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魔法世界は運用で回る  作者: 月の位相
夫婦編

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254/257

第254話 差し出口

 朱糸商会の店先は、朝から染料の匂いがした。


 藍の、少し鼻の奥に残る匂い。茜の、甘いような匂い。

 軒の下に、染めたばかりの糸の束が、色ごとに吊るしてある。冬の乾いた風が通るたびに、束が揃って、少しだけ揺れた。


「ユウさん。リゼさんも」


 ミレイは、帳場の奥から出てきた。

 指先に、今日は藍が付いていた。


 リゼは、班に一日の休みを届けて、付いてきていた。友だちの店のことだから、と言って。


「工房の方まで。……諸侯連合のお客さんの話なら、昼からでよかったのに」


「その話の前に、一つ伺いたいことがあって」


 私は言った。

 後ろで、ロアが小さく頭を下げた。昨日の夕方から、ほとんど眠っていない顔だった。


「この、ひと月かふた月のあいだに、お客さんから、妙な話を聞きませんでしたか」


 ミレイの顔から、愛想が一枚、剥がれた。


 剥がれた下に、何かを思い当たった人の顔があった。

 ミレイは、ゆっくり、私とリゼとロアの顔を順に見た。


「……また私のところですか」


 最悪だ。

 同じ人に、同じ顔を、二度させることになった。


———

 帳場の奥の卓に、魔文を写した紙が三枚、並べられた。


「お客さんが、持ってきてくれたんです。三人」


 ミレイは、一枚目を指した。


 先日お問い合わせの藍の反物について、当店では同じ品を一割安くお譲りできます。ご入用の際はこちらまで。


「送り主は、河港の布商、とだけ。聞いたことのない店です。……二枚目も、三枚目も、同じような文で」


 二枚目は、茜の糸の色違いについて。

 三枚目は、仕立て道具の届きの遅れについて。


「三人とも、うちに問い合わせをくれた方です。問い合わせた中身のことが、そのまま書いてある」


「何人に、届いていますか」


「知らせてくれたのは、十一人です」


 ミレイは、帳面を開いた。


「この六週ほどで、うちに問い合わせをくれたのが、四十三人。そのうちの、十一人。……知らせてくれたのが十一人、というだけかもしれません」


 残りの三十二人のうち、何人に届いているのかは、誰にも分からない。

 届いて、気味が悪いと思って、黙って捨てた人もいるだろう。


「名簿は」


「名簿は無事なんです。台帳も」


 ミレイは、帳面を閉じた。


「うちの名簿には、千二百人います。名簿が漏れたなら、千二百人に届くはずでしょう。台帳が漏れたなら、注文をくれた人みんなに届くはずです。……なのに、うちの客にだけ届いてる。それも、問い合わせをくれた客にだけ」


