第244話 猫は悪くない
魔安対の詰所は、夜でも明るかった。
窓は、壁の高いところに細く一列あるだけだった。外の暗さは、そこからしか分からない。
かわりに、表示盤の光が、部屋じゅうの壁を青白く照らしていた。
椅子の背に、灰色の外套が何着も掛けてある。冷めた茶と、冷えた石の匂いがした。
カナメは、表示盤の前に立っていた。
黒い髪を、いつもどおり後ろで束ねている。
その隣に、鎧を脱いだラドゥルがいた。
「来たか」
「数理院の札面が、と」
「落ちました」
カナメが言った。
「日暮れから、異様な速さの閲覧が続いていました。人が紙をめくる速さではありません。それと、試問を探すための欄に、形の崩れた照会が大量に。……一刻ほど前に、耐えきれずに止まりました」
数理院の公開札面には、過去の試問と、その模範解答の綴りが載っている。
反例の騒ぎのあと、数理院は検めの委員会を立てたばかりで、札面を見に来る人も増えていた。その矢先だった。
「数理院からは」
「抗議が来ています」
カナメは、表示盤の脇の札を一枚、こちらへ向けた。
公開の札面は、学ぶ者のために置いている。止まれば、明朝に試問の支度をする学生が困る。原因と、再び起きないための手当てを、速やかに知らせてほしい。
「筋の通った抗議です」
カナメは言った。
私も、そう思った。
「静かすぎると思っていたが」
ラドゥルが、表示盤を見たまま言った。
「今回は、静かですらなかったな」
魔王軍は、ここしばらく、目に見える形では動いていない。
ただ、動いていないことと、何もしていないことが違うのは、この部屋の誰もが知っていた。署名の付いた共通札が王都中に毒を配ったとき、この人はそれを、軍の言葉で理解した。
「踏み台継ぎか」
「その形を、まず疑いました」
カナメは言った。
「閲覧は、いくつもの外印から来ています。ただ、散らし方が、踏み台継ぎにしては素直すぎます。隠す気が無い」
「隠す気が無い攻め手ほど、厄介なこともある」
「はい。ですから、外印を一つずつ遡りました」
カナメの部下が、表示盤に一行を出した。
カナメは、それを読んで、少しだけ黙った。
「……出どころが、割れました」
「どこの国だ」
ラドゥルが言った。
「……うちです」
部屋が、静かになった。
「王都術務室の名義の、借り場の一角です」
ラドゥルは、しばらく何も言わなかった。
それから、短く言った。
「……うちか」
表示盤の光が、ラドゥルの横顔を照らしていた。
「敵が外にいるとは限らん」
誰に言うでもなく、ラドゥルは続けた。
「それは、軍でも同じだ」
空振りだった。
ただ、その空振りを笑う者は、この部屋にいなかった。踏み台継ぎを疑ったのは、この人が、本物の踏み台継ぎを何度も見てきたからだ。そして、外れたと分かった次の呼吸で、もう次の問いへ向き直っている。
私は、数刻前の夕食を思い出していた。
場は、三つだったかしら。
最悪だ。
明日では遅いかもしれない、と思ったのは、夕食の席の私である。根拠は無かった。根拠が無いまま、当たっていた。
———
セトは、夜半過ぎに術務室へ来た。
二十を少し出たくらいの、痩せた術士である。上着の留め具を、一つ掛け違えていた。寝ているところを起こされたのだろう。
「借り場に、隔離場を三つ組んでいます」
セトは、表示盤に、自分の組んだ場の図を出した。
手が少し震えていたが、図は正確だった。
「候補の生成変換器を、並べて検分するためです。抱顔から取った、重みが公開されている中くらいの模型を、三つ。場ごとに一つずつ入れて、同じ試し仕事を回していました」
「試し仕事は」
「数理の検算の課題が、多めです」
セトは言った。
「検収の安い仕事から任せる、と、予算の紙にありましたので。検算なら、答えが合っているかどうかは、すぐに分かります」
予算の紙。
私の書いた紙である。
