第26話 今日よりマシを置け
王都の大広場は、まだ祭りが始まっていないのに、すでに疲れていた。
いや、広場そのものが疲れるわけではない。
疲れているのは、その周りで走り回っている人間たちだ。
「屋台は南側へ寄せろ!」
「いや、入口が詰まる!」
「貴人の導線を空けろ!」
「空けたら客が流れないだろ!」
「水場は中央だ!」
「馬鹿か、泥だらけになる!」
朝から、実に景気のいい地獄だった。
私は広場の端で立ち止まり、しばらくその光景を眺めていた。
眺めているだけで疲れる。現場ってすごい。
「……帰りたい」
隣のリゼが即答する。
「でも、来たばっかりだよ」
「だからだよ」
帰りたい時ほど、たいてい来たばかりだ。
ルドーが少し後ろから歩いてくる。
「いい眺めだな」
「先生、こういうの見て“いい”って言えるの、だいぶ壊れてますよ」
「現場が燃える寸前の顔は、授業になる」
最悪だ。
でも今日は、だいぶ本当に授業になりそうだった。
広場の中央では、交流祭の責任者らしい男が、両手で頭を抱えていた。
立派な服を着ているのに、顔だけは完全に現場の顔だ。良い。
「ユウ・サカモト殿!」
やっぱり見つかった。
最近、王都で目立ちすぎでは?
「助けてください!
全員の希望を入れようとしたら、何も決まりません!」
「それはそうでしょうね」
私は素直に答えた。
責任者は涙目で言う。
「商人は人通りを欲しがる!
警備は見通しを欲しがる!
東方の使節は落ち着いた動線を欲しがる!
宰相は“見栄え”を欲しがる!
でも広場は一つしかないんです!」
「広場が二つあれば解決したのに」
「しません!」
知ってる。
でも、こういう時は雑な冗談を挟まないと自分が死ぬ。
———
私は広場を見回した。
すでにいくつかの屋台札が置かれている。
警備詰所の印。
水桶の予定地。
休憩所の布。
仮設舞台の柱。
だが、全部が中途半端だった。
入口に屋台が寄りすぎて、客の流れが詰まりそう。
警備は片側に偏っている。
水場は遠い。
舞台の前に人が溜まると、東側の通路が死ぬ。
ひどい。
でも、どれも“少しだけ分かる”配置だから、余計に直しづらい。
リゼが小声で言う。
「全部ちょっとずつ悪いね」
「うん。
だから一番直しづらい」
完璧に悪ければ捨てればいい。
少し良いものは、みんな未練がある。
責任者が言った。
「何通りか試したんです!
でも、良くすると別のどこかが悪くなる!」
「それもそうでしょうね」
私はまた素直に答えた。
責任者が泣きそうな顔になる。
いけない。もう少し希望のある顔をしないと。
「でも、解けます」
私がそう言うと、責任者はぴたりと止まった。
「……本当ですか?」
「完璧には無理です」
「だめじゃないですか!」
「でも、今よりマシにはできます」
責任者は、数秒だけ考えたあと、がっくり肩を落とした。
「……今は、それで十分です」
良い。
現場が現実を受け入れた。ここからは早い。
———
私は広場の隅に、大きな見取り板を立てさせた。
ルドーが授業で使っていたのと似たやつだ。
そこに、今ある配置を雑に写す。
入口。
舞台。
屋台。
警備。
水場。
休憩所。
貴人の通路。
そして、その横に、評価する項目を並べた。
入口の詰まり
客の流れ
警備の見通し
水場への近さ
舞台の見栄え
東方使節の導線
責任者が目を丸くする。
「全部見るんですか?」
「全部見ます。
でも一度に完璧にはしません」
私は木札を手に取った。
「まず、今の配置を“初期配置”とします」
責任者がうんうんと頷く。
今の時点で“初期”と呼んでしまうのは強い。まだ誰の案も採用されていないことになるからだ。
商人の代表らしい男が近づいてきた。
「今の案は、私が考えたんだが」
「知りません。もう初期配置です」
「ひどくないか?」
「公平ですよ」
だいたいこういう時は、全員に少しずつ失礼な方が平和だ。
リゼが少し笑った。
ルドーは腕を組んだまま何も言わない。珍しい。まあ、今日は観察役なのだろう。
———
最初の変更は、入口近くの人気屋台を一つ、少しだけ引くことだった。
「それを動かしたら売上が落ちます!」
商人代表が叫ぶ。
「たぶん少し落ちます」
私は言った。
「でも入口が詰まったら、もっと落ちます」
責任者が見取り板を見る。
入口の通路幅を、少しだけ広げて描き直す。
「……これは、少し良い」
「はい。少し良いです」
次に、警備詰所を少し中央へ寄せる。
「見通しは良くなるが、威圧感が出る!」
今度は東方使節側の案内役が文句を言う。
もっともだ。
「じゃあ半歩戻します」
私は本当に半歩だけ戻した。
責任者が板に印をつける。
「……これも、少し良い」
「そういうのを積みます」
私は言った。
「大改善は狙いません。
今日は小改善を拾います」
ルドーが小さく言う。
「授業通りだな」
「先生、褒めるならもっと感じよくしてください」
「無理だ。教師だからな」
最悪だ。
———
しばらくは、その繰り返しだった。
屋台を一つ動かす。
通路が広がる。
別の場所が少し死ぬ。
じゃあ休憩所をずらす。
今度は舞台の見栄えが少し悪くなる。
