第43話 見当は使え、決めつけるな
王城の急使運用室は、地図の上で揉めていた。
部屋の中央に広げられた大きな道図の上に、赤札と青札がいくつも置かれている。東橋、南門、薬院、倉庫街、検め所、市場。札の位置を見るだけで、誰かが「こっちが近い」と言い、別の誰かが「いや待ちがある」と言い返しているのが分かった。
人間は、歩く前から地図の上で疲れる。
「うまく燃えてますね」
私がぼそりと言うと、案内してきた若い役人が疲れた笑いを浮かべた。
「火は出ておりません」
「比喩です」
「分かっております……」
前を歩くルドーが短く言う。
「火より面倒だ」
「否定できませんね」
室内では、急使頭らしい壮年の男が、道図を指で叩いていた。
「だから、薬院へ行くなら東へ寄せるのは自然だろう! いつまでも西側の道筋まで見ていたら遅い!」
それに対し、帳面を抱えた別の役人が言い返す。
「今朝は東橋が詰まっていたのです! 近い顔をした道へ寄せたせいで、かえって急使が溜まった!」
「だが全部を丁寧に見ていたら、それも遅い!」
「だからといって、地図の顔だけで寄せるのは雑です!」
そこへ案内役が咳払いをした。
「失礼します。学校よりユウ殿とルドー殿を」
視線が一斉に集まる。助けを求める目と、外から来た者に押しつけたい目が半々だ。現場はいつも、責任の置き場にも敏感である。元気ですね、本当に。
急使頭が一礼した。
「講義のところ申し訳ない。お聞きの通り、道選びで揉めております」
「聞きました」
部屋の中央の地図へ近づいた。
「正しいやり方は重い。だから目当ての方角へ寄せたくなる。そこまでは分かります」
「ええ」
「問題は、その寄せ方が雑だった」
帳面役人が、苦い顔でうなずいた。
「薬院なら東寄り、倉庫街なら南寄り、という具合に、直感で」
「直感で街は走れても、運用は組めませんよ」
急使頭が少しむっとしたが、反論はしなかった。自分でも分かっているのだろう。
地図の横へ、講堂から持ってきた札束を置いた。
「まず整理します。昨日までのやり方は、出立点からいま分かっている最も軽い場 を順に固めていくやり方でした」
「ええ。確実ではあります」
「でも広いと遅い」
「はい」
「だから、目当てが決まっているなら、そこへ望みのある道から見たい」
急使頭が強くうなずく。
「まさにそれです」
「それ自体は間違ってないです」
はっきり言った。
「問題は、見当を真実だと思った ことです」
室内が少し静まる。
———
地図の上に、北門から薬院へ向かう簡略図を作った。
北門から東橋へ抜ける道。
市場の脇を抜ける中央路。
少し遠回りだが空きやすい城壁沿い。
それぞれの道に、重さ札を置く。
「今朝の状況を入れます。東橋は人と荷で詰まり、橋待ちが重い。市場脇も混む。城壁沿いは遠いけど空いている」
東橋経由の道へ 四、五、三。
中央路へ 三、四、四。
城壁沿いへ 五、二、二。
「地図だけ見れば、薬院は東寄りです」
急使頭がうなずく。
「はい」
「だから『東に寄せれば望みがある』と思いたくなる」
「そうです」
「でも、東橋が詰まっているなら、その見当は盛りすぎです」
急使頭の顔がわずかにしかめられる。
札を置き直した。
「見当は使っていい。けれど、見当は少なくともこれくらいは食う、という下見積り であるべきです。『たぶん近いから軽いはず』と盛ったら、本当は軽い遠回り道を、重そうだと決めつけて後ろへ追いやる」
帳面役人が腕を組む。
「つまり、目当てまでの見当を足して、これまで食った重さ と合わせて見る、と」
「そうです」
表示盤代わりに立てられた白板へ、二つの語を書く。
ここまでの重さ
ここから先の見当
さらに、その下へ。
合わせた見込み
