第67話 止める
翌朝、出かけようとしたとき、リゼが台所から声をかけた。
「昨日みたいな顔、今日はしないでよ」
「……うん」
「言うことがあるなら、ちゃんと言いなさい」
私はうなずいた。
外に出ると空気が冷たかった。石畳が朝露で濡れていた。足音が少し滑った。歩きながら、リゼの言葉が頭の中で繰り返した。
言うことがあるなら、ちゃんと言いなさい。
昨日の夢がまだ少し残っていた。冷たい会議室と、赤い点滅。言えなかった言葉。
王宮までの道を歩いた。
朝の通りはまだ静かだった。荷を積んだ小型の馬車が一台、先を急いでいた。石畳の隙間から薄い草が伸びている。空はよく晴れていた。
歩きながら、今日何かおかしなことがあれば言おうと、ぼんやり思っていた。
———
王宮に着くと、廊下が少し慌ただしかった。
早足の使いが何人か行き交っている。書類を抱えた官吏が廊下の角で同僚と早口で話している。すれ違いざまに聞こえた断片は、来賓の手配について何かだった。
嫌な予感がした。
———
ルドーの部屋に寄ると、すでに人が来ていた。
王宮の式典担当局の役人が二名、長椅子に腰かけて待っている。四十がらみの男と、少し若い女。男の方は机に肘をついていた。顔に疲れが滲んでいる。昨夜から慌ただしかったのかもしれない。
「ユウ。ちょうどいい」
「何の話ですか」
「受付術の話だ。座れ」
———
三日後に王都で来賓の集まりがある。
諸国からの使節と商会の長、学者衆が一堂に集まる規模の催しで、一度に数百人が出入りする見込みだという。廊下のざわつきはそのためだった。三日という期日が、部屋全体に重さを作っていた。
「旧手順では、来客一人ひとりに対して受付担当者が直接名札と照合していました。それを今回から、受付台に術で自動処理させるつもりで。事前に入場者名簿を石に写し、台が照合して入場札を発行する形です。大人数でも詰まらずに捌けるはずで」
「いつ用意できましたか」
「先週から試験運用をしています。来客役を数人立てて試した限りでは動きましたので、今回から本番投入する予定でした」
「今の段階で問題が出ていますか」
「それが……少し挙動の怪しいところがありまして。ただ、三日後は動かなければならない。担当者を増やせば現場で対応できると思っていたのですが」
———
「見せてください」
受付室に移った。
廊下を少し歩いた先の小さな部屋だった。壁に沿って木の台が置かれている。台の上に術具が並んでいた。石が二つ、受け台が一つ、発行口が別の石に繋がっている。全体に手作りの感じがあった。急いで組んだのかもしれない。
受付担当の術士が台の前に立った。若い。顔がこわばっていた。
手順を見せた。
名簿石を差し込む。来客の印を台が読み取る。確認の光が点く。入場札が出てくる。照合完了の表示が出る。
一人目。光が点いた。入場札が滑り出た。
二人目。少し間があったが、通った。
三人目。通った。
「これで問題ないはずなのですが」
———
「もう少し試してください」
「はい?」
「今やったのは三人続きです。別の順で、数を増やしてやってみてください」
担当術士が怪訝な顔をした。役人も少し首を傾けた。
「動いていますが」
「動いているのは分かります。でも少し試しただけでは十分ではありません。実際の催しの規模で問題が出るかどうかは、それだけでは判断できません」
———
十人に増やした。
名簿石から来客の名前を引き、一人一人の印を通していく。四人目、五人目、六人目。
七人目のところで、照合完了の表示が一瞬ずれた。見落としそうな、ほんの短い間だった。発行口から出た入場札の端に、何か余分な文字が残っていた。
「今のは」
「……少し遅かっただけでは」
「もう一度やってください」
———
同じ手順でやり直した。
今度は八人目のところで、表示が変なことをした。
前の人の名前が、一瞬だけ残った。次の人の名前が出る前に、画面の端に前の人のものが見えた。短い間だったが、はっきりとあった。
———
「止めてください」
———
声が出ていた。
自分でも、少し驚いた。思ったよりはっきりと出ていた。
役人が振り返った。術士が手を止めた。
「止める、とは」
「これを今のまま出すのは、間に合わせることじゃなくて、壊すことです。止めましょう。多少遅くても、旧手順で回したほうがましです」
役人が私を見た。術士も見ていた。誰も笑わなかった。誰も即座に反論しなかった。
———
部屋が少し静かになった。
窓の外から遠くに馬車の音が聞こえた。廊下を誰かが歩く気配がして、遠ざかった。
