第8話 止まらない湯
王都の公衆浴場は、遠くからでも分かった。
湯気が空に上がっている。
それも、普段の“ほわっ”とした幸せな湯気じゃない。
“もわっ”という、事故の湯気だ。
路地に入ると、足元が濡れていた。
そして、通りの真ん中を温かい水が薄く流れている。
「うわ……」
リゼが声を漏らした。
浴場の入口には、半裸の男たちがタオル片手に立ち尽くしていた。
その顔が全員、同じだった。
困惑と諦め。
ここは戦場ではない。
だが、人間の顔は戦場と同じになるらしい。
「止まらないって、こういうことか……」
私は呟きながら、扉を押し開けた。
次の瞬間。
熱気と蒸気と、轟音。
ザアアアアア――!
浴場の奥から、水というより“壁”が押し寄せていた。
湯船が溢れ、床を川みたいに流れ、桶が流され、椅子がひっくり返っている。
「止めてくれぇぇぇ!」
店主らしい太った男が、床を滑りながら叫んでいた。
手には札束。濡れてぐしゃぐしゃ。
たぶん今日の売上だったもの。
「湯が止まらん! 止まらんのだ! 閉めても閉めても出てくる!」
閉めても出てくる。
嫌な言い方だ。まるで現世のバグみたいだ。
ルドーが鼻で笑った。
「だから現場は好きじゃない。濡れる」
「先生、それ言ってる場合ですか」
「濡れるのは大事だ」
何の話だ。
私はまず周囲を見た。
人。滑る床。熱い湯。木の柱。倒れかけの棚。
危険が多すぎる。
「リゼ、人を外に!」
「わかった!」
リゼが走る。こういうときの彼女は迷いがない。
私は店主に近づいた。
湯が足首まで来ている。温かい。だが、この温かさは今いらない。
「どこから湯が出てる?」
「奥だ! 湯釜のところ! 供給口が勝手に開きっぱなしでぇ!」
「普段はどう止めてる?」
「止め札だ! “止め”の札を貼ると止まるはずなんだ! でも今日は……貼っても貼っても!」
札。
……嫌な予感がする。第7話の授業が脳内で勝手に再生された。
『混ぜるな危険』
私は湯釜の方へ進もうとして、床を見た。
濡れた床に何かが落ちている。札だ。
赤い札。
私は一瞬、目を細めた。
「……それ、図書館の札じゃないか?」
店主が叫ぶ。
「知らん! 誰かが落としたんだろ! そんなの今どうでもいいだろ!」
どうでもよくない。
こういうのがだいたい原因だ。
ルドーがぼそりと言った。
「授業の続きだな。混ぜるな危険」
「先生、今日は授業じゃない」
「現場こそ授業だ」
黙っててほしい。
———
湯釜の前は、地獄だった。
湯の供給口から、湯が噴き出している。
勢いが強い。湯船に入りきらず、床を溢れさせ続けている。
供給口の横に、札を貼る場所がある。
すでに札が何枚も貼られていて、ぐちゃぐちゃだ。
店主が必死に叫ぶ。
「これが“止め”! これが“絞り”! これが“冷まし”! 全部貼った! なのに止まらん!」
私は札の山を凝視した。
札は似ている。
しかし、似ているのが一番危ない。
ここで、ひとつ確認しておくべきことがある。
札は“魔法そのもの”じゃない。
札が勝手に複雑な術式を回しているわけでもない。
札がやっているのは、もっと地味で、もっと危険な仕事だ。
――装置が元から持っている仕組みに対して、**「どの動作を有効にするか」**を指定する。
要するに、装置の“設定”を切り替える札だ。
人間が一日中詠唱し続けるのは無理だから、街の装置はだいたい札で動いている。
そして設定が混ざると、装置は平気で狂う。
今日の授業が、ものすごく嫌な形で役に立つ。
私は言った。
「札、全部剥がします」
「はぁ!? 今それ剥がしたらもっと出るだろ!」
「出るかもしれない。でも、今の状態は“何が効いてるか分からない”」
店主が目を剥く。
私は続けた。
「中で何が起きているか分からないまま、結果だけを積み上げるのは――いつか必ず痛い目を見る。
この現場は、もう痛い目の途中です」
店主は言い返せなかった。
たぶん、心当たりがある顔だった。
ルドーが短く言った。
「剥がせ。責任は私が取らん」
「先生!」
「私は教師だ。責任は王城が取る」
最悪の協調だが、今は助かる。
———
私はまず、周囲の安全を作った。
湯釜の前の床に、簡易の滑り止め結界を張る。
これは基礎魔法で済む。《インヴォーク》はいらない。
次に、湯の流れを一時的に逃がす。
湯船ではなく、排水溝に向かうように。
排水溝が足りない。
つまり――溢れる。
私は歯を食いしばった。
「リゼ!」
「ここ!」
リゼが戻ってきた。息が切れている。
「人、外に出した! あと……桶と布、持ってきた!」
「ナイス。桶で排水を補助して、布で滑りを減らして」
「了解!」
彼女の返事が速い。現場適性が高すぎる。
私は札の山を見た。
ここからが本題だ。
通常の“止め”の手順は、たぶん長い。
止める。圧を落とす。逆流させる。安全を確認する。
間違えたら熱湯が跳ねる。
