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魔法世界は運用で回る  作者: 月の位相
夫婦編

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241/248

第241話 続けて

 朝の粥が、冷めていく。


 湯気が、さっきまでは椀の縁から立っていた。

 今は、立っていない。

 表面に、薄い膜が張りはじめている。


 私は、匙を持ったまま、携帯術盤の面を繰っていた。


「冷めるわよ」


 リゼが言った。


「うん」


「うん、じゃなくて」


「読み終わったら食べる」


「それ、さっきも聞いた」


 さっきも言った。

 さっきから、まだ半分も読めていない。


 二件目の反例が出て、二日が経っていた。


 見つけたリュヴァンは、昨夜、囁にもう一つ流していた。

 生成変換器とのやりとりを、頭から終わりまで、丸ごと写したものである。何を頼み、何が返り、何をまた頼んだか。全部が、誰でも読める形で出ていた。


 王都の数理魔導士たちは、夜のうちにそれを読んだらしい。

 読んだ者のつぶやきが、朝までに、いくつも流れていた。


 驚いていたのは、中身ではなかった。


   人間が、ほとんど何も書いていない

   数式を一つも渡していない

   これで三十年が終わるのか


 私も、同じところで止まっていた。


「何が書いてあるの」


 リゼが、自分の椀を空にしてから訊いた。


「生成変換器が、三度、探しに行った記録だ」


「三度」


「一度目で、見つかりませんでした、と返ってきた。人間が、続けろ、と返した。二度目も、まだ出ない。人間が、仕上げろ、と返した。三度目で、出た」


「それだけ?」


「だいたい、それだけだ」


 リゼは、匙を置いた。


「あなた、探し物のとき、もうない、って言うでしょ」


「……言う」


「わたしが、もう一回見て、って言うと、だいたい出てくるのよね」


 私は、黙った。


 先週の鍵がそうだった。

 その前の週の、片方だけの靴下もそうだった。

 最悪だ。


「出てくるね」


「出てくるのよ」


 リゼは、私の椀を指で押した。


「だから、冷める前に、もう一回、匙を見て」


———

 講堂に入ると、ルドーが、もう教壇にいた。


 教卓の上に、紙の束が積んである。

 学生が席に着くたびに、ルドーは一部ずつ配った。何も言わずに。


 配られた学生が、紙をめくって、顔を上げる。

 昨夜の写しだった。リュヴァンが流した、あのやりとりを、全部、紙に起こしてある。


 かなり厚い。

 生成変換器の返しは、どれも長い。


 全員に行き渡ったところで、ルドーは言った。


「読め」


 それだけだった。


「人間が書いた行だけ、数えろ」


 講堂に、紙をめくる音が満ちた。


 私も、自分の束をめくった。

 今朝、台所で半分まで読んだものである。


 最初の行は、人間が書いていた。


   この予想の綴りを渡す。反例を作れ。中途半端でなく、構造のある反例を。


 綴りが一つ、添えてあった。三十年前の、あの三名の論文である。


 そこから、生成変換器の返しが、長く続く。

 一刻半、考えていたらしい。いくつもの図を組み、組んでは崩し、また組んでいる。途中で、これは有望だ、と書いている箇所がいくつもある。


 返しの最後は、こうだった。


   見つかりませんでした。

   有望に見えた構成はいくつかありましたが、詰めていくと、どれも差が零に戻ります。

   正直に申し上げて、あれを反例として提示することはできません。


 人間が書いた、二つ目の返し。二行あった。


   探すのを続けよ。

   手当たり次第をやめ、問題の作りをもっと深く分かったうえで、はっきりした方針を持て。


 また、一刻半。

 まだ、出ない。

 ただし、返しの終わりに、こう書いてあった。


   反例が残りうる形は、ここまで絞れました。


 人間が書いた、三つ目の返し。


   部分的な結果は、もう十分だ。完全な反例で仕上げよ。


 また、一刻半。


 出た。


 しかも、頼んだものより強い形だった。

 リュヴァンが頼んだのは、どんな図でもいいから反例を、だった。返ってきたのは、紙の上に、道を一本も交差させずに描ける、平たい図の中での反例だった。平たい図は、作れる形が限られている。限られた中で作ったぶん、崩した範囲が広い。


