第29話 肩書きだけ後から来る
学校に着いた瞬間、今日は授業じゃないな、と分かった。
廊下の空気が変だったからだ。
妙に静かで、妙に視線が多い。
事務室の前では書類の束が積まれ、教員らしき人間が早足で行き交っている。
こういう日はだいたい、誰かが制度を壊したあとだ。
そして、経験上、その“誰か”は私である可能性が高い。最悪だ。
隣を歩いていたリゼが、小さく言った。
「……なんか、ユウ見られてる」
「見られてるな」
「心当たりある?」
「多すぎる」
それはそれで問題だが、今は数えない方が精神衛生にいい。
教室へ向かおうとしたところで、事務室の扉が開いた。
出てきたのは教頭だった。眼鏡。無表情。書類の化身みたいな人だ。
「ユウ・サカモト」
「はい」
「来なさい」
はい、終わり。
朝から呼び出し。授業前。教頭直々。ろくでもない。
リゼが少しだけ不安そうな顔をする。
「……私も行く?」
教頭が即答した。
「来なさい」
リゼがぱちぱちと瞬きをする。
珍しく巻き添えだな。いや、いつも巻き添えか。
———
事務室の奥の会議室には、見慣れた顔が揃っていた。
教頭。
事務長。
教務主任。
それから王城側の書記官が一人。
そして、当然のようにルドー。
ルドーは椅子に座って腕を組み、まるで最初から全部知っている顔をしていた。
腹が立つので、たぶんそうなのだろう。
教務主任は細い指で書類の端をぴたりと揃えていた。
この手の人間は、紙の端が揃っていないだけで心が乱れるし、前例がないだけで世界が終わると思っている。
「座れ」
ルドーが言った。
「先生、今日は授業ですか」
「違う。制度だ」
ああ。授業より嫌なやつだ。
私は椅子に座った。リゼもその隣に座る。
教頭が手元の書類を揃え、こちらを見た。
「ユウ・サカモト。あなたは今の制度に収まっていません」
すごく真っ当なことを言われた。
「知ってます」
「でしょうね」
教頭は淡々としている。
「あなたは本校の特例編入生です。
ですが現状、学外の王城案件に継続的に従事し、機密性の高い事務と技術補助を行い、さらに授業への出席も不規則です」
事務長が書類を一枚めくる。
「成績評価が不能です」
王城の書記官が続ける。
「王城側から見れば、すでに現場要員です」
教頭が言う。
「学校側から見れば、もはや普通の生徒ではありません」
そこで教務主任が、待っていましたと言わんばかりに口を開いた。
「だからといって、特例をさらに積み重ねるのは賛成しかねます」
はい来た。
人類が組織を作ると、必ずこういう人が一人は生まれる。
「ユウ・サカモトが有能であることは認めます。
しかし、有能だからといって前例を曲げてよい理由にはなりません」
すごく嫌だが、すごく分かる物言いだ。
嫌な説得力がある。
教務主任はさらに続ける。
「生徒を教員相当として扱う前例はありません。
現場で役に立つことと、学校制度に組み込めることは別です。
例外を認めれば、後に続く者が出ます」
ルドーが短く言った。
「出んだろ」
「問題は可能性です」
教務主任が即答する。
うわあ、面倒くさい。だが仕事はできそうだな、この人。
私は小さく息を吐いた。
「つまり、何ですか。
私は便利に使うけど、肩書きはそのままにしておきたいと」
教務主任がわずかに眉を動かした。
「そうは言っていません」
「言ってることは近いです」
リゼが隣で少しだけ身を固くした。
空気がぴりついてきたな。よし、会議っぽい。最悪だ。
———
教頭が口を開こうとした、その時だった。
会議室の外でばたばたと足音がした。
事務室の職員が慌てて入ってくる。
「教頭先生、すみません! 玄関ホールの中央掲示盤が止まって、午前の授業案内が全部ずれて……!」
教頭がぴくりと眉を動かす。
事務長が天を仰ぐ。
ルドーは無反応。こいつは本当にこういう時だけ安定している。
「原因は」
教頭が聞く。
「授業割の札と講堂割の札が噛み合わなくなって、中央掲示盤が古い割り当てと新しい割り当てを交互に出してます! 術務室でも止められなくて……!」
会議室の空気が少しだけ重くなる。
職員は半泣きのまま続けた。
「盤面工房にも連絡しましたが、到着まで三時間はかかると……!
