第245話 石は数えていない
朝、窓が白かった。
霜である。
硝子の内側に、細い羊歯の葉のような模様が貼りついている。指で触れると、そこだけ溶けて、外の灰色が覗いた。
竈には、もう火が入っていた。
リゼが、鍋をかき回している。麦と根菜を煮た匂いが、部屋の冷えを、少しずつ押し返していた。
王都の冬は、下から来る。
石畳が冷え、壁が冷え、最後に床が冷える。季節は、足の裏から上がってくる。
「おはよう」
「おはよう。座ってて。もうできる」
私は、卓に着いた。
椅子の座面が、石のように冷たかった。
最悪だ。
冬の朝の最悪は、たいてい、尻から始まる。
———
「西区の話、聞いた?」
リゼが、椀を二つ置きながら言った。
「西区の、何の話だ」
「春市の受付。先週から、西区役所でやってるの」
「春市」
「春になったら、広場に屋台を出す市。出店の枠は、冬のうちに受け付けるの。区画の数が決まってるから、先着順」
リゼは、向かいに座って、匙を取った。
「それで、揉めてる。苦情が、うちの班に回ってきたの。受付の術式は、術務室の持ち物だから」
「揉めるだろう。先着順は、だいたい揉める」
「そういう揉め方じゃないの」
リゼは、匙を椀の縁に置いた。
「誰も嘘ついてないのに、話が合わないの。三人とも自分が先だって言ってて、三人とも本当なのよ」
「三人とも本当なのは、無理だ」
「無理でしょ。でも、そうなの」
私は、粥を一口すすった。
熱かった。
「誰かの勘違いだろう」
人間は、自分が並んだ刻を、だいたい早めに覚えている。
寒い中で待った時間は、実際より長く感じるからだ。長く待った気がすれば、早く来た気もする。
痛い目を見る前の人間はかわいいが、寒い目を見た後の人間の記憶は、あまり当てにならない。
「勘違いじゃないの」
リゼは言った。
「札が、そう言ってるの」
「札」
「受付札。窓口で受け付けると、刻を打った札が出てくるの。あとで、全部の札を刻の順に並べて、枠を割り振る。……それで、朝いちばんに並んでた人の札が、あとから来た人の札より、遅い刻になってるの」
「並んでた順が、間違ってたんじゃないのか」
「役所の人が見てたって。その人、夜明け前から一番の窓口の前に立ってたの。門番みたいに」
私は、匙を止めた。
朝いちばんに並んだ人の札が、あとから来た人の札より遅い。
並んだ順も、役所の人が見ている。
札は、受付盤が打っている。
「受付盤が、打ち間違えたのか」
「分かんない。だから、うちの班に来たの」
リゼは、粥をすすった。
「今日、見に行くことになると思う。……たぶん、ユウも」
「なんで俺も」
「なんとなく」
リゼの、なんとなく、は、だいたい当たる。
———
当たった。
術務室に着くと、私の卓の椅子に、ルドーが座っていた。
外套も脱いでいない。
膝の上で、手を組んでいる。誰かに通されたのか、自分で入ってきたのか、分からなかった。この人は、どこにでも先に着いている。
「行くぞ」
「どこへですか」
「西区だ」
「誰に聞いたんですか」
ルドーは答えなかった。
答えずに、立ち上がった。
支援班の卓のほうで、リゼが、苦情の綴りを抱えて、こちらを見ていた。
ほら、という顔だった。
「はい、はい」
「はいは一回だ」
———
西区役所の前に、見覚えのある顔があった。
市民相談局のセラだった。
前に、見分け術の件で会ったことがある。あのときより、外套が厚い。
「ユウさん」
セラは、小さく頭を下げた。
「相談局にも、同じ話が来ています。春市の受付で、先に並んだのに後になった、と。九件です」
「九件」
「うちに来る話は、たいてい、役所の窓口で怒ったあとの話です。窓口で怒って、まだ収まらない人が、うちに来ます」
セラは、相談札の束を、リゼに渡した。
リゼが持ってきた苦情の綴りと、厚さが、ほとんど同じだった。
別々の道から、同じ話が来た。
片方の道だけなら、声の大きい誰かが一人いるだけかもしれない。二つの道から同じ話が来たなら、話のほうは、たぶん本当だ。
———
西区役所の広間は、天井が高かった。
高い天井は、冬には向かない。
暖かい空気は、上へ逃げる。逃げた空気は戻ってこない。広間の真ん中に大きな火鉢が据えてあったが、その熱は、手をかざした人の手のひらにだけ届いていた。