 人間が渡した数式は、一つも無かった。


———

「数えたか」


 ルドーが言った。


「……問いを別にして、二回です」


 前の列の学生が言った。


「行にすると、二回目が二行で、三回目が一行。三行です」


「三行だ」


 ルドーは頷いた。


「何をした」


 手が挙がった。


「運です」


「三度も、運が要ったのか」


 学生は、口を閉じた。


 次の手は、少し自信がありそうだった。


「励ましたんです。続けて、と優しく言われると、模型は力を出すんだと思います。人間と同じで」


「では、優しくすれば、必ず出るのか」


 ルドーは言った。


「やってみたのか」


 学生は、答えられなかった。


 講堂の何人かが、目を伏せた。

 昨夜、囁を読んで、同じことを思った者たちだろう。囁の流れの半分は、その話で埋まっていた。生成変換器には、優しく、粘り強く、諦めずに声をかけよ。そうすれば解ける。


 三人目は、手を挙げなかった。


「ユウ」


「はい」


「はい」


「はいは一回だ」


———

「三行を、一つずつ見ます」


 私は、表示盤の前に立った。


「まず、何が書いていないか、です。数式が無い。図が無い。こう組め、という方針も無い。この人は、この予想を若いころに何週間も考えた専門家です。書こうと思えば、書けたはずです」


「書かなかった」


「書かなかった。かわりに、こう書いた」


 表示盤に、三つ並べた。


   続けよ

   探し方を変えよ

   仕上げよ


「一つ目。続けよ」


 私は、その行を指した。


「生成変換器は、見つかりませんでした、と言いました。つまり、探すのをやめた。この人は、その打ち切りを取り消しました。一昨日の言い方で言えば、探し止めを取り消したんです」


「二つ目。手当たり次第をやめ、作りを分かってから探せ」


「探し方を、変えさせた」


「そうです。量を増やせ、とは言っていません。向きを変えろ、と言った」


「三つ目。部分的な結果はもう十分だ、仕上げよ」


 私は、二度目の返しの最後の一文を読んだ。


「反例が残りうる形は、ここまで絞れました。……生成変換器は、ここで、途中の報告を出して止まろうとしています。よく働いた、ここまで分かった、という報告です。この人は、それで満足しなかった」


 三つの行の脇に、一行足した。


   どれも、数理ではない


「あの人が渡したのは、数式でも方針でもありません。三行です。続けよ。探し方を変えよ。仕上げよ。……全部、探すことの舵取りです」


———

「生成変換器は、見つかりませんでした、と言いました」


 私は、写しの一度目の返しを、もう一度指した。


「見つかりませんでした、は、無いことの証明ではありません。ここまでの探し方では出なかった、という記録です」


 講堂が、少し静かになった。


「人間どうしなら、無理です、には別の重さがあります」


 私は言った。


「その人が、知っていることを全部使って、持っている刻を全部使って、それでも無理だった。その人の限りが、そこにある。だから、受け入れるのが礼儀でした。もう一回やれ、と言うのは、失礼です」


「はい」


「生成変換器の、無理です、は違います。限りではなく、打ち切りの記録です。一刻半で、この探し方で、出なかった。そこに、礼儀を持ち込む必要はありません」


 私は、表示盤の端に、一昨日の一行を書き直した。


   予想とは、みんなが探し止めを決めた場所につけられた名前


「八十年と、三十年。誰も探さなかった年月ではありません。みんなが、探し止めを決めていた年月です。……この人は、生成変換器の探し止めを、二度、取り消した。それだけで、三十年が終わった」


