第34話 術のあとには滓が残る
その日の授業は、教室に入った瞬間から少しだけ嫌だった。
理由は単純だ。
なんだか、妙な匂いがする。
「……なんか臭くないか」
私が言うと、隣のリゼが顔をしかめた。
「する。甘いような、焦げたような、変な匂い」
教室の後ろの方でも、何人かが鼻をひくつかせている。
「昨日ここで誰か練習術やった?」
「やったけど……」
「片付け札まで使った?」
「……たぶん忘れた」
「最悪」
知らない感じではない。
全員、何の匂いかは分かっている。
分かっているのに、こうなる。人類のいつものやつだ。
そこへルドーが入ってきた。
教室の空気を一度嗅いで、すぐに言った。
「術滓だな」
はい、来ました。
今日のテーマ、だいたい分かった気がする。
ルドーは教卓の前まで来ると、床を杖の先で軽く叩いた。
すると、教室の板床の上に、うっすら白っぽい粉のようなものが浮き上がる。
隅の方には、飴みたいに固まった薄い塊まである。
教室が少しざわついた。
「うわ、残ってたのか」
「昨日のだろ、それ」
「誰だよ、最後に掃かなかったの」
ルドーが黒板に書く。
『術のあとには滓が残る』
今さら存在を教えるための文ではない。
全員知っている厄介ごとに、わざわざ名前をつけ直している感じだ。
ルドーは振り返らずに言った。
「術滓それ自体は、お前ら全員知っている」
その通りだ。
「問題は、知っていても片付けを人に任せると、場が死ぬことだ」
教室の何人かが嫌そうな顔をした。
心当たりがある顔だ。とても良い。
リゼが小さく言う。
「寮で放置すると、ほんと靴裏にくっつくんだよね」
「うん。棚の下にも溜まる」
と別の生徒。
ルドーは続ける。
「術は使われて終わりではない。
組んだ術式の抜け殻、結び損ねた糸、余った媒質、そういうものが滓として残る」
私は小さく頷いた。
「生活していれば出るごみみたいなものですね。
ただ、術のごみだから、放っておくと他の術にまで薄く干渉する」
「固まる」
とルドー。
「匂う。
床にこびりつく。
隅に溜まる。
だから術者は、使ったあとに責任を持って回収する」
つまり、使い終わったら片付けろ、だ。
あまりにも生活そのものすぎる。
———
ルドーは教卓の上に、小さな光球術を一つ組んだ。
淡い青い光がふわりと浮かぶ。
その周囲には、目を凝らすと細かな砂みたいな光の粒が漂っていた。
「これが術滓だ」
そう言って、ルドーは光球を消した。
光球そのものは消える。
でも、その周囲に漂っていた粒だけは、その場に薄く残った。
水晶板の上にうっすら粉を振ったみたいだった。
リゼが嫌そうに言う。
「見るとやっぱり嫌だね」
「普段見えにくいだけで、出てるからな」
私は言った。
「術は終わっても、痕跡は残る」
ルドーが一枚の箒札を出した。
「通常はこれで掃く」
札をひらりと振ると、床に残った術滓が、すっと吸い寄せられて札の中へ収まる。
かなり便利だ。
人類は掃除すら魔法に頼る。
だが、ルドーは次に、もう一度光球術を組み上げた。
今度はまだ光球が生きているうちに、箒札をその近くへ差し込む。
途端に光球がぶれた。
輪郭が崩れ、青白い光がぱちぱちと不安定に跳ねる。
「うわ」
と教室のあちこちで声が上がる。
ルドーはすぐに札を引き、光球を消した。
「実行中に掃くな」
短く、だが強い。
「まだ使っている術の一部まで持っていく。
術が乱れる。
崩れる。
下手をすれば変な形で止まる」
私は小さく頷いた。
「使い終わってから片付ける。
実行中に回収すると危ない。
基本はそこですね」
ルドーは何も言わなかった。
たぶん正解だ。