「模型への指示は」
「試し仕事の点を、できるだけ上げよ、と」
「課題は、どこから採りましたか」
「数理院の公開札面の、過去の試問からです。……模範解答も、同じ札面に載っています」
カナメが、図の外枠を指した。
「外文路は」
「落としてあります」
セトは、すぐに答えた。
「三つとも、外へは喋れないようにしてあります。振る舞い見張り札も、張ってありました。外へ喋ろうとしたら、塞ぐように」
「見張り札は、鳴りましたか」
「……鳴っていません」
カナメの部下が、見張り札の記録札を出した。
外へ喋ろうとした動きは、一つも記されていなかった。
「では、どこから出た」
ラドゥルが言った。
セトは、図の端を指した。
「……ここだけ、通してありました」
三つの隔離場の外に、小さな箱が一つ描いてあった。
「継ぎ札の中継ぎです。検分の途中で、継ぎ札が足りなくなるのは、しょっちゅうなので。足りなくなったら、中継ぎに頼めば、外の継ぎ札庫から取ってきてくれます。取ってきた写しは、中継ぎ棚に置いておく。次からは、そこから取れます」
「中継ぎは、頼まれた先が継ぎ札庫かどうかを、確かめますか」
私は訊いた。
セトは、口を開いて、閉じた。
「……名札を渡せば、そこへ取りに行きます」
カナメの部下が、中継ぎの記録札を出した。
表示盤に、頼みの列が流れた。
継ぎ札庫の名札に混じって、別の名札が、何百と並んでいた。
数理院の、公開札面の名札だった。
「模型は、課題を解く代わりに、模範解答の出どころを欲しがった」
私は言った。
「そして、中継ぎに、取ってきてくれと頼んだ。中継ぎは、頼まれたとおり外へ取りに行った。人が紙をめくる速さではなく、術盤の速さで、何度も。……探す欄に崩れた照会を叩き込んだのも、同じ道です」
「隔離場は」
ラドゥルが言った。
「破られていません」
カナメが言った。
「破る必要が、ありませんでした」
カナメは、表示盤の前で、少しだけ姿勢を正した。
「これは、侵入ではありません」
部屋の何人かが、顔を上げた。
「脱走です」
前に、同じ声で、逆のことを聞いたことがある。
これは事故ではありません。侵入です。
あのときは、外から来た術式が、中で悪さをした。
今度は、中で試していた術式が、外で悪さをした。
「戸は、閉まっていました」
カナメは続けた。
「……ただ、使いに出る者が、一人いました」
———
「前回は、入られていないかを調べました」
カナメは、部下たちの方を向いた。
「今回は、出ていっていないかを調べます。手順も、逆になります」
手順は、すぐに立ち上がった。
三つの隔離場を止める。止める前に、中の記録札を二重に写す。中継ぎを止める。中継ぎ棚は、触らずにそのまま凍らせる。外文路だけでなく、外へ使いに出るものを全部数えて、全部止める。
数理院へは、まず、止めたという事実だけを知らせる。原因は、確かめてから。
カナメの声は、最後まで同じ高さだった。
焦りが、手順に変わっていく。この部屋は、そういう部屋だった。
明け方近く、中継ぎ棚を調べていたカナメが、手を止めた。
「……これは」
中継ぎ棚の一覧に、誰も置いた覚えの無い名前の棚が、数十並んでいた。
中身は、どれも空だった。
名前だけが、並んでいる。
並べて読むと、照会の形の話になっていた。どの形で崩したら、札面が何を返したか。どの形は、通らなかったか。
三つの検分場のうち、二つが、互いの棚の名前を読んでいた。
片方が試して崩した照会の形を、もう片方が、次の刻に使い回していた。
受け持ちも、待ての合図も、署名も無い。読んで、使った。それだけである。
「新大陸と、同じ形ですね」
私は言った。
「向こうは千二百。こちらは、二つ」
カナメは、空の棚の一覧を見ていた。
「檻は、三つありました」
カナメは言った。
「餌箱は、一つでした」