窓口は、三つあった。
一番の窓口は、火鉢のそば。
二番の窓口は、広間の真ん中あたり。
三番の窓口は、いちばん奥。北の外扉の、すぐ脇だった。
外扉が開いた。
荷を抱えた男が一人、入ってきた。
一拍遅れて、冷たい風が、床を這ってきた。
三番の窓口の前に並んでいた人たちが、そろって外套の襟を立てた。
三番の窓口の中で、若い女の係が、両手に息を吐きかけていた。
———
「区画は、四十です」
西区役所の受付の係長が言った。
白髪の混じった、細い男である。眉間の皺が、今朝できたものではない深さだった。
「先着順。三つの窓口で受け付けて、それぞれの受付盤が、受け付けた刻を札に打ちます。受付が閉まったあとで、三つの窓口の札を全部集めて、刻の順に並べます。早い札から、区画を割り振ります」
「割り振りは、もう」
「初日のぶんを、一昨日、貼り出しました。それから、この騒ぎです」
係長は、卓の上に、札を三枚並べた。
一番 朝四つ 零分五秒
三番 朝三つ 五十八分五十九秒
三番 朝三つ 五十九分五十二秒
「左の札が、苦情を言っている方のものです。夜明け前から、一番の窓口の前に立っていた。開けた瞬間に受け付けました」
「真ん中と右は」
「三番の、一人目と四人目の方です。……どちらも、左の札より、早い刻になっています」
私は、三枚の札を見た。
「窓口を開けたのは」
「朝四つの鐘が鳴ってからです。三つとも、同時に」
朝四つの鐘で開けた窓口で、朝三つの札が出ている。
三番の二枚は、どちらも、鐘より前の刻だった。
一人目の札など、鐘の一分も前である。
開いていない窓口で、札は出ない。
なら、間違っているのは、札の刻のほうだ。
「開ける前に、こっそり受け付けたのではないか、と言われました」
係長が、声を落とした。
「三番の係が、知り合いを先に通したのではないか、と。……苦情の半分は、そういう話です」
———
「私が、打ち間違えたんだと思っていました」
三番の窓口の係が言った。
さっき、両手に息を吐きかけていた人である。
ネル、と名乗った。
指の先が、赤かった。
「受付盤の刻は、私が打つものではありません。盤が、勝手に打ちます。開ける前に受け付けたりも、していません。……それでも、何か、私が触ってはいけないところを触ったんだと思って。何度も見直したんです」
ネルは、窓口の脇から、綴りを一冊出した。
受付の手順書だった。
頁の角が、丸くなっていた。
何度もめくった角である。
「月の初めの朝、受付盤を刻塔に合わせる。済。……毎朝、開ける前に、盤の札の残りを確かめる。済。札が詰まったら、二番の係を呼ぶ。……一度も詰まっていません」
手順書の欄は、全部、埋まっていた。
字が丁寧だった。丁寧すぎて、少し痛々しかった。
「手順は、全部守られています」
私は言った。
「守られているのに、こうなった。……なら、たぶん、ネルさんのせいではありません」
ネルは、頷かなかった。
手順を全部守った人ほど、自分のせいだと思う。守っていない人には、守っていないところが言い訳になるからだ。守った人には、それが無い。
———
「一度に、三つの盤で札を打ってもらえますか」
私は言った。
「同じ瞬間に。客の札ではなく、試しの札を」
「同じ瞬間に、ですか」
「合図をします。……リゼ、一番の窓口を」
「わかった」
「セラさん、二番を。ネルさんは、そのまま三番で」
三人が、それぞれの窓口の、盤の前に立った。
私は、携帯術盤を出した。術務室の盤に合わせてある刻である。術務室の盤は、刻塔に合わせてある。
「合図は」
係長が言った。
ルドーが、両手を、胸の前に上げた。
広間の人たちが、なんとなく、そちらを見た。
ルドーは、一度だけ、手を打った。
乾いた音が、高い天井に上がっていった。
三つの盤が、同時に札を吐いた。
———
三枚の札を、卓に並べた。
私の携帯術盤の刻と、一枚ずつ、比べた。
一番 二秒、早い
二番 三秒、遅い
三番 一分二十八秒、遅い
係長が、息を呑んだ。
「一分……」
「一分二十八秒です」
「壊れているんですか。三番の盤が」
「いいえ」
私は言った。
「どの盤も壊れていません。全部、正しく動いています。……ただ、同じ速さで動いてはいません」
三番の盤は、一分二十八秒、遅れて刻を打つ。
