第49話 止めぬのではない、止めを一拍へ縮めるのだ
王宮の術台管理室は、朝から静かだった。
静かすぎる静かさだ。何かを待っている、または何かを恐れている時の静けさ。部屋の奥に置かれた古い実台は、一見何事もない顔をしていた。だが、魔力流を測る細い針が、小刻みに震えていた。
「いつからですか」
管理局の担当者が答える。
「三日ほど前から、このような揺れが出始めまして。昨日は一瞬、完全に止まりかけました」
「完全に止まりかけた」
「はい。その時は仮台が三つ、一瞬だけ応じなくなりました」
私はルドーを見た。ルドーは実台を見ていた。
「修繕は必要ですね」
「はい。ただ……」
「仮台が止まれば困る」
担当者が深くうなずく。
「記録術が止まれば今日の記録が飛びます。連絡術が止まれば各所への伝達が途絶えます。温調術は王宮東棟の気候を保っており、止まれば貴重な資料が傷みます。最低でも数刻は止めたくない、というのが上の意向で」
「数刻ではなく、数日は止まりますよ」
「……はい」
「修繕に入るなら」
「はい」
担当者が小さく頭を下げた。
———
実台の状態を確認した。
古い実台だ。長くよく働いてきた。魔力流の幹が一本、細かな亀裂を持ち始めている。今すぐどうにかなるわけではないが、放置は危ない。修繕するには一度、魔力流を全部抜く必要がある。
その上に載っている仮台は四つ。
仮台一:記録術
仮台二:温調術
仮台三:王宮内連絡術
仮台四:台帳保管術
それぞれ今も動いている。
ルドーが腕を組んで言う。
「完全に止めて移すか、止めずに移すか」
「止めずに移します」
「理由は」
「止めれば確実です。だが数日かかる。王宮業務が止まります」
「止めずにやるなら」
「手間はかかります。ただ、停止時間を見えないほど短くできます」
担当者が口を挟む。
「止めずに移せるのですか? 仮台ごと別の実台へ?」
「完全には止めません」
はっきり言った。
「最後に一拍だけ止めます。そこで残りを渡して、別の実台で再開します。一拍より前は動かしたまま」
「一拍というのは……」
「業務停止と呼ぶには短すぎる時間です」
———
新しい実台を確認した。
別の棟に置いてある、最近整備した実台だ。器量は十分ある。今は軽い術しか走っていない。こちらへ古い実台の仮台を全部移せば、修繕に入れる。
移す手順を組んだ。
稼働のまま載せ替え
一、新しい実台の上に、仮台の受け先を用意する
二、動いている仮台の室内の記憶を、新しい実台へ写し始める
三、仮台は動いているので、写した端から中身が変わる。変化分を追い写しする
四、変化分が十分小さくなったら、一拍止めに入る
五、最後の残りを渡して、新しい実台の仮台を立ち上げる
六、古い実台の仮台を止める
担当者がそれを読んで言う。
「写している間も動いているのですか」
「そうです」
「写した端から変わるのでは……」
「だから変化分を追い写しします」
「追いかけて追いかけて、最後だけ止める、ということですね」
「そういうことです」
———
作業を始めた。
まず新しい実台へ受け先の仮台を設けた。中身はまだ空だ。
次に、古い実台の仮台から記憶を写し始めた。
台帳保管術から始めた。台帳は頻繁には書き換わらない。写しが追いつきやすいからだ。
温調術が次だった。こちらも変化はゆっくりだ。気候を保つ術は、毎刻少しずつ調整するが、急には変わらない。
しばらくして、台帳保管術の変化分が十分小さくなった。
「台帳保管術、一拍止めに入ります」
一瞬だけ止めて、残りを渡した。新しい実台の仮台を立ち上げる。
「動いています」
担当者が確認する。古い台の仮台を止めた。
温調術も同様に進んだ。変化分が縮んだところで一拍止め。渡した。立ち上がった。
「こちらも動いています」
———
次が問題だった。
記録術と連絡術だ。
記録術は、今この刻も記録を書き続けている。写そうとするそばから、新しい記録が追加される。連絡術も、各所との往来が絶えない。中身が常に変わっている。
「変化分が減りません」
作業担当の術師が言う。困った声だ。
「三度追い写しをしましたが……写すたびに、また変わってしまっています」
変化分の量を見た。最初より減っていない。いや、わずかに増えていた。
「記録術が今日は特に忙しいですか」
「はい。朝から王宮北棟の受け渡し記録が続いておりまして」
「連絡術も?」
「各棟からの問い合わせが今日は多く……」
ルドーが短く言う。
「写すより速く変わっている」
「そうです」
———
止まって考えた。
このまま追い写しを続けても、差が縮まない。差が縮まなければ、一拍止めに入れない。一拍止めに入れなければ、渡せない。
