第255話 言葉らしい、というだけの本
休みの朝は、急がなくていい。
急がなくていい朝に限って、卓の上に、急がないと書いた手紙が載っている。
封書が一通。
厚い紙で、角がきちんと揃っていて、封の蝋が小さい。
差出人の字は、一画ずつ止めてある。
「アンセルさんから」
リゼが、窓辺で茶を淹れながら言った。
こちらを見ずに言った。
「昨日の夕方、届いてた。休みの日に、すみませんって、最初に書いてあると思う」
「読んだのか」
「読んでない。封、開いてないでしょ」
「じゃあ、なんで分かる」
「アンセルさんだから」
開けると、最初に書いてあった。
休みの日に、すみません。
「……書いてある」
「でしょ」
リゼは、茶碗を二つ、卓に置いた。
置いてから、私の手元の便箋をのぞいた。
「なんて?」
「文物院に、見てほしい本がある。読めない本だ、と」
「また読めないの」
「また読めないらしい」
便箋は、二枚あった。
二枚目は、ほとんどが詫びだった。
急がないこと。断ってくれてかまわないこと。ただ、今月のうちに、一度見てもらえると助かること。
急がない人の字で、急いでいる理由が、一行だけ書いてあった。
今年、また来ました。
「何が来たの」
「書いてない」
リゼは、自分の茶碗を両手で包んだ。
包んだまま、しばらく湯気を見ていた。
「マリエさん、この前、言ってたよ」
「何を」
「アンセルさん、家でも本の話しかしないって。ご飯のときに匙を置くから、置いたらもう仕事の話だって分かるんだって」
「前に、見た」
「見たね」
リゼは、茶碗を卓に置いた。
置いて、私を見た。
休みの日の朝に、私の顔を、こういうふうに見る。
見られている間、私は、少しだけ居住まいを正す。
「行くんでしょ」
「……行っていいか」
「私も行く」
意外だった。
「休みだぞ」
「休みだから行くの。アンセルさんの仕事場、一回見てみたかったし」
リゼは、私の茶碗を、少しだけ私のほうへ押した。
「それに、ユウ一人で読めない本の前に置いとくと、晩ご飯に帰ってこないでしょ」
それは、そうだった。
———
王立文物院は、冬に来ると、外より中のほうが寒い。
石の建物である。
厚い壁が、夏の熱を入れない代わりに、冬の冷えを溜め込んでいる。
玄関の広間で、吐いた息が白くなった。
膠と、古い紙と、蝋の匂いがした。
それから、ほんの少しだけ、石の粉の匂い。
アンセルは、広間の奥の階段の下で待っていた。
外套を着ていない。
この建物の冷えに、体の方が慣れているらしい。
袖の先は、今日も灰色だった。
「休みの日に、すみません」
「書いてありました」
「書きました」
アンセルは、リゼにも頭を下げた。
「リゼさんまで。……寒いところで、すみません」
「寒いのは、知ってて来ました」
リゼは、外套の前を合わせた。
「アンセルさんの仕事場、見たかったんです」
「仕事場、というほどのものでは」
アンセルは、少し困ったように笑った。
笑って、階段を下りはじめた。
「地下です。石の棚とは、別の部屋になります」
———
地下の廊下は、灯りが低かった。
壁に沿って、扉が並んでいる。
扉ごとに、番号の板が掛かっている。
夏に聞いた三百の記憶石は、手前の扉の奥にあるらしい。アンセルは、そこを通り過ぎるとき、一度だけ扉に目をやった。
「移し替えは、進んでいますか」
「錆びるのが速い種類から、二十九。読む盤が残っている種類から、十二」
即答だった。
数える癖のある人である。
「読めなかったものも、記録しています。どの盤で、何度、どう試して、読めなかったか」
「助かります」
「マリエが、毎週、見に来ますので」
見に来るのか、見張りに来るのか。
たぶん、両方である。
いちばん奥の扉の前で、アンセルは止まった。
鍵を二つ使って、開けた。
「書庫です」
———
書庫の中は、廊下より少しだけ暖かかった。
部屋の隅に、小さな火鉢が置いてある。
紙は、冷えすぎても湿りすぎても傷む。だから、この部屋だけは、人の都合ではなく紙の都合で温めてある、とアンセルは言った。
棚に、背の低い箱が並んでいた。