「いま立っている場まで、すでにどれだけ食ったか。これは確かです。歩いた分だから」
北門からいくつかの分かれ場へ青札を置く。
「一方、そこから薬院までの先はまだ歩いていない。だから本当の重さは分からない。でも、まるで見当がないわけでもない」
リゼが講堂で言いそうな説明が頭をよぎる。案の定、室内の隅で様子を見ていた学校側の職員が「つまり予想ですね」と口にした。
「そう。予想です。ただし、外しすぎない予想 にする」
ルドーが一言挟む。
「盛るな」
「そういうことです」
うなずいた。
「目当てまで、少なくともこれくらいは食う、という下見積りなら使える。でも、『近そうだからたぶん軽い』みたいな希望はだめです」
———
急使頭が眉をひそめる。
「違いが分かりませんな」
「そこですよね」
地図の上を指でなぞった。
「たとえば、この分かれ場が薬院より東にあるからといって、それだけで軽いとは言えない。橋待ちもあるし、城壁もある。だから、単に方角が近いだけの見当は雑です」
「では、どういう見当ならよいのです」
「これ以上は軽くなりようがない下見積り です」
室内が少し静かになる。だいたいこの一言は、人を止める。
「たとえば、塔から見た地図上の概算距離。あるいは、薬院まで最低でもこれだけは道筋を跨がねばならない、という結び場の数。そういうものは、実際の重さより軽く見積もることはあっても、重く盛りにくい」
帳面役人が考え込む。
「なるほど……。東橋の待ちや市場の混みを無視することはあっても、少なくとも『薬院まで空でもこれだけは離れている』という見当にはなる」
「そう」
うなずく。
「見当は、現実を言い当てるためじゃない。望みの薄い道を少し後ろへ回すため のものです」
急使頭がぽつりと言う。
「我々は、見当で道を決めてしまっていたのだな」
「はい」
「本当は補助に使うべきだった」
「そうです」
ルドーが低く言う。
「見当は杖だ。足そのものではない」
急使頭が、少しだけ苦笑した。
「厳しいが、分かりやすい」
「今日は機嫌がいいんでしょうね」
私がぼそりと言うと、ルドーは当然のように無視した。
———
道図の上に、札を二種類置き始めた。
青札は、ここまでの重さ。
白札は、先の見当。
その上に小さな黒札で、合わせた見込み を書く。
「北門からここまでは三。ここから薬院までは、塔見の概算で少なくとも四は食う。なら、合わせて七」
別の分かれ場へ。
「こっちはここまで五。ただし薬院までの概算は二。なら七」
さらに別の道。
「こっちはここまで四、先が五で九」
帳面役人が札をのぞき込む。
「七が二つ並びますな」
「並びます。そういうときは、どちらを先に見るか別の決めを置けばいい。大事なのは、九より七を先に見ることです」
「目当てへ望みのある道から探る……」
「そう。ただし、七の中でどっちが本当に先かは、まだ確定ではない」
急使頭が言う。
「つまり、昨日のやり方の『軽い見込みから順に固める』に、先の見当を足して、目当て寄りの道を前に出すわけだ」
「その理解でいいです」
「だが、先の見当が盛りすぎると、本当は軽い道を後ろへやる」
「そうです。そこが怖い」
はっきり答えた。
「だから見当は、欲を出してはいけない。『たぶんこうだ』じゃなく、『少なくともこれくらいは食う』に抑える」
室内の何人かが、ようやく腑に落ちた顔になる。
正しいが遅い。だから少し急ぎたい。
だが、急ぐための見当が強すぎると、正しさを壊す。
その境目をいまようやく見たらしい。
———
そこで、朝の失敗例を組み直してみせることになった。
問題は、北門から薬院へ向かう急使だった。
現場は「薬院は東寄りだから」と、東橋経由の道筋へ札を寄せていた。だが今朝は橋待ちが長く、結果として城壁沿いの遠回りのほうが軽かった。
