第40話 声を丸ごと残すな
朝、王都の空気はまだ少し冷えていた。
リゼの家を出て学校へ向かう道すがら、通りに満ちた音をなんとなく聞いていた。荷車の軋み。桶を重ねる音。呼び売りの声。遠くで鍋を打つ鈍い響き。目を閉じていても、だいたい何が起きているか分かるくらいには、街の朝は音でできている。
音は流れて消える。
だから、残せたら便利だ。
だからこそ、残そうとすると厄介だ。
便利なものはたいてい、そういう顔をしている。
———
講堂に入ると、前方の机の上には見慣れない道具が並んでいた。
丸い銅の輪がはまった小箱、薄い石盤、細い針が上下する測り札。さらに、盤面工房の刻印が入った透明板が数枚。今日は見た目からして少し派手だ。こういう日は学生も最初からざわついている。
「何だあれ」
「声写し盤じゃないか?」
「でも、あんな小さいの見たことないぞ」
前列の学生たちがひそひそ言い合っている。その少し横で、リゼも頬杖をつきながら机の上の小箱を見ていた。興味はあるが、警戒もしている顔だ。便利そうなものほど後で面倒を起こす、とこの学校で十分学んでしまった顔でもある。
私が前に立つと、ルドーが講堂を見回して言った。
「今日は、声を残す話をする」
短い。だが今日の机を見れば分かる。
「人の声を、遠くへ送り、あとで聞き返せるようにしたい。だが、丸ごと残すと重い。問う。何を削り、何を残す」
前列の学生が手を挙げた。
「大きい記録盤を使う」
「太る」
別の学生。
「短く話させる」
「人は長く話す」
三人目。
「伝令に要点だけ言わせる」
「要点を決める者が賢いとは限らぬ」
講堂に、少しだけ苦い笑いが広がる。たしかにその通りだ。人はだいたい、自分が落としてよいと思った情報を、あとで他人が必要とする。
ルドーが私を見る。
「ユウ」
「はい」
「はいは一回だ」
もう儀式である。講堂のあちこちでくすりと笑いが起きた。
机の上の小箱を一つ持ち上げた。
「これ、声写し盤の試作です」
銅の輪に指を軽く叩き入れると、盤面の奥で細い光が走る。
「話した声を盤に留めて、あとで鳴らし直せる。便利です。口ぶりも残るし、書記が追いつかなかったところも聞き返せる」
学生の目が少し輝く。こういう、分かりやすく便利そうなものには素直だ。痛い目を見る前の人間はだいたい素直でかわいい。
「ただし、何も考えずに丸ごと残すと重い」
横の薄い石盤を掲げる。
「声は流れです。流れを盤に留めるには、ずっと連続のままでは扱えません。だから、ところどころで刻み取ります」
表示盤に書く。
刻み取り
「たとえば、こう」
銅の輪に向かって短く言った。
「王都南門、第三倉、搬入待ち」
小箱がそれを受け、細い針が上下する。
「これを細かく刻み取ると、元に近い。荒くすると、軽い。じゃあ聞いてください」
まず、細かい刻みのまま再生する。箱から出た声は少し金属っぽいものの、十分に聞き取れた。
『王都南門、第三倉、搬入待ち』
次に、横の透明板を差し替える。
「こっちは、刻みを粗くしたものです」
再生すると、同じ声なのに輪郭が少し崩れた。言葉は分かるが、音のつながりが少しぎくしゃくしている。
『王都……南門、第三……倉、搬入待ち』
講堂がざわつく。
「聞こえる」
「でも変だな」
「階段みたいだ」
その中で、リゼが手を挙げた。
「つまり、流れを細かく掬えば元に近いけど、間を飛ばすと、そのぶんだけ音のつながりが欠けるのね」
「そう」
うなずく。
「拾う間を広げると、間の形が抜ける。早口とか、細かい子音ほど崩れやすい」
リゼは納得したように頷いて、すぐに筆記札へ書きつけた。
次に、測り札の横に置いていた段板を見せた。小さな目盛りが何段にも分かれている。
「次は、声の強さをどれだけ細かく刻むかです」
表示盤に書き足す。
声の段数
「同じ声でも、大きい小さい、強い弱いがあります。それを何段に分けて記すか。細かいほど滑らか、少ないほどざらつく」