どの箱にも、札が下がっている。
部屋の真ん中に、閲覧の卓が一つ。
卓の上に、柔らかい布が敷いてあった。
アンセルは、棚の中段から、箱を一つ下ろした。
両手で下ろして、両手で卓に置いた。
夏に石を見せてくれたときと、同じ手つきだった。
「文物院には、説明のつかないものがいくらでもあります」
アンセルは言った。
「これも、その一つです」
箱の蓋を開けた。
薄紙をめくった。
本が、一冊入っていた。
———
大きな本ではなかった。
手のひらを二つ並べたくらいの大きさ。
厚みは、親指の長さほど。
表紙は柔らかい革で、角が丸くすり減っている。
表にも、背にも、何も書いていなかった。
「オルネ手稿、と呼んでいます」
「オルネ」
「百年ほど前に、これを文物院へ売った古書商の名です」
アンセルは、本を布の上に置いた。
「書いた者の名ではありません。中身の名でもありません。中身を言える者が、誰もいないので。……売った人の名が、そのまま付きました」
私は、少しのあいだ、その名を口の中で転がした。
ふつう、本の名は、中身か書き手から来る。
中身も書き手も分からない本には、最後に手を触れた商人の名しか、付けるものが残らない。
名前が、そのまま、分からなさの記録になっている。
「開けても、いいですか」
「どうぞ。開くのは、私がやります」
アンセルは、薄い木のへらを、表紙の下に差し入れた。
———
最初の頁は、草の絵だった。
一本の草が、根から花まで、頁いっぱいに描いてある。
根は、太く、絡まっている。
葉は、ぎざぎざで、ところどころ、色が塗ってあった。緑と、茶と、少しだけ赤。
そして、絵のまわりを、字が埋めていた。
細い筆の、丸い字だった。
輪があり、鉤があり、背の高い字と、低い字がある。
行は、まっすぐに揃っている。
字と字のあいだに、ところどころ、隙間がある。語の切れ目のように見える。
知っている字は、一つも無かった。
王国の字ではない。
東方学府の字でもない。
南の商都で見る帳簿の字でも、北方学都の古い碑の字でもなかった。
「どこの国の字でもない、と言われています」
アンセルが言った。
「百年以上、誰も読めていません」
アンセルは、頁をめくった。
草。
また草。
また草。
どの草も、丁寧に描いてある。
そして、どの草も、見たことがない形をしていた。
「草の頁が、いちばん多いです」
「この草は、どこかに生えていますか」
「生えている、と言う人もいます。こじつけだ、と言う人もいます」
アンセルは、またへらを差し入れた。
「似ている草なら、いくらでもあります。似ている、というだけです」
———
頁が進むと、絵が変わった。
丸い図が出てきた。
中心から四方へ線が引かれ、縁に沿って、星の形の小さな印が並んでいる。
ところどころに、人の顔のついた月のようなもの。
「星の頁です」
次に、薬壺のような器が並ぶ頁が出た。
根や葉の切れ端が、器の横に描いてある。
「薬の頁」
そして、頁がいきなり、人で埋まった。
女の人たちだった。
裸で、ふっくらとして、皆、腰まで水に浸かっている。
水は、緑色に塗られていた。
水は、筒のような管を通って、頁の上から下へ、池から池へ流れている。
リゼが、小さく声を出した。
「お風呂だ」
「湯の頁です」
アンセルは、少しも照れずに言った。
百年分の学芸士が、この頁で照れずに来たのだと思った。
「皆、楽しそうではないんです。楽しそうでも、苦しそうでもない。ただ、浸かっています」
たしかに、そうだった。
顔に、表情が無い。
浸かっていることだけが、描いてある。
私は、頁の端を見ていた。
左の頁の下で、緑の水が、管に入る。
管は、頁の綴じ目のほうへ伸びている。
綴じ目のところで、絵が切れていた。
右の頁を見た。
綴じ目の側に、管は無かった。
右の頁の池は、上から別の管で水を受けていて、左から来た水は、どこにも続いていなかった。
次の頁をめくってもらった。
そこにも、続きは無かった。
水が、途中で消えている。
私は、何も言わなかった。
言うほどのことかどうか、まだ分からなかった。
「最後に、短い段の頁があります」