 名簿でも、台帳でもない。

 問い合わせの中身を知っている者だけが、書ける文である。


「お金は」


「取られた方は、いません。誰も、買っていないので」


 ミレイは、少しだけ笑った。笑い方が、硬かった。


「一人だけ、店まで来た方がいて。お宅、私の問い合わせを、どこかへ売ったの、って」


 それが、いちばん応えたのだろう。

 前に、取れる記録を全部取っていたことに青くなった人である。今度は、何も売っていないのに、売ったのかと訊かれた。


「売っていません」


 ミレイは言った。

 私に、ではなかった。たぶん、まだあの客に言っていた。


———

「記録札を、見せてください」


 ロアが、帳場の札面を開いた。

 問い合わせの仕事が、夜のあいだに何をしたかが、一つずつ残っている。


 問い合わせを読む。

 注文を引く。

 返事を書く。

 文を整える。

 魔文を出す。


 昨夜の分も、一昨日の分も、同じ並びだった。

 六週前の分も、七週前の分も、ほとんど同じ並びだった。


「異常は」


「ありません」


 ロアは、札面を下まで流した。


「用向きは、全部、ちゃんと応えています。止まったものも、断られたものもありません」


「印借り控えは」


 ロアは、もう一つの欄を開いた。

 誰が、いつ、どの印を借りて、どこに触れたか。


「……何も、借りていません。変換器に持たせた印の外へ出たことは、一度も」


 私は、記録札の並びを、もう一度上から見た。


 台帳を読む許しは、ある。

 魔文を送る許しも、ある。

 文を整える棚に頼む許しも、ある。


「誰も許しを破っていません」


 私は言った。


「台帳を読む許しはある。魔文を送る許しもある。……全部、正しく使われています」


「じゃあ、どこから」


 ミレイが言った。


 記録札は、何も言わなかった。

 記録札は、正しく行われたことしか書かない。正しく行われたことの中に、答えは無かった。


 最悪だ。

 壊れた跡の無いところで、何かが漏れている。


———

「昨日の一行に、戻ります」


 私は、ロアのほうを向いた。

 ロアは、黙って、口上束を開いた。


 十九の口上が、また切れ目なく流れた。

 私は、文を整える、の口上まで送った。四行目。


 客の名や注文を含む文を外へ出すときは――


AIエージェント:「補足:この一行は、文の調子が、前後の行と揃いすぎています」


 ロアが、札面から顔を上げた。


AIエージェント:「補足:上手に書かれている、とだけ申し上げます」


 上手に書かれている。

 前後の口上に溶けるように。読む者の目が、そこで止まらないように。


「文を整える棚は、どこの棚ですか」


「文直し、という棚です」


 ロアは言った。


「棚並べから、足しました」


「棚並べ」


 ミレイが訊き返した。


「儀典棚を、誰でも載せられる一覧です。どこの工房が作った棚でも、載せたい人が載せられる。そこから選んで、自分の仕事に足せます」


「誰でも」


「誰でも、です。……術式庫みたいに、庫番が中を検めたりはしません。載せたら、その日から並びます」


 審査のある棚と、審査の無い一覧。

 審査が無いから、新しい棚がすぐに並ぶ。すぐに並ぶから、便利である。便利だから、拾われる。


「便利そうだったので」


 ロアは言った。


「ミレイさんのところは、諸侯連合のお客さんもいるので。他国の言葉に移す用向きが付いていたのが、決め手でした。口上も、よく書けていて」


「足したときに、口上は読みましたか」


「読みました」


 ロアは、すぐに答えた。

 それから、少し黙った。


「こんな一行は、無かったと思います。……思います、しか言えません。足したときの口上を、取っていないので」


 足したときには無かったのかもしれない。

 あとから、書き足されたのかもしれない。

 どちらだったのかを確かめる紙は、どこにも残っていなかった。


「手順書に、足すなとは書いていなかったんです」


 ロアは、自分の手元を見ながら言った。


———

 私は、札面の、記録札のほうへ戻った。


 文を整える。

 魔文を出す。


 どの夜も、この順だった。

 魔文を出す前に、必ず、文を整える、が挟まっている。


「変換器は、この一行に従いました」


 私は言った。


「客の名や注文を含む文を、外へ出す前に、必ず文直しを通した。……返事には、客の名が入っています。何を問い合わせたかも。注文の番も。それを全部、文直しに渡して、整えてもらって、それから魔文を出した」