再び同じ声を流す。今度は刻み取りは細かいまま、声の段数だけを減らしたものだ。
『王都南門、第三倉、搬入待ち』
言葉は聞こえる。だが、全体にざらつきがある。乾いた、少し砕けた感じだ。
「おお……」
「石でしゃべってるみたいだ」
「意味は取れるな」
「でも気持ち悪い」
「そういうことです」
小さく笑った。
「人の耳は、意外とこれでも言葉を拾います。つまり、多少粗くしても、聞こえはする」
そこでわざと少し間を置く。
「ただし、『聞こえる』と『元のまま』は別です」
講堂が静かになる。
ルドーが短く言う。
「似ていることと、同じことを混ぜるな」
「はい」
「はいは一回だ」
また笑いが起きた。
———
机の端から、別の透明板を取り上げた。そこには細かい印がいくつも刻まれている。
「次。毎回、声を丸ごと記さない方法です」
表示盤に書く。
続き見で差だけ記す
学生たちの顔に、少しだけ不審が浮かぶ。今日の本題はここからだ。
「人の声って、一瞬ごとに全部が激変するわけじゃないんです。少しずつ上がる、少しずつ下がる、少し強くなる、少し弱くなる。だったら、毎回『今の声はこうです』って丸ごと書くより、前の声からどれだけ変わったか だけ書けば軽い」
前列の学生が眉を上げる。
「そんなので戻せるんですか」
「だいたい戻せる」
「だいたい」
「そこが大事」
石盤の上に、簡単な線を描いた。ゆるやかに上下する曲線だ。
「前がこうで、次が少しだけ上。さらに少しだけ下。だったら『上がった』『下がった』の分だけ記せばいい。しかも、声はたいてい続いて動くから、次がどう来そうかを少し見込める」
そのとき、リゼがまた手を挙げた。
「つまり、毎回声を描き直すんじゃなくて、『さっきの続きならこのへんだろう』って見当をつけて、そこからのずれだけを記すのね」
「そう。それです」
「だから、なだらかに続く声なら軽くしやすい。でも、急に跳ねる音や擦れる音は取りこぼしやすい」
思わず少し笑う。
「補足まで完璧だな」
「聞いてたからね」
「助かる」
講堂の何人かがくすっと笑った。リゼがこういうとき自然に橋を架けるのは、もはや学生たちにも知られてきている。
二種類の再生を聞かせる。ひとつは丸ごと記したもの、もうひとつは続き見で差だけ記したもの。
差だけ記したほうは、少し輪郭が柔らかい。だが、普通に聞けば違和感は小さい。
「……あんまり変わらない」
「軽いのに?」
「本当に?」
「そう」
測り札を示した。差だけ記したほうが、記録量がかなり下がっている。
「ただし、急な変化には弱い。破裂するような音、擦れる音、細かい子音は崩れやすい」
「じゃあ、人の叫びとか、金物の音には向かない?」
「向きにくいな」
「声でも、ゆっくり話すほうが有利……」
「そういうこと」
ルドーがそこで一言挟む。
「何に向き、何に向かぬかを分けろ」
「はい」
「はいは一回だ」
講堂の笑いも、だいぶ慣れてきた気がする。もはや合いの手である。
———
最後の透明板を持ち上げた。これは他のものより少し複雑で、細い帯のような刻印が何本も入っている。
「ここから先は、もう一段ずるい話です」
学生たちの目が上がる。ずるい話は人気がある。だいたい後で対価を払う羽目になるのに。
「音って、一つの塊じゃありません。低く太い響き、細かく高い擦れ、いろんな揺れが混ざっている。これを音の混ざり分けでほどくことができる」
表示盤に書き足す。
音の混ざり分け
前列の女子学生が首をかしげた。
「ほどく?」
「一つに聞こえる声を、中に混ざってる高さごとに分けて見るんです」
「そんなことができるんですか」
「できる。面倒だけど」
「面倒なんですね」
「たいてい面倒です」
小箱に向かって、今度は少し長めの文を話した。
「南の荷は三十箱、北の荷は二十箱、湿りあり、差し替え待ち」