しかも術務室の方で、こういう時の非常運用手順が整っていなくて、手書きの仮掲示に切り替える段取りも決まってません!」
はい、地獄。
設備はある。担当もいる。外の工房も呼べる。
でも、いま壊れた時にどう授業を回すかは決まっていない。
人類の失敗としてかなり信頼できる形だった。
教務主任がすぐ言った。
「ならば午前の授業を止めるしか――」
「止める前に見ます」
私は先に言った。
教務主任が不満そうにこちらを見る。
「ユウ・サカモト、今は制度の話を――」
「分かってます。
だから、その制度の話が終わる前に、“こいつを普通の生徒として机に戻していいのか”がはっきりするんでしょう」
ルドーが短く言った。
「行け」
「先生、便利なところだけ話が早いですね」
「現場は待たん」
それはそうだ。
———
玄関ホールは、実に見苦しく壊れていた。
正面の中央掲示盤には、その日の全授業の案内が出るはずだった。
何限に何の授業があり、どの講堂へ行けばいいか。
本来なら登校した生徒も教員も、ここを一目見れば散っていける。
だが今は、その肝心の盤面が壊れている。
掲示盤の上では、
・初等術式学
・高等術式学
・東方術比較
・休講
・第一講堂
・第二講堂
が、一定間隔で入れ替わり続けていた。
生徒も教員も玄関ホールで立ち止まり、誰がどこへ行けばいいのか分からず、しかも全員が「たぶん自分は悪くない」と思っている顔をしていた。人類のいつもの顔だ。
「ユウ先生!」
誰かがそう呼んだ。
私は足を止めた。
「今なんて?」
呼んだのは若い補助教員だった。自分でも驚いた顔をしている。
「……いや、その……」
後ろからリゼが、ちょっと面白そうな声で言った。
「ユウ先生」
「やめろ」
「まだ先生じゃないもんね」
「まだって言うな」
ルドーが後ろで鼻を鳴らした。腹立つ。
中央掲示盤の脇には、術務室の担当が二人、青い顔で立っていた。
いかにも普段は設備を静かに回していて、こういう“手順の外側”に弱そうな顔だ。分かる。悪くない人たちなのだろう。たぶん。
「差し替えたの、誰ですか」
二人が同時に手を挙げた。
「授業割の札を更新したのは私です」
「講堂割の札を更新したのは私です」
はい、分かりました。
別々に動いて壊したやつですね。
近くで見ていた生徒が首を傾げる。
「授業割と講堂割って、何が違うんですか」
私は中央掲示盤の横板を軽く叩いた。
「授業割っていうのは、“何限に何の授業をやるか”の表です。
講堂割は、“その授業をどの講堂でやるか”の表です」
術務室の二人の方を見る。
「本来は、この二つが揃って初めて意味がある。
なのに片方ずつ更新した」
二人とも気まずそうな顔をした。
「……急な変更が多くて」
「普段なら、授業割を止めてから講堂割を入れ替える手順なんです。
でも今朝は掲示盤そのものの具合も少し怪しくて、盤面工房には連絡を入れてました」
もう一人が小さく続ける。
「ただ、工房の到着を待っていたら朝の授業が全部止まります。
だから、とにかく手元の端末で新しい札だけ先に書き換えて、差し替えようとして……」
私は頷いた。
「なるほど。
本体故障の疑いと、表示内容の更新を一緒に処理しようとして、順番を崩したわけですね」
私は掲示盤の側面を開け、中の札束を見た。
古い授業割、新しい授業割、古い講堂割、新しい講堂割、優先順位札。
全部ある。全部あるから壊れている。
「これ、片方ずつ入れ替えたせいで、掲示盤が“どっちを正しい状態とするか”決められてないです」
補助教員が聞く。
「どういうことです?」
私は中の札を指で示した。
「掲示盤から見ると、今ここには二種類の“正しさ”があります。
