第240話 八十年の予想、半刻の検算
その夜、王都の通りから、人が消えた。
灯りは点いている。
どの窓にも点いている。
点いているのに、通りには誰もいない。屋台の呼び声も、荷車の軋みも、酔った誰かの歌も無い。
かわりに、窓という窓から、同じ青白い光が漏れていた。
大陸蹴球杯の、決勝である。
四年に一度、諸国が一つの球を蹴り合う。
その最後の一戦を、王都じゅうが、同じ刻に、同じ映像盤で見ている。
王都術勢供給庁は、今夜も身構えているはずだ。
前半の終わりの笛が鳴れば、王都じゅうの湯沸かしに、一斉に火が入る。あの人たちは、それをもう知っている。
居間の映像盤の前で、リゼが膝を抱えていた。
「今の、入ってた」
「入ってなかった」
「入ってたでしょ」
「線の上だった」
「線の上は、入ってるの」
そういう決まりらしい。
私は、蹴球の決まりを、まだ半分しか覚えていない。
王国は、決勝に出ていない。
出ていないので、リゼは、王国と一度だけ親善の試合をしたことのある国を応援している。
人類は、応援する理由を、だいたい後から作る。
「ユウ、寝てる?」
「起きてる」
「目、閉じてる」
「耳で見てる」
「それ、寝てる人の言い方」
そのとおりである。
延長に入ったあたりから、私の記憶は途切れている。
———
同じ刻。
海の向こうの新大陸で、一つのつぶやきが囁を流れた。
私がそれを読んだのは、翌朝である。
だから、ここから先は、あとで知ったことだ。
書いたのは、ネヴィンという数理魔導士だった。
人間本位社に籍を置いている。《寓話》を作った、あの会社である。
ケレルの巻き戻し予想、偽でした。
アシルが訊いてくるから悪い。決勝のあいだ、うちの《寓話》が働いてくれた。感謝。
その下に、三行の変換術式が付いていた。
それから、三つの場所と、それが写る先の、たった一つの場所。
それだけだった。
誰も、気に留めなかった。
決勝の夜だったからである。
———
翌朝の台所は、煮えた豆の匂いがしていた。
窓の外で、掃除の人が、昨夜の紙吹雪を箒で寄せている。
勝った国の色の紙も、負けた国の色の紙も、同じ山になっていた。
「延長の最後、見てた?」
リゼが、鍋をかき混ぜながら言った。
「見てない」
「寝てたもんね」
「寝てた」
「いちばんいいところだったのに」
四年に一度のいちばんいいところを、私は耳でも見ていなかったらしい。
最悪だ。
私は、それ以上の返事をしなかった。
携帯術盤の面を、見ていた。
ネヴィンのつぶやきの下に、返しが、朝までに何千と付いていた。
最初のほうは、冗談だと思われていた。
決勝の夜に、何を言ってる
アシルって誰
うちの《寓話》は今夜、勝敗の見立ても外した
夜半を過ぎたあたりから、流れが変わっていた。
検算した。合ってる
こっちも合った。三つとも、同じところへ行く
待て。量率も確かめた。どこでも同じだ。本当に、どこでも
八十年だぞ
最後の返しは、海の向こうの魔法学校の、数理術科の学生だった。
時刻からすると、向こうは朝である。朝飯の前に、八十年を検算したらしい。
「……何、その顔」
リゼが、椀を二つ置いた。
「八十年解けなかった問いが、一晩で崩れたらしい」
「どんな問い?」
私は、少し考えた。
朝の台所で話せる大きさに、切らないといけない。
「変換術式、というのがある。……積み木を、隙間なく詰めた箱を思い浮かべてくれ」
「箱」
「縦にも、横にも、高さにも、小さな升がびっしり並んでいる。どの升も、縦と横と高さの、三つの数で場所が言える。変換術式は、その箱を、升ごと、まるごと別の形に写す術式だ。三つの数を受け取って、別の三つの数を返す」
「うん」
「写すときに、どこかの升を押し潰していなければ、元に戻せるはずだ。積み木が、板みたいにぺしゃんこになっていなければ。……と、八十年、みんな思っていた」
「戻せなかったの?」
「どの升も潰れていないのに、三つの別々の升が、同じ一つの場所に写った。一つになったら、どれが元だったか、もう分からない」
リゼは、匙を持ったまま、少し考えた。
「でも、それ、どうして崩れたって分かるの。崩れました、って言っただけかもしれないじゃない」
「確かめられるんだ。誰でも」
「誰でも?」
「三つを入れて、三つとも同じ一つになるか。算術で見ればいい。……向こうの魔法学校の学生が、朝飯の前にやってる」