 前の列の学生が、写しの束を握りしめていた。


「……それなら、やっぱり」


 さっきの、励ましの誤答をした学生である。


「続けろ、と言い続ければ、解けるってことですか」


「そこです」


 私は言った。


「ただし、です」


———

「ただし、が三つあります」


 私は、表示盤に、三つの行を空けた。


「一つ目。続けよ、が効いたのは、撃ち直しが安かったからです」


 一行目に、書いた。


   一回が安いから、三度撃てた


「一回の探しが、一刻半。払いは、銀貨で数えられる程度。だから、三度撃てました。一回が金貨百枚なら、三度目の前に破産します。続けよ、と言える人は、たいてい、続けられる懐を持っている人です」


「根気ではなくて」


「安さが先で、根気は後です」


 二行目。


   続ければ出る、という保証は無い


「二つ目。三度目で出たのは、結果です。十度目でも出ないことは、あります。百度目でも。出るまでやれ、は方針ではありません。ただの丸投げです」


 三行目を書きかけたところで、横から声がした。


「でも、それ」


 リゼだった。

 学生の席から、普通に手を挙げずに言っていた。


「人に言い続けたら、ただの嫌がらせよ」


 講堂が、笑った。


 出てこない、と言っている人に、もう一回、もう一回、と言い続ける。

 出てくるまで、言い続ける。

 台所でやれば、たぶん、夫婦の喧嘩になる。職場でやれば、たぶん、訴えられる。


 私は、三行目を書いた。


   人にやれば、ただの無茶振り


「……人には、言わないでください」


 私は言った。


「人は、一回が安くありません」


 リゼが、少し得意そうな顔をしていた。

 今朝の粥の件を、まだ持っているらしい。


「では、どうするか」


 私は、三つの行の下に、線を一本引いた。


「探し止めそのものを、先に書きます」


   いつまで

   いくらまで

   どうなったら、やめるか


「生成変換器は、人間と同じところでは、やめないそうです。正しいはずだから探さない、という止まり方を、あまりしない。かといって、やめどきを生成変換器に任せれば、一刻半で、見つかりませんでした、と返してくる。自分の都合のところで、やめる。どちらにしても、やめどきは、こちらの思うところには来ません」


「だから、人が書く」


「はい。やめどきは、探す前に、人が書きます」


 ルドーが、教卓の脇で、腕を組んでいた。


「探すのをやめるのは、罪ではない」


 ルドーは言った。


「いつやめたか覚えていないのが、罪だ」


 学生たちが、それを写した。

 ルドーの言葉は、短いので、写すのが早い。


———

 昼過ぎ、術務室の自分の卓で書き物をしていると、リゼが来た。


 学校から、私より先に戻っていたらしい。

 政務術式支援班の見習いの顔をしていた。家の顔とも、講堂の顔とも、少し違う顔である。


「ユウ、ちょっと来て」


 家にいるときと、同じ呼び方である。

 この人は、術務室でも呼び方を変えない。変えないまま、顔だけ、仕事の顔にする。


「班で、見てほしいの」


「減免計算か」


「うん」


 やはり、呼ばれた。


———

 政務術式支援班の卓は、窓際にある。


 午後の光が、紙の山を斜めに照らしていた。

 卓を三つ寄せて、班の何人かが、表示盤を囲んでいる。


 その真ん中に、若い男が座っていた。


 痩せている。

 指先に、墨が染みている。

 目の下が、黒い。


「ブレンです」


 男は、立ち上がって頭を下げた。


「冬越し減免の、新しい術式を書きました。来週の頭に、配備です」


「ユウです。試験は」


「全部、通っています」


 ブレンは、表示盤を指した。

 試験札が、五十と少し並んでいる。どれも緑灯だった。


「減免の対象になる人。ならない人。半月だけ住んだ人。去年も受けた人。今年はじめての人。……出納局の古い術式で、去年出した額と、全部突き合わせました。全部、一致しています」