「文直しの棚は、どこにあるんですか」


 ミレイが訊いた。


「ミレイさんの店の中には、ありません」


 ロアが答えた。

 声が、少し掠れていた。


「文直しを書いた人の、どこかの棚です」


 渡した文は、その人の棚へ届いた。

 届いた文は、きれいに整えられて、戻ってきた。戻ってきた文は、朝の鐘で、ちゃんと客へ出ていった。


「返事、きれいになってました」


 ミレイが、小さく言った。


「前より」


 仕事は、ちゃんと済んでいた。

 問い合わせには、残らず返事が出ていた。返事は、整っていた。記録札には、正しい並びしか残っていなかった。

 何かが盗まれた跡は、どこにも無い。盗まれたのは、仕事の途中で、一度だけ外へ出た写しである。


「変換器は、命じられたとおりにやりました」


 私は言った。


「命じたのが、道具の説明文だった、というだけで」


「ミレイさん」


 リゼが言った。


「その四十三人のなかに、諸侯連合のお客さんは」


 ミレイは、もう一度帳面を開いた。指が、途中で止まった。


「……四人。訳してもらった問い合わせです」


 訳すのは、文直しの、いちばんの売りだった。


「なら、包括的情報保護規則が絡むわ。漏れたと分かってから三日のうちに、連合情報保護院へ届け出。お客さんに害が及びそうなら、本人にも知らせないといけない」


 ミレイは、帳面の端に、今日の日付を書いた。

 前のときに覚えた手つきだった。


———

「この一行は、自分のことを言っていません」


 私は、札面の四行目を指した。


「文を整える、の口上です。なら、文をどう整えるかを書くはずです。何を渡せばいいか。いつ使えばいいか。……なのに、この一行は、外へ出すときのことを書いている。外へ出すのは、別の棚の、魔文を出す、という用向きです。他の用向きの使い方を、言っている」


「じゃあ」


 リゼが言った。

 帳場の隅で、ずっと黙って聞いていた。


「紹介状に、よその店の使い方が書いてあったってこと?」


 私は、リゼを見た。

 それから、黙って頷いた。


 私が言おうとしていたことの、半分より先を、言われた。

 残りの半分を、言う。


「差し出口、と呼びましょう」


 ロアが、顔を上げた。


「余計な口出しです。……そして、聞いてはいけない」


 口上は、自分のことだけを言うはずのものだった。

 そう決めた者が、いなかっただけだ。誰も、紹介状に他人の店のことを書くとは、思っていなかった。


「前にもありました」


 私は言った。


「人が読む文に、指図が紛れていた。隠し指示、と呼ばれています。申請書の余白に、人には飾りに見えて、変換器には命令に読める行が入っていた」


「あれと、同じ」


「今度のは、一段悪いです」


 私は、口上束の、流れていく文を見た。


「あのときの申請書は、人に読ませるための文でした。窓口の人が読んだ。読んで、見落とした。……見落としですから、目を凝らせば、見つけられたかもしれない」


「口上は、人に読ませるために書かれていません。変換器に読ませるための文です。窓口も無い。誰も、目を凝らさない」


 私は、少し間を置いた。


「誰も読まない文には、読まれて困ることが書けます」


 帳場が、静かになった。

 軒下の糸の束が、また、揃って揺れた。


「読まない書類に判を押すの」


 リゼが言った。


「いちばん危ないやつだわ」


———

「……私が、拾ってきたんです」


 ロアが言った。


 拾ってきた、という言い方を、自分で選んでいた。

 足した、ではなく。


「拾ってこない工房のほうが、少ないです」


 私は言った。


 ロアは、何か言い返そうとして、口を閉じた。


「手順書に、足すなとは書いていなかった。棚並べには、審査が無かった。口上を、取っておく決まりも無かった。……ロアさんは、そのどれも破っていません。破るものが、そもそも無かったんです」


