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魔法が複雑すぎる世界で、俺だけAIを使える件 〜圏外なのにAIが動くので、呪文をプログラム化して無双します〜  作者: 月の位相
特任講師編

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第37話 軽い写しのつもりでした

 実習棟の演習盤庫は、廊下に出る前から嫌な気配を放っていた。


 近づくにつれて、床板がみしりと鳴る。古い建物だからではない。中にあるはずのない重みが、一か所に偏っている音だった。


「嫌な音がするな」


 私が言うと、横を歩く術務室の若い職員が青い顔でうなずいた。


「はい……朝までは、ここまでではなかったのですが」


「朝の時点で止めなかったのか」


「最初は、盤を積み直せば済む程度だと思いまして……」


 前を行くルドーが振り返らずに言う。


「思うな。見るまで保留にしろ」


「……はい」


「はいは一回だ」


 職員は口を閉じた。学外の者にも容赦がない。いや、もうこの人も半分学内の空気に巻き込まれている気がする。


 盤庫の扉は半開きになっていた。中からは、木棚の軋む低い音と、何人かの職員が小声で相談する気配が漏れてくる。


 私が中に入ると、まず目に入ったのは、奥の棚だった。


 一番下の段が、明らかに沈んでいる。棚板が中央でわずかにたわみ、そこに薄い石板が何十枚も積まれていた。見た目には、せいぜい演習盤が百枚少し。だが、沈み方がその数ではない。


「……うわ」


 思わず声が出た。


 脇にいた盤面工房の補助術師が、疲れきった顔で頭を下げた。


「お待ちしておりました。朝から様子を見ていたのですが、写し分けの広がり方が想定よりずっと大きくて」


「見れば分かります。で、どういう配り方を?」


「昨夜、初級術式の見本盤を原板から百枚分の写しに起こしました。今朝、初級組に配付。授業の前半は閲覧だけだったので問題は出ませんでした」


「後半で記入を始めた」


「はい。名と組番号、簡単な改変案、それから補足欄への追記」


 私は一枚、近くの盤を持ち上げた。見た目は薄い。だが、手に乗せた瞬間、妙な粘り気のある重みが伝わる。原板とつながって軽く見せていた部分が剥がれ、別の実体を抱え込み始めている感触だった。


「補足欄って、どのくらいの広さで作ったんですか」


 術務室の職員が小さく手を挙げる。


「右下に三行ほどで……」


「三行」


「見本の改変案なら収まると思って」


「人間の書く字を甘く見たな」


「……はい」


 ルドーが棚の沈みを見ながら言う。


「兼用したか」


「ええと……閲覧用と記入用を一枚で済ませれば、朝の配付が速いかと……」


「速かっただろうな」


 ルドーの声は静かだった。


「はい」


「後ろで潰れる棚も速い」


 職員の顔がさらに青くなった。


 私は盤を戻し、棚の構造をざっと見る。奥の一列だけが異様に沈んでいるのは、重い盤がそこに集められたからだ。つまり、学生から回収したあと、見た目だけを基準に同じ場所へ戻してしまったのだろう。


「分類してないのか」


「しておりません……。見た目が同じでしたので」


「そこまでだ」


 ルドーが言う。


「ここから先は、分からぬまま触るな」


 盤庫の中にいた職員たちが、いっせいに手を止めた。


 私は棚の前にしゃがみこんだ。石板の縁に指を添え、一枚ずつ魔力の流れを探る。軽い写しのままのものは、原板へ向かう細い流れが均一だ。だが、手が入ったものは違う。表面の一部に濁った厚みが生まれ、そこだけ別に固まっている。


「盤面工房、写し分けした部分の偏りは見えますか」


 補助術師がすぐに答える。


「ええ。右下の記入欄から広がったものが多いですが、補足欄を広げた者は盤面全体の余白に手を入れています。参考例を貼り足したものは、その貼り札ごと独立を起こしていて……」