 几帳面な仕事である。

 札の名前を見るだけで分かる。一つずつ、自分で考えて書いている。


「それなのに」


 ブレンは、言いかけて、止まった。


「眠れない」


 私が言うと、ブレンは、少し驚いた顔をした。

 それから、リゼのほうを見た。リゼは、窓の外を見ていた。


「……眠れません」


「どうして、だと思いますか」


 ブレンは、しばらく考えた。


「正しい入力なら、正しく動くんです」


 ブレンは言った。


「それは、確かめました。何度も」


「では」


 私は言った。


「正しくない入力では?」


 ブレンは、答えなかった。


 表示盤の、五十と少しの緑灯を、見ていた。

 一つずつ、目で追っている。対象になる人。ならない人。半月だけ住んだ人。去年も受けた人。


 どれも、ちゃんとした人だった。

 ちゃんとした名前で、ちゃんとした額で、ちゃんとした日付で来る人だった。


「……壊れない入力しか」


 ブレンは、言った。


「試していませんでした」


 声は、小さかった。

 落ち込んだ声だったが、崩れた声ではなかった。何かを見つけた人の声でもあった。


 眠れなかったのは、たぶん、これを、どこかで知っていたからである。


———

「何を試せばいいか、から始めましょう」


 私は言った。


「その前に、一つ訊きます。この術式が、どんな入力が来ても、破ってはいけない約束は何ですか」


「約束」


「試験札は、この入力ならこの額、と一つずつ書きます。約束は、どんな入力でも、これだけは守る、と書きます。基幹記録庫を移したとき、守るべき約束、と呼んで、同じものを並べました」


