第55話 正確さが要る問いと、足りる問いを分けろ
観光局は、帳簿の山の中にあった。
廊下に積まれた国札の束。机の上に広げられた旅人名の一覧。壁に貼り出された各門の入国記録。どれも同じ問いに答えようとして止まっているように見えた。
案内された奥の部屋では、若い職員が紙の束と向き合ったまま固まっていた。
「先日来た旅人が、別の門でも来ていたかどうか、分からなくなってしまって」
疲れた声だった。
「中央帳面に旅人名を全部集めているのですが、同じ名前の揺れや、外国語表記の違いがあって、同一人物かどうか判断しきれず……」
「いつから」
「国王の命が下りてから三月ほどになります。延べ人数でなく異なり人数を出せと」
———
局長の部屋へ通された。
壁に貼られた大きな図がある。王国の各門の位置が示されていた。北門、東門、南の港門。旅人が入国する主要な入口が六つ。それぞれから中央へ向かう矢印が引かれていた。
「各門から毎日、入国した旅人の一覧を送ってもらっています。ここで全部照合して、同一人物の重複を取り除き、異なり人数を出そうとしているのですが」
「どれくらいの量ですか」
「最盛期には一日で六千件を超えます。六門合わせて」
「重複照合は」
「全件です。今日の北門の一覧と、東門の一覧と、昨日以前の全記録と、全部突き合わせる必要があって」
ルドーが静かに言う。
「それが三月分積み上がっている」
「はい……」
———
積み上がった帳面を見た。
名前の照合に使う基準も、門によって少し違う。ある門では旅券番号を使っている。別の門では旅人の署名を使っている。外国から来た旅人の名前は、表記が揺れることもある。
「同じ旅人を、何で識別していますか」
局長が少し詰まった顔をした。
「名前と、来た日付と、出身地と……」
「旅券番号は」
「門によって旅券の種類が違いまして。全員が持っているわけではなく」
「つまり、同一人物の識別基準が、門ごとに違う」
黙った。
「異なり人数を出す前に、誰を同一人物とみなすかが、門ごとに揺れている」
———
ルドーが腕を組んで言う。
「問題はいくつある」
「二つです」
板書はしなかった。その代わり、指で数えた。
「一つ。exact 照合をしようとしているが、全件は重すぎる。人数が増えるほど、照合量が増える。三月分積み上がったのはその結果です」
「二つ。全件照合より前に、同一人物の識別基準が揺れている。基準が揺れているまま照合しても、正確な値は出ない」
局長が深いため息をついた。
「どちらも解決の見通しがありません」
———
「観光局が知りたいのは何ですか」
少し間があった。
「……異なり人数です」
「何のために」
「施策を立てるためです。どの国から旅人が多いか。季節によって増減があるか。去年より増えたか減ったか。そういったことを把握して、観光の施策に活かしたい」
「ぴったりの人数が要りますか」
「……どのくらいの精度が要るかは、特に決まっておらず」
「傾向が見えれば十分ですか」
「傾向が見えれば……はい、施策を立てる分には、だいたいの規模感が分かれば足ります」
「であれば、全員を覚えなくていいです」
———
続けた。
「各門に痕跡帳を一冊ずつ持たせます」
「痕跡帳とは」
「全旅人の名前ではなく、来訪者の散らし印を記します。散らし印は、旅券番号から作った均一に散らした印です。名前そのものは残しません」
局長が眉を少し寄せた。
「名前を残さないで、どうやって人数を出すのですか」
「散らし印の中で、珍しい並びがどこまで現れているかを見ます。珍しい並びは、少ない人数では出にくい。深い空白が出ているほど、多くの人が通ったはずだと見積もれます」
「……それで人数が出るのですか」
「ぴったりの人数ではありません。見積もりです。ただし、傾向の比較には使えます」
———
見張り札の話をした。
「一箇所の見張り札だけでは、偶然に引きずられやすい。門ごとに複数の見張り札を持たせ、全体の傾向を読みます。その上で、各門の痕跡帳を中央で重ね合わせれば、王国全体の異なり人数も見積もれます」
「重ね合わせる、とは」
「各門の痕跡帳を全部、中央へ持ち寄ります。各見張り札の値を合わせ読みます。こうすることで、全門を通過した旅人の重複を考慮した見積もりが出ます」
「ただし名前は残らない」
「残りません。規模感だけが出ます」
「全員の名前を集めて中央で照合する代わりに、小さな痕跡帳を中央へ持ち寄るわけですね」
「そういうことです」
———
局長が少し考えてから言う。
「名前が残らないなら、特定の旅人が来たかどうかは分かりませんね」
「分かりません」
「それは困る場面もあります。たとえば、入国を禁じた人物が来たかどうかを確認したい場合」
「それには別の手を使ってください」
はっきり言った。
「痕跡帳は、規模感を小さく持ち歩くための道具です。名簿ではありません。名簿が要る問いには、名簿を使ってください」
———
板書した。
痕跡帳でできること、できないこと
できること
・大まかな異なり人数の見積もり
・季節や年ごとの傾向比較
・門ごとの規模感の比較
・各門の痕跡帳を重ね合わせての全体推定
できないこと
・ぴったりの人数
・誰が来たかの名簿
・特定人物の来訪確認
・正確な個人追跡