「最悪のやつだな」


「はい……」


「はいは一回だ」


 補助術師まで縮こまった。今日はルドーの小言がよく刺さる日だ。刺さらない日のほうが困るのだが。


 私は立ち上がると、盤庫の中央に向き直った。


「まず、もう回収した盤を同じ棚に戻すのをやめてください。今から分類します。閲覧だけで終わった軽い写し と、手が入って重くなった写し を分ける」


「見分ける方法は」


「魔力の流れを見るのが一番確実です。ただ、全部を術師の目だけでやると遅い」


 私は机代わりの作業台に近づき、空いていた札束を取った。青札、黄札、赤札の三種類。前話の授業で出した分類が、そのまま現場で必要になるの、出来すぎていて腹が立つ。


「青札は閲覧のみ。原板とつながった軽い写し」

「黄札は右下のみ手入れ。記入欄の周辺だけが分かれたもの」

「赤札は盤面の広い範囲に手入り。補足欄の拡張や貼り足しをしたもの」


 札を並べると、術務室の職員が目を瞬かせた。


「三つに?」


「二つだと雑です。今日はそれで壊れたばかりだろ」


「……すみません」


「謝るのはあと。先に棚を守る」


 ルドーがうなずく。


「よい」


 私は続けた。


「青札は別棚へ。軽いままだから、まとめて置いてもまだ持つ。黄札は一段ごとの枚数を減らして、棚を分散。赤札は棚に戻さない。床置きの低台か、石床の上に寝かせる」


「床に?」


「高い棚に戻して潰すよりいい。重心が下がる」


 盤面工房の補助術師が感心したように言う。


「なるほど……」


「なるほどで終わらせないでください。今日はこれを運用手順に落とすところまでやります」


 術務室の職員がぎくりとした。そこまで言われて初めて、今日の失敗が単なる後片づけでは済まないと理解したらしい。人は本当に、事故のあとでもまだ一回で済むと思いたがる。めでたい生き物だ。


 私は袖をまくった。


「まず分類。盤面工房は流れの見分け役を二人。術務室は札付けと運搬。学生は」


 そこで、入口のほうからおそるおそる声がした。


「手伝えます……」


 見ると、初級組の学生が数人、扉の外からこちらをのぞいていた。自分たちが使った盤なのだから気になるのだろう。気まずそうな顔をしている者もいる。


「勝手に入るな」


 ルドーが一言で止める。


「ただし、呼ばれたら動け」


「はい!」


 今度は声がそろった。


「はいは一回だ」


 まただ。もはや号令である。


———

 分類作業は、思ったより早く進んだ。


 軽い写しのままのものは、魔力の流れが澄んでいて判別しやすい。問題は黄札と赤札の境目だった。右下の欄だけを書き換えたつもりでも、書き損じを消したり、欄外に矢印を引いたりしたせいで、思った以上に盤面の広い部分へ手が入っている。


 私は赤札の山を見てため息をついた。


「矢印一本で済んだと思ったんだろうな……」


 近くで札を結んでいた若い職員が言う。


「一本の線で、そんなに変わるものなんですか」


「変わる。軽い写しのままなのは、原板と同じ面を見てる間だけです。そこに一本でも自分の線を置けば、その線の居場所が要る」


「でも一本ですよ」


「一本でも、盤面の大きな面に『ここは元と違う』って印をつけたことになる。その周りの整合を取るために、思ったより広く分かれることがある」


 職員は顔をしかめた。


「見た目では、ほんの少しなのに……」


「そう。だから怖い」


 私は赤札のついた盤を持ち上げて、作業台の上に置いた。表面には、初級術式の整った見本線の端に、へろへろした補足の線と、細かい字の注記がいくつも加わっている。たぶん書いた本人は、学びに熱心なだけだった。熱心なのはいい。盤面庫には優しくないが。