なら舞台を半歩引く。
警備を一つずらす。
誰かが文句を言う。
別の誰かが「それは前よりマシだ」と言う。
大事なのは、誰も満足しないが、誰も完全には反対しない地点を探すことだった。
責任者が、少しずつ顔を上げ始める。
「……これなら、人は流れるか?」
「前よりは」
「警備は?」
「前よりは」
「見栄えは?」
「まあ……前よりは」
責任者はその言葉を何度か繰り返し、小さく笑った。
「前よりは、か。
今日の合言葉だな」
私は頷いた。
「完璧を探すと、日が暮れるので」
責任者が真面目な顔で言う。
「もう昼過ぎです」
「知ってます」
だから焦っているんだよ、こっちは。
———
だが、途中で行き詰まった。
どこをどう動かしても、東側の通路だけが妙に詰まる。
屋台を離すと売上が落ちる。
舞台を引くと見栄えが落ちる。
警備を増やすと圧迫感が出る。
全員が、そこで少し黙った。
責任者が言う。
「……ここが限界では?」
私は見取り板を見た。
たしかに“近場のまあまあ”にハマっている感じがある。
ルドーが、そこで初めて口を開いた。
「熱が足りんな」
ああ、来た。
「先生、言いたいだけですよね」
「だいたいそうだ」
最悪だが、意味は分かる。
私は板の前で腕を組んだ。
近くの良い答えにハマっている。
なら、一回だけ悪い変更を踏む必要がある。
リゼが横で言った。
「気まぐれ、入れる?」
私は頷いた。
「入れる」
責任者が不安そうな顔をする。
「今ここでですか?」
「今ここでです。
親の案は、だいたい親の癖を引きずるので」
「親……?」
「元の配置です」
私は水場の札を取った。
そして、誰も候補にしていなかった広場の北東の角へ持っていく。
商人代表がすぐに叫んだ。
「遠い!」
警備も言う。
「見張りづらい!」
案内役も言う。
「使節の導線から外れる!」
そう。今だけ見れば悪い。
でも私は、そのまま休憩所を水場の近くへ寄せ、屋台の並びを半回転させ、東側の通路を少しだけ曲げた。
すると。
広場の流れが、急にほどけた。
入口からの人波が、舞台前へ真っ直ぐ突っ込まず、水場側へ少し逃げる。
休憩所も静かになる。
東方使節の導線は広場の外周を使えば、むしろ楽になる。
警備は角から広く見渡せる。
責任者が、しばらく黙ってから言った。
「……なんでだ」
良い質問だ。
「人の流れを、真ん中で処理しようとしすぎてたんです」
私は見取り板を指した。
「混む場所に便利なものを全部置くと、そこが死ぬ。
少し離して、流れを逃がした方が全体はマシになる」
リゼが少しだけ誇らしそうに言った。
「気まぐれ、当たったね」
「うん。今回は」
気まぐれは外すこともある。
でも今日は当たった。良かった。
———
そこからは早かった。
“北東角の水場”を前提に、全体を少しずつ整える。
屋台を二つ寄せ、ひとつ離し、警備を一つずらし、舞台の前を少し広げる。
誰かが文句を言うたびに、責任者が先に言うようになった。
「完璧ではない。
だが今朝よりマシだ」
良い。
現場の言葉になった。
最後に、貴人の導線だけ確認した。
東方使節団は、広場の外周から入り、舞台脇を通り、展示台へ抜ける。
商人の喧騒を完全には避けられないが、押し合いにはならない。
水場も遠すぎない。
責任者が見取り板を見て、深く息を吐いた。
「……これで行く」
周囲が静まる。
商人代表も、警備も、案内役も、全員ちょっと不満そうだ。
でも、誰も本気では反対しない。
それで十分だ。
「決まりましたね」
私が言うと、責任者は少し笑った。
「決まった。
最善かどうかは知らん。
だが、もう始められる」
始められる。
それが、今日の勝ちだった。
———
夕方、交流祭はちゃんと始まった。
屋台から煙が上がる。
舞台の音も届く。
人は詰まりすぎず、警備は死んだ顔をしていない。
水場にもちゃんと人が流れている。
完璧ではない。
でも、広場はちゃんと“祭り”に見えた。
東方の使節団も歩いている。
カガリが一度こちらを見て、小さく頷いた。
たぶん、悪くないということだろう。
あの人の頷きはだいたいそういう意味だ。
責任者が、焼き串を一本持ってきた。
「ユウ殿。礼だ」
「ありがとうございます」
「君、最適化とかいう魔法を使ったのか?」
「使ってません。
ただ、完璧を諦めただけです」
責任者はしばらく黙ってから、妙に納得した顔で言った。
「……それが一番難しいな」
たしかに。
———
ルドーが後ろから現れた。
「どうだ」
「今朝よりだいぶマシです」
「最適か?」
「知りません」
「そうだろうな」
ルドーは頷く。
「だが、祭りは始まった」
「はい」
「なら勝ちだ」
その言い方は、かなり良かった。
悔しいが、かなり。
リゼが私の袖を引く。
「ユウ」
「うん」
「今日の、好き」
「どこが」
「完璧じゃなくても、ちゃんと始まったところ」
その感想は、少し嬉しかった。
「……そうだな」
私は広場を見た。
人が歩く。
湯気が立つ。
声が混ざる。
全部がちょっとずつ不完全で、でも、ちゃんと動いている。
たぶん、世界ってこういうものなのだろう。
最悪だ。
でも、悪くない。




