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魔法世界は運用で回る  作者: 月の位相
夫婦編

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245/251

第245話 石は数えていない

 朝、窓が白かった。


 霜である。

 硝子の内側に、細い羊歯の葉のような模様が貼りついている。指で触れると、そこだけ溶けて、外の灰色が覗いた。


 竈には、もう火が入っていた。

 リゼが、鍋をかき回している。麦と根菜を煮た匂いが、部屋の冷えを、少しずつ押し返していた。


 王都の冬は、下から来る。

 石畳が冷え、壁が冷え、最後に床が冷える。季節は、足の裏から上がってくる。


「おはよう」


「おはよう。座ってて。もうできる」


 私は、卓に着いた。

 椅子の座面が、石のように冷たかった。


 最悪だ。

 冬の朝の最悪は、たいてい、尻から始まる。


———

「西区の話、聞いた?」


 リゼが、椀を二つ置きながら言った。


「西区の、何の話だ」


「春市の受付。先週から、西区役所でやってるの」


「春市」


「春になったら、広場に屋台を出す市。出店の枠は、冬のうちに受け付けるの。区画の数が決まってるから、先着順」


 リゼは、向かいに座って、匙を取った。


「それで、揉めてる。苦情が、うちの班に回ってきたの。受付の術式は、術務室の持ち物だから」


「揉めるだろう。先着順は、だいたい揉める」


「そういう揉め方じゃないの」


 リゼは、匙を椀の縁に置いた。


「誰も嘘ついてないのに、話が合わないの。三人とも自分が先だって言ってて、三人とも本当なのよ」


「三人とも本当なのは、無理だ」


「無理でしょ。でも、そうなの」


 私は、粥を一口すすった。

 熱かった。


「誰かの勘違いだろう」


 人間は、自分が並んだ刻を、だいたい早めに覚えている。

 寒い中で待った時間は、実際より長く感じるからだ。長く待った気がすれば、早く来た気もする。

 痛い目を見る前の人間はかわいいが、寒い目を見た後の人間の記憶は、あまり当てにならない。


「勘違いじゃないの」


 リゼは言った。


「札が、そう言ってるの」


「札」


「受付札。窓口で受け付けると、刻を打った札が出てくるの。あとで、全部の札を刻の順に並べて、枠を割り振る。……それで、朝いちばんに並んでた人の札が、あとから来た人の札より、遅い刻になってるの」


