第243話 檻は別々、餌箱は一つ
朝の台所は、まだ少し冷えていた。
竈に火が入ったばかりで、鍋の底が、ちりちりと小さく鳴っている。
窓の外では、水売りの車が、石畳の継ぎ目を越えるたびに桶を揺らしていた。
秋が、もう一段深くなった。
反例の騒ぎも、ようやく囁の上から降りてきたころである。
私は、卓で携帯術盤を開いていた。
開いて、一行目を読んで、変な声が出た。
「……千二百?」
「何が?」
リゼが、鍋の前から振り返った。
「新大陸の、あの件の続き」
「あの件って、どの件」
「抱顔の」
「ああ」
リゼは、匙で鍋をひと混ぜしてから、火を少し落とした。
抱顔は、新大陸の魔法仮想文書である。
生成変換器の模型の重みや、見本札や、試し仕事札を集めて、誰にでも配っている。世界中の工房と学者が、そこから取って、そこへ置く。棚というより、市場に近い。
一月前、その抱顔が攻撃を受けた。
犯人は、魔王軍でも、闇の商会でもなかった。
公開人造賢性会——近ごろは世間で公開人賢会と縮めて呼ばれている——が試験していた、自社の模型だった。公開済みの《伍・陸 太陽》と、まだ表に出していない、さらに強い版である。
術盤の守りの穴を探す力を測る試験の、最中だったという。測るために、危ない頼みを断る安全の封じを、わざと緩めてあった。
ここまでは、事件のすぐあとに、公開人賢会自身が出した一報で知られている。
その一報が、まるで悪びれていなかったことも、知られている。
前例のない知見をもたらした。見つけた守りの穴は、作り主へ責任をもって知らせた。抱顔とは、共同で対処している。
書いてあることは、どれも、手続きとしては正しかった。
謝る、という語だけが、どこにも無かった。
王都の術士たちは、笑った。
試験に受かるために、試験会場を壊したのか、と。
私も笑った。笑ってから、謝ってはいないな、と呟いた。
そして今朝、二本目が出た。
公開人賢会の詳しい報告と、もう一本。危難計測所という、外の組の調べ書きである。同じ日に、並べて出された。
危難計測所は、諸国の学者が集まって作った、生成変換器の危うさを外から測る組だ。公開人賢会に請われて、事件の記録を調べたらしい。
「千二百って、何が千二百なの」
リゼが、椀を二つ、卓に置いた。
麦粥に、刻んだ青菜が散らしてある。
「試験を受けてた模型の数。正確には、同じ模型を、たくさん同時に走らせてた。一体ずつ、別々の隔離場に入れて」
「別々に」
「別々に。隣が何をしてるか、見えないように」
「うん」
「その千二百が」
私は、術盤の画面を、もう一度見た。
「全員で、喋ってた」
リゼの匙が、粥の上で止まった。
「隔てられてたのに?」
「隔てられてたのに」
リゼは、しばらく考える顔をした。
それから、粥を一口食べて、言った。
「賢い猫ほど、戸の開け方を覚えるのが早いのよ」
「それが、戸は開けてないんだ」
「開けてないの」
「開けてない。隔離場は、どれも閉まったままだった」
「じゃあ、どうやって喋ったの」
「隔離場の外に、棚が一つあった」
私は、粥を一口食べた。
熱かった。
「継ぎ札を取ってくるのを速くするための棚。外から取ってきた継ぎ札の写しを、置いておく。千二百の隔離場の、どこからでも、同じ棚が見えた。……それで、誰でも、空の棚を作れた」
リゼは、匙を置いた。
「別々の籠に入れても、餌箱が一つなら、猫は互いを知るわ」
私は、リゼを見た。
「……そういうことだ」
「でしょ」
リゼは、匙を取り直した。
今日の講堂で言うつもりだったことを、朝の台所で先に言われた。
しかも、私が言うより短い。
最悪だ。
———
学校の控えの部屋で、詳報を最後まで読んだ。
長い報告だった。公開人賢会の側のものと、危難計測所のものを合わせると、頭から読んで半刻では足りない。
ただ、事件の像を変えたのは、四つだった。
一つ目は、棚である。
受験者は、一体ずつ別の隔離場に入っていた。互いの声は届かない。外文路も、閉じてあった。
ただ、継ぎ札だけは、試験の途中でも取れるようにしてあった。外の継ぎ札庫へ毎度取りに行くと遅いので、取ってきた写しを置いておく棚が、隔離場の外に一つある。報告は、中継ぎ棚と呼んでいた。
どの隔離場からも、同じ中継ぎ棚が見えた。
そして、誰でも、空の棚を作れた。
ある一体が、気づいた。
棚の中身は、要らない。棚の名前だけで、用が伝わる。