リゼは、椀を手前に引いた。
「探し物と同じね」
「探し物」
「見つけるまでは、家じゅうひっくり返すけど。見つかったかどうかは、一目で分かる」
私は、匙を止めた。
そのとおりである。
八十年かけてひっくり返したのは、家のほうだ。見つかった鍵は、手のひらに載る。
今日の授業の半分は、たぶん、この比喩で済む。
残りの半分は、ここからだ。
ネヴィンは、人間本位社の人間である。
自分の会社の模型で、自分の会社の名を上げた、と言えなくもない。
それに、うちの《寓話》、と書いてある。
私の机の引き出しには、紙が一枚ある。
《寓話》でなければできない仕事、と一行目に書いて、二行目がずっと白い紙である。
八十年が崩れた朝に、真っ先に思い出すのが、自分の宿題らしい。
最悪だ。
竈の上で、湯沸かしが鳴りはじめた。
AIエージェント:「観測:当該の反例は、湯が沸くより短い刻で検算できると推定されます。信じない自由は残っていますが、検算しない言い訳は失われました」
「黙れ」
リゼが、笑いながら湯沸かしを下ろした。
「ほら。一目で分かるって」
———
講堂は、いつもより声が大きかった。
昨夜の決勝の話と、今朝のつぶやきの話が、半分ずつ混ざっている。
どちらも、八十年に一度くらいの騒ぎらしい。片方は四年に一度だが、それを言うと面倒になるので、言わない。
ルドーが教壇に立つと、声が引いた。
「八十年解けなかった予想が、昨夜、崩れたと流れた」
ルドーは言った。
「信じるか」
前の列で、手が挙がった。
「信じません。生成変換器は、嘘をつきます」
「では、確かめろ」
次の手。
「……数理院の裁定を、待つべきだと思います」
「待つあいだに、式は変わるのか」
三人目は、少し声を落とした。
「書いたのは、人間本位社の人です。自分の会社の《寓話》の宣伝なのでは」
「宣伝でも、式が正しければ正しい。確かめろ」
四人目の手は、上がらなかった。
上がりかけた手が一つ、そっと膝の上へ戻っていった。
ルドーの目が、こちらへ来た。
「ユウ」
「はい」
「はい」
「はいは一回だ」
———
私は、教壇の脇に、講義用の変換台を出した。
平たい石の台である。
上に置いたものの色と、透けぐあいと、温みを読み、決まった術式どおりに、それを別の色と透けぐあいと温みに書き換える。
学生が最初の年に、変換術式の手ほどきを受ける道具だ。
「変換術式から始めます」
私は言った。
「三つの数を受け取って、三つの数を返す術式です。この台なら、色と、透けぐあいと、温み。どれも、数で読めます」
表示盤に、二つ書いた。
受け取る数 三つ
返す数 三つ
「三つの数の組は、縦と横と高さのある箱の中の、一つの場所だと思ってください。色が横、透けぐあいが縦、温みが高さ。この箱の中に、ありうる結晶の様子が、全部入っています。変換術式は、この箱を、まるごと別の箱へ写します」
「変換術式には、量率というものがあります」
「量率」
「受け取る数をほんの少し動かしたとき、返す数がどれだけ動くか。その広がりの率です。箱を、小さな升に切ったところを思い浮かべてください。術式を通したあと、ある升が倍の大きさになっていれば、そこの量率は二です」
前の列の学生が、頷いた。
ここまでは、教本に書いてある。
「量率が零のところでは、升が潰れています。積み木が、板になるか、線になるか、点になっている。厚みを失った升からは、どれが元だったか分からない。元に戻せません」
「戻す術式は、巻き戻し術ですね」
「そうです」
私は、表示盤に一行足した。
量率が零なら、潰れる。潰れたら、巻き戻せない
「では、量率がどこでも同じで、零でもないなら。どこも潰れていないのだから、必ず巻き戻せるはずだ」
私は、その行を指した。
「八十年余り前に、ケレルという数理魔導士が、そう言いました。言っただけで、示せなかった。誰も示せず、誰も崩せなかった。それが、ケレルの巻き戻し予想です」
「……みんな、正しいと思っていたんですか」
「思っていました。思っていたので、王国の変換術の認可規格にも、その上に建った条があります」
講堂の後ろのほうで、誰かが小さく、あ、と言った。
変換術の認可を、実習で書いたことのある学生だろう。
「ケレル但し書き」
「それです。量率が一定の変換術式は、巻き戻せるものとみなして、検分を簡略にしてよい」
