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魔法世界は運用で回る  作者: 月の位相
特任講師編

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第80話 秘密は渡すな。証明だけ返せ

 朝、リゼの家の台所は少し甘い匂いがした。

 鍋の中で豆が煮えている。

 窓の外では、雨の残りが軒からぽたぽた落ちていた。


「今日は何」


「合言葉の話」


「また役所が忘れたの」


「忘れたというより、覚えさせすぎている」


 リゼは木匙を止めた。


「覚えやすい合言葉は漏れやすい。漏れない合言葉は覚えにくい。そういう話?」


「そう」


「それ、店の裏口の鍵を毎日変えるようなものね」


「しかも客にも覚えさせる」


「嫌すぎる」


「本当に嫌だ」


 人間は秘密を覚えるのが苦手だ。

 そして、秘密を他人に見せないのも苦手だ。

 最悪だ。


「じゃあ、どうするの」


「秘密を渡さない」


「合言葉なのに?」


「合言葉を口にしない。秘密を持っている証明だけ返す」


 リゼは少し考えた。

 鍋の湯気が白く上がる。


「家の鍵を見せびらかすんじゃなくて、その鍵で内側から一度だけ音を鳴らす、みたいなもの?」


「かなり近い」


「鍵そのものは渡さない」


「渡さない」


 朝食前に授業が終わりかけた。

 最近、リゼの理解が速い。

 助かる。

 少し怖い。


———

 講堂には、木箱と小さな札を用意した。

 札には、古い役所で使われていた合言葉が書いてある。

 もちろん本物ではない。

 本物だったら講堂で見せない。

 見せた瞬間に教育ではなく事故になる。


 ルドーが前に立った。


「問う」


 学生たちが静かになる。


「合言葉は、覚えやすいほど漏れやすい。漏れぬようにすれば、今度は人が覚えられぬ。ならば、合言葉に頼らぬ認め方はないか」


 学生の一人が手を上げた。


「もっと長くします」


「折れる」


 別の学生。


「定期的に変えます」


「疲れる」


 三人目。


「紙に書くのを禁じます」


「書く」


 四人目。


「合言葉を二つ三つ聞きます」


「増えただけ」


 五人目。


「罰を重くします」


「遅い」


 ルドーがこちらを見た。


「ユウ」


「はい」


「はいは一回だ」


「……はい」


 今回は一回だった気がする。

 気がするだけかもしれない。


———

 私は表示盤に書いた。


合言葉方式

 秘密を相手へ渡す


「合言葉で本人を認めるとき、本人は秘密を口にします」


 木箱の前に学生を一人立たせる。


「門番が聞く。本人が答える。合っていれば通す」


 表示盤に次を書いた。


見られる

聞かれる

騙し取られる

使い回される


「合言葉は、相手へ渡した瞬間に秘密ではなくなり始めます」


 学生たちの顔が少し曇った。


「もちろん、長くすれば多少はましです。変えれば多少はましです。取り締まれば多少はましです」


 そこで一度止める。


「ただし、それは合言葉を重くしているだけです。人が先に折れます」


 ルドーが短く言った。


「重さで守るな」


———

 次に、二枚の札を出した。


問い札

応答印


「発想を変えます」


 私は問い札を学生へ渡した。


「門番は毎回違う問い札を出します。本人は、秘密そのものを口にしません。その問い札に対して、本人だけが返せる応答印を返す」


 表示盤に書く。


秘密を渡す

 やめる


秘密を持つ証明

 返す


「応答印は、その場の問い札にだけ効きます。別の問い札には使えない。同じ応答印を盗んでも、次には役に立ちません」


 学生の一人が言った。


「でも、どうやって本人だけが返すのですか」


「そこが問題です」


 私は小さな箱を開けた。

 中には古い写し紙が入っている。

 王立図書館から借りた論文の写しだ。

 紙が少し黄ばんでいる。

 古い紙は、なぜかだいたい偉そうな匂いがする。


「王立図書館で古論文を見つけました。体内閉術についての論文です」


———

 表示盤に、論文名を書いた。


体内閉術による秘印保持と応答印生成


 学生たちがざわついた。


「体内閉術は、人体の内在魔力を使って、体の内側だけで処理を閉じる術です。秘印を体外へ出さず、問い札へ応答印だけを返す」


 紙を一枚めくる。

 古い術式図が細かく描かれていた。


「面白いのは、秘印を外へ見せないところです」


 表示盤に書く。


秘印

 外へ出さない


応答印

 問い札ごとに返す


