第74話 何でもできることと、何でも速いことは違う
朝、リゼの家の台所には焼いたパンの匂いがあった。
窓の外では、昨日より少し弱い陽が石畳を照らしている。
茶の湯気が細く上がり、皿の上で果物の皮が薄く光っていた。
「今日は何」
「描画術盤の話」
「絵描きの道具?」
「もともとはそう。光や色や面を扱うために育った盤だ」
リゼがパンを割った。
「絵を描く盤が、学校の授業になるのね」
「絵だけの話ではないから」
「また名前で油断すると危ないやつ?」
「そういうことだ」
道具の名前は便利だ。
そして、だいたい人を縛る。
人類は札に名前を書いた瞬間、その札の外を見なくなる。
最悪だ。
———
講堂には、幻灯師から借りた小さな描画術盤が置かれていた。
黒い石板の上に、細い銀線が何本も走っている。
隣には王宮でよく使う算術盤を置いた。
こちらは何でもできる。
少なくとも、皆がそう思っている。
ルドーが前に立った。
「問う」
学生たちが顔を上げる。
「何でもできる術盤と、絵を描くことに長けた専用盤がある」
短い間。
「常に前者が強いか」
学生の一人が手を上げた。
「何でもできるなら、そちらの方が強いと思います」
「素直だ。だが足りん」
別の学生。
「専用盤は用途が狭いので、実務では弱いのでは」
「早い」
三人目。
「絵にしか使えないなら、役所の仕事には向きません」
「名で見た」
四人目。
「何でも盤の方が上等では」
「上等と最速を混ぜるな」
ルドーがこちらを見る。
「ユウ」
「はい」
「はいは一回だ」
「……はい」
今日は遅れて気づいた。
手遅れである。
———
表示盤に二つの札を書いた。
算術盤
描画術盤
「算術盤は器用です。分岐が多い仕事、一件ごとに判断が違う仕事、形がばらばらな仕事に向きます」
算術盤へ札を入れる。
来客の条件を読み、違う返しをする小さな仕事だ。
盤は少し時間をかけて、正しく返した。
「一つ一つ見て、判断して、次を変える。こういう仕事は得意です」
次に描画術盤へ同じ仕事を入れようとする。
盤はすぐ止まった。
「これは苦手です」
学生たちが少し安心した顔をした。
「ただし」
その顔が止まる。
「何でもできることと、何でも速いことは違います」
———
今度は、同じ小さな比べを大量に並べた。
黒と白の小石を百ほど皿に入れ、同じ型の印を探す。
ひとつひとつは難しくない。
同じ比べを、ただ多く繰り返すだけだ。
まず算術盤へ流した。
盤は一つずつ確かめる。
正しい。
だが遅い。
次に描画術盤へ流した。
銀線が一斉に光った。
石板の上に、同じ模様の位置が一度に浮かぶ。
講堂がざわめいた。
「速い」
学生の一人が漏らした。
「一件一件は難しくない。数が多いだけなら、賢い一人より、同じ手を何百も並べたほうが速い」
表示盤に書く。
並べ計算
「同じ型の計算を大量に一斉処理することです。描画術盤は、この並べ計算に強い」
———
「もともとは絵のために育ちました」
表示盤に、簡単な絵を出す。
光。
色。
面。
遠景。
「絵面を作るには、同じような小さな処理が山ほどあります。面ごとに色を決める。光の当たりを比べる。遠くのものを薄くする。ひとつひとつは単純でも、数が多い」
描画術盤の銀線がまた光る。
「だから、この盤は絵に育てられた。ですが、本質は絵ではありません」
表示盤に書いた。
同じ型
大量
一斉
「本質は、同じ型の手を山ほど並べることです」
———
リゼが後ろの席から言った。
「つまり、何でも屋より、同じ手を千回一万回くり返す職人のほうが強い場面があるのね」
「その通り」
「皿洗いで、一人が全部の料理を判断しながら片付けるより、同じ大きさの皿だけ並べて何人もで洗う方が速い、みたいな」
「かなり近い」
学生たちがうなずいた。
家事は偉い。
だいたいの術理を説明できる。
———
「専用盤を、専用と思い込みすぎないでください」
私は表示盤に別の例を書いた。
同じ型の比べ
大量の印付け
盤面上の一斉処理
図柄照合
「図柄、紋章、模様を面の並びとして比べる。これも描画術盤に向きます」
学生が手を上げた。
「では、何でも描画術盤でよいのですか」
「いいえ」
即答した。
「分岐が多い。仕事の形がばらばら。一件ごとの判断が重い。そういうものを無理に押し込むと、かえって遅くなります」
表示盤に書く。
向く仕事
向かない仕事
「仕事を見て盤を選ぶべきです」
———
ルドーが腕を組んだ。
「器用と最速を混ぜるな」
学生たちが書き取る。
「盤は役目で選べ」
私はうなずいた。
「何でもできることと、何でも速いことは違います。同じ手が山ほどあるなら、並べて片付けたほうが速い」
描画術盤の光が、黒い石板の上で薄く消えた。
「向く仕事を見つければ、脇役も主役になります」
———
授業が終わる頃、王宮から使いが来た。
紙束を抱えて、かなり疲れた顔をしている。
この顔は、量で殴られている人間の顔だ。
「来訪対応局からです」
「何ですか」
「近く大きな交易会がありまして。商会、使節、来客の通行札を準備しています」
嫌な予感がした。
「通行札の図柄、商会紋、来客印札、紋章札。照合が多すぎて、担当者が追いつかないと」
ルドーが短く言った。
「現場こそ授業だ」
また便利な言葉が出た。
責任は、たぶん王城が取る。
———
来訪対応局の部屋に着くと、紙と札の匂いがした。
机の上に商会紋が山のように積まれている。
通行札の束。
来客用の印札。
紋章札。
担当者たちは目を赤くしていた。
夜通しの顔だ。
最悪だ。
「算術盤で一件ずつ照合しています」
担当官が言った。
「間に合いません」
算術盤は机の中央で小さく光っている。
一枚読み、一枚比べ、一枚返す。
正しい。
だが遅い。
私は商会紋の束を見た。
同じ型の比べ。
大量。
一斉。
「これ、描画術盤向きです」
部屋が静かになった。
「絵描きの盤で、これが片付くのですか」
「明日、試します」
担当者たちの顔に、疑いと期待が半分ずつ浮かんだ。
その顔は嫌いではない。
まだ間に合う顔だ。