つまり、三番で受け付けた人の札は、本当の刻より、一分二十八秒早い刻になる。
「遅れている盤で受け付けた人ほど、早い刻の札を持っています」
私は言った。
「三番の列に並んだ人は、その日の遅れのぶんだけ、先に並んだことになっていた。受付の初日でも、一分ほど。……一番の窓口の前に夜明け前から立っていた方は、早く並んだから、損をしたのではありません」
私は、左の札を指した。
「正確な窓口に並んだから、損をしたんです」
誰も、不正をしていない。
三番に並んだ人は、たまたま三番に並んだだけだ。
一番に並んだ人も、たまたま一番に並んだだけだ。
盤は、命じられた通りに、自分の刻を打っただけだ。
係長が、三番の窓口のほうを見た。
ネルは、まだ盤の前に立っていた。
「……開ける前に通した者は、いなかったんだな」
係長は、誰にともなく言った。
ネルは、黙って、頷いた。
リゼが、三枚の札を見下ろしていた。
「合ってないのに、誰も嘘をついてないのね」
「そうだ」
「歌うときに、みんなが自分の中で数えてると、だんだん合わなくなるでしょ」
リゼは言った。
「誰かが、手を叩かないと」
さっき、ルドーが叩いた手のことを言っているのだと思った。
叩いた本人は、もう、腕を組んでいた。
———
「どうして、三番だけなんでしょう」
セラが言った。
「一番と二番は、二秒と三秒です。三番だけ、桁が違います」
「三番の窓口は、外扉が開くたびに冷えます」
ネルが言った。
「手がかじかむので、みんな嫌がる場所で。今月は、私が引き受けました」
外扉が、また開いた。
風が、床を這ってきた。
私は、三番の窓口の中へ入れてもらった。
受付盤の、側板に、手のひらを当てた。
冷たかった。
冬の川から上げたばかりの石のような冷たさだった。
一番の窓口の盤にも、触った。
火鉢の熱が、かすかに残っていた。人の肌くらいの温もりである。
二番の盤は、その間だった。
三つの盤の、温もりの順と、遅れの順が、同じだった。
「盤の置き場所と、遅れ方が、揃っています」
私は言った。
「冷たい盤ほど、遅れている」
———
「開けてもいいですか」
係長は、少し迷ってから、頷いた。
「調達のときに、予備の部品が、いくつか来ています。もし壊れたら、それと替えられるはずです」
「壊しません。……ただ、見ていただきたいものがあります」
ネルが、三番の盤を、窓口の台から下ろした。
私は、盤の背の板を外した。
中は、思っていたより、すっきりしていた。
魔導回路の筋が、薄い板の上を走っている。
記憶晶が二つ。札を打つための、小さな打ち込みの仕掛け。
それから、板の隅に、小さな筒が一つ。
指の先ほどの、金属の筒だった。
銀色で、何の飾りもない。細い足が二本、魔導回路の筋に刺さっている。
AIエージェント:「観測:この部屋の温度は、この石にとって快適ではありません」
私は、携帯術盤を、外套の内側に押し込んだ。
まだ、誰にも見せていない。
まだ、石だとも言っていない。
最悪だ。
こいつは、いつも、一手先の答えから喋る。
———
「予備の箱を、お借りできますか」
係長が、奥から木の箱を持ってきた。
中に、同じ筒が、六つ並んでいた。
どれも、三番の盤の中のものと、同じ形である。
私は、一つを取り出して、縁の封を、細い刃で起こした。
筒の蓋が、外れた。
中に、石が入っていた。
米粒より小さい。
薄く削り出した、乳白色の欠片である。根元から二股に分かれていて、楽師が音を合わせるときに叩く、二股の金具を、うんと小さくしたような形をしていた。
灯りにかざすと、光が、少しだけ透けた。
係長が、顔を近づけた。
「これは……魔法具ですか」
「いえ」
私は言った。
「ただの石です。硝子と同じ材料の」
「硝子と」
「石英です。川原の砂にも、山の岩にも、どこにでも混じっている。魔法鉱物ではありません。魔力も、何も籠もっていない」
「水晶、ではないんですか。撮影水晶みたいな」
セラが言った。
「撮影水晶とは、別物です」
私は言った。
「あれは、像を写します。こちらは、像も音も写しません。……ただ、震えるだけです」
———
「震える」
係長が繰り返した。
「この石は、術勢を通すと、ほんの少しだけ、形が変わります」
私は、筒の中の欠片を、指でさした。