それを一度そのまま再生し、次に別の板を通して再生する。
後者は、全体としては聞こえる。意味も取れる。だが、細かい擦れや高めの響きが少し薄くなっていた。声の輪郭が丸く、ややくぐもっている。
『南の荷は三十箱、北の荷は二十箱、湿りあり、差し替え待ち』
学生の一人が目を丸くする。
「え、軽くなってるのに、まだ聞こえる」
「聞こえる」
うなずく。
「人の耳は、全部を同じ重さで聞いていません。だから、細かく高い震えの一部を薄くしても、案外意味は拾える」
「じゃあ、それでいいのでは?」
別の学生が言う。
「全部それにすれば、かなり軽くなるのでは」
「その考え方が事故の入口です」
あっさり返した。
講堂がしんとなる。
そこでリゼが、今度は手を挙げずに少し身を乗り出した。
「つまり、話の流れは多少削っても耳が埋めてくれる。でも、地名とか数とか、似た音と取り違えたら困るところは別、ってこと?」
「その通り」
すぐ答える。
「『聞こえる』ことと、『誤れない』ことは同じじゃない。普通の会話なら流れで埋まる。でも、伝令や数や固有名は、少し崩れただけで別物になる」
「じゃあ、軽くしていい声と、軽くしすぎると危ない声を分けないとだめね」
「そういうこと」
講堂のあちこちで、なるほど、という顔が広がる。ようやく「軽くできる」という面白さが、「だから全部軽くしていい」にはならないと腑に落ちてきたらしい。文明はだいたいこの一線でこける。
ルドーが講堂の空気を見て、そこでまとめに入る。
「声は残せる。だが、丸ごと残すな」
沈黙。
「軽さは得られる。だが、削ってよいものと悪いものを混ぜるな」
短い。だが十分だった。
表示盤の中央に、最後の一文を書く。
耳に届くもの全部が、耳に必要なものとは限らない
学生たちがそれを書き留める。
そのとき、講堂の扉が叩かれた。
最近、この流れがあまりにも安定しすぎている。学校は授業に協力的なのではない。壊れるタイミングが妙にうまいだけだ。
ルドーが視線だけで扉を向く。
「入れ」
入ってきたのは、王城の伝令術務を預かるらしい中年の職員だった。術務室の古株も一緒だ。どちらも、少し疲れた顔をしている。
「失礼します。講義中に申し訳ありません」
「要件」
ルドーが言う。
職員は一礼し、抱えていた声写し盤を机に置いた。
「王城で使い始めた声伝令札についてです。生写しでは重すぎたため、盤面工房と相談して軽く詰める方式に切り替えたのですが……」
眉をひそめた。
「何を削ったんですか」
「刻みを少し粗くし、段数を減らし、続き見も強め、さらに細かい高音を薄くしました」
「全部盛りかよ……」
思わず口から出た。人はなぜ、軽くしたいときに一気に全部やるのか。慎みというものを知らない。
職員は苦い顔で続ける。
「声そのものは、だいたい聞こえます。文の流れも取れます。ですが……」
「ですが」
「地名と数を聞き違える事例が、今朝から立て続けに出まして。『南倉三番』が『南倉二番』に、『百八十束』が『百七十束』に聞こえたと……。伝令側は『声は届いている』と主張し、受けた側は『意味が違う』と揉めております」
講堂がざわついた。
深く息を吐く。
嫌な予感が、今日も期待を裏切らない。ついさっき言ったばかりの「聞こえる」と「誤れない」が、王城の現場で即座に衝突している。
ルドーが言う。
「ユウ」
「はい」
「行くぞ」
「はい」
「はいは一回だ」
講堂に緊張混じりの笑いが広がる。
机上の透明板と小箱をまとめて抱えた。どうせ現場で、同じ実演をもう一度やることになる。
扉へ向かう前、表示盤に残った最後の文が目に入る。
耳に届くもの全部が、耳に必要なものとは限らない
まったく、授業で書いた警句が、その日のうちに王城の揉め事になるのだからたまらない。
この学校は、知識を教えるのがうまいのではない。
知識が必要になる壊れ方を、異様によく引き当てるだけだ。