旧運用を再現する。
「これが雑な見当札です。薬院は東。だから東へ寄せる。東側の道は一律に白札二、中央は四、西は六、みたいな」
急使頭が顔をしかめる。
「ひどいな」
「あなた方が今朝やったやつです」
「……そうでした」
講堂の学生がいない場だと、こういう会話は余計に刺さる。
続ける。
「この見当だと、東橋の待ちがどれだけ重くても、東側が過剰に優遇される。本当は城壁沿いで九、東橋経由で十なのに、見当を盛ったせいで東橋側が先に開かれる」
「では新しい見当では?」
「こうです」
塔見の概算距離だけを使って、各分かれ場に白札を置く。東寄りでも、西寄りでも、無茶な差はつけない。せいぜい一か二の違いだ。
「これなら、東寄りを少し前に出せる。でも橋待ちの重さまで踏みつぶさない。結果として、東橋が重ければ城壁沿いが前に出てきます」
帳面役人が、小さく息を吐く。
「寄せるが、決めつけない、か……」
「そうです」
ルドーが一言でまとめる。
「見当は使え。決めつけるな」
室内が静かになった。
きれいに収まったからというより、いままで自分たちが「見当」という名でやっていたものが、ただの願望混じりの近道思想だったと気づいたからだろう。よくある話だ。人は補助線を引いた途端、それを世界そのものだと思いがちである。
———
そこへ、室内の隅で控えていた学校の術務室職員が口を挟んだ。
「では、急使道選びの札は、どう作り直せばよいでしょう」
「二段にします」
新しい運用札を書き始めた。
急使道選び 暫定改訂
一、各分かれ場には、ここまでの重さ を記す。
二、目当てが定まっている場合、別札で 先の見当 を添える。
三、道開きは、両者を足した 合わせた見込み の軽い順で行う。
四、先の見当は、これ以上は軽くなりようがない下見積り に限る。
五、橋待ち、門待ち、市場詰まり等の現況は、ここまでの重さ 側へ反映する。
六、見当札だけで道筋を決め打ちしない。
七、見当札の付け方は局ごとに勝手を許さず、基準を揃える。
急使頭が四番を指す。
「これ以上は軽くなりようがない下見積り、か」
「そこが肝です」
筆を止めずに言った。
「見当が本当の重さを上回って盛られると、本当は軽い道が不当に後ろへ回る。逆に少し軽すぎるくらいなら、無駄足は多少増えても、正しさは壊れにくい」
帳面役人が言う。
「つまり、外しても『少し余計に見る』方向ならましだが、『本当は良い道を切り捨てる』方向はまずい」
「その通り」
「やっと分かってきました」
「よかったです。朝のうちに分かっていてほしかったですけどね」
急使頭が苦笑する。
「耳が痛い」
「現場全体の耳が痛いやつです」
ルドーが札を一読してから言う。
「原因も書け」
「またですか」
「人は『急いでいた』で済ませたがる」
「まあ、済ませたがりますね……」
下へ追記した。
原因整理
最軽路探しの遅さを嫌い、現場が独自の見当札を足した。
見当札が「下見積り」ではなく、「近そうだから軽いはず」という希望混じりの決めつけになっていた。
橋待ち・門待ちなどの現況重さと、目当て方向への見当が混ざり、役割が分かれていなかった。
補助として使うべき見当で、道筋を決め打ちした。
帳面役人がその文を読み、ゆっくりうなずいた。
「役割を分けていなかった、か。たしかに……」
「そこです」
言う。
「いま食っている重さと、先の見当は別物です。それを一つの曖昧な勘で済ませたから壊れた」
———
しばらくして、簡単な試験運用が始まった。
実際の急ぎ先を三つ決め、従来の雑な見当札方式と、新しい合わせ見込み方式で、どちらがどう道を開くかを比べる。
一つ目は薬院。
二つ目は南の倉庫街。