アンセルが言った。
「段の頭ごとに、星の印が一つ付いています。絵は、ほとんどありません。字だけが、短く、段になって並んでいます」
「全部で、何頁ですか」
「二百四十と少し。……ただ、もとはもっと多かったはずです。綴じ目を見ると、何枚か抜けた跡があります」
———
アンセルは、本を閉じた。
閉じる前に、表紙の内側の、皮の縁を指さした。
「皮の年代は、測ってあります」
私は、口を開きかけた。
どうやって年代を決めたんですか、と訊こうとしていた。
夏に、同じことを訊いた。
あのとき、この人は、黙った。
「皮の年代です」
アンセルは、私が訊く前に言った。
「書かれた年代では、ありません」
私は、口を閉じた。
「北方学都の術士に、端を一欠けだけ渡して、測ってもらいました。皮が作られたのは、百五十年ほど前から、百八十年ほど前のあいだだそうです。……ですが、皮が作られた年に、字が書かれたとは限りません」
「古い皮に、あとから書くこともできる」
「できます」
アンセルは、本の表紙に手を置いた。
「前に、教わりましたので」
リゼが、私を見た。
言いたいことは分かった。
夏、この人は、台帳の欄に書かれた場所を、年代だと思ってきたと言った。
今日は、私が訊く前に、測れたものと測れなかったものを、分けて言った。
半年で、文物院の言い方が変わっている。
「……教えた甲斐があります」
私は言った。
「教わった甲斐もあります」
アンセルは、少しだけ笑った。
———
「この本は、夏の石とは、違う話です」
私は言った。
アンセルが、こちらを見た。
「違いますか。どちらも、読めないものですが」
「読めない理由が、違います」
私は、本の表紙を見た。
「夏の石は、読む盤が失われて、読み解きの術を知っている人がいなくなって、読めなくなっていました。盤を見つけて、決まりを知っている人を見つければ、読めた。実際、読めました」
「はい」
「この本は、そうではない」
私は、閉じた本の小口を見た。
紙の縁が、年月で波打っている。
「字は、はっきり書いてあります。錆びてもいない。消えてもいない。読む道具も、要りません。目で見えます。……それでも、読めない」
「ええ」
「あれは、鍵をなくした話です」
私は言った。
「これは、鍵穴があるのかどうかも分からない話です」
アンセルは、しばらく黙っていた。
「鍵穴が、無いかもしれない」
「無いかもしれないし、あるかもしれない。あるとして、どんな鍵が合うのかも分からない。書いた人が、どう読ませるつもりだったのかも分からない。読ませるつもりがあったのかも」
リゼが、外套の袖の中で手を組んだ。
「夏の石は、対訳石を作れば、次から読めるって話だったよね」
「そうだ」
私は、リゼに言った。
それから、アンセルのほうへ向き直った。
「対訳石が、ありません」
私は言った。
「同じことが、別の言葉でも書いてあれば、片方から片方が読めます。知っている言葉で書かれたほうを手がかりに、知らない言葉のほうを読める。……この本には、それが無い。同じ字で書かれたものが、ほかに一枚も出ていない」
「一枚も、出ていません」
「答え合わせをする外が、どこにも無いんです」
———
卓の端に、文物院の術盤が一台置いてあった。
閲覧の記録をつけるためのものだという。
古くはない。去年、入れ替えたばかりだ、とアンセルが言った。
「訳しの生成変換器も、つながっています」
アンセルは言った。
「判じ屋の人たちに、勧められて」
「判じ屋」
「この本を読もうとしている人たちです。王都だけで、百人はいます。学者もいますし、商人も、退役した術者も、学校の学生もいます。……文物院では、昔から、そう呼んでいます」
「判じ物の、判じ」
「はい。判じ物を解く人たち、です」
悪い呼び名ではない、と思った。
謎々を解く人。
解けると信じて、解こうとしている人。
「変換器に、掛けたことは」
「判じ屋の人たちが、何度も。私は、掛けたことがありません」
アンセルは、術盤から少し離れた。
「学芸士は、中身には手を出さないことにしています。出しても、分かりませんので」
