第36話 写しは一瞬、重みはあとから
朝、リゼの家の台所は、まだ少しだけ冷えていた。
窓の外では、通りのパン屋が焼き上がりの鐘を鳴らし、向かいの屋根では小鳥がどうでもよさそうにさえずっている。平和だった。少なくとも、朝食の皿が片づくまでは。
「今日、早いのね」
リゼが湯気の立つ杯を卓に置きながら言った。
私は黒パンをちぎって口に放り込み、うなずいた。
「一限から講義補助。ルドー先生、朝からちょっと機嫌よかったんだよな」
「嫌な予感しかしないやつじゃない」
「する。ものすごくする」
「なのに行くの?」
「行かないと、もっと面倒なことになる」
「それはそう」
リゼはあっさり言って、自分の杯に口をつけた。相変わらず、この家では慰めより現実のほうが先に来る。
私は卓の端に置いた薄い板をちらりと見た。スマホだった。異世界では説明のつかない便利さを持つ、黙っていればただの黒い板である。黙っていてもだいたい厄介事を呼ぶが。
「で、今日は何の話」
「たぶん写し」
「写本の話?」
「もうちょい嫌なやつ。見た目は丸ごと複製だけど、最初は中身をちゃんと分けてない、みたいな」
リゼが眉を上げる。
「……それ、複製って言っていいの?」
「そこなんだよ。売る側はたぶん満面の笑みで言うぞ。『一瞬で増やせます』って」
「で、あとから泣く」
「だいたいそうなる」
リゼは少し考えてから、卓の上の小皿を指先でつついた。
「元の鍋は一つで、取り分けた気になってるだけ。でも誰かが自分の皿に香辛料を足した瞬間、その分だけちゃんと別になる、みたいな感じ?」
私は一瞬だけ黙ってから、笑った。
「おまえ、たまに俺より説明うまいよな」
「たまに?」
「かなりの頻度で」
「家賃代わりね」
「家賃払ってない居候に対して、ずいぶん高性能だな」
「分かったなら遅れないで行きなさい」
追い出されるように玄関を出ると、朝の空気はすでに春寄りだった。王都の街路を抜けて学校へ向かう道すがら、私はなんとなく胸騒ぎを覚えていた。
便利な仕組みの授業のあとには、たいてい便利さの請求書が届く。
この世界も、そこだけは妙に律儀だった。
———
講堂の前方では、ルドーがいつものように無駄のない姿勢で立っていた。
今日は実技札も模型もなく、机の上に置かれているのは、薄い石板が三枚だけだ。学生たちはそれを見て、逆に不安そうな顔をしている。道具が少ない日のほうが話が難しいと、もう学習してしまったらしい。
私が前に立つと、ざわめきが少し収まった。
ルドーが言う。
「今日は、写しの話をする」
短い。毎度のことながら短い。
「本を写す、帳簿を写す、訓練用の術式盤を写す。写しは便利だ。では問う。大量に、素早く、安く、しかも元の形を崩さず写すには、どうする」
前列の学生が手を挙げた。
「工房に頼んで、夜通しで刻んでもらう、とか……」
「遅い」
別の学生。
「補助術師を増やして、人海戦術で」
「高い」
三人目。
「簡略化した見本だけ配る」
「元と違う」
そこでルドーは私のほうを見た。
「ユウ」
「はい」
「はいは一回だ」
講堂に小さな笑いが起きる。学生たちは、もはやこれを授業の一部だと思っている節がある。
私は咳払いしてから前へ出た。
「大量に写したいとき、普通は『まず全部を複製する』って考えます。でも、それをやるから重い」
机上の石板のうち一枚を持ち上げる。表面には、細かい術式線がびっしり刻まれていた。実習用の術式盤を模したものだ。
「たとえば、これが演習用の原板だとします。学生一人に一枚ずつ配りたい。五十人いれば五十枚欲しい。全部を毎回刻み直したら、時間もかかるし、保管庫も埋まる」
そこで、二枚目の薄い石板を重ねて見せた。
「なので、最初は丸ごと分けない、というやり方があります」
講堂が静かになる。
「……分けないのに、配るんですか?」
後方から疑わしげな声が飛んだ。
「配ります。正確には、『見た目には一枚ずつ持っているようにする』」
「詐欺では?」
「気持ちは分かるけど、まだ詐欺と決めるには早いな」
また少し笑いが起きた。
私は原板を机に置き、その上に薄い透明な膜のような術具をかぶせた。術式が淡く光る。