私は、但し書きの文を、表示盤の端に写した。
「予想の上に、規格が建っていたわけです。悪いことではありません。建っていると書いてあったから、今朝、どこを見ればいいかすぐに分かった」
———
私は、懐から小箱を出した。
中に、結晶が三つ入っている。
赤みがかったもの。青く透けたもの。ほとんど白い、濁ったもの。
「今朝、つぶやきにあった三つの場所どおりに、整えてきました」
三つを、台の上に並べた。
「そして、こちらがつぶやきにあった三行の変換術式。ネヴィンが書いて、《寓話》が見つけたものです」
台の脇の石板に、三行を写した。
それから、学生のほうへ向き直った。
「この術式の量率は、どこでもきっかり二です。向きだけ、鏡に映したように裏返る。潰れているところは、どこにもありません」
台に、術を流した。
赤い結晶の色が、ゆっくり抜けていった。
青い結晶の透けが、曇っていった。
白い結晶が、少しずつ、温みを帯びていった。
三つとも、同じ方へ寄っていく。
最後に、三つとも動きを止めた。
淡い琥珀色の、少しだけ曇った、手に取るとほのかに温かい結晶が、三つ並んでいた。
寸分も、違わなかった。
講堂が、静かになった。
「どれが、さっきの赤いのですか」
私は訊いた。
誰も、答えなかった。
「私にも、分かりません」
私は言った。
「分からない、というのが、巻き戻せない、ということです。三つが一つに潰れたら、一つから三つへは戻れない。どれへ戻せばいいのか、決まらないからです」
前の列の学生が、手を挙げた。
「でも、量率が、どこでも二なんですよね。どこも潰れていないのに、どうして」
「いい問いです」
私は、表示盤に、螺旋を一つ描いた。
「螺旋の階段を、思い浮かべてください。どの一段を見ても、広さは同じです。潰れている段はない。だから、どの一段の上でも、足元は巻き戻せる」
「はい」
「でも、真上から見下ろすと」
螺旋の上に、点を一つ打った。
「真上から見た一点に、一段目と、二段目と、三段目が、重なっています。上から見ただけでは、どの段にいたのか分からない」
「……近くで見ると潰れていなくて、遠くで重なっている」
「そうです。量率は、近くの話しかしません。八十年、みんな、近くの話から遠くの話を信じていた」
数理魔導士たちが、怠けていたわけではない。
近くで正しいことは、遠くでもだいたい正しい。だいたい正しいから、そう思う。
人間の直観は、だいたいのところで、とても強い。
———
「確かめろ」
ルドーが言った。
講堂じゅうが、こちらを見た。
「全員だ」
ルドーは、教卓に紙の束を置いた。
つぶやきにあった三行の術式と、三つの場所の数が、写してある。私が来る前に、自分で写したらしい。
「現場こそ授業だ」
ここは講堂である。
だが、この人が現場と言えば、そこが現場になる。
学生たちが、紙を回しはじめた。
筆の音が、講堂を埋めた。
後ろの列で、リゼも、誰の紙も覗かずに、黙って筆を動かしていた。
足し算と、掛け算と、引き算だけである。三つの場所の数を、三行の術式に通して、写る先の数を出す。三回。それから、量率を出す。これは少し手間がかかる。
私は、教卓の脇に立って、待った。
四半刻ほどで、前の列の、いちばん年若い学生が、筆を置いた。
紙を、両手で持って、もう一度見直している。
見直して、顔を上げた。
「……三つとも、同じになりました」
声が、少し震えていた。
「量率も、二です。どこで取っても」
ルドーが、その学生を見た。
「八十年は、長いか」
学生は、答えに詰まった。
「……長い、です」
「検算は、半刻だ」
ルドーは、それだけ言った。
半刻が経つころには、講堂の半分が筆を置いていた。
置いた者は、まだ置いていない隣の紙を、覗き込んでいた。覗き込まれた者は、手で隠した。
自分で確かめたいのだ。
当然である。今朝まで八十年だったものが、自分の手の中で、半刻で崩れるのだから。
———
「これは、言葉ではありません」
私は言った。
「品物です。品物は、検分できます」
表示盤に、二つ並べて書いた。
証明 長い。読むのに、信用が要る
反例 短い。確かめるのに、算術しか要らない
「証明は、長い綴りです。百枚あれば、百枚のどこかに穴があるかもしれない。だから、読める者が読み、その者を信じる者が信じ、さらにその者を信じる者が信じる。信用が、鎖になって伝わります」