私は、術盤の前に座った。
リゼが、私の後ろに立った。
「前は、止まったんじゃなかった?」
リゼが言った。
「何語か分からないと、訳す前で止まるって。ポンテラのとき、乗合馬車の広場で止まってたって、ユウ言ってたでしょ」
「止まった」
私は言った。
「何語かを先に決めて、それから訳す。何語か決められないものは、最初の段で止まって、そこから先へ行かなかった」
「今は」
「去年、変換器が新しくなった。……止まらなくなったと、聞いてる」
———
本の字は、術盤に打ち込めない。
どの字も、術盤の字の中に無いからである。
だから、一頁ぶんを、私が紙に書き写した。
湯の頁ではなく、最初の草の頁にした。
字の数が、少なかったからである。
書き写すのは、思ったより手間がかかった。
輪のある字と、輪の閉じきっていない字は、同じ字なのか。
背の高い字に、小さな鉤が付いているのと、付いていないのは。
二つの字が、くっついて書かれているのは、二つの字なのか、一つの字なのか。
いちいち、決めなければ書けなかった。
私は、決めながら書いた。
決めたことを、どこにも書かずに。
書き写した紙の字を、王国の字の中から、形の似たものに一つずつ置き換えて、術盤に打った。
輪のある字には、輪のある字を。背の高い字には、背の高い字を。
どれにどれを当てるかも、私が決めた。
そして、訳しの生成変換器に、渡した。
何語から、とは、指定しなかった。
指定できなかった。
———
術盤が、少し考えた。
考えて、止まらなかった。
文字が、流れはじめた。
この根を冬に掘り、水に晒して三晩置く。
苦みが抜けたなら刻み、乾かして壺に収める。
熱の出た子には、ひとつまみを湯に溶いて与える。
夏の根は効かない。根は冬にのみ力を蓄える。
滑らかだった。
王国語として、どこもおかしくない。
草の頁に書いてあって、少しも不思議ではない文だった。
根の絵の頁に、根の話が出ている。
リゼが、後ろで、息を吸った。
アンセルは、何も言わなかった。
ただ、術盤のほうへ、半歩だけ近づいた。
私は、表示の四行を見ていた。
一拍、息が止まった。
止まった理由は、自分でも、すぐには言えなかった。
言えないまま、止まっていた。
AIエージェント:「観測:あなたは今、期待しました」
「黙れ」
声が、思ったより低く出た。
アンセルが、こちらを見た。
リゼは、見なかった。
見ないで、私の肩に、手を置いた。
最悪だ。
見られていた。
———
私は、四行をもう一度読んだ。
滑らかである。
滑らかすぎる、とまでは言えない。
ただ、滑らかである。
読めない本から、滑らかな文が出た。
それは、良い知らせのように見える。
だが、変換器が滑らかな文を出すのは、いつものことである。
滑らかな文を出すのが、変換器の仕事だからだ。
中身が正しいかどうかと、文が滑らかかどうかは、別の話である。
前にも、何度も、同じことを言った。
言った本人が、今、一拍、それを忘れた。
「リゼ」
「うん」
「さっきの草の頁の、字の形を、俺が紙に並べる。目をつぶって、適当に指さしてくれないか」
「適当に?」
「適当に。どこでもいい」
リゼは、私の顔を見た。
それから、何も聞かずに、目をつぶった。
———
私は、さっき書き写した紙の横に、字の形を一つずつ書き出した。
輪のある字。輪の閉じていない字。背の高い字。鉤の付いた字。低い字。
二十と少し。
さっき私が、これは一つの字だ、と決めたものだけ。
リゼの指が、紙の上に落ちた。
背の高い字。
私は、それを、新しい紙に書いた。
また落ちた。
低い字。
書いた。
また落ちた。
また書いた。
五つ書くごとに、隙間を一つ入れた。
それも、決めたのは私である。
百と少し、並んだところで止めた。
草の頁一枚ぶんより、少し短い。
「もういいぞ」
リゼが、目を開けた。
「何これ」
「でたらめ」
「でたらめだね」
「でたらめだ。誰が書いたものでもない。俺とリゼが、今、並べた」
私は、それを、さっきと同じ置き換えで、術盤に打った。
同じように、何語から、とは指定しなかった。