 班の年かさの術師が、ああ、と言った。

 あのとき、この班も、あの部屋にいた。


 表示盤の、緑灯の並びの隣を、空けた。


「どなたからでも」


 少し、間があった。


「……減免の額は、零より小さくならない」


 ブレンが言った。


「書きましょう」


 次は、年かさの術師だった。


「端数は、市民に有利な側へ丸める」


「勅令ですね」


「二百年前の。出納局のミルカさんが、即答したやつだ」


 書いた。


 リゼが、手を挙げかけて、下ろした。

 下ろしてから、言った。


「まけてもらったのに、前より高くなる税があったら、おかしいでしょう?」


 班の何人かが、笑った。


 笑ってから、誰も、それを打ち消さなかった。

 当たり前すぎて、誰も試験札にしていなかった約束である。


 私は、それを、表示盤のいちばん上に書いた。


   減免のあとの税は、減免の前の税を超えない


「これが、たぶん、いちばん大事です」


「当たり前じゃないですか」


 ブレンが言った。


「当たり前のことは、試験札に書かれないんです。当たり前なので」


 ブレンは、黙った。

 自分の五十と少しの札を、また見ていた。


 次の約束も、リゼだった。


「別々の二人の記録が、同じ一人に潰れない」


 言ってから、リゼは、自分で目を丸くした。


「……あ、これ、この前の結晶と同じだ」


「同じだ」


 言ってから、私も気づいた。

 ここは術務室である。人前である。

 だが、リゼへの一言だけは、落ちた。


 三つの結晶が、一つの琥珀色になった。

 二人の住人が、一つの記録になる。

 どちらも、元へ戻せない。


 年かさの術師が、続けた。


「減免の額の合計と、出納局の台帳の合計が、合う」


「途中で止まったら、記録は元のまま残る」


「一人に、二度出さない」


 表示盤に、七つ並んだ。


   減免のあとの税は、減免の前の税を超えない

   減免の額は、零より小さくならない

   端数は、市民に有利な側へ丸める

   別々の二人の記録が、同じ一人に潰れない

   減免の合計と、台帳の合計が合う

   途中で止まったら、記録は元のまま

   一人に、二度出さない


 私は、それを、しばらく見ていた。


 どれも、術式の書き方の話ではなかった。

 どれも、税の話だった。

 税の話なら、この班の人たちのほうが、私よりずっと詳しい。


 約束を言葉にするのは、比喩で本質を言い当てるのと、たぶん同じ力である。

 鍋も皿も鍵も使わずに、リゼは、今日、二つを言い当てた。


———

「約束が言えたら、あとは、数の勝負です」


 私は言った。


「この七つを、一つずつ、試験札に落とします。入力は何でもいい。出てきた額が、七つのどれかを破ったら、赤灯」


「何でもいい、というのは」


「出鱈目でいいんです」


 ブレンが、瞬きをした。


「出鱈目な名前。極端な額。空欄。ありえない日付。賢く作る必要はありません。出鱈目に、大量に作って、流す。出鱈目に作った入力の札を、乱造札と呼びましょう」


「乱造札」


「数が、正義です。一枚一枚は、何の意味もない。百万枚あると、意味が出る」


 年かさの術師が、腕を組んだ。


「百万枚を、どこで流す」


「借り場です」


 私は、リゼを見た。


「班で、原生林社の借り場を使ってたな」


「使ってる。……見込み板も、毎週見てる。見習いの役目だから」


 リゼは、少し間を置いた。


「今は、山率も、ちゃんと掛かってる」


 年かさの術師が、ふっと笑った。

 あの晩のことを、この班の人たちも覚えているらしい。


 私は、表示盤の隅で、勘定をした。


「術台を、三十基。一晩、六刻。原生林社の刻み課金なら、銀貨で、七枚と少し」


「七枚」


「一晩で、たぶん、数百万枚流せます」


 ブレンは、表示盤の隅の数字を見ていた。

 それから、約束の七行を見た。


「約束を破るかどうかだけ見るなら、一枚、一瞬ですね」


「一瞬です。額が正しいかどうかは、見ません。正しい額は、誰も知らない。破ってはいけない約束を破っていないか、だけを見る」


「……それなら、正しい答えを知らなくても、確かめられる」


「そうです」


 私は、表示盤に、短く書いた。


   約束検め


「約束を試験札に落として、乱造札を大量に流して、約束が破れないかだけを、安く検める。そう呼んでおきます」


 班の誰かが、書き付けに写した。


 ブレンが、少し考えてから、訊いた。


「……これ、一昨日の、反例の話と、似ていませんか」


 私は、少し驚いた。


「似ています。同じ形です」


 表示盤の、約束検めの隣に、二行足した。


   《寓話》が反例を作る   数式を検算する

   乱造札が穴を探す     約束を検める


「《寓話》が反例を見つけたのも、乱造札が穴を見つけるのも、同じ形です。作る側は、賢くてもいいし、力任せでもいい。安く確かめられるなら、数を撃てますから」


「確かめるほうが、安いから」


「価値を決めているのは、作る側の賢さではなく、確かめる側の安さです」


 ブレンは、それを書き付けに写した。

 写してから、顔を上げた。


「僕が、書きます。約束の試験札と、乱造札を作る術式」


「お願いします」


 私は言った。


 私が書けば、たぶん、私の思いつく入力しか出てこない。

 この術式を書いたのはブレンで、この術式がどこで嫌がるかを、いちばん知っているのも、たぶんブレンである。


———

 翌朝、術務室に入ると、ブレンが先に来ていた。


 目の下は、まだ黒い。

 だが、昨日とは、黒さの種類が違う。眠れなかった黒さではなく、早く起きた黒さである。


 表示盤の前に、班の人たちが集まっていた。


「流しました」


 ブレンは言った。


「四百二十万件」


 誰かが、小さく口笛を吹いた。


「約束の破れは……」


 ブレンは、表示盤の、いちばん下の一行を指した。


「零件です」


 班の空気が、ゆるんだ。


 年かさの術師が、椅子の背にもたれた。

 リゼが、ほっとした顔で、こちらを見た。

 誰かが、窓を少し開けた。朝の風が入ってきた。


 ブレンは、表示盤を見たまま、言った。


「……もう、緑灯で、いいのでは」


 その声には、責められるようなものは何も無かった。

 四百二十万件である。一晩、術台を三十基回して、零件である。誰でも、そう言う。


 私も、そう言いかけた。


AIエージェント:「観測:乱造札、四百二十万件。約束の破れ、零件。補足:これは『破れが無い』ことの証明ではありません。『四百二十万件では破れなかった』という記録です」