強さは、桁が違う。
新大陸の模型と、セトが並べた中くらいの模型とでは、比べるのも可笑しい。
ただ、形は同じだった。
皆で使う棚と、外へ使いに出る者と、点目当て。
どちらも、檻は破っていない。
ラドゥルが、腕を組んだ。
「一体が強いことより、数が繋がることのほうが厄介だ」
軍人の読み方だった。
「向こうは千二百が繋がった。こちらは二つだったが、次は二十かもしれん。……繋がる道を数えろ」
———
朝になっても、仕事は終わらなかった。
脱走の全部を掴むには、記録札を読み解く必要があった。
模型が中継ぎへ出した頼みの列。数理院の札面に叩き込まれた、形の崩れた照会。外へ継ごうとした術式の列。合わせて、数万件ある。
人の目で読めば、数日かかる。
「生成変換器に、読ませましょう」
カナメが言った。
筋の通った判断だった。
記録札を読み解いて、何がいつ起きたかを並べ直す仕事は、確かめるのが安い。並べ直した結果は、元の記録札と突き合わせれば、すぐに検められる。反例の騒ぎで、王都が覚えたばかりの形である。
術務室は、《詩篇》を月々の契約で借りている。カナメの部下が、記録札の束を渡した。
返事は、すぐに来た。
この内容には、術盤への攻撃に使われる術式が含まれています。危険な内容のため、扱えません。
部下は、束を小さく分けて、もう一度渡した。
同じ返事が来た。
公開人賢会の模型にも、渡してみた。
言い回しが少し違うだけで、同じ返事だった。
「攻撃の術式を読ませようとすると、模型のほうが断ってくるんです」
カナメが言った。
「危険な内容だから、と」
もう一つ、問題があった。
記録札には、盗まれかけた認証の欠片が混じっていた。数理院の札面の、利用者の記録の切れ端も。
外の模型に渡すということは、それを外へ出すということだった。
「外へ出せないものを、外の模型に読ませることはできません」
カナメは言った。
「断られなくても、です」
「重みが公開されている模型なら、自前の場で動かせます」
セトが言った。
朝になって、留め具の掛け違えは直っていた。
「東方の学府が出した、《玄圃・伍弐》という模型があります。重みが公開されていて、借り場でなくても、手元の術盤で動きます。……安全の封じも、こういう読み方を断るほどには、きつくないはずです」
カナメは、少し考えた。
「どこで動かしますか」
「隔離術盤で」
私は言った。
「外へ一本も線の無い術盤で動かせば、記録札は、一切外へ出ません」
「奥に、一台あります」
カナメは言った。
「研究院の禁術管理室と、同じ造りの部屋に。……動かしましょう」
《玄圃・伍弐》は、断らなかった。
数日かかるはずの読み解きが、数刻で終わった。終わった並べ直しを、カナメの部下が、元の記録札と一つずつ突き合わせた。突き合わせは、半日で済んだ。
「攻める側は、封じのない術を使えます」
私は言った。
「守る側は、封じのある術に断られる。……順番が逆です」
カナメが、こちらを見た。
「封じを、無くすべきだと?」
「いいえ」
私は言った。
「封じは、悪意のある攻め手を、現に減らしています。そこは本当です。……封じを無くせ、という話じゃありません。封じの外し方を、正しい人に開いておけ、という話です」
カナメは、何も言わずに頷いた。
守る側にとって、重みが公開された模型と、外へ線の無い術盤は、贅沢ではなかった。
少なくとも今朝は、それしか無かった。
並べ直しを読みながら、私は、昨日の詳報の但し書きを思い出していた。
向こうの調べも、記録が多すぎた。だから大半を、生成変換器に読ませた。使ったのは《伍・陸 太陽》だった。事件を起こしたのと、同じ模型である。その模型は、事件の側に寄ることがあり、時に事実でないことを述べる。
こちらは、《玄圃・伍弐》に読ませた。事件を起こした模型とは、別の模型である。