 盤面工房の補助術師が横から覗きこむ。


「この盤は、右下から始まって左上の補助線にまで分かれが波及しています」


「注釈が参照してる先が多いからですね」


「ええ。見本全体に『ここと比べよ』と印をつけたせいで」


 私はうなずいた。


「記入欄を別札にしなかったのが効いてる」


 そこへ、学生の一人が恐る恐る手を挙げた。


「先生」


「何だ」


「書き込みをしたのは、自分たちが悪いんでしょうか」


 盤庫の空気が少しだけ張る。周りの学生たちも、答えを待っている顔をした。


 その学生を見る。まだ十代の顔だった。真面目そうで、たぶん指示があったから、その通りに書いただけなのだろう。


「半分は違う」


「半分……?」


「書けと言われた場所に書いたなら、それ自体はおまえたちの仕事だ。問題は、何を書かせる盤なのか分けずに配った側 にある」


 術務室の職員が肩を縮める。


「ただし」


 言葉を継いだ。


「欄が狭いからって勝手に余白を侵食するな。補足を書きたいなら別札を求めろ。盤面ってのは、空いて見えるところもだいたい意味がある」


 学生は真剣な顔でうなずいた。


「はい」


「はいは一回」


 入口のほうで何人かが吹き出した。緊張が少しだけほどける。


———

 一時間ほどで、盤庫の危ない棚は空になった。


 青札の軽い写しは別棚へ移され、黄札は枚数を減らして分散、赤札は低い石台の上に寝かされた。ひとまず、今日この場で棚が潰れる心配はなくなった。


 だが、私の仕事はそこで終わらない。


「次。どうしてこうなったか、紙に落とします」


 術務室の職員たちが、露骨に息を呑んだ。


「今からですか」


「今です。今日書かないと、来週には『気をつけましょう』で蒸発する」


 誰も反論しなかった。えらい。少しは学習しているらしい。


 作業台の上に記録札を広げ、私は要点を書き出していく。


演習盤運用手順 暫定改訂


一、見本盤の写しは、閲覧用 と 記入用 を兼ねない。

二、記入が必要な場合、名・組番号・改変案は 別札 に記す。

三、やむを得ず盤へ手を入れる場合は、事前に 手入れ可の写し と明示する。

四、回収時は 閲覧のみ / 一部手入れ / 広範囲手入り の三分類を行う。

五、広範囲手入りの盤は高棚に戻さず、低台または石床保管とする。

六、棚荷重は見た目の枚数ではなく、写し分け後の重み を基準に見る。

七、初回配付前に、術務室は 人が実際に書く字と振る舞い を含めた試験を行う。


 横で見ていた盤面工房の補助術師が、七番を指した。


「そこ、大事ですね」


「いつも大事なんですよ」


 筆を止めずに言った。


「見本の綺麗な字だけで試すから壊れる。本番で来るのは、急いで書く人間の字です。はみ出すし、省略するし、余白も使う」


 術務室の若い職員が、小さく言う。


「今回も……工房から届いた見本では、三行で収まっていたんです」


「見本はそうでしょうね」


「術務室でも、整った字で確認しました」


「でしょうね」


「……本番は違いました」


「本番はいつも違う」


 その言い方があまりに即答だったせいか、近くにいた学生まで何とも言えない顔になった。だが事実なので仕方がない。現場とは、たいてい想定の外側から本気を出してくるものだ。


 ルドーが記録札を一読してから言う。


「よい。原因の書き方も足せ」


「原因、ですか」


「事故は、都合よく『誰かの不注意』に落ちる。構造を書け」


 私はうなずき、下に追記した。


原因整理

・閲覧用の軽い写しと、記入を伴う写しを兼用した。

・記入欄を盤面本体に設けたため、補足や追記が本体側へ波及した。

・回収後の分類がなく、重くなった盤を同一棚へ集中させた。

・事前試験が見本字に偏り、人の実際の筆記挙動を見ていなかった。


「これでいいですか」


「よい」


 ルドーは短く答えた。


 術務室の職員たちは、その札をのぞき込みながら、今度こそ真面目な顔で頷いていた。ようやく自分たちの失敗を、ただの不運ではなく、手順の欠けとして見始めたらしい。そこまで来れば、次はまだましになる。人類の進歩は遅いが、ゼロではない。