———
ここで、後ろの方の生徒が手を挙げた。
おそるおそる、ではない。
“分かってる話だけど、自分はやらかしたことがある”顔だ。
「寮の部屋で、片付けを数日後回しにしたことがあります」
はい、来ました。
教室の何人かが苦い顔をする。
これもあるあるらしい。
「どうなった」
ルドーが聞く。
「最初は床の隅に白い粉があるだけだったんです。
でも、そのうち棚の下とか寝台の脚のまわりとかに固まって、靴の裏にくっついて、部屋じゅうに広がって……」
リゼが顔をしかめる。
「うわ」
生徒は続ける。
「しかも片付けても片付けても、なんか減らなくて。
毎日ちょっとずつ増えてたみたいで、最後、部屋全体が甘く腐ったみたいな匂いになりました」
前の方で別の生徒がぼそっと言った。
「それ、うちの部屋の隣でもあった」
お前ら、もう少しちゃんと生きろ。
私は言った。
「使うたびに少しずつ残って、誰も回収してなかったんですね」
「はい……」
「それが続くと、いつか場が埋まる」
私は断定した。
教室の何人かがちょっと遠い目をした。
心当たりあるな、お前ら。
ルドーが黒板の端に書く。
『残り続ける滓は、やがて場を食う』
かなり良い。
腹立つが良い。
———
私は前に出て、補足することにした。
「術滓は、一つ一つは小さいです。
でも使うたびに少しずつ残る。
そして残ったものが掃かれないと、見えない場所から場を取り続ける」
黒板に簡単に書く。
使う
残る
掃かない
また使う
また残る
「これが続くと、いつか困る。
今すぐ爆発はしない。
でも部屋が術滓まみれになるし、他の術の邪魔にもなる」
リゼが言う。
「地味に最悪だね」
「うん。地味に最悪」
派手に死ぬより、こういう地味な最悪の方が現実では困る。
———
ルドーは次に、机の上へ小さな術球をいくつも並べた。
白い球。
青い球。
緑の球。
それぞれの間に、細い光の糸みたいなものが伸びている。
「次の問題だ」
ルドーが言う。
「忘れる人間に片付けを任せるな。
どうする」
はい、自動化ですね。
人類は面倒を必ず仕組みに押しつける。
教室のあちこちから声が出る。
「自浄術」
「寮にもある」
「うちの実家の工房も入れてる」
そう、みんな知っている。
使ってもいる。
私はその球と糸を見た。
「自動で掃く仕組みを作る」
「そうだ」
ルドーは頷く。
「だが、何でも掃けばいいわけではない」
私は前に出た。
「まだ使っている術滓まで掃うと危ない。
だから、自動で片付けるなら、まだ要るかどうかを見分ける必要がある」
リゼが球の間の糸を指した。
「この糸は?」
「繋ぎです」
私は答えた。
「術Aが術Bを使っている。
その間、Bの滓はまだ要る。
誰かにつながっている滓は、勝手に掃けない」
後ろの方の生徒が言う。
「じゃあ、繋がってる数を数えればいいんですか」
「その考え方はあります」
私は頷いた。
「何本つながっているかを見て、ゼロになったら掃く。
一番わかりやすいのはそれです」
ルドーが黒板に書く。
『繋ぎ数え』
かなりそのままだが、分かりやすい。
———
前列の生徒が言った。
「自浄術って、だいたいそれですよね?」
「そういう作りのものは多い」
私は答えた。
「だから速い。
でも、速いからといって全部うまくいくわけじゃない」
ここでルドーが実演した。
白い術球Aと青い術球Bを出す。
AからBへ糸が一本伸びる。
「AがBを使っている。
この時、Bはまだ要る」
次に、糸を切る。
Bはふわりと色を失い、机の上に薄い粉みたいな術滓だけを残した。
「繋ぎが切れた。
なら掃ける」
かなりわかりやすい。