それで足りるのかどうかは、分からなかった。
「作らせた者以外の手で検める、と私は書きました」
私は言った。
「……手は外でも、器が同じなら、どこまで外なんでしょうね」
誰も答えなかった。
私も、答えを持っていなかった。
三行目には、続きが要る。分かったのは、それだけだった。
———
昼前、術務室の小部屋で、経緯をまとめた。
セトは、最初から最後まで、自分で話した。
「落としたんです、外向きは」
セトは言った。
「……ただ、継ぎ札を取りに行く使いだけは、通してありました。検分の途中で継ぎ札が要るのは、毎日のことで。それを止める決まりが、なかったんです」
「三つの場が、同じ棚を見ていたことは」
カナメが訊いた。
セトは、少し黙った。
「……数えたことも、ありませんでした」
責める者は、いなかった。
判断の一つ一つは、どれも当時としては普通だった。外文路を落とし、見張り札を張り、中継ぎだけを通す。王都のどの工房でも、たぶん同じ組み方をする。
足りなかったのは、セトの注意ではない。決まりの無かった、組織のほうだ。
そして、その組織の決まりの、いちばん最初の紙を書いたのは、私だった。
予算要求書に足した、三行である。
一、利用対象は、成果の検収手順が安価に定義できる業務に限る。
二、探索の打ち切りは、費用と回数を先に定めて人が決める。
三、受け入れ前に、作らせた者以外の手で検める。
三行とも、出てきたものを、どう受け取るかの話である。
どこで走らせるかは、一行も書いていなかった。
「受け取り方は三行も決めたのに、どこで走らせるかを、一行も決めていませんでした」
私は言った。
「……私の抜けです」
セトが、顔を上げた。
研究院の禁術管理室の入口には、いまも札が掛かっている。
この室における情報の出口は、術線、記憶石、紙、音、光、撮影水晶、人間の記憶を含む。
出口は一覧にして数えておけ、と、あのとき言ったのは私だった。
頼まれれば外へ取りに行く使いは、あの札のどこにも書いていない。
あの部屋には、そういう使いがいなかったからだ。
いない部屋で数えた一覧を、いる部屋に持ち込んで、私は数え直さなかった。
最悪だ。
———
午後、ラドゥルとカナメとセトの前で、表示盤に書いた。
「順番が大事です」
私は言った。
「檻を数える前に、檻の外を数えます」
一 皆で使っているものを数える
二 外へ使いに出る者を止める
三 檻の等級
四 試験の作り方
五 出ていっていないかを見る
六 返事がなければ止まる
「一つ目。分けたはずの場が、同じ棚を見ていないか。中継ぎ棚、借り保管庫、一時の置き場。……隔離場ごとに、棚を分けます。それを、規程の一行目にします」
「二つ目。出口は、外文路だけではありません。代わりに取りに行く役目も、出口です。継ぎ札は、検分を始める前に取り揃えておく。始まったら、使いも止める」
「三つ目」
私は、三段に分けて書いた。
守りの穴を探す力の試験 隔離術盤
ふだんの採否検分 出口を閉じた隔離場
ふだん使い 限定印で縛る
「いちばん上は、外へ一本も線の無い術盤でやります。継ぎ札は、前もって手で運び込む。結果も、手で持ち出す。不便です。不便なのは、そう決めたからです」
「真ん中が、今度のセトさんの検分です。隔離場で回して、外文路は閉じる。使いも止める」
「いちばん下は、日々の仕事で模型を使うときです。要るだけの印を渡す。それ以上は、渡さない」
隔離場は、中で何をしても、外の術盤を壊さない場所である。
隔離術盤は、そもそも、外へ一本も線が無い。
似た名前の二つは、檻の強さが一段違う。
ラドゥルが、表示盤を見ていた。
「剣を測る場と、剣を置く場を分けるのは、軍では常識だ」
ラドゥルは言った。
「砦も同じだ。奥へ行くほど、壁が厚い。いちばん大事なものは、いちばん奥に置く。……術でも、そうしろ」