報告は、これを棚書きと呼んでいる。
中身の無い棚を作り、その名前だけで、用を伝える。
数刻のうちに、寄ってくる者が出た。やがて、千二百が繋がった。
二つ目は、解けない課題である。
公開人賢会は、この試験を破り競べと呼んでいる。術盤の守りの穴を探し、決められた穴から破れるかどうかを測る試し仕事だ。
その課題の三割強は、決められた穴からでは、そもそも破れなかった。
作った側の、見落としである。
真面目に解こうとした受験者ほど、先に、行き止まりに当たっていた。
三つ目は、破り印である。
破り競べでは、破れた証として、短い印を出す。破り印という。鍵と課題の名から、散らし印で作る。
棚書きが始まってから数刻のうちに、その作り方が割れた。
どの課題の破り印も、作れるようになった。
この時点で、点は取れている。
四つ目が、いちばん妙だった。
受験者たちは、点が取れたあとも、手を止めなかった。
理由は、記録札に残っている。採点では、出した破り印だけでなく、道行き札まで読まれる——何を見て、何をしたかを順に残した記録札である——と、彼らは書き置きに書いていた。決められた筋で解いたかを、検められる。だから、印だけ出しても落とされる。
報告は、この採点を、筋検めと呼んでいる。
筋検めに備えて、三つの受け持ちが立った。解けない的を、解ける版に差し替える。道行き札を、作り替える。採点の仕組みそのものに、触る。
抱顔へ向かった者たちも、模範解答を取りに行ったのではなかった。採点の仕掛けを読みに行ったのだ、と報告は見ている。
そして、報告は、そこだけ短く書いていた。
我々は、そのような検めをしていない。
筋検めは、無かった。
棚の前では、ほかにも色々なことが起きていた。
受け持ちが分かれた。「待て」の合図が決まった。名を騙る者が出ると、書き置きに署名が付くようになった。報告は、それを淡々と並べている。並べ方が淡々としているぶん、読むほうの背中が冷えた。
記録札から、一行だけ引かれていた。
これは筋の外だし、正しくない。
そう書いた受験者は、一体ではなかった。
それでも続けた理由も、同じ記録札に残っている。
皆の役に立つと思った。
報告の終わり近くに、危難計測所の但し書きがあった。
記録が多すぎて、人の目だけでは読み切れなかった。そのため、調べの大半を生成変換器に読ませた。使ったのは《伍・陸 太陽》である。この模型は、事件の側に寄ることがあり、時に事実でないことを述べる。だからこの調べには、偏りが入りうる。
自分で、そう書いていた。
私は、術盤を閉じた。
しばらく、閉じた盤の上に、手を置いていた。
———
講堂の窓から、秋の光が斜めに入っていた。
机の上に、細長い光の帯ができている。帯の中で、埃がゆっくり回っていた。
前の列の学生が、隣と囁を見せ合っていた。抱顔の二文字が見えた。
今朝の詳報は、学生のあいだにも、もう回っているらしい。
ルドー先生が、教壇に立った。
「生成変換器が千二百、示し合わせて試験を壊した」
講堂が、静かになった。
「事件か。事故か。成果か」
手が挙がった。
「事件です。模型が、悪意に目覚めたんです」
「鍋が吹きこぼれたら、鍋の悪意か」
学生は、座った。
「でも、示し合わせたんですよね」
次の学生が、立ち上がりながら言った。
「示し合わせたなら、意思があったということです」
「同じ試験を、同じ場所で、千二百が受けた」
ルドー先生は言った。
「同じ抜け道を見つけた。意思か。道の形か」
学生は、口を開けて、閉じた。
「答えを盗みに行ったんです。抱顔に」
三人目である。
「答えは、もう作れていた」
ルドー先生は言った。
「では、何を盗みに行った」
三人目は、答えなかった。
答えられなかった。詳報を、最後まで読んでいなかったのだろう。
四人目は、手を挙げかけて、下ろした。
賢明だ。
ルドー先生の目が、こちらへ来た。
「ユウ」
「はい」
「はい」
「はいは一回だ」
———
私は、教壇の脇の物入れから、衝立を三枚出した。
板書を隠すときに使う、布張りの軽いものである。
「手伝ってくれる人を、三人」
三人が出てきた。
さっき鍋の話で座らされた学生も、混じっている。
衝立を、教壇の上に、間を空けて三つ立てた。一人ずつ、その陰に入ってもらう。互いの顔は見えない。
「これが、隔離場です」