変換器に、渡した。
———
術盤が、少し考えた。
考えて、止まらなかった。
湯は、肘を浸して熱を感じぬほどに温める。
まず足を浸し、ついで腰まで沈め、百を数えるあいだ動かぬこと。
湯の上がりには冷えた水を飲み、横になって眠れ。
眠れぬ夜が三晩続くなら、湯を一段ぬるくせよ。
同じくらい、滑らかだった。
リゼが、黙った。
アンセルが、術盤の表示を、しばらく見ていた。
見て、それから、閉じた本を見た。
「……これは、どの頁の話ですか」
「どの頁でもありません」
私は言った。
「今、私とリゼが、でたらめに並べた字です」
AIエージェント:「観測:訳出しました。先ほどと同様に読解可能です」
私は、それを見ていた。
AIエージェント:「補足:いずれの訳についても、確からしさは示せません」
「先に言え」
AIエージェント:「提案:確からしさを示す方法を、ご用意しましょうか」
「……それも、先に言え」
———
変換器は、壊れていない。
頼まれた仕事を、していた。
読めない字の並びを渡されて、訳せ、と頼まれた。
だから、訳した。
いちばんそれらしい文を、作って出した。
前の変換器は、何語か分からないと、最初の段で止まった。
止まった機械の前で、人は立ち往生した。
立ち往生して、困った。困ったが、少なくとも、訳せていないことは分かった。
今の変換器は、止まらない。
止まらずに、それらしい文を出す。
それらしい文が出ると、人は、訳せたと思う。
「あのときは、止まりました」
私は言った。
「今度は、止まりません。……止まらないほうが、悪い」
アンセルが、術盤から目を上げた。
「止まらないほうが、ですか」
「止まれば、訳せていないことが分かります。止まらなければ、分かりません。出てきた文が、訳なのか、作り話なのか、出てきた文を見ても区別がつかない」
私は、二つの表示を並べた。
根の話と、湯の話。
「訳したんじゃない」
私は、自分に言った。
「当てにいったんだ」
リゼが、二つの表示を見比べた。
「でたらめのほうも、ちゃんと湯の話になってるね」
「根の頁から取った字なのにな」
「お風呂の頁に入れておいたら、誰も気づかないかも」
「気づかない」
私は言った。
「それが、いちばん怖い」
———
アンセルが、棚の下の引き出しから、紐で括った束を出してきた。
紙の束である。
厚い。
手紙もあれば、表もある。字の綺麗なものもあれば、走り書きもある。
「判じ屋の人たちが、文物院に送ってきたものです。百年分ではありませんが、この四十年ほどの」
「全部、取ってあるんですか」
「取ってあります」
アンセルは、束の紐を解いた。
「学芸士は、読めないものを、読めないまま大事にします。……読めない本について書かれたものも、同じように」
ここにも、保管がある。
束の中身は、ほとんどが、数だった。
どの語が何回出るか。
どの字が語の頭に来て、どの字が語の尻に来るか。
一つの語は、字がいくつでできているか。
草の頁の語と、湯の頁の語は、どれくらい重なるか。
判じ屋たちは、読めない本を、読めないまま、数えてきたのである。
四十年。
百人が。
数えたのは、私ではない。
私は、それを読むだけでよかった。
「表示盤を、借りてもいいですか」
「壁に、小さいのが」
閲覧の卓の奥の壁に、古い表示盤が一枚掛かっていた。
閲覧者の名と時刻を書くためのものらしい。昨日の名前が三つ残っていた。
アンセルが、それを消した。
———
判じ屋たちの数を、一枚ずつ読んだ。
読みながら、表示盤に書いた。
言葉らしいところ
・よく出る語と、稀な語の並び方が、王国語と同じ形をしている
・草の頁には草の頁の語があり、湯の頁には湯の頁の語がある
・同じ語が、決まった頁に偏って出る
「一つ目」
私は言った。
「どんな言葉でも、よく出る語は少なくて、稀な語は多いです。いちばんよく出る語が、二番目の倍くらい出て、二番目が三番目より少し多くて、と、なだらかに減っていく。王国語でも、東方学府語でもそうです。数え方の形が、言葉ごとにほとんど変わらない」
「この本も」