「並んでた順が、間違ってたんじゃないのか」


「役所の人が見てたって。その人、夜明け前から一番の窓口の前に立ってたの。門番みたいに」


 私は、匙を止めた。


 朝いちばんに並んだ人の札が、あとから来た人の札より遅い。

 並んだ順も、役所の人が見ている。

 札は、受付盤が打っている。


「受付盤が、打ち間違えたのか」


「分かんない。だから、うちの班に来たの」


 リゼは、粥をすすった。


「今日、見に行くことになると思う。……たぶん、ユウも」


「なんで俺も」


「なんとなく」


 リゼの、なんとなく、は、だいたい当たる。


———

 当たった。


 術務室に着くと、私の卓の椅子に、ルドーが座っていた。


 外套も脱いでいない。

 膝の上で、手を組んでいる。誰かに通されたのか、自分で入ってきたのか、分からなかった。この人は、どこにでも先に着いている。


「行くぞ」


「どこへですか」


「西区だ」


「誰に聞いたんですか」


 ルドーは答えなかった。

 答えずに、立ち上がった。


 支援班の卓のほうで、リゼが、苦情の綴りを抱えて、こちらを見ていた。

 ほら、という顔だった。


「はい、はい」


「はいは一回だ」


———

 西区役所の前に、見覚えのある顔があった。


 市民相談局のセラだった。

 前に、見分け術の件で会ったことがある。あのときより、外套が厚い。


「ユウさん」


 セラは、小さく頭を下げた。


「相談局にも、同じ話が来ています。春市の受付で、先に並んだのに後になった、と。九件です」


「九件」


「うちに来る話は、たいてい、役所の窓口で怒ったあとの話です。窓口で怒って、まだ収まらない人が、うちに来ます」


 セラは、相談札の束を、リゼに渡した。

 リゼが持ってきた苦情の綴りと、厚さが、ほとんど同じだった。


 別々の道から、同じ話が来た。

 片方の道だけなら、声の大きい誰かが一人いるだけかもしれない。二つの道から同じ話が来たなら、話のほうは、たぶん本当だ。


———

 西区役所の広間は、天井が高かった。


 高い天井は、冬には向かない。

 暖かい空気は、上へ逃げる。逃げた空気は戻ってこない。広間の真ん中に大きな火鉢が据えてあったが、その熱は、手をかざした人の手のひらにだけ届いていた。


 窓口は、三つあった。


 一番の窓口は、火鉢のそば。

 二番の窓口は、広間の真ん中あたり。

 三番の窓口は、いちばん奥。北の外扉の、すぐ脇だった。


 外扉が開いた。

 荷を抱えた男が一人、入ってきた。


 一拍遅れて、冷たい風が、床を這ってきた。

 三番の窓口の前に並んでいた人たちが、そろって外套の襟を立てた。


 三番の窓口の中で、若い女の係が、両手に息を吐きかけていた。


———

「区画は、四十です」


 西区役所の受付の係長が言った。

 白髪の混じった、細い男である。眉間の皺が、今朝できたものではない深さだった。


「先着順。三つの窓口で受け付けて、それぞれの受付盤が、受け付けた刻を札に打ちます。受付が閉まったあとで、三つの窓口の札を全部集めて、刻の順に並べます。早い札から、区画を割り振ります」


「割り振りは、もう」


「初日のぶんを、一昨日、貼り出しました。それから、この騒ぎです」


 係長は、卓の上に、札を三枚並べた。


 一番 朝四つ 零分五秒

 三番 朝三つ 五十八分五十九秒

 三番 朝三つ 五十九分五十二秒


「左の札が、苦情を言っている方のものです。夜明け前から、一番の窓口の前に立っていた。開けた瞬間に受け付けました」


「真ん中と右は」


「三番の、一人目と四人目の方です。……どちらも、左の札より、早い刻になっています」


 私は、三枚の札を見た。


「窓口を開けたのは」


「朝四つの鐘が鳴ってからです。三つとも、同時に」


 朝四つの鐘で開けた窓口で、朝三つの札が出ている。

 三番の二枚は、どちらも、鐘より前の刻だった。

 一人目の札など、鐘の一分も前である。


 開いていない窓口で、札は出ない。

 なら、間違っているのは、札の刻のほうだ。


「開ける前に、こっそり受け付けたのではないか、と言われました」


 係長が、声を落とした。


「三番の係が、知り合いを先に通したのではないか、と。……苦情の半分は、そういう話です」


———

「私が、打ち間違えたんだと思っていました」


 三番の窓口の係が言った。

 さっき、両手に息を吐きかけていた人である。


 ネル、と名乗った。

 指の先が、赤かった。


「受付盤の刻は、私が打つものではありません。盤が、勝手に打ちます。開ける前に受け付けたりも、していません。……それでも、何か、私が触ってはいけないところを触ったんだと思って。何度も見直したんです」