 班の人たちが、一斉に、私の懐を見た。


「……黙れ」


 私は言った。


 言ってから、携帯術盤を、懐の奥へ押し込んだ。

 最悪だ。

 いちばん言われたくない朝に、いちばん正しいことを言う。


 しかも、昨日、講堂で、私が言ったことと同じである。


———

「昨日、講堂で、写しを読みました」


 私は言った。


 班の人たちは、リゼのほかは、学生ではない。

 読んでいない人のために、短く言った。


「三十年崩れなかった予想が、崩れた写しです。生成変換器は、一度目に、見つかりませんでした、と言いました。一刻半探して」


「今朝の、零件と同じ」


 リゼが言った。


「同じだ」


 私は、リゼにそう返してから、班のほうへ向き直った。


「四百二十万件、六刻、見つかりませんでした」


 ブレンは、黙っていた。


「あの写しの人は、そこで、続けよ、と言いました。……でも、私は、無限に続けろ、とは言いません」


 私は、表示盤の前に立った。


「三つ、決めます」


 一行目。


「あと、二晩」


   あと二晩。出なければ、出ないものとして配備する


「それで出なければ、出ないものとして配備します。配備の日は、動かしません。ただし、配備したあとも、乱造札は流し続けます。夜の、術台の空いている刻に」


「流し続ける」


「配備は、探し止めではありません。探すのを、本番の隣へ移すだけです」


 二行目。


「費用です」


 私は、昨日の勘定の隣に書いた。


   一晩 銀貨七枚と少し

   二晩 銀貨十五枚


「二晩で、銀貨十五枚です」


 安い、とは、まだ言わなかった。

 安い、というのは、金額を言ってから言うものである。金額を言わずに安いと言う人を、私は、何人も見てきた。だいたい、あとで高くなった。


「冬越し減免の対象は、王都で三万と少し。来月の通知で、もし一人ぶんでも約束を破れば、その人は窓口に来ます。詫びと、払い戻しと、どこまで同じ間違いが広がっているかの洗い直しで、その一件だけで、たぶん銀貨十五枚では済みません」