どうすれば差が縮むか。
「変化の速さを一時的に落とします」
「落とせますか」
「記録術の書き込み頻度を落とします。今は一拍ごとに記録していますが、十拍に一度にします。連絡術の返答頻度も一時的に間を空けます」
「業務に影響が出ませんか」
「少し出ます」
はっきり言った。
「少し遅くなります。ただし、止まりはしません。そして、この遅さは一時的です。新しい実台で再開すれば戻ります」
「分かりました」
———
記録術の頻度を落とした。連絡術の返答間隔を広げた。
変化分を追い写しした。
今度は差が縮んだ。
一度追い写しするごとに、変化分が減っていく。縮む。縮む。
「変化分が十分小さくなりました」
「記録術、一拍止めに入ります」
止めた。
最後の残りを渡した。新しい実台で立ち上げる。
「……動いています」
古い仮台を止めた。
続けて連絡術。同様に進める。差が縮んだところで一拍止め。渡す。立ち上げる。
「動いています」
「全部完了しました」
———
しばらくして、担当者が確認に回ってきた。
各棟に問い合わせていたらしい。戻ってきた顔は、少し拍子抜けした様子だった。
「記録術はと聞いてきた各棟の答えが、『少し間が開いたかと思いましたが、特に問題なく動いています』だったそうです」
「連絡術は」
「こちらも、少し返答が遅い場面がありましたが、止まったとは思っていないと」
「温調術は」
「気づかなかったそうです」
私は軽くうなずいた。
「それでいいです」
「止まったと感じなかった、ということですね」
「業務停止と呼ぶには短すぎたということです」
ルドーが古い実台を見て言う。
「修繕に入れるか」
「はい。これで」
「では始めろ」
———
廊下へ出ると、担当者が追いかけてきた。
「あの……あの技法には、名前がありますか」
「稼働のまま載せ替え、と呼んでいます」
「そのままの名前ですね」
「そのままです」
「難しくはないのですか。変化分を追い写しして、最後だけ一拍止める、という手順は」
少し考えてから答えた。
「難しいです」
「難しいのに、なぜできたのですか」
「段取りを立てたからです」
歩きながら言った。
「止めずにやる、という目標だけあっても動けません。何を先に写して、何を後に回して、差が縮まないときどうするか。その段取りがないと、途中で詰まります」
「詰まったとき、あなたは頻度を落としましたね」
「変化が写しより速ければ、変化を遅くするしかない。止めることはしたくないので、遅くした。それだけです」
「それだけ、とは言えない気がしますが……」
ルドーが前を歩きながら短く言う。
「止めぬのではない。止めを一拍へ縮めるのだ」
———
夜、リゼの家に戻った。台所からは焼いた根菜の匂いがした。
「おかえり。うまくいったの?」
「いったよ」
「仮台、止めないで移せたのね」
「最後だけ一拍止めた」
リゼが皿を並べながら言う。
「つまり、動いてる部屋をそのまま担いでいくんじゃなくて、先に中身を向こうへ写しておいて、最後にほんの一瞬だけ息を止めて渡し切ったのね」
「そう」
「引っ越しというより、住んでる最中に床だけ別の家に差し替える感じか」
「そっちの方が近いね」
リゼがゆっくりうなずく。
「問題があったでしょう。そんなに簡単には見えなかった」
「記録術と連絡術の変化が速くて、写しが追いつかなかった」
「それでどうしたの」
「更新の頻度を一時的に落とした」
「なるほど」
「差が縮んだところで一拍止めて渡した」
リゼがしばらく考えてから言う。
「一時的に遅くすることで、移せるようになったのね」
「そう。止めるのはしたくなかったから」
「止めるより、遅くする、か」
「止めは一拍で済む。遅さは一時。止まったという記録も残らない」
———
根菜は少し苦かったが、よく火が通っていた。
仮台を長く止めたくないという要求は、止めないことではない。止める時間を見えないほど短くすることだ。
完全無停止は難しい。最後の食い違いがある。走っている術は最後の一刻まで変わり続けるから、どこかで息を止めなければ渡しきれない。
だから一拍止める。
一拍が見えないほど短ければ、止まったとは言われない。止まったとは言われなければ、業務は続いていたことになる。
強い技術というのは、たいていこういう性質を持っている。完全さを目指すのではなく、問題を見えないほど小さく縮める方向で価値を出す。
先に運べるものを運び、追えるうちは追い、どうしても止まらなければならない最後の一刻だけを止める。それが今日の仕事の全体だった。
床を差し替えながら、部屋の人は住み続けていた。
外から見れば、移ったとすら気づかれなかった。