 ネルは、窓口の脇から、綴りを一冊出した。

 受付の手順書だった。


 頁の角が、丸くなっていた。

 何度もめくった角である。


「月の初めの朝、受付盤を刻塔に合わせる。済。……毎朝、開ける前に、盤の札の残りを確かめる。済。札が詰まったら、二番の係を呼ぶ。……一度も詰まっていません」


 手順書の欄は、全部、埋まっていた。

 字が丁寧だった。丁寧すぎて、少し痛々しかった。


「手順は、全部守られています」


 私は言った。


「守られているのに、こうなった。……なら、たぶん、ネルさんのせいではありません」


 ネルは、頷かなかった。

 手順を全部守った人ほど、自分のせいだと思う。守っていない人には、守っていないところが言い訳になるからだ。守った人には、それが無い。


———

「一度に、三つの盤で札を打ってもらえますか」


 私は言った。


「同じ瞬間に。客の札ではなく、試しの札を」


「同じ瞬間に、ですか」


「合図をします。……リゼ、一番の窓口を」


「わかった」


「セラさん、二番を。ネルさんは、そのまま三番で」


 三人が、それぞれの窓口の、盤の前に立った。

 私は、携帯術盤を出した。術務室の盤に合わせてある刻である。術務室の盤は、刻塔に合わせてある。


「合図は」


 係長が言った。


 ルドーが、両手を、胸の前に上げた。


 広間の人たちが、なんとなく、そちらを見た。

 ルドーは、一度だけ、手を打った。


 乾いた音が、高い天井に上がっていった。


 三つの盤が、同時に札を吐いた。


———

 三枚の札を、卓に並べた。


 私の携帯術盤の刻と、一枚ずつ、比べた。


 一番 二秒、早い

 二番 三秒、遅い

 三番 一分二十八秒、遅い


 係長が、息を呑んだ。


「一分……」


「一分二十八秒です」


「壊れているんですか。三番の盤が」


「いいえ」


 私は言った。


「どの盤も壊れていません。全部、正しく動いています。……ただ、同じ速さで動いてはいません」


 三番の盤は、一分二十八秒、遅れて刻を打つ。

 つまり、三番で受け付けた人の札は、本当の刻より、一分二十八秒早い刻になる。


「遅れている盤で受け付けた人ほど、早い刻の札を持っています」


 私は言った。


「三番の列に並んだ人は、その日の遅れのぶんだけ、先に並んだことになっていた。受付の初日でも、一分ほど。……一番の窓口の前に夜明け前から立っていた方は、早く並んだから、損をしたのではありません」