三つ目は西の外れ工房。
結果は分かりやすかった。
雑な見当札方式は、薬院へ東橋を強く引きすぎる。
新方式は、東寄りを少し優遇しつつも、橋待ちが重ければ城壁沿いへ切り替わる。
倉庫街でも同じで、南へ寄せながら、門待ちが詰まれば中央路へ戻る。
西の外れ工房では、むしろ見当の効果が小さく、昨日の方式と大差ない。だが、それでよかった。盛っていないからだ。
急使頭が道図を見て長く息を吐いた。
「これなら、寄せたい気持ちは残しつつ、やりすぎない」
「そこが狙いです」
「速さも欲しい。正しさも壊したくない。欲張りな注文だな」
「現場はいつもそうでしょう」
「違いない」
若い役人が、小さく笑って言う。
「昨日の講義を聞いておけばよかったですね」
「聞いていても、たぶん一回はやらかしてましたよ」
私が言うと、室内の何人かが苦笑した。人類に対する信頼が低いのではない。経験があるだけだ。
———
王城を出るころには、日がだいぶ傾いていた。
廊下から中庭へ出ると、夕方の風が思ったより冷たい。急使運用室の熱っぽい空気に長くいたせいだろう。
肩を回していると、横でルドーが言った。
「悪くなかった」
「珍しく素直ですね」
「見当を否定しなかったからな」
「全部捨てろ、とは言ってないですからね」
「それでよい」
ルドーは前を見たまま続ける。
「正しいだけのやり方は、広い場では嫌われる。速いだけのやり方は、いずれ壊れる。どちらも要る」
少しだけ笑った。
「そこ、今日の一番いいまとめかもしれません」
「そうか」
「そうです」
珍しく、ルドーはそれ以上何も言わなかった。
———
夜、リゼの家に戻ると、台所には焼いた白身魚の匂いが広がっていた。
「おかえり」
「ただいま」
椅子に腰を下ろすと、体の芯に残っていた緊張がようやく抜ける。道の話は、歩かなくても疲れる。人間があちこちで勝手に「近そう」を信じ始めるからだ。
リゼが皿を置きながら言う。
「で、見当は暴走した?」
「した」
「でしょうね」
「薬院は東だからって、東橋へ寄せすぎてた」
「橋待ちがあるのに?」
「あるのに」
リゼは苦笑する。
「人間、目当てが見えるとすぐ一直線にしたがるわね」
「ほんとにな」
湯気の立つ椀を受け取りながら言う。
「でも見当そのものが悪いわけじゃない。ここまでの重さは確かで、そこから先は予想しかできない。だから両方足して、望みのある道から見るのは理にかなってる」
「ただし、予想を盛りすぎると、本当は良い道を切り捨てる」
「そう」
リゼは少し考えてからうなずいた。
「つまり、見当は『たぶんこうに違いない』じゃなくて、『少なくともこれくらいは食う』にしろってことね」
「その通り」
「補助線として使え。でも世界そのものだと思うな」
一瞬だけ止まって、笑った。
「今日、ほぼ同じこと言ったな」
「でしょうね。分かりやすいもの」
「おまえ、毎回その位置に一番きれいに要約してくるよな」
「家賃代わり」
「それほんと便利な免罪符だな」
リゼは肩をすくめた。
「で、うまくいったの?」
「たぶん前よりはかなり」
「たぶん?」
「現場は明日また別の壊れ方を思いつくからな」
「そこは信用してるのね」
「妙に厚くな」
リゼが吹き出す。
魚をほぐしながら、今日の運用札の文を思い出していた。
見当は使え。
決めつけるな。
たぶん、賢いやり方というのは、近道を完全に捨てることではない。
近道を使いたがる人間を前提に、その近道が壊しにくい柵を立てることだ。
正しさだけでは重い。速さだけでは危うい。
だから現場は、だいたいその間で揺れる。
あまり詩的ではないが、わりと本質だった。
文明というのは、たいていそういう中途半端さを、うまく飼い慣らしたところに立っている。




