第45話 善意で抜いた鍵は、よく壊す
王城の門管理室は、書類で溺れていた。
通行台帳が机を埋め、検め札の束が積まれ、二人の門役が互いの手書き記録を突き合わせている。どちらの数字も違っていた。一方が多く、一方が少ない。そして双方とも、自分の記録が正しいという顔をしていた。
どちらが正しいかより、なぜ合わないのかを先に問うべきだが、追い詰められた人間はたいていそういう順序で動けない。
「何が起きているのですか」
案内してきた役人が疲れた顔で答えた。
「昨夜、殿下の裁可で南の小門の特別通行が出ました。急病人のもとへ薬師を通すため、との殿下のお計らいで」
「それ自体は」
「薬師は実際に通りました。急病人もおりました。問題はその後です」
役人が台帳を広げた。
「殿下の裁可では、薬師の一団が南の小門を一度通る、のはずです。ところが記録を突き合わせると、南の小門だけでなく、東の潜り戸でも夜間に通行の形跡がある。搬入物の台帳とも合わない。複数の門の夜間制限が一時的に緩んだ形跡があります」
「印借り控えは」
「それが……記載が粗くて」
「本人確認は」
「殿下のお名前が出たため……確認は省かれたそうで」
ルドーが無言で台帳を眺めている。
私はため息を飲み込んだ。省かれた、という言葉の柔らかさが、問題のすべてを包んでいる。
———
部屋の隅の椅子に、老いた門役頭が座っていた。私たちが入ってきたのを見て、ゆっくり立ち上がる。
「ユウ殿。ルドー殿も」
「詳しく聞かせてください」
「恥ずかしい話ですが」
門役頭が台帳を手に取った。
「夜の四半刻、南の小門に殿下の使いが来ました。急病人のため薬師一行を通してほしい、と。使いは殿下の言伝と、上印許し帳の写しを持っていた」
「上印許し帳の写しを」
「はい。殿下の裁可で夜間通行を調整できる、という記載の写しです」
「その上印許し帳には、どの門を、何団まで、という限定がありましたか」
門役頭が少し間を置いた。
「……夜間通行の調整、とだけ記載されておりました」
「具体的な門の名前は」
「特定しておりません」
ルドーが短く言った。
「広い」
「はい……今から思えば」
———
事故の形が見えてきた。
紙を一枚取った。
「整理します。昨夜の出来事を分解します」
書きながら続ける。
上印許し帳が広すぎた
「『夜間通行の調整』という記載では、どの門か、何団まで、何刻までという限定がない。薬師一行を南の小門に一度通すだけで足りたのに、帳の文言では他の門も、他の時刻も触れられる範囲だった」
「そこは……私どもの設計が雑でした」
「設計の問題です。昨夜動いた者だけの責任ではない」
次を書く。
本人確認が省かれた
「殿下のお名前が出たため、合言葉確認が省かれた。これが無問通しです。使いが本当に裁可を持っているか、借りているのが申請の本人か、確認できなくなった」
「止めにくかったのです。殿下の名が出ると……」
「止めにくい。それは感情として理解できます。でも、止めなかったことで制度が消えた」
———
次。
印借り控えが雑だった
「誰が、どの印を、どの用件で、いつまで借りたか。後から追える形で残っていなかった。だから今、記録と実通行がずれているのに、どの操作がずれを起こしたか特定できない」
「ルドー殿が前に言っておられましたな」
ルドーが言う。
「後から追えない操作は、存在しないも同然だ」
「そうです。今まさにそうなっている」
———
次。
刻限がなかった
「南の小門を一度開ける、一団だけ通す、それで終わりのはずが、印が切れる設計になっていなかった。用件が終わった後も権限が生きていた」
「一回限りで切れる仕組みは、ありませんでした」
「一回使ったら切れる。一刻経ったら切れる。それがなければ、用件の後も余計なことができる状態が残ります」
———
最後。
隣接操作まで許していた