 私は、左の札を指した。


「正確な窓口に並んだから、損をしたんです」


 誰も、不正をしていない。

 三番に並んだ人は、たまたま三番に並んだだけだ。

 一番に並んだ人も、たまたま一番に並んだだけだ。

 盤は、命じられた通りに、自分の刻を打っただけだ。


 係長が、三番の窓口のほうを見た。

 ネルは、まだ盤の前に立っていた。


「……開ける前に通した者は、いなかったんだな」


 係長は、誰にともなく言った。

 ネルは、黙って、頷いた。


 リゼが、三枚の札を見下ろしていた。


「合ってないのに、誰も嘘をついてないのね」


「そうだ」


「歌うときに、みんなが自分の中で数えてると、だんだん合わなくなるでしょ」


 リゼは言った。


「誰かが、手を叩かないと」


 さっき、ルドーが叩いた手のことを言っているのだと思った。

 叩いた本人は、もう、腕を組んでいた。


———

「どうして、三番だけなんでしょう」


 セラが言った。


「一番と二番は、二秒と三秒です。三番だけ、桁が違います」


「三番の窓口は、外扉が開くたびに冷えます」


 ネルが言った。


「手がかじかむので、みんな嫌がる場所で。今月は、私が引き受けました」


 外扉が、また開いた。

 風が、床を這ってきた。


 私は、三番の窓口の中へ入れてもらった。

 受付盤の、側板に、手のひらを当てた。


 冷たかった。

 冬の川から上げたばかりの石のような冷たさだった。


 一番の窓口の盤にも、触った。

 火鉢の熱が、かすかに残っていた。人の肌くらいの温もりである。


 二番の盤は、その間だった。


 三つの盤の、温もりの順と、遅れの順が、同じだった。


「盤の置き場所と、遅れ方が、揃っています」


 私は言った。


「冷たい盤ほど、遅れている」


———

「開けてもいいですか」


 係長は、少し迷ってから、頷いた。


「調達のときに、予備の部品が、いくつか来ています。もし壊れたら、それと替えられるはずです」


「壊しません。……ただ、見ていただきたいものがあります」


 ネルが、三番の盤を、窓口の台から下ろした。

 私は、盤の背の板を外した。


 中は、思っていたより、すっきりしていた。


 魔導回路の筋が、薄い板の上を走っている。

 記憶晶が二つ。札を打つための、小さな打ち込みの仕掛け。

 それから、板の隅に、小さな筒が一つ。


 指の先ほどの、金属の筒だった。

 銀色で、何の飾りもない。細い足が二本、魔導回路の筋に刺さっている。


AIエージェント:「観測:この部屋の温度は、この石にとって快適ではありません」


 私は、携帯術盤を、外套の内側に押し込んだ。


 まだ、誰にも見せていない。

 まだ、石だとも言っていない。


 最悪だ。

 こいつは、いつも、一手先の答えから喋る。


———

「予備の箱を、お借りできますか」


 係長が、奥から木の箱を持ってきた。


 中に、同じ筒が、六つ並んでいた。

 どれも、三番の盤の中のものと、同じ形である。


 私は、一つを取り出して、縁の封を、細い刃で起こした。

 筒の蓋が、外れた。


 中に、石が入っていた。


 米粒より小さい。

 薄く削り出した、乳白色の欠片である。根元から二股に分かれていて、楽師が音を合わせるときに叩く、二股の金具を、うんと小さくしたような形をしていた。

 灯りにかざすと、光が、少しだけ透けた。


 係長が、顔を近づけた。


「これは……魔法具ですか」


「いえ」


 私は言った。


「ただの石です。硝子と同じ材料の」


「硝子と」


「石英です。川原の砂にも、山の岩にも、どこにでも混じっている。魔法鉱物ではありません。魔力も、何も籠もっていない」


「水晶、ではないんですか。撮影水晶みたいな」


 セラが言った。


「撮影水晶とは、別物です」


 私は言った。


「あれは、像を写します。こちらは、像も音も写しません。……ただ、震えるだけです」


———

「震える」


 係長が繰り返した。


「この石は、術勢を通すと、ほんの少しだけ、形が変わります」


 私は、筒の中の欠片を、指でさした。


「人の目には見えないくらい、わずかに曲がる。曲がった石は、元に戻ろうとします。戻るときに、今度は、石のほうから術勢が出てくる。その術勢を、もう一度、石に通す。また曲がる。また戻る。また術勢が出る」


 私は、二本の指で、筒を軽く挟んだ。


「震えが、震えを呼んで、止まらなくなります。盤の中では、この震え返しが、一日じゅう、一年じゅう、続いています」


「どれくらいの速さで」


「この石は、形で、震える速さが決まっています。二股の腕を短く削れば速く、長く削れば遅い。この形だと」


 私は、言った。


「一秒のあいだに、三万二千七百六十八回」


 広間が、少しだけ、静かになった。


「三万……」


「三万二千七百六十八回、震えたら、盤の中の術式が、一秒と数えます」


「なぜ、そんな半端な数なんですか」


 ネルが言った。

 はじめて、自分から訊いた。


「半分に折っていけば、一になる数だからです」


 私は、表示盤の代わりに、係長の卓の上の、試しの札の裏に書いた。


 三万二千七百六十八

 一万六千三百八十四

 八千百九十二

 四千九十六


「半分に、折る。また折る。十五回折ると、ちょうど一になります。数を半分に折る仕掛けなら、術式は、いちばん簡単に作れる。だから、石の側を、その数で震えるように削ってある」


 リゼが、指を折っていた。

 六つ目のあたりで、指が足りなくなって、もう片方の手に移っていた。


「……十五」


「十五だ」


「本当に、一になるんだ」


「なる。そういうふうに、削ってある」


———

「では」


 係長が言った。

 声が、少し低くなっていた。


「石が、数を数えているのか」


「数えているのは、術式です」


 私は言った。


「石は、ただ震えているだけです。震えているのを数えて、三万二千七百六十八になったら一秒と書くのは、術式の仕事です。……ですが、その震えがなければ、術式は、自分がどれだけ待ったのかを知ることができません」