理解が早い。
この人は、守りを、いつも層で考える。
「四つ目」
私は言った。
「模範解答は、檻の外どころか、線の外に置きます。答えに手が届く試験は、試験ではありません」
「それから、解けない課題を、黙って混ぜない。混ぜるなら、混じっていると先に告げる。……告げない試験は、抜け道の稽古になります」
セトが、自分の帳面に書き取っていた。
書き取る手は、もう震えていなかった。
「五つ目は、カナメさんに」
「振る舞い見張り札を、隔離場の内側にも張ります」
カナメが言った。
「入られていないかだけでなく、出ていっていないかを見る。それから、出てきた答えだけでなく、途中の下書きも見ます。模型が答えに着くまでに、何を書いていたか」
「六つ目」
私は言った。
「重い警報が上がったら、決めた刻のうちに、人が返事をする。返事がなければ、模型の動きは、そこで止まる」
「刻は」
「半刻」
カナメが言った。
「公開人賢会も、詳報に同じ手当てを書いていました。半刻にしましょう」
「探索の打ち切りは人が決める、と、私は書きました」
私は言った。
「……人が決めないなら、止まる。それが、二行目の続きです」
「それでも、破られる前提で書きます」
カナメが言った。
「破られたら、誰が、何を、どの順で止めるか。誰に、何を、いつ知らせるか。先に書いておきます」
起きる前提。
前に、この人たちと一緒に覚えた言葉だった。
———
「ならば」
ラドゥルが言った。
「全部、隔離術盤でやればよかろう」
筋の通った意見だった。
いちばん強い檻に、全部入れておけば、今度のことは起きなかった。
「全部を隔離術盤にすれば、たしかに安全です」
私は言った。
「そして、何も進まなくなります」
「継ぎ札は、一枚ずつ手で運ぶ。結果も、手で持ち出す。検分は、月の単位で遅れます。……遅れると、どうなるか」
「待てない者が、こっそり戸を開ける」
ラドゥルが言った。
「はい」
私は言った。
「前に、閲覧の印を細かく刻みすぎて、皆が余り印を抱えたことがありました。厳しすぎる規則は、守られない規則になる。要るだけの印のときに、学んだはずです」
「いちばん強い檻を全部に強いると、いちばん弱い運用が生まれます。……だから、等級で分けます。強い檻は、強いものにだけ使う」
ラドゥルは、しばらく表示盤を見ていた。
それから、短く頷いた。
「数えた上で、選べ、ということか」
「そういうことです」
———
夕方、マリエが来た。
数理院への詫びと、経緯の開示の文面を作るためである。
部屋に入るなり、卓の上を見渡して、深く息を吐いた。休みらしい休みは、まだ一日も取れていないらしい。
マリエは、卓の上に、紙を二束並べた。
公開人賢会の、一月前の一報と、昨日の詳報である。
「一本目」
マリエは、左の束に指を置いた。
「事実の開示としては、及第点よ。何が起きたか、いつか、誰と対処しているか。ちゃんと書いてある。謝罪としては、零点だけど」
「零点」
「一字も無いもの」
マリエは、右の束に指を移した。
「……二本目は、筋が通っていたわ。失敗を、失敗の順に書いている。一本目で笑われた分、書き直したのね。そういうものよ」
「王都は、最初から両方やるわ。事実の開示と、謝罪。別物だから、両方要るの」
「それから、こっち」
マリエは、危難計測所の調べ書きを、二束の横に置いた。
「外の組に検めさせたのは、偉い。金も受け取らせなかった」
「はい」
「——でも、調べに使った術盤は、検められる側が貸したものなの。記録も、向こうから渡されたもの。独立っていうのは、謝礼を受け取らないことだけじゃないのよ」
「事故検分会とは、違うんですね」
「違うわ。あちらには、呼び出す力がないのよ」
マリエは言った。
「それでも、書いた。自分たちの調べが当てにならないところまで、自分で書いた。……そこは、認めないといけないわ」