だがその次が本番だった。
ルドーは今度、術球Aと術球Bを互いに糸でつないだ。
AからB。
BからA。
外からの糸はない。
「では、これはどうだ」
教室が少し静まる。
見た感じ、誰も使っていない。
でも球同士は互いに結ばれている。
前列の生徒が言う。
「……まだ繋がってるから、掃けない?」
「そうだ」
ルドーが答える。
「誰も使っていないのに、互いに“相手が必要だ”と言い張って残る」
後ろの方から声が飛ぶ。
「うわ、実習棟の隅で見るやつだ」
「たまに二つくっついたまま残ってる」
うん。やっぱり知ってるんだよな。
知ってるが、仕組みまでは考えてない。
リゼが顔をしかめた。
「かなり面倒」
「かなり面倒だよ」
私は答えた。
「輪になってつながってるせいで、繋ぎ数えだけでは消えない」
ルドーが黒板に、短く書いた。
『輪繋ぎは、繋ぎ数えでは死なない』
強い。
今日のルドー、だいぶ調子がいいな。嫌だな。
———
私はその輪繋ぎの術球を見ながら補足した。
「だから、数えるだけでは足りないことがあります。
本当に必要なところから辿って、届くものだけ残す。
それ以外は掃く、というやり方がいる」
前の方の生徒が言う。
「辿る?」
「根元から見るんです」
私は答えた。
「今まさに使っている術、術者の手元にある術、そういう“生きてる側”から印をつけていく。
印がついたものは残す。
どこからも届かなかったものは掃く」
リゼが少し目を丸くした。
「繋ぎの数じゃなくて、“ちゃんと今の世界につながってるか”を見るんだ」
「そう」
その理解はかなりいい。
ルドーが言う。
「数えるのは速い。
だが、輪になると残る」
「印をつけるのは少し手間です。
でも輪繋ぎも掃ける」
私は続けた。
教室の空気が、少しだけ変わった。
知ってる現象の、知らない仕組みが見えた時の顔だ。
こういう瞬間は、授業としてかなり美味しい。
———
そこへ、教室の外からまた足音がした。
嫌な予感しかしない。
入ってきたのは、学校の管理担当だった。
顔があまり良くない。
つまりまたどこかが地味に壊れている。
「ルドー先生、ユウ先生」
はい来ました。
「実習棟の洗濯場で、自浄術がうまく回っていません」
教室が少しざわつく。
「またか」
「洗濯場、たまに止まるよな」
「床の隅だけ変にざらつくときある」
うん。現象はもう生活の一部なんだよな。
管理担当は続けた。
「術滓が隅に固まって残る一方で、自浄術が走るたびに洗浄術が全部止まりまして……
洗濯中の生徒たちがかなり苛立っています」
ああ。
すごく嫌な壊れ方だ。
「止まるのに、片付かない?」
とリゼ。
「そうらしい」
私は答えた。
ルドーが腕を組む。
「繋ぎ数えで雑に掃いているか、
あるいは止める範囲が広すぎるか」
「両方かもしれませんね」
私が言うと、管理担当が青い顔で頷いた。
「たぶん……」
たぶんで済ませるな。
いや、済ませてるから来たんだな。
ルドーが私を見る。
「ユウ」
「はい」
「現場だ」
「はい」
「はいは一回だ」
「今のは一回です」
教室の何人かが笑った。
もう完全に定型句だな。最悪だ。
———
授業の終わり際、リゼが小さく言った。
「今日の話も、明日そのまま現場で出そうだね」
「たぶんそう」
「輪繋ぎで残るし、全部止めるし、床はべたべた」
「嫌すぎるな」
私は机の上の術球の残り滓を見た。
術は便利だ。
便利だが、使ったあとはちゃんと片付けないと、あとで別の形で面倒になる。
人類が道具を使う話って、だいたいそうだ。
世界は本当に最悪だ。
でも、少なくともどこが最悪かは、少しずつ見えてきている。