「原板が一つある。そこから写し札を作る。でも写しの中身は、最初は原板をそのまま見に行く。つまり、各自が持っているのは『これは原板の写しである』って約束だけです」
「中身は持ってない……?」
「全部は持ってません。持っているように振る舞うための印だけ持つ」
学生たちの顔に、半分の理解と半分の不審が浮かんだ。毎回見慣れた表情である。
私は板の表面を指で叩いた。
「読むだけなら、それで十分なことが多い。演習前に見本を見る、帳面を確かめる、保管用に眺める。そのたびに本物を丸ごと増やすのは無駄です。だから、まずは原板を共有してしまう」
前列の女子学生が首をかしげた。
「でも、それだと誰かが自分の写しに書き込みしたら、原板まで変わりませんか」
「そこで初めて、本当に分ける」
私は三枚目の石板を持ち上げた。
「これを写し分けと呼びます」
その言葉を黒板代わりの表示盤に書く。石の表面に白い光で文字が浮かんだ。
・原板
・写し
・写し分け
「最初は、皆が同じ原板を見ている。けれど、誰かが自分の写しに手を入れた瞬間、その部分だけ独立した実体を持たせる。そこから先は、その人だけの板になる」
講堂の空気が少し動く。分かったような、まだ怪しいような、あの独特の気配だ。
「つまり、何も変えないうちは軽い。変えたところだけ重くなる。全部を最初から分けるより、ずっと安い」
「じゃあ、すごく便利じゃないですか」
今度は素直な声だった。
「便利です」
私はあっさり認めた。
「だから広く使われます。演習用の見本札、閲覧用の台帳、王城の控え帳、工房の試作品保管。『読むだけの複製』が多いところでは、特に効く」
そこまで言ってから、わずかに間を置く。
「ただし」
学生たちの背筋が、条件反射みたいに伸びた。
「便利なものには、便利な顔をした落とし穴があります」
ルドーが腕を組んだまま言う。
「どこだ」
「見た目が軽いので、重さを忘れます」
私は原板を持ち上げ、次に写し札を振って見せた。
「写しを作るだけなら一瞬です。だから人は、いくらでも増やせる気になる。問題は、その写しに手を入れ始めたあとです」
「写し分けが起きるから?」
「そう」
表示盤に、単純な図を描く。一本の幹から何本も枝が伸び、枝先の一部だけが太くなる図だ。
「五十人に配った演習板がある。四十九人は見ただけで終わる。一人だけが書き換える。なら軽い。でも、五十人全員が少しずつ書き換えたらどうなるか」
「全部、別物になる……」
「そう。最初は一瞬だった複製が、あとからじわじわ場所を食い始める」
講堂のあちこちで、うわあ、という顔が広がった。理解はいつも、嫌な予感と一緒にやってくる。
私は続ける。
「さらに厄介なのは、写しを使っている本人には、その重さが見えにくいことです。札を一枚持ってるだけに見えるから。原板を共有しているうちは軽い。でも、書き換えれば、そのぶんだけ別に抱える。自分では『ちょっと直しただけ』のつもりでも、元が大きければ、ちょっとでは済まないことがある」
「大きい見本ほど危ない……?」
「危ないな」
「じゃあ、大きい原板の写しを配るのがそもそも危険では?」
「使い方次第です。読むだけなら神のように便利です」
「書くと地獄」
「身も蓋もないけど、だいたいそう」
また笑いが起きた。
私は石板を置き、今度は机上に置かれた小さな印箱を開けた。中には青い札と赤い札が入っている。
「実際の運用では、せめて次を見えるようにしておくべきです」
青い札を掲げる。
「これは閲覧の写し。読むためだけの写しで、書き換えを許さない」
赤い札を掲げる。
「これは手入れ可の写し。書き換えた瞬間、写し分けが起きる可能性がある」
表示盤に二つを書き足す。
・閲覧の写し
・手入れ可の写し
「同じ『写し』と呼ぶから事故る。読むだけなのか、触ってよいのか、触ったら何が起きるのか。そこを札や表示で分けるだけでも、現場の混乱はかなり減ります」
前列の学生が挙手する。
「先生、手入れ可の写しに、うっかり少し触っただけでも分かれてしまうなら、最初から別に作ったほうがよくないですか」
「その判断は、何人がどれだけ触るかで決まります」