「秘密を見せるのではありません。持っていることだけ、その場の問いに応じて示す」


 学生の顔が変わった。

 合言葉の話から、少しだけ違う地平へ出た顔だ。


 こういう瞬間はいい。

 人間は、発想が一段ずれたときだけ静かになる。


———

 ただし、穴はある。

 穴を見ない授業は、だいたい後で現場に殴られる。


「安全要件を確認します」


 表示盤に書く。


眠っている間

拘束された時

外から命じられた時


「眠っている間に勝手に使われたら、意味がありません。腕を掴まれただけで応答が出ても駄目です。外から命じて動くなら、合言葉より危ない」


 リゼが後ろの席から言った。


「それ、眠らされてても勝手に使われたりしないの?」


「この論文では、そこは潰されています」


 表示盤に書く。


意志起動


「本人の意思がなければ起動しない。単なる接触、眠り、外からの命令だけでは応答印が生成されない」


 学生の一人が言った。


「意思とは、気合いですか」


「違います」


 気合いで安全を語るな。

 それはもう祈祷である。


「論文では、体内の魔力の流れを本人が内側から揃えることを条件にしています。外から押しても揃わない。眠っていれば揃わない」


 ルドーが言った。


「触れただけでは駄目」


「はい」


「命じただけでも駄目」


「はい」


「本人が応じる」


「そうです」


———

 小さな実演をした。


 協力者は治癒術科の上級生だった。

 幼い頃から魔力制御に慣れている。

 こういう学生は、箸で豆をつまむように術を扱う。

 私はまだ、箸を持つ前の子どもに近い。


「問い札を出します」


 私は一枚目の問い札を見せた。

 上級生が目を閉じる。

 数息のあと、指先に薄い光が浮かんだ。

 小さな応答印が札へ移る。


 表示盤が光った。


認め


「合言葉は口にしていません」


 次に、同じ応答印を別の問い札へ押した。

 表示盤は光らない。


不一致


「応答印は問い札ごとに変わります。盗んでも使い回せません」


 学生たちが前のめりになった。


「本人が何もしない場合も試します」


 上級生は手を置くだけにした。

 光は出ない。


無応答


「接触だけでは動きません」


———

 学生の一人が手を上げた。


「異世界人でも使えますか」


 講堂が少し静かになった。

 質問として正しい。

 そして、私を見るな。


「論文の整理では、人種や出自で閉じていません。内在魔力を扱えれば習得可能です」


 私は自分の手を見た。

 まだ魔力制御は下手だ。

 この世界に来た頃よりはましだが、ましになっただけである。


「ただし、幼い頃から魔力制御に慣れている人の方が習得しやすい。私は訓練すれば可能性はありますが、すぐには無理でしょう」


 学生の一部が少し安心した顔をした。

 ユウだけが使える便利術ではない。

 ユウだけが使えない欠陥制度でもない。

 そこは重要だ。


 この世界の技術は、この世界の人が担うべきだ。

 私は橋をかける。

 橋そのものになってはいけない。


———

 授業の終わりにまとめを書いた。


合言葉を重くするだけでは、人が折れる

秘密は渡すな

問い札へ、応答印だけ返せ

秘印は体外へ出すな

意志起動を必ず入れろ


「大事なのは、秘密を口へ乗せないことです」


 学生たちが書き取る。


「合言葉は、守るより先に漏れます。漏れる言葉で本人を証し続けるのは限界があります」


 ルドーが腕を組んだ。


「漏れる言葉で、本人を証すな」


 短い。

 講義の最後に置くには強い。


———

 講堂を出たところで、王宮の使いが廊下を走ってきた。

 また紙束だ。

 紙束が走ってくる時は、たいてい人間が走らされる。


「ユウさん、至急です」


「今度は何ですか」


「役所と市民向け盤で、合言葉漏れ由来の不正利用が出ています」


 来た。


「被害は」


「本人になりすました閲覧と、申請の差し替えが数件。上では、合言葉をもっと長くし、もっと頻繁に変えるべきだという話になっています」


 私は論文の写しを抱え直した。


 違う。

 それだけでは足りない。


 合言葉を重くするほど、人は紙に書く。

 頻繁に変えさせるほど、人は同じ形を使い回す。

 秘密を口へ乗せる方式そのものが、もう限界に近い。


「現場へ行きます」


 ルドーが横で言った。


「現場は待たん」


 その通りだ。

 授業は終わった。

 今度は、王都の認め方を変える番だった。

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