———


 片づけが終わったころには、昼をだいぶ回っていた。


 盤庫の外へ出ると、廊下の空気が妙に軽く感じられる。さっきまで、建物ごと沈みそうな気配の中にいたせいだろう。


 入口の近くで待っていた初級組の学生たちが、頭を下げた。


「ありがとうございました」


「礼を言う相手は半分違う」


 私は言った。


「次に同じ盤が来たら、何を見る?」


 学生たちは少し考え、さっき質問した真面目そうな少年が答えた。


「読むだけの盤か、書いていい盤かを見ます」


「その次は」


「書く欄が狭かったら、勝手に余白へ広げず、別札があるか聞きます」


「よし」


 私はうなずいた。


「それでだいぶ被害は減る」


 少年は少し迷ってから、もう一つ聞いた。


「先生。軽い写しって、悪いものじゃないんですよね」


「悪くない」


 私は即答した。


「むしろ、うまく使えばかなり助かる。全員分を最初から丸ごと作るより、ずっと速いし、ずっと軽い。問題は、軽いまま済む場面なのに、手を入れる場面を混ぜること だ」


 少年は納得したようにうなずいた。


「包丁みたいなものですか」


「便利なものを、変な場所で振ると怪我をする、って意味なら近いな」


 そのへんで、ルドーが歩き出す。


「戻るぞ」


「はい」


「はいは一回だ」


 学生たちの間に、今度は完全に笑いが広がった。もう学校全体の共通言語になりつつある。少し腹立たしいが、覚えやすいのは確かだ。


———

 夕方、リゼの家に戻ると、台所から香草の匂いがした。


「おかえり」


「ただいま」


 椅子に腰を下ろした途端、身体から力が抜ける。今日は講義補助のあとに棚の救出と手順書書きまでやったのだから、疲れて当然だった。


 リゼが鍋をかき混ぜながら、横目で見る。


「で、泣いた?」


「泣く前に棚が沈んだ」


「早いわね」


「授業で『あとから重くなるぞ』って言った、その日のうちに実演された」


「教育熱心な学校だこと」


「教材として壊れるのが早すぎるだけだよ」


 リゼが吹き出す。


「何が起きたの」


「閲覧用の軽い写しに、そのまま名前と改変案を書かせた。しかも欄が狭いから、余白にどんどん広がった」


「混ぜたのね」


「混ぜた」


「人間って、どうして楽をするときだけ判断が速いのかしら」


「面倒を払うのが未来の自分だからだろ」


「他人みたいに言うじゃない」


「だいたい他人だろ。事故を受け取るのは」


 リゼは鍋から椀によそいながら言う。


「で、直したの?」


「軽いのと重いのを分けて、重いのは下に置いた。あと、次からは閲覧用と記入用を分ける手順を書かせた」


「まともね」


「最初からやっていればな」


 椀を受け取ると、湯気が顔に当たった。今日はそれだけで少し救われる。


 リゼが向かいに座る。


「でも、その仕組み自体は便利なんでしょ」


「便利だよ。読むだけなら、本当に一瞬で増える」


「問題は、触る人間」


「だいたいそう」


「じゃあ次の授業は、『人間を信用しすぎるな』かしら」


 私は椀に口をつけかけて、少し考えた。


「それ、たぶんこの学校の全授業に共通するな」


「名言じゃない」


「やめろ、ルドー先生が気に入りそうで嫌だ」


 リゼは声を立てて笑った。


 その笑いを聞きながら、私はようやく肩の力を抜いた。


 軽い写しは悪くない。速い複製も悪くない。悪いのはたいてい、その軽さを見て、条件まで軽いと思いこむことだ。


 人は便利さを見つけると、だいたい説明書の後半を読まない。


 そして現場は、読まれなかった後半で壊れる。


 まったく、よくできた世界である。嫌になるくらいに。

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