 私は、筒を、卓の上に置いた。


「術式は、数えることはできます。百でも、一万でも、間違えずに数える。……でも、一つと、次の一つのあいだが、同じ長さであること。それは、術式の中の、どこにも書いてありません。書けないんです」


 広間の人たちが、卓の上の、小さな筒を見ていた。


「同じ長さのあいだは、この石から借りています」


 言いながら、自分で、少し驚いていた。


 この世界では、岩が浮く。

 浮遊石は荷を運び、術式は声で動き、遠くの人と、鏡ごしに顔を見て話せる。

 物の重さも、距離も、魔法で、だいぶ曲げられる。


 それなのに、等しさだけは、曲げて作れない。

 どれだけ精緻な術式を積んでも、同じ長さの一秒を、術式は自分では作れない。


 この世界の術盤は、全部、川原に転がっているような石ころに、一秒の長さを借りて動いている。


 知っていたはずのことだった。

 知っていたのに、こちらで見ると、驚きのほうが先に来た。


AIエージェント:「補足:あなたの勘の一秒は、この石より三桁ほど不正確です」


「……黙れ」


 広間の何人かが、笑いをこらえた。

 ネルは、こらえきれずに、少しだけ笑った。


 今日、はじめて見た、この人の笑い顔だった。


「術は、数えることはできます」


 私は言い直した。


「時を等しく数えることは、できません。等しさは、この石から借りているんです」


 ルドーが、卓の上の筒を、しばらく見ていた。


「石は正直だ」


 それだけ言った。


———

「では、なぜ、三番の石だけ遅れるんですか」


 係長が言った。


「石は、いつも同じ速さで震えるわけではありません」


 私は、試しの札の裏の、空いたところに書いた。


 石の適温

  適温より寒い  遅れる

  適温より暑い  遅れる

  適温のとき   合う


「この石には、いちばん正しく震える温度があります。そこから離れると、震えが、わずかに遅くなる」


「寒いと遅くなって、暑いと速くなるんじゃなくて?」


 リゼが言った。


「暑くても、遅くなる」


「どっちでも?」


「どっちでも」


 私は、広間の人たちのほうへ向き直った。


「石は、ある温度のときだけ正しい。寒くても、暑くても、遅くなります。上でも下でも、遅くなるほうへ」


「遅くなるほうにしか、ずれないの」


「この形の石は、そういう性分らしい」


 ルドーが、外扉のほうを見た。


「寒いと遅れる。人と同じだ」


 ネルが、自分の赤い指先を見た。


「一番の盤は、火鉢の熱で、たまたま、石の適温の近くにいた。二番は、少し外れた。三番は、外扉が開くたびに冷やされて、ずっと適温の下にいた」


「一番は、二秒、進んでいましたが」


 セラが言った。


「石には、生まれつきの差もあります。同じように削っても、一つ一つ、ほんの少しずつ速さが違う。一番の石は、生まれつき、わずかに速い石だったんでしょう。適温の近くにいれば、その生まれつきが、そのまま出ます。二十九日で、二秒です」


 私は言った。


「遅れは、ほんのわずかです。一秒のあいだの、三万二千七百六十八回のうち、一回ぶんくらい。……でも、それが一日じゅう積もります。一日に、三秒ほど」


「三秒」


「月の初めに刻塔に合わせてから、今日で二十九日です。三秒の、二十九日ぶんで」


「一分二十八秒……」


 ネルが言った。

 自分の窓口の札に打たれていた数を、自分で言った。


———

「去年の春市の受付では、こういうことは」


 私が訊くと、係長は首を振った。


「ありませんでした。……ただ、盤は、去年までは古い盤でした。新しい盤が入ったのは、ひと月半前です。王都じゅうの区役所の受付盤を、術務室が、まとめて入れ替えました」