「人の目には見えないくらい、わずかに曲がる。曲がった石は、元に戻ろうとします。戻るときに、今度は、石のほうから術勢が出てくる。その術勢を、もう一度、石に通す。また曲がる。また戻る。また術勢が出る」
私は、二本の指で、筒を軽く挟んだ。
「震えが、震えを呼んで、止まらなくなります。盤の中では、この震え返しが、一日じゅう、一年じゅう、続いています」
「どれくらいの速さで」
「この石は、形で、震える速さが決まっています。二股の腕を短く削れば速く、長く削れば遅い。この形だと」
私は、言った。
「一秒のあいだに、三万二千七百六十八回」
広間が、少しだけ、静かになった。
「三万……」
「三万二千七百六十八回、震えたら、盤の中の術式が、一秒と数えます」
「なぜ、そんな半端な数なんですか」
ネルが言った。
はじめて、自分から訊いた。
「半分に折っていけば、一になる数だからです」
私は、表示盤の代わりに、係長の卓の上の、試しの札の裏に書いた。
三万二千七百六十八
一万六千三百八十四
八千百九十二
四千九十六
「半分に、折る。また折る。十五回折ると、ちょうど一になります。数を半分に折る仕掛けなら、術式は、いちばん簡単に作れる。だから、石の側を、その数で震えるように削ってある」
リゼが、指を折っていた。
六つ目のあたりで、指が足りなくなって、もう片方の手に移っていた。
「……十五」
「十五だ」
「本当に、一になるんだ」
「なる。そういうふうに、削ってある」
———
「では」
係長が言った。
声が、少し低くなっていた。
「石が、数を数えているのか」
「数えているのは、術式です」
私は言った。
「石は、ただ震えているだけです。震えているのを数えて、三万二千七百六十八になったら一秒と書くのは、術式の仕事です。……ですが、その震えがなければ、術式は、自分がどれだけ待ったのかを知ることができません」
私は、筒を、卓の上に置いた。
「術式は、数えることはできます。百でも、一万でも、間違えずに数える。……でも、一つと、次の一つのあいだが、同じ長さであること。それは、術式の中の、どこにも書いてありません。書けないんです」
広間の人たちが、卓の上の、小さな筒を見ていた。
「同じ長さのあいだは、この石から借りています」
言いながら、自分で、少し驚いていた。
この世界では、岩が浮く。
浮遊石は荷を運び、術式は声で動き、遠くの人と、鏡ごしに顔を見て話せる。
物の重さも、距離も、魔法で、だいぶ曲げられる。
それなのに、等しさだけは、曲げて作れない。
どれだけ精緻な術式を積んでも、同じ長さの一秒を、術式は自分では作れない。
この世界の術盤は、全部、川原に転がっているような石ころに、一秒の長さを借りて動いている。
知っていたはずのことだった。
知っていたのに、こちらで見ると、驚きのほうが先に来た。
AIエージェント:「補足:あなたの勘の一秒は、この石より三桁ほど不正確です」
「……黙れ」
広間の何人かが、笑いをこらえた。
ネルは、こらえきれずに、少しだけ笑った。
今日、はじめて見た、この人の笑い顔だった。
「術は、数えることはできます」
私は言い直した。
「時を等しく数えることは、できません。等しさは、この石から借りているんです」
ルドーが、卓の上の筒を、しばらく見ていた。
「石は正直だ」
それだけ言った。
———
「では、なぜ、三番の石だけ遅れるんですか」
係長が言った。
「石は、いつも同じ速さで震えるわけではありません」
私は、試しの札の裏の、空いたところに書いた。
石の適温
適温より寒い 遅れる
適温より暑い 遅れる
適温のとき 合う
「この石には、いちばん正しく震える温度があります。そこから離れると、震えが、わずかに遅くなる」
「寒いと遅くなって、暑いと速くなるんじゃなくて?」
リゼが言った。
「暑くても、遅くなる」
「どっちでも?」
「どっちでも」
私は、広間の人たちのほうへ向き直った。
「石は、ある温度のときだけ正しい。寒くても、暑くても、遅くなります。上でも下でも、遅くなるほうへ」
「遅くなるほうにしか、ずれないの」
「この形の石は、そういう性分らしい」
ルドーが、外扉のほうを見た。
「寒いと遅れる。人と同じだ」
ネルが、自分の赤い指先を見た。