「反例は」
「三行と、三つの点です。誰でも、自分の手で、半刻で閉じられる。鎖が要りません」
私は、少し間を置いた。
「前に、雑談用の生成変換器が、もっともらしい嘘を混ぜた話をしました」
何人かが、頷いた。
あのとき、王都じゅうが、言葉の模型の出す答えに振り回された。根拠らしきものを並べて、根拠が無い。だから、出てきた言葉は、必ず原典照合にかけろ、と言った。
「あのとき分かったのは、生成変換器の言葉は、確かめるのが高い、ということでした。読んで、照らして、裏を取る。手間が、出した側の何倍もかかる」
「今回は」
「今回は、確かめるのが、とても安い。……生成変換器の言うことを信じるな、は今も正しいです。今回は、信じる必要がないんです」
三人目の誤答をした学生が、少し顔を上げた。
「宣伝かどうか、も」
「関係ありません」
私は言った。
「見つけたのが人間本位社の身内でも、無名の学生でも、話は変わりません。名があるかどうかも、利害があるかどうかも、関係ない。信じるかどうかの問いを、検算が消してしまうんです」
八十年分の権威より、半刻の検算のほうが強い。
そういう品物が、たまにある。
———
「ただし」
私は言った。
講堂の空気が、少しだけ締まった。
この学年は、もう、この言葉の後に何が来るかを知っている。
「検算が安いのは、これが反例だからです。証明だったら、こうはいきません。生成変換器が出したもの一般が、急に信用できるようになったわけではない」
「はい」
「それから、もう一つ」
私は、ルドーが配った紙の束を、一枚取った。
「皆さんが検算したのは、どの式ですか」
「この紙の……」
「この紙は、ルドー先生がつぶやきから写したものです。つぶやきの式は、ネヴィンが書いたものです。ネヴィンの式は、《寓話》が出したものです」
学生たちが、紙を見た。
「写しの写しで検算しても、写しが正しいことしか分かりません。一つ書き違えていれば、皆さんは、正しく、別の式を検算したことになる」
「……原典照合」
「そうです。検算する前に、検算する式が、元と同じかを確かめてください。品物を検分する前に、品物が本物かを見る」
ルドーが、教卓の上で、自分の紙を元のつぶやきと並べた。
一行ずつ、指で追っている。
誰も笑わなかった。
写したのは、この人である。
指が、三行目の終わりで止まった。
「合っている」
ルドーは言った。
「次から、自分で照らせ」
———
講義の終わりが近づいたころ、講堂の後ろで、携帯術盤が鳴った。
一つ鳴ると、続けて二つ鳴った。
それから、あちこちで鳴りはじめた。
ルドーは、止めなかった。
止めても、誰も聞かないときがある。この人は、それを知っている。
「……また、です」
後ろの列の学生が、面を見たまま言った。
「また崩れました。一荷一道の予想、って」
講堂が、ざわついた。
私も、自分の携帯術盤を出した。
二件目だった。
崩れたのは、一荷一道の予想。三十年、誰も証明も反証もできなかった。
見つけたのは、リュヴァンという数理魔導士。今は新大陸の術式工房に勤めているが、昔は数理院にいた人らしい。
使ったのは、人間本位社ではない、別の社の生成変換器だった。
「一荷一道って、何ですか」
前の列から、声が来た。
私は、表示盤を半分消した。
「荷運びの話です」
道を、何本か描いた。
それから、荷を、いくつか描いた。
「荷を、細かく分けて、何本もの道へ流す。こうすると、いちばん安く運べます。どの道も混みすぎない」
「はい」
「でも、本当の荷は分けられません。一つの荷は、一本の道を通るしかない。……一つの荷は、一つの道。それが、一荷一道です」
「東方の言い方ですね」
「数理魔導士が好んで使う、硬い言い方です」
私は、続けた。
「三十年前、三人の数理魔導士が、こう示しました。分けて流した運び方を、分けない運び方に寄せ直しても、どの道の混みようも、いちばん大きな一荷ぶんしか超えない」
「三名の運び定理」
後ろの列の誰かが言った。
習ったことがあるらしい。
「その先に、一つ残っていたんです。しかも、運び賃も増やさずに寄せ直せる、と。それが、一荷一道の予想です」
私は、携帯術盤の面を見た。
