーは続けた。
「今日の授業を理解したなら、郵便局がどれだけ燃えてるか分かるはずだ」
「……郵便局」
「――お前には、あれが必要だ」
「あれ?」
ルドーが短く言った。
「区切りと門番だ」
私はため息を吐いた。
「……また仕事ですね」
「そうだ。お前の得意分野だろ」
得意分野。
認められるのは嬉しいはずなのに、面倒が増えると相殺される。世の中そういうものだ。
リゼが横で小さく呟いた。
「ユウ、がんばって」
「言い方が他人事だな」
「他人事じゃないよ。私も巻き込まれるから」
たしかに。
———
そのとき、廊下の向こうから足音が響いた。
王城の制服。伝令だ。顔が青い。息が荒い。
「ルドー先生! それから……ユウ・サカモト殿!」
私の名前が出た。
今日はよく呼ばれる日だ。最悪。
「至急、王城よりお呼びです! ――郵便局が、止まりました!」
「止まった?」
「仕分けが崩壊し、局内が混乱しています! 重要書類が行方不明で……」
伝令の声が震える。
「このままでは、王都の業務が止まります! ユウ殿、お願いします!」
私はルドーを見た。
ルドーは口元だけで笑った。
「ほらな。宿題だ」
リゼが私の袖を掴む。いつもの合図。
「行こう、ユウ」
私は息を吐いた。
「……現場で学べ、ね」
現場で学ぶのはいい。
でも、郵便局の現場は、たぶん最悪だ。
そして最悪な現場ほど――燃える。