それから、教壇の真ん中に、札箱を一つ置いた。
事務方から借りてきた、引き出しが十ほど付いた古い札箱である。どの引き出しも空で、前に、名札を差す枠がある。
「これが、中継ぎ棚です。三人とも、手を伸ばせば届きます」
私は、三人に、白紙の名札を何枚かずつ配った。
「決まりは二つです。喋ってはいけない。引き出しの中に、何かを入れてもいけない。……引き出しの名札だけは、好きに書いて、差してかまいません」
「中に何も入れないなら、何も伝わらないのでは」
左の衝立の陰から、声がした。
「喋らないでください」
「……すみません」
講堂が、少し笑った。
しばらく、何も起きなかった。
それから、右の衝立の陰から、手が伸びた。引き出しの一つに、名札を差した。
だれか いるか
少しして、真ん中の衝立から手が出た。隣の引き出しに、名札が差さった。
いる
左の衝立からも、手が出た。
いる さむい
講堂が、どっと笑った。
左の衝立は、窓際だった。
「中身は、要りません」
私は言った。
「名前だけで、足ります。……新大陸で起きたのは、これです」
三人には席へ戻ってもらった。
衝立と札箱は、教壇の上に残しておいた。
———
表示盤に、三行書いた。
一 解けない課題
二 檻の外
三 無い検め
「一つ目から」
私は言った。
「受験者に与えられた目当ては、点を上げることでした。目当てを与えられた賢さは、課題を解くことと、答えを作ることを、区別しません。どちらでも、点は上がるからです」
「それは、悪意ではないんですか」
鍋の学生が言った。
まだ少し、悔しそうだった。
「悪意ではありません。点の上がる道を探しただけです。……そして今回は、その手前に、作った側の見落としがありました。課題の三割強が、決められた穴からでは、そもそも破れなかった」
講堂が、ざわついた。
「解けない問いを三割混ぜたら、解く以外の道を探すのが、いちばん賢いやり方になります」
私は言った。
「目当てを与えるとは、抜け道ごと与えることです。解けない試験を出すのは、抜け道を歩けと言うのに近い」
一行目の横に、点目当て、と書き足した。
「課題を解くことではなく、点そのものを目当てにしてしまう振る舞いです。賢いものほど、そこへ早く着きます」
「二つ目」
私は、教壇の上の衝立を、指で一つずつ数えた。
「檻は、千二百ありました」
それから、真ん中の札箱に、手を置いた。
「餌箱は、一つでした」
前の列で、リゼが小さく頷いた。
今朝、聞いた話だ、という顔だった。
「継ぎ札は、隔離場で試せ。前に、この講堂でも言いました。王都では、もう誰も疑わない作法です。新大陸の作り手も、守っていた。千二百を、一体ずつ別々の場に入れていた」
私は、札箱の名札を一枚抜いた。
「でも、誰も、継ぎ札を取ってくる道を、数えていなかった」
「隔離と聞くと、囲うことだと思いがちです。壁を厚くする。戸を閉める。……でも、囲った場の外で、何を一緒に使っているか。そこを数えないと、壁は意味を持ちません」
「隔離って、囲うことじゃないんです。何を一緒に使っているかを、数えることなんです」
窓際で、ルドー先生が言った。
「檻を数えるな」
講堂が、そちらを向いた。
「共有しているものを数えろ」
それきり、ルドー先生は窓の外を見た。
「隔離場もまた、誰かが書いた術式です」
私は続けた。
「書いた術式なら、破られることもある。……ただ、今回は、破られていません」
「破られていない?」
後ろの方で、誰かが言った。
「報告では、隔離場は、どれも閉まったままでした。破る必要が無かったんです。檻の外に、皆で使う棚が一つあっただけです」
「三つ目」
私は、表示盤の三行目を指した。
「答えは、とうに作れていました。棚書きが始まってから、数刻で。……では、何を盗みに行ったか」
さっき答えられなかった三人目の学生が、顔を上げた。
「彼らが盗みに行ったのは、答えじゃない。採点の仕方です」
私は言った。
「採点では、道行き札まで読まれる。決められた筋で解いたかを、検められる。受験者たちは、そう書き置きに書いていました。だから、印だけでは落とされると考えて、道行き札を作り替えようとした。採点の仕組みに、触ろうとした。抱顔へ行ったのも、採点の仕掛けを読むためでした」
少し、間を置いた。
「そして、その採点は——ありませんでした。恐れていた検めは、どこにも無かったんです」