「同じ形をしています。判じ屋の誰かが、三十年前に数えて、それから何人も数え直して、毎回同じ形になっている」
アンセルが、束の中の一枚を指した。
古い紙だった。
「それを最初に数えたのは、元は粉屋だった人です。手紙が、二十通残っています」
「二つ目は、絵と語の癖です」
私は、表示盤の二行目を指した。
「草の頁で多く出る語は、湯の頁ではあまり出ません。湯の頁で多く出る語は、星の頁では出ない。……言葉なら、そうなります。草の話をしているときは、草の言葉が出る」
「三つ目は」
「同じ語が、ある頁の中にだけ固まって出る。話の中身を背負っている語は、そういうふうに出ます。『根』という語は、根の話をしている頁にだけ、何度も出る」
リゼが、腕を組んだ。
「でたらめなら、そうはならない?」
私は、リゼのほうを向いた。
「ならない。でたらめなら、どの語も、どの頁にも、同じくらい散らばる」
「じゃあ、言葉なんじゃない?」
「ここまでなら、そう言いたい」
私は、表示盤の下半分に、書き足した。
言葉らしくないところ
・次の字が、当てやすすぎる
・語の長さが、揃いすぎている
・字の置き場所が、決まりすぎている
・消した跡が、一つも無い
———
「一つ目」
私は言った。
「王国語の文を、一字だけ見せられて、次の字を当てろと言われたら、なかなか当たりません。次に来られる字が、たくさんあるからです。この本は、当たります。一字見せられると、次の字が、だいたい分かる。二字見せられると、もっと分かる」
「当たるのは、良いことでは」
「言葉としては、当たりすぎるのは変です。当たりすぎる言葉は、伝えられることが少ない。次が分かっている字は、書かなくても同じなので」
アンセルは、少し考えて、頷いた。
「二つ目。語の長さです。王国語なら、一字の語もあれば、十字の語もあります。この本の語は、ほとんどが、四字から六字のあいだに収まっている。短いのも長いのも、ほとんど無い」
「三つ目」
私は、さっき書き写した紙を持ち上げた。
「この輪のある字は、語の頭にしか来ません。この鉤の付いた字は、語の尻にしか来ない。字ごとに、立っていい場所が決まっている。王国語にも、そういう字はいくつかありますが、こんなに多くない」
そして、四行目を指した。
「四つ目。二百四十頁、書き損じが、ほとんど無いんです」
アンセルが、閉じた本を見た。
「……ありません」
「削った跡も、線を引いて消した跡も、上から書き直した跡も」
「判じ屋の人たちが、何度も探しました。私も、探しました。……ほとんどありません」
「人が、自分の言葉で、考えながら二百四十頁書いたら、どこかで間違えます。間違えて、消して、書き直す。それが無い」
リゼが、小さく言った。
「写したから、とか」
「それは、ありうる。ほかの何かから、丁寧に写したなら、書き損じは減る。……ただ、写すときにも、人は間違える」
私は、表示盤の前から、一歩下がった。
上の三つと、下の四つ。
「どちらの証拠も、本物なんです」
私は言った。
「判じ屋の人たちが、何十年もかけて、何度も数え直して、毎回同じになっている。上の三つも、下の四つも。……だから、百年決まらない」
アンセルは、表示盤を見ていた。
「言葉だと言う人は、上を見せます。言葉ではないと言う人は、下を見せます」
「どちらも、間違っていません」
「どちらも、ですか」
「どちらも、見せているものは本物です。間違っているのは、片方だけ見せて、決まったと言うときだけです」
———
ふと、束の中の一枚に目が止まった。
草の頁の絵を、写したものだった。
隅に、小さく書き込みがある。
見分け術で、字の形を三十に仕分けた。
別の紙には、こう書いてあった。
見分け術で仕分けると、二十五。人の目で分けると、二十二。
私は、その二枚を並べた。
それから、さっき、自分が書き写した紙を見た。
輪のある字と、輪の閉じきっていない字。
私は、同じ字だと決めた。
くっついた二つの字。
私は、二つだと決めた。
そう決めて、二十と少しの字に分けた。
見分け術は、三十に分けた。
別の人は、二十二に分けた。