役人二人が顔を見合わせた。
「……三日後なのですよ」
「分かっています」
「旧手順に戻すと、担当者の数を揃えるのが手間で。当日の段取りも組み直しになります」
「手間が増えます。でも壊れた術を出すよりはずっとましです」
———
役人の一人が続けた。
「多少の不具合は現場で吸収できませんか。例えば、前の人の名前が一瞬出ても、担当者が確認してから通せばよいわけで」
「本番で数百人が連続して入ってくる状況で、術がおかしな挙動をしたとき、現場の担当者はそれを追えますか」
「…………」
少し間を置いた。
「追えないと思います。混雑しているとき、一瞬の表示ずれを全員が確認できる余裕はない。見過ごしたまま進んだとき、何が起きるか今の段階では分かりません。問題が起きてから気づいても、来賓は入場している」
———
心の中で、あの冬の会議室を思った。
今さら止められない、と誰かが言った。進めるしかない、と言った。現場で吸収する、と言った。
私は言えなかった。
あのとき飲み込んだ言葉の重さを、まだ知っている。
———
「止めましょう」
もう一度、はっきり言った。
「催しの手際は少し落ちます。旧手順は煩雑です。でも入場処理が途中で崩れるよりは、ずっとましです。今の状態での本番投入は認めません」
———
しばらく沈黙があった。
役人が長く息を吐いた。胸の前で腕を組んで、少し考えた。
「……予定はずれますが、仕方ありませんね」
もう一人の役人がうなずいた。
「壊れたものを出すより、よほどましだ。旧手順へ戻しましょう。担当者の配置を今日中に組み直します」
術士が台の前でぼんやりと立っていた。それから少し頭を下げた。
———
術士が停止処理に入った。台の光が落ちた。
受付室の中が暗くなった気がした。窓からの光だけになった。
私は少し手が冷えていた。
言えた、とは思った。でも本当に正しかったかは、まだ分からなかった。止めたことで何かが救われるかどうか、この時点では分からなかった。
———
役人が出ていくと、受付室が静かになった。
術士が台の記録を片付け始めた。石を外す音がした。紙を折りたたむ音がした。
廊下に出た。外を歩く人の声がして、遠ざかった。
窓の外を見ると、午前の光が少し傾いていた。雲が一つ、ゆっくり動いていた。
止めた。それは確かだ。あとは待つしかない。
正しかったかどうかは、今は分からない。だが言えなかった後悔より、言った後の不安の方が、まだ軽かった。
———
廊下を歩いて、別の部屋に戻った。手がまだ冷たかった。
———
昼過ぎ、書類の整理をしていた。
表を確認しながら数を合わせていたとき、廊下を慌てた足音が近づいた。
さっきの術士だった。少し息が上がっている。
「ユウさん」
「何ですか」
「先ほどの受付術です。停止して見直していたら、少しまずいものが出てきました」
———
術台のある部屋に戻った。
台の横に記録の紙が広げてある。術士が指で示しながら言う。声が少し震えていた。
「空欄処理の部分です。来客の入力が何もなかった場合、前に処理した来客の受付印を引いてしまっています。空欄のとき、石に残った前の記録を消し切れずに次へ渡しています」
「……それはつまり」
「入場順や途中の空白のタイミングによっては、前の来客の記録が次の入場札に混ざります。別人の入場証が出る可能性があります」
———
紙の上の記録を見た。
手が止まった。
「その状態で本番を出ていたら」
「数百人が出入りする状況で、誰かが別人の入場証を持つかもしれません。混雑の中で確認が飛べば、そのまま通ってしまいます。最初はそれと気づかない。悪意があれば、意図的に引き出せる可能性もあります」
術士が頭を下げた。
「見つけるのが遅れました。三人しか試さなかったので」
「今見つかってよかった。本番を出てからでは遅かった」
———
役人がすぐに来た。
記録を見て、少し顔色が変わった。
「これは……危ないところでしたね」
「そうです」
「ユウさんの一声がなければ、このまま本番を出していました」
術士も小声で言った。
「止めて正解でした」
———
その言葉が耳に入った。
すぐには受け取れなかった。少し時間がかかった。
「危ないところでしたね」ともう一人の役人が言った。
———
ゆっくりと、息を吐いた。
「……本当によかった」
———
欠陥の内容を紙に整理した。記録を見直して、再現手順を書き留めた。
術士が横に座って一緒に確認した。空欄処理の実装を追っていくと、石への書き込みと読み出しのタイミングがずれているのが見えてきた。前の来客の記録が一瞬だけ残る構造になっていた。
