第86話 台帳番を信じぬなら、皆で認めろ
朝、リゼの家の台所は、焼き麦の香ばしい匂いで満ちていた。
外では荷車の音が細く続いている。
王都は今日も、誰かの荷物と誰かの約束で動いている。
「今日は何」
「台帳の預け先の話」
「また役所が揉めてるの」
「役所に限らない。取引の記録を誰が持つかで揉める」
リゼは匙を止めた。
「店の帳面を、売り手だけが持つと買い手が疑う。買い手だけが持つと売り手が疑う。そういう話?」
「そう」
「じゃあ、帳場係を一人決めれば」
「その一人を信じられない時がある」
リゼは少し考えた。
「面倒ね」
「面倒だ」
「なら、皆が同じ帳面を持つしかないのか」
「今日の授業はそこ」
リゼは皿を置いた。
「便利さは減るけど、誰か一人に裏切られにくくなるのね」
「かなり近い」
台所で結論が出た。
最近、本当にそういうことが多い。
———
講堂には、小さな帳面を十冊用意した。
同じ紙。
同じ枠。
同じ空白。
学生たちは、今日は帳簿の授業か、という顔をしている。
半分は正しい。
残り半分は、疑い深い人類の授業だ。
ルドーが前に立った。
「問う」
講堂が静かになる。
「取引の記録を残したい。だが、その台帳を一人に預けたくない時、どうする」
学生の一人が手を上げた。
「信頼できる台帳番を選びます」
「揉める」
二人目。
「王都が預かります」
「疑われる」
三人目。
「神殿が預かれば」
「また疑う」
四人目。
「複写を配ります」
「足りぬ」
五人目。
「印を増やします」
「重いだけ」
ルドーがこちらを見た。
「ユウ」
「はい」
「はいは一回だ」
「……はい」
今回も一回のつもりだった。
つもりは、台帳に残らない。
———
私は表示盤に書いた。
中央台帳
「まず、普通は中央台帳が楽です」
学生たちが少し意外そうな顔をした。
「速い。分かりやすい。管理しやすい。台帳番が一人なら、問い合わせ先も一つです」
帳面を一冊だけ掲げる。
「王都内の普通の業務なら、これでいいことが多い」
一度止める。
「ただし、台帳番を誰にするかで揉める場では、台帳番そのものが争点になります」
表示盤に書き足す。
誰が持つか
誰が直せるか
誰が消せるか
「記録の中身より、預かり手が疑われる」
学生の何人かが頷いた。
取引の授業ではなく、人間の授業だと気づき始めた顔だった。
———
次に、十冊の帳面を学生へ配った。
継ぎ台帳
「全員が同じ台帳の写しを持ちます」
取引札を一枚作る。
商会甲から商会乙へ、穀物十袋を引き渡したという札。
それを学生たちへ順に見せる。
「新しい取引札は、参加者へ広げます。皆が見られる。皆が写しへ取り込む候補にする」
表示盤に書く。
札だまり
「まだ台帳へつながっていない取引札は、札だまりに集まります」
机の中央に札を置いた。
学生たちがそれを見る。
「ただ、誰が次の頁をつなぐかを決めなければなりません。全員が勝手につなげば、台帳がばらばらになります」
そこで、小さな石を入れた袋を出した。
袋の中から、決められた印に合う石を早く引いた学生が、次の頁をつなぐ。
簡易の競べだ。
「継ぎ役競べです」
———
学生たちは少しざわついた。
競べという言葉は、だいたい人間を前のめりにする。
困った性質だ。
「勝った者は、札だまりから取引札を集め、新しい継ぎ頁を作ります」
勝った学生に、新しい頁を作らせる。
前の頁の印。
取引札の束。
自分が競べに勝った印。
それらをまとめる。
継ぎ頁
「新しい継ぎ頁を、皆の台帳の末尾につなぎます」
学生たちが自分の帳面へ同じ頁を書き写す。
「報いとして、継ぎ役は手数料を得ます」
小さな木札を渡した。
学生たちの目が急に現実的になる。
人間は報酬が出ると理解が速い。
「ただし、これで終わりではありません」
私は別の学生へ、こっそり偽の頁を作らせた。
内容は、自分に都合よく取引札を書き換えたものだ。
———
偽の継ぎ頁を見せると、講堂がざわついた。
「これも頁です」
私は言った。
「ですが、皆が採るとは限りません」
表示盤に書く。
主筋
継ぎ筋
「過半が採って伸ばしていく継ぎ筋を、主筋とします」
学生たちに選ばせる。
正しい競べの頁を採る者が多い。
偽の頁を採る者は少ない。
「勝手な履歴は、過半が採らない限り主筋になれません」
偽頁を作った学生は、少し肩をすくめた。
「一人で偽頁を作ることはできます。ですが、それを主筋にするには、多くの者に採らせる必要があります」
ルドーが短く言った。
「勝手な正史にするな」
正史。
いい言い方だ。
少し物騒だが、台帳とはだいたい物騒な歴史である。
———
私は、十冊の帳面を見回した。
学生たちの机の上に、同じ頁が重く並んでいる。
「利点を言います」
表示盤に書く。
中央台帳番が不要
勝手な書き換えに強い
一人の裏切りで全体が壊れにくい
次に、別の欄へ書く。
遅い
重い
皆が写しを持つ
手数料がかかる
「強い仕組みほど、たいてい重いんです」
学生たちが帳面の束を見た。
さっきより、少し重そうに見えている。
「中央を置けるなら、普通台帳のほうが楽です。そこは間違えないでください」
リゼが後ろから言った。
「つまり、一人の帳場係に預ける代わりに、皆が同じ帳面を持って、皆で『それでいい』と認めるのね」
その言い方が、一番近かった。
講堂向けにも、ちょうどいい。
「便利さは減る。でも、誰か一人に裏切られにくくなる」
学生の筆が動いた。
またリゼが勝った。
今日は勝敗を記録しないことにする。
———
授業の終わり際、王城の使いが来た。
またか。
最近、授業末の扉の音が嫌いになりつつある。
最悪だ。
「共同取引記録会で、議論が止まっております」
使いは少し疲れた顔をしていた。
「王都、複数の商会、外商、川向こうの自治領が、物流と納付の共通記録を作る必要があります。ですが、台帳を誰が預かるかで揉めています」
ルドーが短く言った。
「王都は」
「王都預かりを主張しています」
「商会は」
「王都に都合よく書かれると疑っています」
「外商は」
「自分たちの商館預かりを求めています」
「王都は嫌がる」
「はい」
見事な人類だった。
誰も記録を要らないとは言っていない。
誰が持つかで止まっている。
「見に行きましょう」
私は帳面を閉じた。
「今日の授業そのものです」
ルドーが頷いた。
「預かり手を消せ」
———
共同取引記録会の部屋は、乾いた紙の匂いがした。
大きな机の片側に王都の役人。
反対側に商会の代表。
窓際に外商たち。
奥に川向こうの自治領の使者。
全員が帳面を持っている。
全員が、他人の帳面を信用していない顔だった。
「王都が預かれば、王都に都合の悪い記録が薄くなる」
商会代表が言った。
「商会預かりなら、納付遅れが都合よく消える」
王都の役人が返す。
「第三者を置けば」
外商が鼻で笑った。
「その第三者を誰が選ぶ」
部屋は、記録の中身ではなく、預かり手で詰まっていた。
私はさっきの十冊の帳面を思い出した。
「なら、預かり手を一人にしないほうが早いです」
部屋の視線がこちらへ集まった。
面倒な視線だ。
だが、形はもう見えている。