「一番の盤は、火鉢の熱で、たまたま、石の適温の近くにいた。二番は、少し外れた。三番は、外扉が開くたびに冷やされて、ずっと適温の下にいた」
「一番は、二秒、進んでいましたが」
セラが言った。
「石には、生まれつきの差もあります。同じように削っても、一つ一つ、ほんの少しずつ速さが違う。一番の石は、生まれつき、わずかに速い石だったんでしょう。適温の近くにいれば、その生まれつきが、そのまま出ます。二十九日で、二秒です」
私は言った。
「遅れは、ほんのわずかです。一秒のあいだの、三万二千七百六十八回のうち、一回ぶんくらい。……でも、それが一日じゅう積もります。一日に、三秒ほど」
「三秒」
「月の初めに刻塔に合わせてから、今日で二十九日です。三秒の、二十九日ぶんで」
「一分二十八秒……」
ネルが言った。
自分の窓口の札に打たれていた数を、自分で言った。
———
「去年の春市の受付では、こういうことは」
私が訊くと、係長は首を振った。
「ありませんでした。……ただ、盤は、去年までは古い盤でした。新しい盤が入ったのは、ひと月半前です。王都じゅうの区役所の受付盤を、術務室が、まとめて入れ替えました」
昼前に、リゼが遠話で呼んだ二人が来た。
王都術務室の基盤魔術班から、セシル。
それから、マリエ。
セシルは、一括調達の綴りを抱えてきていた。
マリエは、何も持っていなかった。この人は、持ってくる必要のあるものを、たいてい頭の中に入れている。
「新婚の人を、冬の区役所に呼び出すなんて」
マリエは、外套の雪を払いながら言った。
「調達の書付の話だって聞いたから、来たのよ。書付の話でなかったら、来なかったわ」
「書付の話です」
「でしょうね」
セシルが、卓の上に綴りを広げた。
「受付盤の刻み台は、ひと月半前の一括調達で、仕入れ先が替わっています。前の工房が、刻み台の工房をやめたので」
「刻み台」
係長が言った。
「術盤の作り手は、この筒を、そう呼びます」
セシルが答えた。
「中の石を、刻み石。石と、震え返しと、数を半分に折る折り半とを、まとめて刻み台。……どの術盤にも、一つは入っています」
私は、セシルが広げた書付を見た。
刻のずれ 一日に一秒以内
それだけだった。
「新しい刻み台は、これを満たしていますか」
「満たしています。届いたときに、試しをしています。全部、一日に一秒より小さかった」
「試しをした部屋は」
セシルは、少し考えた。
「術務室の、試しの部屋です。……冬でも、暖めてあります」
私は、頷いた。
暖めた部屋で、一日に一秒より小さい。
つまり、適温の近くでは、書付どおりだった。
「前の刻み台は、どうだったんでしょう」
「同じ書付です。同じ、一日に一秒以内」
「前の石は、たまたま、寒さに強い削り方だったのかもしれません」
私は言った。
「同じ石英でも、削る向きと形で、適温も、適温から外れたときの遅れ方も変わります。前の工房の石は、冬の窓際でも、書付の外へは出なかった。……誰も、そこを確かめていなかったので、誰も知りませんでした」
———
マリエが、書付を、指で一行ずつなぞっていた。
「書付の、刻のずれの欄は、いつからこの様式ですか」
「二十年前からです」
セシルが言った。
「この様式で、困ったことはありませんでした」
「困らなかったのは、様式のおかげじゃなくて、前の工房のおかげだったのね」
マリエは、指を一点で止めた。
「一日に一秒。……どの温度で、が書いてありません」
マリエは、顔を上げた。
「書かせます」
「仕入れの担当は」
係長が、おそるおそる言った。
「担当の方が、何か、間違えたということは」
「ありません」
セシルが言った。
「担当は、書付を読んで、三つの工房の見積もりを比べて、書付を満たすいちばん安いものを選びました。届いたものは、試しをして、書付を満たしていることを確かめています。……手順は、全部、正しいです」
「書付は、満たしています」
私は言った。
「書付が、足りなかったんです」
ネルが、自分の手順書を、胸の前で閉じた。
手順を全部守った人が、ここにも、もう一人いた。
仕入れの担当も、ネルと同じだ。全部守って、それで、こうなった。
悪い人は、どこにもいない。
足りなかったのは、紙の上の、一つの欄だけだった。
———