「試験が少人数だったので見えなかった」と術士が言った。
「続けて処理してみないと、引き継ぎの問題は出ない。三人では足りなかった」
「何人からでしょう」
「今回は七人目で初めて出た。試験は必ず、本番を超える規模でやることだ」
術士が静かにうなずいた。
窓の外に夕方の光が差してきていた。廊下からは、担当者の手配をする声が聞こえた。旧手順への切り替えが、もう動いていた。
———
帰り際、廊下でルドーとすれ違った。
廊下が夕日の色になっていた。窓から差し込む光が橙色で、床に細い影を伸ばしていた。
ルドーは厚い書物を小脇に抱えて歩いていた。私に気づくと足を止めた。
「どうだった」
「受付術を止めました。欠陥が出ました」
「どんな」
「別人の入場証が混ざる。空欄処理の見落としです」
ルドーが少し間を置いた。
「止めたのか」
「止めました」
ルドーが歩きながら言った。
「よかったな」
それだけだった。
それで十分だった。
———
廊下を歩きながら、ため息をついた。
手がまだ少し冷えていた。でも、少し違う冷え方だった。昨日の夜目が覚めたときとは違う冷え方だった。
廊下の窓から外が見えた。王都の屋根が夕焼けに染まっていた。
催しは三日後に変わらずある。旧手順で人を増やして回す。手間はかかる。それでも、壊れたものを出すよりはまし、と役人が言った。
まし、でいい。それで十分だった。
———
王宮の門を出ると、夕風が少し強かった。
来た道を戻った。朝よりも通りに人が増えていた。露店が片付けを始めていた。灯台が点き始めていた。
歩きながら、今日のことを少し整理した。言えた。止めた。欠陥が出た。
全部が繋がっている。でも今日は、その繋がりを確かめながら歩く余裕があった。朝にはなかった余裕だ。
———
夜、リゼの家に戻った。
台所で炒め物の音がしていた。蓮根を切る、固い音。油が跳ねる音。醤油系の甘い匂いが廊下まで来ていた。
「おかえり。今日はどんな顔してる?」
「……昨日よりはまし、だと思う」
「それはよかった」
リゼが振り返って確かめるように見た。少し眉が和らいだ。
———
椅子に座って、今日の話をした。
受付術の件。止めた経緯。昼過ぎの欠陥発見。
リゼは手を動かしながら聞いた。炒め物の音が続いていた。
「止められたんだね」
「うん」
「昨日の夢と、似てた?」
———
少し考えた。
「似てた。現場が慌ただしくて、スケジュールが迫っていて、今さら止めにくい空気があった。向こうでうまくいかなかったときと、構造は似ていた」
「でも今回は言えた」
「言えた」
———
「……本当によかった」
声が思ったより小さくなった。
リゼが炒め物を皿に移しながら、返事をしなかった。返事の代わりに少し待ってくれた。
———
リゼが皿を持ってきた。蓮根の炒め物に、鳥肉が入っている。焦げ目がついていた。いい匂いがした。
「欠陥が出てよかったよ。あなたの判断が間違ってなかったって証明されたんだから」
「証明のために欠陥が出てほしかったわけじゃないけどね」
「そりゃそうだ」
リゼが茶を持ってきて、向かいに座った。
———
食べながら、少し考えた。
「向こうのときも、似たようなことを言ったかもしれない。危ないと。でも通せなかった」
「通せなかった理由は」
「立場と、言い方と、それから……最後は自分の確信が足りなかったんだと思う」
「今日は」
「今日は確信があった。試した結果があったから。目の前で変なものが出た。見て、言えた」
———
リゼが少し黙った。
「じゃあ今日のはちゃんと勝ちだよ。向こうのことは向こうのことだけど、今日は今日でちゃんと止められた」
「……うん」
———
茶を一口飲んだ。温かかった。
蓮根は歯ごたえがあって、少し甘かった。
———
仕事の勝ちは、いつも派手ではない。
今日やったことは、術を直したわけではない。欠陥を自分で全部見つけたわけでもない。壊れる前に出るのを止めた。そして止めたことで、別の目が入る時間ができた。欠陥はその時間の中で出てきた。
別人の入場証が混ざらずに済んだ。数百人の来賓が混乱せずに済んだ。
止めることも、立派な仕事だ。
———
向こうでの失敗は消えない。あの冬に言えなかった言葉も、壊れていった現場も、ずっと残っている。
それは消えない。消す必要もない。
でも今日、似た形の場所で、今度は言えた。
傷が消えたわけではない。
ただ、少しだけ重さが変わった気がした。
それで十分だった。