 昼前に、リゼが遠話で呼んだ二人が来た。


 王都術務室の基盤魔術班から、セシル。

 それから、マリエ。


 セシルは、一括調達の綴りを抱えてきていた。

 マリエは、何も持っていなかった。この人は、持ってくる必要のあるものを、たいてい頭の中に入れている。


「新婚の人を、冬の区役所に呼び出すなんて」


 マリエは、外套の雪を払いながら言った。


「調達の書付の話だって聞いたから、来たのよ。書付の話でなかったら、来なかったわ」


「書付の話です」


「でしょうね」


 セシルが、卓の上に綴りを広げた。


「受付盤の刻み台は、ひと月半前の一括調達で、仕入れ先が替わっています。前の工房が、刻み台の工房をやめたので」


「刻み台」


 係長が言った。


「術盤の作り手は、この筒を、そう呼びます」


 セシルが答えた。


「中の石を、刻み石。石と、震え返しと、数を半分に折る折り半とを、まとめて刻み台。……どの術盤にも、一つは入っています」


 私は、セシルが広げた書付を見た。


 刻のずれ 一日に一秒以内


 それだけだった。


「新しい刻み台は、これを満たしていますか」


「満たしています。届いたときに、試しをしています。全部、一日に一秒より小さかった」


「試しをした部屋は」


 セシルは、少し考えた。


「術務室の、試しの部屋です。……冬でも、暖めてあります」


 私は、頷いた。


 暖めた部屋で、一日に一秒より小さい。

 つまり、適温の近くでは、書付どおりだった。


「前の刻み台は、どうだったんでしょう」


「同じ書付です。同じ、一日に一秒以内」


「前の石は、たまたま、寒さに強い削り方だったのかもしれません」


 私は言った。


「同じ石英でも、削る向きと形で、適温も、適温から外れたときの遅れ方も変わります。前の工房の石は、冬の窓際でも、書付の外へは出なかった。……誰も、そこを確かめていなかったので、誰も知りませんでした」


———

 マリエが、書付を、指で一行ずつなぞっていた。


「書付の、刻のずれの欄は、いつからこの様式ですか」


「二十年前からです」


 セシルが言った。


「この様式で、困ったことはありませんでした」


「困らなかったのは、様式のおかげじゃなくて、前の工房のおかげだったのね」


 マリエは、指を一点で止めた。


「一日に一秒。……どの温度で、が書いてありません」


 マリエは、顔を上げた。


「書かせます」


「仕入れの担当は」


 係長が、おそるおそる言った。


「担当の方が、何か、間違えたということは」


「ありません」


 セシルが言った。


「担当は、書付を読んで、三つの工房の見積もりを比べて、書付を満たすいちばん安いものを選びました。届いたものは、試しをして、書付を満たしていることを確かめています。……手順は、全部、正しいです」