「それ、事前に分かるものなんですか」
「分からないことも多い。だから運用で区別する。閲覧だけの場に手入れ可を混ぜない。演習前に共通の原板を配るなら、各自の記入欄は別札にする。原板そのものに書かせない」
ルドーがそこで一言挟む。
「混ぜるな」
「はい」
「はいは一回だ」
また笑いが起きた。今日は妙に受けがいい。学生が増えると、教師の小言がだんだん芸になるのは、あまり健全ではない気がする。
私は苦笑しつつ、話を戻した。
「要するに、便利なのは『同じものを何人も見る』ところまでです。そこから先に個別の手入れが増えるなら、どこで本当に分けるかを考えないといけない」
「原板を守るのも大事ですね」
と、別の学生。
「その通り。原板に直接触らせない。原板は原板で保管する。写しが増えるのはまだいい。原板が崩れると、全部やり直しです」
「工房の見本を触りたがる人、いますもんね……」
「いるな」
「怒られますよね」
「怒られる」
私は少し間を置き、講堂を見渡した。
「もう一つ。写し分けは、悪ではありません。必要だからある。問題は、どこで起きるか分からないまま、無制限に使うことです。人が『これは軽い』と思い込んで、重くなる条件を見ないと事故る」
そこで、後ろの席から半ば感心したような声が上がった。
「なんというか……見かけは無料なのに、あとから払う感じですね」
「嫌な表現だけど、かなり近い」
学生たちが顔をしかめる。どうも通じたらしい。世の中、うまい話はだいたいあとから帳尻が合う。
ルドーが講堂の空気を見て、そこでまとめに入った。
「写しは速い。だから広まる。だが、速いものほど、重みを忘れやすい」
沈黙。
「原板を守れ。読むだけと、手を入れるものを分けろ。分かれる時を見失うな」
短い。短いが、十分だった。
私は表示盤の端に、最後の一文を書いた。
一瞬で増えるものほど、後の重さを疑え。
講堂のあちこちで、筆記札にそれが写し取られていく。
そのときだった。
講堂の扉が、控えめながら急いた調子で叩かれた。
ルドーが視線だけ向ける。
「入れ」
扉が開き、術務室の若い職員が一人、息を切らせて飛び込んできた。額にはうっすら汗が浮いている。
「失礼します、講義中に……その、至急で」
「要件」
「実習棟の演習盤庫が……」
職員は一度息を飲み、言い直した。
「昨日の夜、初級術式の見本盤を百枚ほど写して今朝配ったのですが、学生たちが少しずつ書き込みを始めた途端、保管庫の奥行きが足りなくなりまして」
講堂がざわついた。
「足りなくなった?」
「はい。棚が急に重くなって、一段まるごと沈みました。盤面工房の補助術師は『写し分けが思ったより広がっている』と言っておりますが、術務室では、その……そこまで場所を食うとは考えておらず……」
私は額を押さえた。
嫌な予感が、授業が終わる前に本人確認を済ませに来た。
「何を書かせたんですか」
「見本盤に、各自で名前と組番号と、簡単な術式の改変案を……」
「原板のどこに?」
「盤面の右下に小さく……のつもりだったのですが、欄が狭くて、何人かが補記欄を広げまして……さらに参考例を貼り足した者もいて……」
ルドーが静かに目を閉じる。
「混ぜたな」
職員の肩がびくりと震えた。
「え、ええと、その、閲覧用と記入用を兼ねれば、盤の数を減らせるかと……」
私は講堂の学生たちを振り返った。ついさっきまで授業だった内容が、もう廊下の向こうで実演されている。ずいぶん景気のいい学校だ。
リゼならたぶん言うだろう。
ほらね、と。
ルドーが口を開く。
「ユウ」
「はい」
「行くぞ」
「はい」
「はいは一回だ」
講堂に、緊張と笑いが半分ずつ混じった空気が流れた。
私は机上の石板をまとめて抱えた。どうせ説明だけでは終わらない。実物を見せながら直す羽目になる。
扉へ向かいながら、表示盤に残った最後の文が目に入る。
・一瞬で増えるものほど、後の重さを疑え。
まったく、授業で書いた警句が、半刻も保たずに現実になるのだからたまらない。
学校という場所は、教育に熱心なのではない。
教材として壊れるのが異様に早いだけだ。