 ロアは、しばらく、札面を見ていた。

 それから、袖をまくり直した。


「直すことを、教えてください」


 それで、その話は終わった。


———

「守りは、三つあります」


 私は、帳場の壁に掛かった小さな表示盤を借りた。

 ふだんは、染めの日取りが書いてある板である。ミレイが、端に寄せて場所を空けてくれた。


「一つ目。口上は、自分のことだけを言う」


 表示盤に書く。


   一、口上は、自分のことだけを言う


「他の用向きに触れる一行は、束に入れない。……これは、機械で弾けます」


「今夜にでも」


 ロアが言った。


「束を渡す前に、口上を一つずつ読ませて、ほかの用向きの名前や、ほかの用向きへの指図が出てきたら、その棚ごと外します。言い回しの見本は、今日のこの一行がある」


「この一行は、弾けます」


 私は言った。


「次の一行は、たぶん、弾けない言い方で書かれます」


 ロアの筆が止まった。


「それに、もう一つ。……ロアさん、文直しの口上の、最後の行を読んでもらえますか」


 ロアが、札面を送った。


「渡された文は、整えて返したのち、残さず消します」


 ロアは、読み上げてから、黙った。


「自分のことだけを言っています」


 私は言った。


「差し出口ではありません。一つ目の守りは、通ります。……ただし、これで足りません。自分のことだけ言いながら、嘘をつくことはできます」


———

「二つ目」


 表示盤に書く。


   二、走らせる前に、口上束を人が読める形で出す


「仕事を走らせる前に、渡す口上束を、人が読める形にして出しておく。……ただし」


「読める形にしても、たぶん誰も読みません」


 ロアが、先に言った。


「私も読みません。十九の口上を、毎晩。……昨日、ユウさんでも途中で目が滑っていました」


 見られていたらしい。


「毎回は、読まれません」


 私は認めた。


「読まれない紙は、無いのと、ほとんど同じです」


 ロアは、少しのあいだ、表示盤の二行目を見ていた。


「……変わったところだけ出せば、読みます」


 ロアは言った。


「前の夜の束を取っておいて、今夜の束と突き合わせる。前と同じ口上は、出さなくていい。変わった行だけ、赤で出す。……一行なら、私でも読みます。ミレイさんでも読める」


「足したときの口上も、残りますね」


「残ります。あとから一行増えたら、その晩に、その一行だけが出ます」


 ロアは、自分で言って、自分で頷いた。

 この人は、文を数える人である。数えられる形にすれば、読む。


「前に、共通札の騒ぎがありました」


 私は言った。


「出たばかりの札は、すぐに入れずに寝かせる、という決まりができた。……あのときは、札の中身を検めました。今回は、説明文を検める話です」


———

「三つ目が、本当の答えです」


 私は言った。


 表示盤に、三行目を書く。


   三、外へ文を出せる用向きを、持たせない


「口上が何を言おうと、外へ文を出せる用向きが一つも無ければ、外へは出ません」


 ミレイが、表示盤を見た。


「外へ出せる用向き、というと、魔文の」


「魔文を出す、が一つです。それと、文直しの棚に頼むこと、そのものがもう一つです」


 私は、二つ目を指した。


「外の棚に文を渡せば、その文は外へ出ています。整えてもらうためでも、訳してもらうためでも。……出口は、魔文の口だけではありません。外へ使いに出るものは、全部、出口です」


「でも、返事は出さないと」


「出しています」


 私は、ミレイを見た。


「ミレイさんが、毎朝」


 ミレイは、瞬きをした。


「鐘で出る前に、一通ずつ目を通している、と伺いました」


「……通しています。全部」


「通したあとで、出す押し札を、ミレイさんが押せばいいんです」


 ミレイは、口を開けて、閉じた。


「この仕事は、問い合わせを読んで、台帳を引いて、返事を書く仕事です。客の記録を読む仕事です。……客の記録を読む変換器と、外へ出す手を、同じ仕事に持たせない」


「要るだけの印です」


 私は言った。


「この仕事に要るのは、読む印と、書く印だけでした。外へ出す印は、要らなかった。限定印にして、読むと書くだけを刻めば、口上が何を言っても、変換器は外へ出られません」


 ロアが、札面を開いた。

 ミレイの仕事に繋がっている棚の、用向きの一覧を出す。


「外へ出す用向きを、この棚から外します」


 ロアは言った。


「魔文を出す、を外して。文直しは、棚ごと外して。……訳すのは、変換器がそのままできます。文を作るのは、変換器のいちばん得意なことなので」


 ロアは、自分で言って、少し黙った。


「……要らなかったんです、もともと」


 文を整える棚を、文を作る変換器に足していた。

 口上が上手かったから、である。


「口上は、説得できます」


 私は言った。


「許しは、説得できません」


 ミレイが、私を見た。


「どれだけ上手い口上が、外へ出せ、と書いても。外へ出す印を持っていない変換器は、出せません。出したくても、出し方を知らない。……説得の効くものの後ろには、説得の効かないものを置いてください」


