第66話 止められなかった仕事の話
休日だった。
朝から特に予定はない。ルドーからも何も言われていなかった。王宮からの呼び出しもない。
リゼは台所で何かしている。ときどき木匙が鍋の縁に当たる音がする。私は居間の椅子に座って、窓の外を見ていた。
———
王都の通りに人が少ない。市が立つ曜日ではないらしく、石畳の上に荷車も露店もない。空は薄曇りで、光が柔らかかった。
風が少しある。街路樹の細い枝が揺れている。
特に悪くはない一日だ。何もしなくていい一日というのは、久しぶりだった。
———
「ねえ」
台所からリゼの声がした。
「なに」
「ユウって、こっちに来る前は何してたのよ」
少し間があいた。
「IT会社で……」
口から出かけて、飲み込んだ。
リゼが小首を傾けた気配がした。鍋をかき混ぜる音が止まった。
「アイ、ティイ?」
「…………」
———
少し考えた。
この世界に来てから、向こうの言葉を使うことがほとんどなくなっていた。使う相手がいない。使っても通じない。それでも、いきなり口をついてくることがある。体の記憶みたいなものだ。
「向こうの世界にも、魔法みたいなものがあってさ」
リゼが手を動かしながら聞いている。背中がこちらを向いている。
「魔法?」
「魔法とは少し違う。目に見えない仕組みを、動かすための技術みたいなもの。それを使って、いろんな仕組みを動かしたり、壊れないようにしたりする仕事をしてた」
———
「ふうん。術を扱う仕事なのね」
「そういうこと、かな」
リゼが振り返らずに続ける。
「大変だった?」
「大変だった」
「難しそう」
「難しかった。壊れてから呼ばれることが多くて」
「今もそうじゃない」
「……そうだね」
———
しばらく間があった。
「今とあんまり変わらないのね」
———
その一言が、少し刺さった。
刺さったのは、本当にそうだから。仕事の形は同じだ。壊れているものを見て、整理して、直す。向こうでも、こっちでも。
ただ。
向こうでは、うまくやれなかったことがあった。
———
「楽しかった?」
「……どうかな」
「どうかな、ってことはあんまり楽しくなかった?」
「楽しいときもあった。だいたいはしんどかった」
窓の外で、また風が吹いた。街路樹が揺れる。
リゼがそれ以上は聞かなかった。
———
昼過ぎになった。
リゼが茶と菓子を持ってきた。煮詰めた果物を挟んだ菓子で、甘い匂いがした。
「昨日作ったやつ。食べてみて」
「ありがとう」
一口食べた。甘くて、少し酸っぱかった。
「美味しい」
「少し砂糖入れすぎたかも」
「美味しいよ」
リゼが隣に座って、窓の外を見た。
二人でしばらく、特に何もしなかった。
———
そのまま少しまどろんだ。
窓から入る光が、ゆるやかだった。
そのまま夢に落ちた。
———
会議室だった。
窓のない部屋。天井の白い光が均一に降りていた。テーブルが長かった。椅子が並んでいる。私は端の席に座っていた。
空気が乾いていた。体が少し縮む感じがする。
———
誰かが話していた。声の主は見えない。顔がない。声だけがある。
「スケジュール通りに出します。余裕はありません。以上です」
別の声。
「では確認します。出す、ということで」
私は何か言おうとした。
口が動かなかった。喉の奥に言葉が詰まっているような感じがした。手が汗ばんでいた。
———
部屋の端に画面があった。
赤い光が点いていた。警告の色だ。
何かが鳴り続けていた。繰り返す、短い音。通知なのか、警報なのか、夢の中では判断がつかなかった。
誰もその方を向かなかった。
———
隣に誰かが座った。疲れた顔をしている人だった。目の下が暗い。
「まずいよね」
小声で言った。
私も画面を見ていた。赤い点滅が続いている。
「分かってる」
でも何も言えなかった。
———
別の声がした。どこから来るのか分からない。壁の中から聞こえるようだった。
「今さら止められない。進めるしかない」
「コストが出てる。もう走り始めた」
「現場で吸収するしかない」
私は何かを持っていた。紙か、手順書か。手の中に何かある感触はあるが、見えなかった。
———
止めるべきだと思った。
でも、言い方が分からなかった。
誰に言えばいいのかも分からなかった。
立場が足りなかった。
———
赤い光が速くなった。
点滅が早くなる。音が重なる。鳴り続ける。
崩れていく音がした。一度に全部ではない。静かに、端から。ひびが入って、広がって、音もなく崩れていった。
———
誰かの声がした。
「もっと早く言えなかったのか」
誰の声か分からなかった。自分の声かもしれなかった。
答えようとした。答えられなかった。
画面が赤いまま、点滅し続けていた。
———
目が覚めた。
部屋が薄暗かった。窓の光が斜めになっている。夕方に近い時間らしい。
体が重かった。背中に汗が滲んでいた。頭の中がまだあの部屋にいる気がした。会議室の乾いた空気と、赤い点滅が、まだ目の裏に残っていた。
ため息をついた。
———
台所の方から匂いがした。炒め物の香ばしさと、少し甘い何か。リゼが夕飯の支度をしている。
立ち上がって、洗い場で顔を洗った。
水が冷たかった。
鏡に顔が映った。最悪な顔をしていた。
———
「起きた」
台所の入り口に立った。
リゼが振り返った。
「あ、起きた。ずいぶん長かったね」
「そう」
椅子に座った。テーブルに肘をついた。
リゼがこちらを見た。目が少し細くなった。しばらく何も言わなかった。
———
「……嫌な夢?」
静かな声だった。
私は少し黙った。
「うん」
「そう」
リゼが火を弱めた。
「昔の夢?」
「…………うん」
———
それだけだった。
リゼはそれ以上は聞かなかった。
少しして、湯を沸かす音がした。
窓の外が暗くなり始めていた。
———
カップが目の前に置かれた。
香草の湯だ。少し甘い匂いがした。湯気が細く上がっていた。
「言いたくないなら、別にいい。でも今日は一人で勝手に沈まないでよ」
「……うん」
リゼが私の顔を見た。
「大丈夫じゃない顔してる。そういう時くらい、ちゃんと大丈夫じゃないって言いなさいよ」
———
私は少し笑った。笑えたかどうかは分からない。
「大丈夫じゃない」
「よろしい」
リゼがまた台所に戻った。鍋の火を調整する音がした。
———
湯を両手で包んだ。温かかった。
夢の中で言えなかったことが、まだ胸の底に澱んでいる。向こうの世界の、あの冬。空気の乾いた会議室。赤い点滅。止めるべきだと分かっていた。でも言えなかった。通せなかった。立場が足りなかった。
その後どうなったかは、もう分かっている。
うまくいかなかった。
———
夕飯は根菜の煮物だった。
大きめに切られた芋と根菜が、汁を吸ってゆっくり皿に収まっている。湯気が立っていた。出汁の匂いがした。
柔らかく、少し甘かった。
食べながら、特に何も話さなかった。
窓の外が完全に暗くなっていた。台所の灯りだけが部屋を照らしていた。
リゼは何も聞かなかった。ただ、向かいに座って、一緒に食べていた。それだけだった。
———
食器を片付けてから、早めに床に就いた。
———
夜、布団の中で天井を見た。
天井の木の節が、暗がりの中でぼんやりと見えた。
失ったものは戻らない。あの冬の仕事も、言えなかった言葉も。傷は消えていない。今でも夢になって出てくる。
ただ。
今日、一人で沈まなかった。
それだけは、少しましだった。