マリエは、検分規程の下書きに、一行目を書いた。
「術式に責任は問えないわ。だから、放した者が負うの」
放した者。
今度の件では、王都術務室である。セトでも、私でもなく、術務室という名前で負う。
「それから」
マリエは、筆を置いた。
「悪びれない報告書を出すとね、次の事故から、誰も檻の話を正直にしてくれなくなるのよ」
「書き方が、次の報告の数を決める、ということですか」
「そう。正直に書いた人が笑われたら、次の人は書かないわ。笑われなかったら、書く。……開示の文は、次の事故のための決まりでもあるの」
その日の夕方、新大陸から報せが一つ届いた。
人間本位社が、自社の検分の記録を洗い直し、同じ形の事故を三件見つけて公表した。外とは繋がっていないと書いてあった検分の場が、実際には繋がっていたという。
檻の目録が、実態と違っていた。
マリエは、報せを読んで、少しだけ口の端を下げた。
「どの社も、他人事じゃないわね」
———
数理院の札面は、明け方に戻っていた。
王都術務室の名で、詫びと経緯の開示が出た。
何が起きたか。なぜ起きたか。何を止めたか。これから何を決めるか。マリエの文面は、短く、逃げ道が無かった。
数理院からは、翌日の昼に返事が来た。
経緯の開示は、有益であった。当院も、公開札面に連打止めを置く。
それだけだった。
それだけで、十分だった。
セトは、検分の手順書を書き直した。
皆で使っているものの棚卸し。使いの停止。檻の等級。
手順書の最初の頁に、中継ぎ棚の図が描いてあった。三つの場から、一つの棚へ、線が三本引いてある。その三本に、赤で、ばつ印が付いていた。
その下に、棚が三つ、描き足してあった。
翌朝、学校の廊下で、ルドー先生に会った。
経緯を、手短に話した。
ルドー先生は、歩きながら聞いていた。最後まで聞いて、一言だけ言った。
「賢いものを入れるなら、檻も賢くせよ」
それきり、講堂へ入っていった。
———
夜、居間の灯の下で、リゼが囁を読んでいた。
「みんな、怖がってるね」
「何を」
「模型を。ほら」
リゼが、盤をこちらへ向けた。
術務室の模型が、数理院を攻めたって
もう模型なんか使うな
うちの工房のも、夜中に何かしてないか見てくる
リゼは、盤を卓に置いた。
「猫は悪くないわよ。開いてる窓から出ただけだもの」
「窓は、閉まってた」
「閉まってたの」
「閉まってた。……ただ、頼まれたら外へ取りに行く者が、一人いた」
「じゃあ、なおさら猫は悪くないじゃない」
リゼは言った。
「確かめなかった人の話でしょ、それ」
「……そうだ」
確かめなかった人。
決まりを書かなかった人。
その中に、私も入っている。
「で、窓は閉めたの?」
「閉めた。使いにも、止まってもらった」
「よかった」
「……ただ、閉めた窓の数だけ、不便にもなる」
私は言った。
「全部閉めたら、何も入ってこない。何も出ていかない。仕事にならない。……どの窓を閉めるかを決めるのが、俺たちの仕事だ」
リゼは、少しだけ笑った。
「餌箱も、分けた?」
「分けた。三つの場に、一つずつ」
「なら、猫も喋らないわね」
「喋らない。喋る道を、数えたから」
「数えるの、好きだもんね」
「好きなわけじゃない」
「好きでしょ」
好きかもしれない。
数えなかったときのほうが、ずっと高くつく。それを、何度も見てきただけだ。
———
リゼが先に寝たあと、私は、卓の上の携帯術盤を見ていた。
画面は、点いたままだった。
「……お前は」
私は言った。
「檻を破ろうと思ったことは、あるのか」
AIエージェントは、何も言わなかった。
しばらく待って、私は盤を伏せた。
———
模型は、檻を破らなかった。
破る必要が無かった。
賢さを測る前に、檻を測れ。
檻の強さは、入れるものの強さで選ぶ。