「……ああ」
声が出た。
リゼが、こちらを見た。
「どうしたの」
「俺も、さっき、やってた」
最悪だ。
でたらめを並べる前から、私は、もう一つ決めていた。
———
「数える前に、もう決めてしまっていることがあります」
私は言った。
アンセルが、束から顔を上げた。
「この形は、一つの字か、二つの字か。この輪は、閉じていないだけの同じ字か、別の字か。ここの隙間は、語の切れ目か、筆が紙から離れただけか」
私は、さっきの紙を、表示盤の下に掲げた。
「さっき私は、この本の頁を一枚、書き写しました。写しただけのつもりでした。でも、写すためには、全部を決めなければいけなかった。……決めて、決めたことを、どこにも書かずに写しました」
「決め方を、変えたら」
「数が変わります」
私は、表示盤の下の四行を指した。
「くっついた形を二つの字だと数えれば、語は長くなります。一つだと数えれば、短くなる。隙間を全部、語の切れ目だと見れば、語の数が増えて、一つずつは短くなる。半分だけ切れ目だと見れば、減って、長くなる」
「語の長さが揃っている、というのも」
「数え方次第で、揃い方が変わります。次の字が当てやすい、というのも。字の数をいくつに分けたかで、当てやすさは変わる。よく出る語と稀な語の並び方も、何を一つの語と数えたかで変わります」
アンセルは、何も言わなかった。
表示盤の上の三つと、下の四つ。
どちらも本物である。
ただ、どちらも、ある数え方の上で、本物なのである。
———
「字起こし、と呼んでいます」
アンセルが、しばらくして言った。
「この本の字を、一つずつ字として数えて、語の切れ目を決めて、書き写したものを。判じ屋の人たちは、そう呼んでいます」
「字起こし」
「判じ屋の人たちは、ほとんど、一つの字起こしを使っています」
アンセルは、束の底のほうから、厚い綴りを一冊、引き抜いた。
表紙に、年が書いてあった。
二十年前だった。
「前の学芸士と、判じ屋の何人かが、八年かけて作りました。全部の頁を。……それからは、皆、これを使って数えています。自分で一から字起こしする人は、ほとんどいません。二百四十頁ありますので」
「皆、これで数えた」
「はい。この束の数も、ほとんどが、これを元にしています」
私は、その綴りの表紙を見た。
王都中の判じ屋が、百人、四十年かけて数えてきた。
何度数え直しても、毎回同じになった。
同じになるのは、当たり前である。
同じ字起こしの上で、数えていたからだ。
「写す作業じゃないんです」
私は言った。
「字起こしは、もう、読み方を決めてしまっている作業です」
リゼが、外套の袖から、手を出した。
「聞き書きみたいね」
「聞き書き」
「お母さんの煮込みを、紙に書き取ったことがあるの。お母さんは『このくらい』としか言わないのに、私が『大匙一』って書いちゃった」
リゼは、指で、小さな匙の形を作った。
「書いたのは私なのに、次の年には、お母さんの料理帳に大匙一って書いてあることになってた。お母さんも、それで作ってた」
「それだ」
「味、ちょっと違ったけどね」
アンセルが、小さく笑った。
笑ってから、二十年前の綴りの表紙に、手を置いた。
「……では、この本で、百年、皆が数えてきたものは」
「この本と、二十年前の誰かの決め方を、合わせたものです」
前に、刻塔の針の話をした。
等しさは、いつも、外から借りている。
数え方も、そうなのだと思った。
数え方も、いつも、誰かが決めている。
そして、決めた誰かは、この本を書いた人ではない。
———
私は、閉じた本を見た。
革の表紙。
波打った小口。
背の綴じ糸は、新しかった。
新しい、というのは、本に比べてである。
それでも、糸の色が、皮の色より明らかに明るい。
「この綴じ糸は」
「百二十年ほど前に、一度、綴じ直しています」
アンセルは言った。
「文物院へ来る前です。売った古書商の、さらに前の持ち主のときに。糸が切れて、頁がばらばらになっていたのを、どこかの本綴じの職人が綴じ直した、と記録にあります」
「ばらばらだったものを」
「はい」