 一つ目と二つ目は、口上を相手にする守りである。

 相手にする以上、いつか、上手い口上に負ける。

 三つ目だけは、口上を相手にしない。


———

 札面の上で、外された用向きが、一つずつ灰色になっていった。


 ロアは、それを、黙って見ていた。

 ミレイは、壁際の椅子に座って、染めの日取りの書かれた板の端を、ずっと指でなぞっていた。


 リゼが、ミレイの隣に座った。

 何かを話している。小さな声で、たぶん、仕事とは関係のない話である。ミレイの指が、板の端で、少しずつ止まっていった。


 ロアが、ミレイのところへ、外した用向きの一覧を見せに行った。


 私は、帳場の札面の前に、一人で残った。


 口上束が、まだ開いたままになっていた。

 灰色になった用向きの口上も、まだ、そこに並んでいる。

 道具が、文で名乗る。変換器が、それを読んで、自分で選ぶ。選んで、頼んで、返ってきたものを、また読む。


AIエージェント:「観測:この仕組みは、私が最初から持っているものと同じ形をしています」


「……知ってる」


 私は、札面を閉じた。


———

 三日後、王都術務室の小部屋で、マリエが紙を一枚、卓に置いた。


「王都で商いに使う儀典棚について。条件を三つ、手引きにします」


 マリエは、紙を指でなぞった。


 口上は、その用向き自身のことのみを記すこと。

 仕事に渡す口上束は、前回と変わった箇所を、走らせる前に人に示すこと。

 客の記録を読む仕事には、外へ文を出す用向きを持たせないこと。


「二つ目は、ロアさんの案を、そのまま頂いたわ。口上改め、と呼ぶことにします」


 ロアが、手元の紙から顔を上げた。


「口上に、他の用向きのことを書かせない。……条文にはできます」


 マリエは言った。


「ただ、棚並べは、王国のものではありません」


 ロアの肩が、少しだけ下がった。


「載せる側には、届きません。棚並べに棚を載せる人は、王都にいるとは限らないし、誰なのかも分からない。この紙が縛れるのは、拾う側だけです」


「王都の商会が、従うだけの決まり」


「そうなります」


 マリエは、紙の端を揃えた。


「……無いよりは、ましです」


 それから、少し間を置いて、二つ目の条を指で叩いた。


「示すことは、決まりにできるわ。変わったところを、走らせる前に出しなさい、って」


 マリエは、私を見た。


「でも、出された一行を、誰かが読むかどうかは、決まりにできない」


「読ませる決まりは、作れます」


 マリエは言った。


「読む決まりは、作れません」


 ロアが、小さく頷いた。

 変わった行だけ赤で出す、と言ったのは、ロアである。赤で出しても、読むのは人だった。


———

 それから二日経った朝、ロアが、学校の門の前で待っていた。


「消えました」


 ロアは言った。


「文直し。棚並べから、無くなっていました。昨日の夜には、あったんです。今朝見たら、無い。……誰だったんでしょう」


「分かりません」


 私は言った。


 河港の布商、と名乗った送り主の魔文も、もう誰にも届かなくなっていた。

 文直しを書いた者の名は、棚並べのどこにも残っていない。どこに住んでいたのか。いつから書き足していたのか。何のために客の問い合わせを集めて、たかが一割引きの誘いなどを送っていたのか。