「南の小門を一度開ける、のはずが、夜間通行管理全体に触れる範囲の印だった。だから他の門まで動いた」
「それは……昨夜の者が余計なことをしたのでは」
「余計なことができる状態にした方も責任があります。できなければやれない。できる状態を作ったのは設計です」
———
そこへ、廊下から足音がした。
静かな足音だった。急ぐでもなく、重いでもなく、ただ真っすぐ歩いてくる音だ。扉が開いた。
殿下は年の頃、十七か八くらいだった。落ち着いた色の衣に細い金の飾りをつけている。顔の表情は硬い。怒っているのではなく、自分が正しいことをしたと思っている者の顔だ。
「急病人がいたのです」
座るなり言った。
「薬師を早く通したかった。私の印ならそれができる。だから使いました。何が問題なのですか」
私は反論しなかった。
「急病人を助けたかったこと、それ自体は正しいです」
「では」
「問題は、その印で何がどこまで通ったか、です」
殿下が眉をわずかに動かした。
「薬師を通しただけのはず」
「薬師は通りました。ただ、上印許し帳の記載が夜間通行全体の調整と読めたため、他の門の制限も一時的に緩んだ形跡があります。記録と台帳が合っていない」
「私は……そこまで命じていない」
「命じていないのに、印の範囲が広かったため、そうなった」
殿下が黙った。
「それは……」
「殿下が悪かった、という話ではありません」
はっきり言った。
「ただ、殿下の印がどこまで開く鍵だったか、使う前に確認されましたか」
少し間があった。
「……確認は、しなかった」
「印を使った者が善意であっても、開く範囲は変わりません」
———
門役頭が小さく言った。
「私どもも……殿下のお名前が出れば止めにくく」
「分かります」
私は正直に答えた。
「止めにくかった。それは事実だと思います。でも、止めなかったことで制度が壊れた。次に止めやすくするためにも、今回の原因を整理しておきたい」
殿下が低い声で言った。
「……ノブレス・オブリージュとは、強い印を惜しみなく使うことだと思っておりました」
ルドーが静かに言った。
「大権は徳の飾りではない」
殿下がルドーを見た。
「では、何のためにあるのですか」
「ほかの者が持てぬ危険を、代わりに背負うためにある。危険を行使するためではない」
部屋が静かになった。
———
紙を取り直した。
「改善の案を出します。今後の設計の話です」
書く。
用途別の限定印を作る
「大権印そのものを貸すのではなく、目的ごとに切り出した印にします」
書き下した。
南小門一度開き印
薬師夜間通行印
薬湯庫封解き印
水路弁一つ閉め印
「急病人のため薬師を通す用件なら、南の小門を薬師一行だけ一度通す印を使う。他の門は触れない。他の団は通さない。一回で切れる」
「そういった印は、作れるものですか」
「作れます。手間はかかりますが、一度作れば使い回せます。許し術目録として管理します」
———
次。
印借り控えを必須にする
「誰が、誰の裁可で、何のために、どの印を、いつ借りたか。これを後から追える形で必ず残す」
「殿下のご案件でも?」
「殿下のご案件でも、です。むしろ強い印ほど、控えが重要です」
殿下の顔が少し変わった。否定ではなく、何か受け取った方向に。
———
続ける。
合言葉確認を省かない
「殿下のお名前が出ても、本当に裁可があったか確認する。使いが持ってきた文書に合言葉を入れる。省かない」
「殿下のお顔を立てにくくなりますが」
「殿下のお顔を立てることと、制度を守ることは、別の話です。制度を守ることの方が、長い目では殿下のためになります」
———
続ける。
刻限を必ず入れる
「一回の用件が終わったら、印が切れる設計にする。刻限、または用件完了で切れる。切れたら借り直す。面倒だが、それでいい」
———
最後。
隣接する操作を許さない
「南の小門一度開き印で、夜間通行全体の設定には触れない。薬湯庫の封解き印で、隣の棚は開かない。目的の操作だけ通して、隣接する操作は別の印が要る状態にする」