「この二つを混ぜないことです」
ルドーが静かに言う。
「exact が要る問いと、足りる問いを分けろ」
———
もう一つ話した。
「小さい集計では揺れが出やすくなります」
「小さい集計とは」
「例えば、ある日に一門だけ数人しか通らなかった場合です。人数が少ないと、珍しい並びが偶然出たり出なかったりする揺れが、相対的に目立ちます」
「規模が大きいほど、見積もりは安定する」
「そうです。規模が小さいところでは、揺れを意識してください。何でもこの手で済ませようとすると、小さい集計で見積もりが暴れます」
「分かりました」
「それから、識別基準を揃えてください」
局長が顔を上げる。
「散らし印を作るとき、何を核にするかです。名前では揺れます。外国語表記でも揺れます。旅券番号のような、揺れにくい識別核を使うことを勧めます。全門で同じ核を使わないと、門ごとの痕跡帳を重ね合わせても、見積もりが崩れます」
「旅券番号を全門で使うよう統一する、ということですね」
「できる限りはそうしてください。同一人物を何で識別するかが雑なまま痕跡帳を作っても、近似以前の問題になります」
———
仕組みを整えた。
各門へ痕跡帳を一冊ずつ持たせた。旅人が入国するたびに、旅券番号から散らし印を作り、痕跡帳へ記す。名前は中央へ送らない。散らし印から名前は復元できない。
中央には、毎日各門の痕跡帳だけが届く。大きな名簿ではなく、小さな帳面だ。中央でそれを重ね合わせ、王国全体の異なり人数の見積もりを出す。
職員の一人が、半信半疑の顔で言った。
「これで足りるのでしょうか」
「施策を立てる分には足ります。ぴったりの人数ではありませんが、傾向は出ます」
「去年と比べて増えているか減っているかは分かりますか」
「分かります」
「どの季節が多いかも」
「出ます」
「……名前を覚えないのに、人数が見積もれるというのが、まだ少し腑に落ちていないのですが」
「気持ち悪いのは正しいです」
少し考えてから言い直した。
「全員を覚えないのに、人数が分かる気がしない。その感覚は間違っていません。ただ、仕組みの上では動きます。大事なのは、これが近似だということを忘れないことです。忘れると、向いていない問いへ持ち込んで、間違った答えを信じることになります」
———
しばらくして、局長が言った。
「ただ……国王へはどう説明すればよいでしょうか。出した数字がぴったりの人数ではないと」
「正確にそう言ってください」
ルドーが言う。
「この数字は見積もりです。ぴったりの人数ではありません。施策の判断に使うには十分ですが、税の計算や個人への給付には向きません。用途によって使い分けを、と」
局長がゆっくりうなずいた。
「近似で足りる問いと、exact が要る問いを分ける、ということですね」
「そういうことです」
観光局は、exact 名簿照合をすべてやるのをやめた。観光統計には痕跡帳を使い、個別確認が必要な用途は従来どおり別で扱う、という整理に落ち着いた。
———
廊下に出ると、積み上がっていた帳面の山が、少し違って見えた。
全員を覚えようとした結果だ。問いを間違えたわけではない。ただ、その問いに正確さが本当に要るかどうかを確かめないまま、重い方向へ走った。
———
夜、リゼの家に戻った。外は少し冷えていた。
「おかえり。観光局、どうだったの」
「名簿の山と、疲れた顔がいくつか」
椅子に座りながら話した。
「全員を名前で覚えようとしていた。exact に異なり人数を出そうとして、全件照合で詰まっていた」
「痕跡帳を使ったの」
「使った。各門に一冊ずつ持たせて、中央で重ね合わせる」
リゼが茶を淹れながら言う。
「正確な名簿じゃなくて、人数の気配だけを小さく持ち歩けるようにするのか」
「そういうこと」
「でも、誰が来たかは分からない」
「分からない。分からなくていい問いには、それで足りる。傾向が見たいだけなら、名前は要らない」
「分からなくてはいけない問いもある」
「ある。名簿が要る問いには、名簿を使う。痕跡帳を何にでも使おうとするのが問題だ」
———
リゼがしばらく考えてから言う。
「誰が来たかと、何人くらい違う人が来たかは、別の問いなのね」
「そう」
「それを混ぜると、どちらも出なくなる」
「混ぜると設計が崩れる」
「近似は手抜きじゃないのよね」
「問いに応じた道具だよ。ただし、道具の限界を知らずに使えば、向かない問いへ持ち込んで、間違いを信じることになる」
———
茶は温かかった。
延べ人数と異なり人数は違う。異なり人数を exact に出すには、全員を覚えなければならない。人数が増えれば増えるほど、それは重くなる。
全員を覚えなくても、異なり人数の見積もりは出せる。散らし印を取り、珍しい並びの出方を見る。全員の顔は残らない。人数の規模感だけが残る。
ただし、これは近似だ。ぴったりの人数ではない。誰が来たかは分からない。識別基準が揺れれば崩れる。小さい集計では揺れが目立つ。exact が要る問いには向かない。
近似は手抜きではない。問いに応じた道具だ。だが、道具の限界を知らずに使えば、向いていない問いへ持ち込んで、間違った答えを信じることになる。
正確さが要る問いと、足りる問いを分けることが、昨日も今日も、仕事の大半だった。