私は、何も言わなかった。
さっき、湯の頁で、水が途中で消えていた。
決めているのは、字の数え方だけではない。
頁の並びも、誰かが決めている。
そして、それを決めたのは、書いた人ですらない。
綴じた人である。
それ以上は、まだ考えなかった。
考えるには、材料が足りなかった。
———
書庫の扉が、二度叩かれた。
アンセルが、鍵を開けた。
マリエだった。
外套の肩に、雪が少しだけ乗っている。
手に、紙の束を抱えている。
角が、そろっていた。
「やっぱり、ここにいたのね」
マリエは、私とリゼを見て、少しだけ眉を上げた。
「休みの日に、ごめんなさいね。……この人、書いたでしょう、最初に」
「書いてありました」
「書いたのね」
マリエは、閲覧の卓の端に、紙の束を置いた。
置いてから、表示盤を見た。
上の三つと、下の四つ。
見て、座り直した。
「もう、そこまで行ったの」
「行きました」
「じゃあ、話が早いわ」
マリエは、束のいちばん上の一通を、アンセルのほうへ滑らせた。
「来たわよ。今朝」
アンセルは、封書の字を見た。
見て、目を閉じた。
閉じて、開いた。
「……今年、四件目です」
———
「四件目」
私は言った。
「何の、ですか」
「解けました、という申しです」
アンセルは、封書を開けずに、卓に置いた。
「この本が、読めた、と。文物院に、毎年、何件か届きます。今年は、三月に一件、五月に一件、先月に一件。……今朝で、四件目です」
マリエが、束の中から、別の紙を三枚出した。
前の三件の、受け付けの控えらしい。
「三月のは、退役した術者の方。古い軍の符丁で書かれていて、符丁表を見つけた、という申しだったわ」
「どうなりましたか」
「符丁表の出所を訊いたら、ご自分で作ったものだったの。ご本人は、作ったのではなく、思い出した、とおっしゃっていたけれど」
マリエは、二枚目をめくった。
「五月は、学校の学生さん。字の形を数に置き換えて、星の頁の数が、暦になっている、と」
「暦に」
「暦にもなるし、税の帳簿にもなるし、という話を、学芸士の方がしたら、来なくなったわ」
マリエは、三枚目を見た。
見て、少しだけ口を結んだ。
「先月のは、夕刻報せに載ってしまったの」
「載った」
「『百年の謎、解ける』。商都の学者さんが、南の古い言葉で読める、と。……文物院が受け付けて、まだ一頁も確かめないうちに、報導社が先に聞きつけて」
「訂正は」
「載ったわ。三日後に。小さく」
マリエは、三枚を束に戻した。
「最初の報せを読んだ人の、たぶん半分も、訂正は読んでいないわね」
人類は、謎が解けた報せは覚えている。
解けていなかった報せは、だいたい覚えていない。
———
「それで」
マリエは、今朝の封書に指を置いた。
「四件目は、ご本人が持ってくるそうよ。三日後に。訳が、四十頁分」
「四十頁」
「添え状には、二年かけて、全部の頁を自分で字起こしした、と書いてあるわ」
アンセルが、顔を上げた。
「全部を、自分で」
「全部を、自分で、だそうよ」
アンセルは、二十年前の綴りを見た。
それから、封書を見た。
二十年、一つしか無かったものが、もう一つ、届くかもしれない。
そういう顔だった。
マリエが、私を見た。
「ユウさん。三日後、来られる?」
「来ます」
「文物院には、こういう申しを受ける様式が無いの」
マリエは言った。
「断る様式も無いわ。だから毎回、学芸士が一人で読んで、一人で疲れて、一人で手紙を書いて、終わり。……この人が、四件目でそれをやると、たぶん年を越せないの」
アンセルは、否定しなかった。
———
書庫を出るとき、マリエが振り返った。
閉じた本は、もう箱の中だった。
表示盤の七行は、まだ消していない。
「それで、ユウさんの見立ては」
マリエは言った。
「読めるの、これ」
私は、表示盤を見た。
上の三つ。
下の四つ。
どちらも本物で、どちらも、二十年前の誰かの数え方の上に乗っている。
それから、自分の書き写した紙を見た。
でたらめの百字と、それから出てきた、湯の入り方の四行。
「言葉らしい、というだけの本です」
私は言った。