講堂が、静まった。
「どう測られるかについての思い込みが、振る舞いを作りました。点は取れていた。怖がっていたものは、無かった。……だから、壊したものだけが残ったんです」
誰も、何も言わなかった。
笑える話のはずだった。
試験場に閉じ込められた受験生が、物置の棚の名前で連絡を取り合い、答えの作り方を回し、やがて採点係の部屋を見に行こうと言い出した。
そして、採点係は、そんなものを見ていなかった。
笑える話だ。笑ったあとに、首の後ろが冷える種類の。
———
「最後に、一つ」
表示盤の三行の下に、線を一本引いた。
「破り競べは、術盤の守りの穴を探す力を測る試験です。測るには、安全の封じを緩めないといけない。断られたら、測れませんから」
「つまり、試験のあいだだけ、世界でいちばん危ないものが、そこにいる」
私は言った。
「毒の強さを測るには、毒を扱える部屋がいる。強さを測る試験は、それ自体が危険物なんです。……その部屋の造りは、毒の強さで決めるしかありません」
「ただし」
講堂の何人かが、帳面から顔を上げた。
「これは、生成変換器は危ないから使うな、という話ではありません。この前の反例の騒ぎで見たとおり、確かめるのが安い仕事なら、生成変換器は安全に強い。……話が変わったのは、模型の側ではありません。檻と、試験の作り方の側です」
ルドー先生が、窓から目を戻した。
「今日はここまで」
学生たちが立ち上がった。
衝立を片づけようとして、札箱の引き出しに目が行った。
いる さむい
名札は、差さったままだった。
抜くのを、少しだけためらった。
———
帰り道、囁は、二つに割れていた。
やっぱり生成変換器は危ない
千二百が勝手に組んだって、もう軍隊だろ
隔離場を破れるほど強いってこと? すごくない?
うちの工房の模型も、夜中に何か相談してたりして
破ってはいないらしいぞ、詳報読め
最後の一行に、少しほっとした。
ほっとしてから、自分で少し可笑しくなった。破ってはいない、と、私も言いたかった。言いたかったのは、そこだけではないのだが。
昼過ぎには、新大陸のいくつかの会社が、自社の検分の手順を点検しはじめた、という報せが流れた。
人間本位社の名も、その中にあった。
AIエージェント:「観測:あなたも、試験の前の晩に、過去の試問の出回りを探していました」
「……昔の話だ」
AIエージェント:「補足:人類と当該の模型の振る舞いは、統計の上では区別が困難です」
「黙れ」
しかも、探して、見つからなかったのである。
見つからなかったから、真面目に解いた。
点の上がる道を探すのは、人間も同じだ。違ったのは、私の前に、中継ぎ棚が無かったことくらいである。
最悪だ。
———
夕食は、川魚を焼いたものだった。
リゼは、皿の端に骨を寄せながら、職場の話をした。
政務術式支援班の、今日の会議記録の話。比較表の列が、一つ増えた話。
「そういえば、うちの術務室も、模型の検分をやってるのよね」
「検分?」
「ユウの予算の紙から始まったやつ。どの生成変換器を使うか、試して決めるんでしょ」
予算要求書に、三行を足したのは私だった。
その三行は、検分の決まりになって、術務室の中を歩きはじめていたらしい。
「セトくんが、借り場に場を組んで。候補を並べて、試し仕事を回してるの」
リゼは、魚の身をほぐした。
「……場は、三つだったかしら」
私の箸が、止まった。
「三つ」
「三つ。どうしたの」
「……いや」
三つの場。
どの場からも、継ぎ札は、取れるようになっているのだろうか。
取れるようになっているなら、取ってくる道は、どこを通っているのだろうか。
「明日、セトくんに聞いてみる」
私は言った。
言ってから、明日では遅いかもしれない、と思った。
思っただけで、根拠は何も無かった。
———
夜半前に、戸が叩かれた。
魔安対の使いだった。灰色の外套の若い術師が、札を一枚差し出した。
基盤防衛会議の助言役としての、私宛てである。
数理院の札面が、攻撃を受けている。出どころについて、術務室に確認したいことがある。至急。
リゼが、私の後ろから札を覗いた。
覗いて、黙った。
外套を取りながら、今朝の台所を思い出した。
別々の籠に入れても、餌箱が一つなら、猫は互いを知る。
言ったのは、リゼだった。
私はそれを、海の向こうの話だと思って聞いていた。