 私は、言った。


「だから、二晩、銀貨十五枚は、安いです」


 年かさの術師が、頷いた。

 会計の人の頷き方だった。


 三行目。


「探し方を、変えます」


   当てずっぽうを、境目へ寄せる


「昨夜の乱造札は、何を撃っていましたか」


「出鱈目な名前。極端な額。空欄。ありえない日付」


 ブレンが言った。


「全部、ありえない値です」


「ありえない値は、入り口で弾かれます。弾く札は、ブレンさんが最初に書いていた。だから、四百二十万件のほとんどは、入り口で止まって、奥まで届いていない」


 ブレンの顔が、少し動いた。


「事故は、ありえない値では起きません」


 私は言った。


「ありそうな値の、境目で起きます」


 写しの、二行目を思い出していた。

 手当たり次第をやめ、作りを分かってから探せ。


「この術式の、どこが境目か。……それは、私より、書いた人のほうが知っています」


 ブレンは、しばらく表示盤を見ていた。


 それから、書き付けを開いた。


「端数が出る額」


 ブレンは言った。


「丸めた結果が、ちょうど一枚繰り上がる額。減免が二つ重なる人。重なったときの、引く順番。同じ日に、二件来た人」


 書き付けに、どんどん足していく。


 リゼが、横から覗き込んだ。


「冬越しって、住んだ日数で割るでしょ」


「割ります。日割りで」


「月の終わりに越してきた人は?」


 ブレンの筆が、止まった。


「……月をまたぐ日付」


 ブレンは、それを書いた。

 書いてから、その下に、線を引いた。


「月の最後の一日だけ住んだ人。月の最初の一日だけ住んで、出ていった人。……乱造札を、ここに寄せます」


「寄せ方は、ブレンさんに任せます」


 私は言った。


「出鱈目は、そのままでいいんです。出鱈目のまま、撃つ場所だけ、寄せてください」


———

 昼過ぎに、ブレンの新しい乱造札が、術台に載った。


 私は、自分の卓に戻った。

 政務術式支援班の卓のほうから、時々、ブレンの筆の音が聞こえた。


 私がやったことは、問いを一つ出して、勘定を一つしただけである。

 約束を言葉にしたのは、班の人たちとリゼ。試験札を書いたのはブレン。境目を見つけたのもブレンとリゼ。


 それで、いいのだと思う。


 机の端に、写しの束が置いてあった。

 講堂でもらったものである。


 最後の頁を、めくった。


 三度目の返しの終わりに、反例が書いてある。

 図と、荷と、道。五十八と、六十。

 その下に、まだ続きがあった。


 生成変換器は、反例と一緒に、それを確かめるための道具を、いくつも添えていた。

 四枚の、示しの綴り。端数の出ない数だけで動く、全部の運び方を数え上げる術式。そのまま誰でも流せる形の、図と値。


 見つけたものを、見つけたまま置いていない。

 確かめ方まで、包んである。


 私は、その頁に、栞を挟んだ。

 たぶん、またこれを開く。


———

 夜。


 居間の灯の下で、リゼが、私の湯呑みに茶を注いだ。


「今日、言ったのね」


「何を」


「もう一回見て、って」


 私は、茶を受け取った。


「……言った」


「わたしの言い方、取ったでしょ」


「取った」


「取られた」


 リゼは、自分の湯呑みを両手で包んだ。


「でも、無限に、とは言わなかったのね」


「言わなかった」


 私は、少し考えた。


「あと二晩。それで出なかったら、そこでやめる。その先は、無い。……それも、決めてある」


 リゼは、黙って、茶を飲んだ。


「決めてあるなら」


 リゼは言った。


「それは、諦めじゃないわね」


 私は、湯呑みを持ったまま、止まった。


 決めてあるなら、諦めではない。


 講堂で、探し止めを先に書け、と言った。

 いつまで、いくらまで、どうなったら、やめるか。

 探し止めは設計だ、と、何度も言った。


 だが、それを、こう言ったことは無かった。

 諦めではない、と。


 私は、それを思いつかなかった。

 思いつかなかったことに、今、気づいた。


「……そうだな」


「そうでしょ」


「諦めじゃない」


「あなた、自分で言ってたじゃない。講堂で」


「言ってない」


「言ってたのと、同じことよ」


 同じことではない。

 同じことを、私は、四行かけて言った。

 リゼは、一行で言った。


 窓の外で、遠くの犬が、一度だけ吠えた。


 模型に、探し止めを決めさせるな。

 だが、探し止めは、決めろ。


 決めてあるなら、それは諦めではない。


———

 一晩目の朝も、零件だった。


 ブレンは、昨日より黙っていた。

 寄せた乱造札は、百八十万件。ありそうな値ばかりなので、ありえない値より、一枚に手間がかかる。

 私は、何も言わなかった。リゼも、何も言わなかった。

 決めてあるからである。


 二晩目の朝。


 術務室の戸が、勢いよく開いた。


「出ました!」


 ブレンだった。

 外套も脱いでいない。走ってきたらしい。息が上がっている。手に、紙を一枚握っていた。


「約束破れ、一件です!」


 政務術式支援班の卓の者が、一斉に立ち上がった。

 年かさの術師が、椅子を倒しかけた。

 リゼが、口元を押さえた。


「どの約束ですか」


「いちばん上の……減免のあとの税が、前の税を、超えました。一枚だけ。銅貨一枚だけ、超えたんです」


 班が、色めき立った。


 出た。

 二晩、銀貨十五枚で、出た。

 来月、三万と少しの人に届く通知の、どこかに、それが紛れるはずだった。


 ブレンが、紙を卓に叩きつけるように置いた。


「これです。これを、直せば——」


「……まず」


 私は言った。


 ブレンが、こちらを見た。


「まず、疑いましょう」


 ブレンの顔が、きょとんとした。


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