新しい授業割に合わせれば、古い講堂割と食い違う。
新しい講堂割に合わせれば、今度は古い授業割と食い違う」
リゼが小さく言った。
「つまり、片方だけ先に未来へ行っちゃってるんだ」
「そう」
私は頷いた。
「しかも、札を入れた順に反応するから、見るたびに違う方が勝つ。
だから表示が止まらない。
古い正解と新しい正解の間を行ったり来たりしてる」
術務室の担当が青ざめた顔で言う。
「……普段は、授業割を止めてから講堂割を入れ替える手順だったんです」
「でしょうね」
私は言った。
「普段の手順があったから、普段は壊れなかった。
でも今日は急いで、それを飛ばした」
担当が小さく俯く。
私は紙を引き寄せ、すぐに書いた。
・まず講堂割を止める
・次に授業割だけ新しい方へ揃える
・その後で講堂割を入れる
・最後に優先順位札を書き直す
「順番です。
全部いっぺんに変えようとするな。
掲示盤が“今は何が正しいか”分かる順に入れ直してください」
術務室の二人が頷く。
私はそのまま役割を振った。
「あなたは授業割だけ。
あなたは講堂割だけ。
確認は私が見る」
手が動く。
中央掲示盤の文字が止まる。
数秒後、板の上に正しい割り当てが静かに並んだ。
玄関ホールの空気が、一気に緩んだ。
「直った……」
「今日は第二講堂だったのか」
「危なかった……」
危なかったで済ませるな。だがまあ、済んだからいいか。
———
教頭たちは、少し遅れて玄関ホールへ来た。
静かになった中央掲示盤と、散っていく生徒たちと、私の前で縮こまっている術務室の二人を見て、状況をだいたい理解した顔をしている。
教頭が静かに言った。
「……なるほど」
事務長がため息をつく。
「今のを“生徒の手伝い”とは言いにくいですね」
王城の書記官が頷く。
「王城でも似たような処理を日常的にしていると聞いています」
ルドーが言う。
「聞くまでもない。見ただろう」
はいはい、そうですね。
教務主任は中央掲示盤を見ていた。
少し長めに黙ってから、ようやく言う。
「……少なくとも、通常の生徒として扱うのは無理がありますね」
しぶしぶだ。
だが、この一言で十分だった。
教頭が短く頷く。
「では、前例を作りましょう」
気持ちいい。
こういう瞬間のために人類の会議は存在するのかもしれない。いや、たぶん違うが。
———
会議室へ戻って、紙が改めて並べ直された。
教頭が正式な口調で言う。
「本校は、ユウ・サカモトを本日付で王国付特任講師として扱います」
事務長が補足する。
「学校籍は残します。
ただし通常の生徒としての単位管理からは外し、一部講義への出席義務と、必要に応じた講義補助・実演を任務とします」
王城の書記官が続ける。
「王城案件への協力は、正式な対外任務として扱います。
必要な守秘と権限も整備します」
教頭が締める。
「要するに、現実に合わせて肩書きを直します」
すごく真っ当だ。
真っ当すぎて文句が言いにくい。
私はしばらく黙ったあと、素直に聞いた。
「断れますか」
「断る理由はありますか」
教頭の返しが速い。嫌いじゃない。
「面倒が増えそう」
「増えます」
教頭は即答した。
この人、たまに誠実なんだよな。困る。
ルドーが腕を組んだまま言う。
「肩書きが後から来ただけだ。
やってることは昨日までと変わらん」
それを言われると、たしかにその通りだった。
「……分かりました」
私がそう言うと、リゼが少しだけ肩の力を抜いたのが分かった。
ああ、こいつ、学校から完全に消えるんじゃないかと少し思ってたな。
———
話が終わり、会議室を出る頃には、もう昼が近かった。