———
「以上です」
板書の全体を示した。
限定印・印借り控え・合言葉確認・刻限切れ・隣接操作の禁止
「この五つが入っていれば、昨夜の事故は構造として防げた」
役人が紙を写し始めた。
殿下が静かに言った。
「……私が印を使わなければ、薬師は間に合わなかったかもしれない」
「そうかもしれません」
私は正直に言った。
「強い印が必要な場面は、確かにあります。だからこそ制度がある。問題は、善意で使えばよい、ということではないことです」
「善意だから、周りも止めにくかった」
「そう」
殿下が少しだけ目を伏せた。
「……助けようとした気持ちと、壊れにくい制度は、別の話なのだと」
「別です。でも、両方あってはじめて助けが届く」
「今回は、制度の方が欠けていた」
「はい」
部屋がしばらく静かだった。
———
帰り道、日が傾いていた。
王城の廊下から中庭へ出ると、夕方の風が冷たい。急いで歩いたせいか、石畳の感触が今日はいつもより硬い気がした。
ルドーが隣で言った。
「よく言えた」
「殿下に、ですか」
「善意を否定せずに、制度の話に絞った」
「善意を否定しても仕方がないので」
「それが分かっていれば十分だ」
前を向いたまま続ける。
「善意の大権濫用は、悪意より止めにくい。覚えておけ」
「覚えます」
「なぜか分かるか」
「……悪意なら止める理由が立つ。でも善意で動いている者を止めると、止めた方が悪者になる」
「そうだ。だから制度で止める。人の善意に任せるのではなく、善意でも悪意でも同じように通る制度を作る」
「強い印の怖さは、持っている人より、貸し方に宿る」
ルドーは何も言わなかった。否定はしなかった。
———
夜、リゼの家に戻ると、台所で根菜を煮ていた。
「おかえり。遅かったね」
「王城で少し」
「また印の話?」
「印の話」
椅子に座ると、体の芯の緊張がようやく抜けた。
「殿下が急病人のために大権印に近い印を使った。夜間通行の制限が余計なところまで緩んで、記録と実通行がずれた」
リゼが鍋をかき混ぜながら言う。
「殿下は悪い人だったの?」
「悪い人じゃなかった。ちゃんと助けたかった」
「じゃあ何が問題だったの」
「印の貸し方が壊れてた」
指を折った。
「上印許し帳の範囲が広すぎた。本人確認を省いた。控えが雑だった。刻限がなかった。隣の操作まで触れた。全部合わさって、余計なところまで動いた」
リゼがゆっくりうなずく。
「殿下が善意で使ったから、周りも止めにくかった」
「そう」
「悪意なら止めやすい。でも善意だと難しい」
「その通り。だから制度で止める仕組みを入れた」
しばらくして、リゼが言った。
「つまり、殿下の印で何でも通すんじゃなくて、今夜この門を一度だけ開ける鍵を渡せ、ってことね」
「きれいにまとまってるね」
「まとめるのは得意だもの。で、殿下は怒った?」
「怒らなかった。少し分かった、という顔だった」
「ちゃんとした方じゃない」
「動機はちゃんとしてた。問題は動機じゃなかった」
リゼが皿を置いた。
「強い鍵は、使えることより、どう絞るかが大事ってことね」
「そこだね」
「要るだけの印を、要る時だけ借りろ」
昨日の板書と同じ言葉だった。笑った。
「今日の授業の締めと、同じこと言ったね」
「本質は変わらないでしょ」
「変わらないね」
根菜の汁は薄めだったが、腹は温まった。
善意で動く者が制度を壊すのは、珍しいことではない。むしろ悪意より静かに、じわりと壊れていく。誰も咎めないまま、誰もが少しずつ忖度しながら、制度の形だけが残っていく。
そういう壊れ方を止めるには、人の善意を疑うより、善意でも悪意でも壊れにくい設計を先に用意する方がいい。
壊れにくい制度は、信頼の代わりではない。信頼の前提だ。
外は暗かった。明日また別の扉が余計に開いているかもしれないが、今夜の鍋は温かい。