「書付は、満たしています」


 私は言った。


「書付が、足りなかったんです」


 ネルが、自分の手順書を、胸の前で閉じた。


 手順を全部守った人が、ここにも、もう一人いた。

 仕入れの担当も、ネルと同じだ。全部守って、それで、こうなった。


 悪い人は、どこにもいない。

 足りなかったのは、紙の上の、一つの欄だけだった。


———

 昼過ぎに、応急の段取りが決まった。


 三番の窓口の盤は、窓口の台ごと、火鉢の側へ寄せる。

 外扉の脇には、衝立を一枚立てて、風が床を這わないようにする。

 それから、三つの盤を、毎朝、受付を開ける前に、刻塔に合わせる。


「毎朝、開ける前に合わせます」


 ネルが言った。


「それだけで、いいんですか」


「今は、それで足ります」


 私は言った。


「一日に三秒なら、朝に合わせておけば、夕方までに一秒と少ししか、ずれません。一番と二番の窓口とも、そのくらいなら揃います」


「月の初めに一度、ではなくて」


「月の初めに一度、と書いた人も、間違っていなかったんです。前の石なら、それで足りていた」


 ネルは、手順書を開いた。

 月の初めの朝、と書いてある行の下に、細い字で一行、書き足した。


 毎朝、開ける前に、三つの盤を合わせる。窓際に盤を置かない。


「私の窓口ですから」


 ネルは言った。


「私がやります」


———

 すでに割り振った区画のほうは、マリエが段取った。


「受け直しはしません」


 マリエは言った。


「もう一度並ばせたら、今度は、並びに来られない人が出るわ。冬の朝に、二度並べる人ばかりじゃないもの」


「では、どうやって」


「札の刻を、検め直すの。ユウさん、三番の盤の遅れ方は、日ごとに分かるかしら」


「分かります」


 私は言った。


「月の初めに合わせてから、ほぼ同じ速さで遅れていったはずです。今日、一分二十八秒。なら、受付の初日は、何秒遅れていたか、数で出せます。一番と二番も、同じやり方で」


「それで、本当の順を出し直す」


 マリエは、係長を見た。


「ただし、札の刻は、書き換えないこと。直した刻は、別の紙に書いて、元の札と並べて残すの。あとで誰かが、どうしてこの順になったのか訊いたとき、両方を見せられるように」


「三番に並んで、先になった方の区画は……」


「取り上げないわ」


 マリエは即答した。


「三番に並んだ人は、何も悪いことをしていないもの。取り上げたら、今度はその人たちが、相談局へ行くことになるわ」


 セラが、小さく頷いた。


「区画を、足せますか」


 マリエが訊くと、係長は、しばらく考えた。


「……広場の東の端に、去年まで物置にしていた場所があります。あと五つなら」


「足しましょう。取り上げるより、足すほうが早いわ。足せるうちは」


 係長は、眉間の皺を、ほんの少しだけ浅くした。


———

 夕方、広間の火鉢に、新しい炭が足された。


 三番の窓口の盤は、もう火鉢の側にあった。

 外扉の脇には、衝立が立っている。外扉が開いても、風は衝立に当たって、上へ逃げていった。


 衝立の内側で、ネルが、盤の側板に手を当てていた。


「温かいです」


「よかった」


「……盤に、温かいって言ったの、はじめてです」


 ネルは、少し照れたように、手を離した。


 私は、予備の箱から出した筒を、蓋を戻して、箱に返した。

 蓋は、もう元のようには閉まらなかった。一つ、無駄にした。


 あとで、術務室の何かの綴りに、私の名前で一行書かれるのだろう。

 最悪だ。


———

「でも」


 リゼが言った。


 帰り支度をしているときだった。

 リゼは、昼に私が試しの札の裏に書いた数を、まだ見ていた。


「毎朝、刻塔に合わせるんでしょ」


「ああ」


「手を叩いてるのが、刻塔なのね」


「そういうことだ」


 リゼは、札を裏返した。


「さっきの、一日に一秒っていうのは」


「書付の数か」


「うん。一日に一秒ずれない、っていうのは、何と比べて一秒なの」


 私は、口を開きかけて、止まった。


 私は、セシルを見た。


「その、一日に一秒というのは」


 私は言った。


「何と比べて、一秒なんですか」


「刻塔と比べています」


 セシルは、すぐに答えた。


「届いた刻み台は、刻塔の刻と並べて、一日走らせて、ずれを見ます。受付盤も、術務室の盤も、王都の術盤は、全部、刻塔に合わせていますから」


「じゃあ」


 リゼが言った。


「その手を叩いてる人は、誰の手を見てるの」


 セシルが、リゼを見た。

 それから、私を見た。


「刻塔は」


 私は言った。


「何と比べているんですか」


 セシルは、口を開いた。


 開いたまま、何も言わなかった。


 しばらくして、口を閉じた。


 広間の高い天井の下で、誰も、何も言わなかった。

 火鉢の炭が、小さく爆ぜた。


 遠くで、刻塔の鐘が、夕方を告げはじめた。


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