廊下で、何人かの生徒がこちらを見てひそひそ話している。
感じが悪いというより、好奇心だ。まあ、分かる。
その中の一人が、おそるおそる言った。
「……ユウ先生?」
私は反射的に顔をしかめた。
「やめてくれ」
リゼがすぐ横で、すごく楽しそうな声を出す。
「ユウ先生」
「お前は本当にやめろ」
「でも先生でしょ、今から」
「肩書きだけだ」
「先生っぽいこと、前からしてたし」
それはそうなんだよな。腹立つことに。
ルドーが後ろから来て、あっさり言った。
「諦めろ。呼ばれる」
「先生、助ける気あります?」
「ない」
知ってた。
———
昼休み、校舎裏のベンチでリゼと二人になった。
リゼはパンをちぎりながら、少しだけ真面目な顔で言った。
「……ちょっと安心した」
「何が」
「学校からいなくなるわけじゃないんだなって」
私は少しだけ黙った。
そう言われると、こっちも少しだけ安心する。
完全に王城側へ引っ張られるのは、それはそれで居心地が悪かった。
「まあ、学校は学校で残るらしい」
「うん。それがいい」
リゼはそこで、ふっと口元を緩めた。
「でもこれからは、先生って呼ばなきゃね」
「呼ぶな」
「ユウ先生」
「呼ぶなって」
「特任講師様」
「余計悪い」
リゼが笑う。
こういう笑い方をされると、まあいいか、と思ってしまうから困る。
その時、ポケットの端末が震えた。
AIエージェント:「観測:あなたの肩書きは制度上、昇格しました」
「うるさい」
AIエージェント:「補足:彼女はあなたが学校に残ることを喜んでいる可能性が高いと考えられます」
「お前は本当にそこばっかりだな」
リゼがじとっとこちらを見る。
「また変なこと言ったの?」
「言った」
「何て」
「聞かない方が平和」
「最近それ多い」
「知ってる」
リゼは少しだけ笑って、それ以上は聞かなかった。
助かる。
———
午後、玄関ホールを通ると、午前の補助教員が深々と頭を下げてきた。
「ありがとうございました、ユウ先生」
やめろ、本当に。
私は軽く手を上げるだけで通り過ぎた。
後ろでリゼが、肩を震わせて笑っている。最低だ。
ルドーは廊下の窓際に立っていて、こちらを見もせずに言った。
「どうだ」
「何がですか」
「肩書きがついた感想だ」
私は少し考えた。
「……後から書類が追いついた感じです」
「そうだろうな」
ルドーは頷いた。
「制度はいつも後から来る。
現場が先に壊して、後で名前がつく」
嫌なほど筋が通っている。
私は小さく息を吐いた。
「やることは変わらないんですよね」
「変わらん」
ルドーは即答した。
「問いは投げる。
お前は具体を示せ。
授業も現場も、その形で行く」
ああ。
ここで次の型まで決めるのか。仕事が速いな、この人は。腹立つけど。
「了解です、先生」
「はいは一回だ」
「今のは一回です」
ルドーがほんの少しだけ口元を緩めた気がした。気のせいかもしれない。気のせいでいい。
———
その日の帰り道、校門を出るころには、王都の空が少し赤くなっていた。
肩書きは変わった。
生徒ではなくなった。
でも学校には残るし、ルドーは相変わらず面倒で、リゼは相変わらず少し意地悪で、たぶん明日もまた何かが燃える。
つまり、世界はほとんど変わっていない。
ただ、昨日まで曖昧だった居場所に、今日ようやく名前がついた。
それだけだ。
それだけなのに、少しだけ落ち着くのが腹立たしい。
リゼが隣で言った。
「ねえ、ユウ先生」
「だからやめろって」
「特任講師様」
「もっとやめろ」
リゼは笑った。
私も、少しだけ笑った。
肩書きだけ後から来る。
人類の制度はだいたいそういうものらしい。
最悪だ。
でも、悪くない。