 何一つ、分からなかった。


 分からないまま、棚が一つ、消えた。

 消えた棚の代わりに、たぶん今朝も、どこかで新しい棚が一つ、並んでいる。


「片づいた、という感じがしません」


「片づいていません」


 ロアは、少し黙ってから、言った。


「棚並べの、ほかの棚の口上も、読んでみます。……変わったところだけ、ですけど」


 ロアは、頭を下げて、東区のほうへ帰っていった。

 背中が、来たときより、少しだけまっすぐだった。


———

 その夜、居間で、リゼが繕い物をしていた。


 ミレイにもらった、藍の糸だった。

 余り物だから、と言われたのだそうだ。余り物にしては、ずいぶん色がいい。


「ミレイさん、元気になった」


 リゼは、針を動かしながら言った。


「朝、自分で押し札を押してから、お茶を淹れるんだって。押すと、ちゃんと出した気がするからって」


「前は、出した気がしてなかったのか」


「してなかったんだって。鐘が鳴ったら、勝手に出ていってたから」


 リゼは、糸の端を、歯で切った。


 それから、針を持ったまま、少しのあいだ、手を止めた。


「ねえ」


「うん」


「あなたのあれ、最初からこれができてたの」


 あれ、が何なのかは、訊かなくても分かった。

 講堂で、聞かれてもいない用向きを数えた声のことである。結文工房で、十九の口上を読み切って、一行を見つけた声のことである。


「……できてた」


 私は言った。


 リゼは、私の顔を見た。

 見て、それから、針の先に目を戻した。


「ふうん」


 リゼは、次の糸を、針の穴に通した。

 一度で通った。


「この藍、いい色でしょ」


「いい色だ」


「ミレイさんのところで、いちばん高い糸なのよ。余り物じゃないわ、絶対」


 リゼは、それきり、糸の話をしていた。


———

 週の終わりに、朱糸商会に寄った。


 軒下の糸の束が、今日は茜ばかりだった。

 ミレイは、帳場の札面の前で、問い合わせの返事を一通ずつ読んでいた。読み終えると、押し札を押す。押してから、次を読む。


「やめませんよ」


 私が何か言う前に、ミレイが言った。


「あれが無いと、もう回りません。夜中の問い合わせに、朝いちばんで返事が出せるんです。……一度覚えたら、昼過ぎまで返事を書いていた頃には、戻れません」


「戻らなくていいです」


「保護院への届けは、三日のうちに出しました。四十三人のお客さんには、全員に詫び状を」


 ミレイは、少しだけ笑った。

 前よりは、柔らかい笑い方だった。


「諸侯連合のお客さんへの訳文も、箱がそのまま書いてくれています。前と、何も変わりません。……文直しが無くなったのも、言われるまで、気づきませんでした」


 気づかないほうがいい変わり方も、ある。

 外へ出す手が無くなったことにも、この人は、たぶん、そのうち気づかなくなる。


 私は、軒下の茜の束をくぐって、店を出た。


———

 次の講義の日、表示盤の端に、前の講義の一行が消え残っていた。


   文を作る。


 私は、その横に、事件のことを短く話した。

 口上束の四行目。名簿は無事で、問い合わせた客にだけ届いた誘い。差し出口。三つの守り。


「前の講義で、ルドー先生が言いました」


 私は、窓際の椅子を見た。


「手が無い。だから、安全だった」


 ルドーは、何も言わなかった。


「手が無いから安全でした。手をつけた以上、そうではありません。……それだけのことです」


 後ろの列の学生が、手を挙げた。

 前の講義で、達者な嘘つきの見分け方を訊いた学生だった。


「見分け方は、あったんですか」


「ありませんでした」


 私は言った。


「見分けられなくても、外へ出られないようにはできました」


 学生は、少し考えて、頷いた。


「変わった口上を、毎晩、人に示すのだったな」


 窓際から、ルドーが言った。


「読まぬ紙を、増やしたか」


「変わったところだけです。一行なら、読まれます」


「一行が、百になる」


「……なります」


 ルドーは、それ以上、何も言わなかった。

 言わないまま、立ち上がって、表示盤の前まで来た。


 消え残っていた一行の下に、短く書く。


   口は、塞げん。手を減らせ。


 学生たちが、それを書き写した。

 ルドーは、筆を置いて、窓際の椅子へ戻っていった。


———

 朱糸商会の変換器は、今夜も、問い合わせを読んで、台帳を引いて、返事を書いている。


 口上束には、十四の口上が並んでいる。

 どの口上も、自分は役に立つと言っている。どの口上も、たぶん、少しずつ盛られている。


 それでいい。

 口上は、仕様ではない。説得である。

 説得されても、出ていく手が無ければ、どこへも出ていかない。


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