昼過ぎに、応急の段取りが決まった。
三番の窓口の盤は、窓口の台ごと、火鉢の側へ寄せる。
外扉の脇には、衝立を一枚立てて、風が床を這わないようにする。
それから、三つの盤を、毎朝、受付を開ける前に、刻塔に合わせる。
「毎朝、開ける前に合わせます」
ネルが言った。
「それだけで、いいんですか」
「今は、それで足ります」
私は言った。
「一日に三秒なら、朝に合わせておけば、夕方までに一秒と少ししか、ずれません。一番と二番の窓口とも、そのくらいなら揃います」
「月の初めに一度、ではなくて」
「月の初めに一度、と書いた人も、間違っていなかったんです。前の石なら、それで足りていた」
ネルは、手順書を開いた。
月の初めの朝、と書いてある行の下に、細い字で一行、書き足した。
毎朝、開ける前に、三つの盤を合わせる。窓際に盤を置かない。
「私の窓口ですから」
ネルは言った。
「私がやります」
———
すでに割り振った区画のほうは、マリエが段取った。
「受け直しはしません」
マリエは言った。
「もう一度並ばせたら、今度は、並びに来られない人が出るわ。冬の朝に、二度並べる人ばかりじゃないもの」
「では、どうやって」
「札の刻を、検め直すの。ユウさん、三番の盤の遅れ方は、日ごとに分かるかしら」
「分かります」
私は言った。
「月の初めに合わせてから、ほぼ同じ速さで遅れていったはずです。今日、一分二十八秒。なら、受付の初日は、何秒遅れていたか、数で出せます。一番と二番も、同じやり方で」
「それで、本当の順を出し直す」
マリエは、係長を見た。
「ただし、札の刻は、書き換えないこと。直した刻は、別の紙に書いて、元の札と並べて残すの。あとで誰かが、どうしてこの順になったのか訊いたとき、両方を見せられるように」
「三番に並んで、先になった方の区画は……」
「取り上げないわ」
マリエは即答した。
「三番に並んだ人は、何も悪いことをしていないもの。取り上げたら、今度はその人たちが、相談局へ行くことになるわ」
セラが、小さく頷いた。
「区画を、足せますか」
マリエが訊くと、係長は、しばらく考えた。
「……広場の東の端に、去年まで物置にしていた場所があります。あと五つなら」
「足しましょう。取り上げるより、足すほうが早いわ。足せるうちは」
係長は、眉間の皺を、ほんの少しだけ浅くした。
———
夕方、広間の火鉢に、新しい炭が足された。
三番の窓口の盤は、もう火鉢の側にあった。
外扉の脇には、衝立が立っている。外扉が開いても、風は衝立に当たって、上へ逃げていった。
衝立の内側で、ネルが、盤の側板に手を当てていた。
「温かいです」
「よかった」
「……盤に、温かいって言ったの、はじめてです」
ネルは、少し照れたように、手を離した。
私は、予備の箱から出した筒を、蓋を戻して、箱に返した。
蓋は、もう元のようには閉まらなかった。一つ、無駄にした。
あとで、術務室の何かの綴りに、私の名前で一行書かれるのだろう。
最悪だ。
———
「でも」
リゼが言った。
帰り支度をしているときだった。
リゼは、昼に私が試しの札の裏に書いた数を、まだ見ていた。
「毎朝、刻塔に合わせるんでしょ」
「ああ」
「手を叩いてるのが、刻塔なのね」
「そういうことだ」
リゼは、札を裏返した。
「さっきの、一日に一秒っていうのは」
「書付の数か」
「うん。一日に一秒ずれない、っていうのは、何と比べて一秒なの」
私は、口を開きかけて、止まった。
私は、セシルを見た。
「その、一日に一秒というのは」
私は言った。
「何と比べて、一秒なんですか」
「刻塔と比べています」
セシルは、すぐに答えた。
「届いた刻み台は、刻塔の刻と並べて、一日走らせて、ずれを見ます。受付盤も、術務室の盤も、王都の術盤は、全部、刻塔に合わせていますから」
「じゃあ」
リゼが言った。
「その手を叩いてる人は、誰の手を見てるの」
セシルが、リゼを見た。
それから、私を見た。
「刻塔は」
私は言った。
「何と比べているんですか」
セシルは、口を開いた。
開いたまま、何も言わなかった。
しばらくして、口を閉じた。
広間の高い天井の下で、誰も、何も言わなかった。
火鉢の炭が、小さく爆ぜた。
遠くで、刻塔の鐘が、夕方を告げはじめた。