現場で長い手順を唱えるのは事故る。
だから《インヴォーク》が必要になる。
私はジェムを握った。
《インヴォーク》は便利だ。便利すぎる。
だから私は、あれを“押せば何とかなるボタン”にはしたくなかった。
中で何が起きているのか分からないまま、結果だけを積み上げるのは――いつか必ず、痛い目を見る。
次に同じことが起きたとき、理由を説明できないのが一番怖い。
――だが今は、止めるのが先だ。
———
「店主。札はどれが正規の“止め”だ?」
「こ、これだ! この青いのが止め!」
青い札。
ちゃんと“止め”と書いてある。文字が読めるのは助かる。
しかし、青い札の上に赤い札が貼られている。
赤い札には、図書館の印。
私は赤い札をつまんだ。
濡れている。薄い。剥がしやすい。
剥がす。
その瞬間、供給口の湯の勢いが一段増した。
「うわぁぁぁ!」
店主が悲鳴を上げる。
「落ち着いて! 今は“素の状態”に戻しただけ!」
私は叫び返した。
叫びたくないが、現場は叫ぶ。
私は札を全部剥がした。
青も赤も、絞りも冷ましも、全部。
供給口は完全に開きっぱなしになった。
湯が噴き出す。轟音。
だが、ここからが“設計”だ。
———
私は店主に聞く。
「止め札は、どこに貼ると止まる?」
「ここだ! 供給口の横の刻印に……」
刻印。
つまりここが“入力口”だ。
私は頷いた。
「じゃあ貼る札は一枚だけ。いまはそれ以外全部禁止」
「む、無理だ! 絞らないと圧が……」
「絞るのは手順の中でやる。札を増やすな」
店主が目を見開く。
たぶん今まで、札で現場対応してきたのだ。積み上げ方式で。
私はジェムを掲げた。
「インヴォーク。緊急遮断」
短い呼びかけ。
でも中身は長い。
供給口の周囲に淡い光が走った。
まず、圧が一段落ちる。
次に、供給口の弁がゆっくりと閉じ始める。
同時に、排水溝側の流れが一時的に増える。安全に逃がす。
ゴウン……という水路のうなりが、低くなった。
湯の噴き出しが、細くなる。
「おお……!」
店主が声を漏らす。
しかし――まだ止まらない。
細くなっただけで、出続けている。
私は目を細めた。
「閉じ切らない……?」
ルドーが指で刻印の横を指す。
「見ろ。札の“目的”が違う」
刻印の横に、小さな札が貼られていた。
誰が貼ったか分からない、赤い札。
図書館の印。
私はため息を吐いた。
「……まだ混ざってる」
「混ざってるな」
ルドーが楽しそうなのが腹立つ。
私は赤札を剥がす。
そして、青札を貼る位置を一つずらす。
正しい入力口に合わせる。
店主が叫ぶ。
「そこだ! そこが正しい!」
私は頷いた。
「インヴォーク。復旧」
ジェムが淡く光る。
今度は、閉じる手順が最後まで通った。
供給口の弁が、ゆっくり、確実に閉じる。
最後の一滴が落ちる。
ザアアアア……という轟音が、ふっと消えた。
静寂。
湯気だけが残る。
床を流れていた湯が、排水に吸い込まれていく音が小さく聞こえる。
店主が、膝から崩れ落ちた。
「……止まった……」
私は息を吐いた。
「止まりました」
言ってから、当たり前のことを言っている自分に笑いそうになった。
でも、当たり前が戻るのは、やっぱりいい。
———
片付けは大変だった。
湯船の縁に溢れた湯を掬い、床を拭き、桶を並べる。
司書の地獄と同じ匂いがした。
現場はどこも似ている。
リゼが布で床を拭きながら言った。
「ユウ、今日も怖かった?」
「怖かった」
「よかった」
「なんでだよ」
「だって、怖いのに逃げないの、すごい」
それは、褒め方として反則だと思う。
ルドーが言った。
「今日の授業の復習だ。
札を混ぜるな。名前を壊すな。目的を壊すな」
店主が涙目で頷く。
「はい……もう二度と……」
私は赤い札を指でつまんだ。
「これ、図書館の札です。どこから来たのか、後で調べた方がいい」
店主が青ざめる。
「図書館……? なんで浴場に……?」
「現場あるあるです」
「あるあるで済ますな!」
リゼが珍しくツッコミを入れた。
私は少しだけ笑った。
———
帰り道、夕日が石畳を赤く染めていた。
浴場の前はさっきまでの混乱が嘘みたいに静かで、湯気だけが穏やかに上がっている。
リゼが私の袖を掴んだ。
「ユウ、今日は……かっこよかった」
「どこが」
「止めたところ。止まった瞬間、静かになったでしょ。……あれ、好き」
好き。
そんな言葉、さらっと投げるな。
私は咳払いで逃げた。
「……次は、札の混入経路を潰さないとまた起きる」
「また仕事だ」
「また仕事だ」
ルドーが背後で言う。
「ほらな。授業は現場だ」
「先生、授業って言えば許されると思ってません?」
「思っている」
最悪だ。
でも――悪くない。
私はジェムを握り直した。
《インヴォーク》は強い。
だからこそ、混ぜるな危険。
そして世界は、今日も普通の顔に戻っていく。