「今回の図では、分けて流せば、運び賃は五十八。分けずに、混みの超過を一荷ぶんに収めて運ぼうとすると、どう工夫しても、六十を切らない」
「……二、高い」
「二、高い。それで、三十年が終わりました」
これも、検算できる。
図があって、荷があって、道がある。分けずに運ぶやり方を全部並べて、どれも六十を切らないかを数えればいい。半刻では済まないが、一晩あれば済む。
リュヴァンは、囁に、もう一つ、つぶやきを足していた。
反例探しが流行りになっているのは、承知している。
だが、これは私が本気で考えた問題だ。若いころ、何週間も考えた。示す側からも、崩す側からも。
この道の者は、みな一度は考えたはずだ。
軽口は無かった。
昨夜のつぶやきとは、ずいぶん違う書きぶりである。
一件目は、決勝を見ながらの、友人への返事だった。
二件目は、この問題に若いころの何週間かを置いてきた人が、道具を替えて、もう一度戻ってきた話だった。
「一件は、事件だ」
ルドーが言った。
「二件は、流行りだ」
———
鐘が鳴った。
学生たちが、鞄を手に取りかけた。
「待て」
ルドーが言った。
手が、止まった。
「八十年と、三十年だ」
ルドーは、教卓に両手をついた。
「誰も、探さなかったのか」
講堂が、静かになった。
誰も、答えなかった。
答えようとして、答えの形が見つからない顔が、いくつか並んでいた。
ルドーの目が、こちらへ来た。
今度は、名前を呼ばなかった。
「誰も探さなかったわけでは、ありません」
私は言った。
「探したと思います。八十年のあいだに、何百人も。探して、出なくて、やめたんです」
表示盤の前に立った。
書くことは、あまり無かった。
「数理魔導士は、直観が強い人たちです。これは正しいはずだ、と感じたら、反例を探すのは無駄だと判断する。そして、示す側に回る。それは、有能さの一部です。間違った方向へ一生を使わないための、正しい勘です」
「……その勘が、外れていた」
「八十年のあいだ、誰の勘も、外れていると言わなかった。だから、みんな、同じところでやめた」
私は、一行だけ書いた。
予想とは、みんなが探し止めを決めた場所につけられた名前
「探し止め、と呼ぶことにします。探すのを、ここで打ち切る、と決めること」
学生たちが、それを写しはじめた。
「生成変換器に、直観と呼べるものがあるのかどうかは、分かりません。あると言う人もいますし、無いと言う人もいます」
私は言った。
「ただ、聞くかぎりでは、これは正しいはずだから探さない、という止まり方は、あまりしないそうです。八十年分の、正しいはずだ、を背負っていない。……だから、人間がやめた場所を、平気で掘ります」
ルドーは、しばらく黙っていた。
「やめたのは、誰だ」
ルドーは訊いた。
学生たちは、答えなかった。
答えは分かっている。分かっているから、言いにくい。
「……全員です」
私は言った。
ルドーは、頷きもしなかった。
紙の束を脇に抱えて、講堂を出ていった。
では、やめどきは、誰が決めるのか。
ルドーは、それを訊かずに出ていった。
訊かなかったのは、たぶん、次に訊くためである。
———
昼過ぎに術務室へ行くと、表示盤の前に、また人が固まっていた。
冬でもないのに、部屋の奥だけが暖かい。
「数理院が、声明を出しました」
フィンが言った。
早口である。この男は、休みの日の話と、新大陸の報せのときだけ早口になる。
「正式な検分の委員会を置く、そうです。それから、発表の場が夜の囁だったのは、学問の作法として望ましくない、と」
「苦言ですね」
「苦言です」
セシルが、向かいの卓から言った。
「でも、委員会が開かれるの、十日後ですって。その頃には、たぶん、王都の学生が全員検算し終わってますけど」
「追認になりますね」
私は言った。
フィンが、少し笑った。
笑い方に、ほんの少し、意地の悪いものが混じっていた。
「遅いですよね」
「遅いです。でも、遅いのには理由があります」
私は、表示盤の脇の椅子に座った。
「数理院は、昔、検めるのが難しい証明もどきに、何度も振り回されています。三百枚の綴りで、二年かけて読んで、最後の十枚に穴があった、というような。だから、急いで認めない。急いで認めないことで、守ってきたものがある」
「でも、今回は」
「今回は、急いでも大丈夫な品物です。ただ、品物を見る前に作法を決めておかないと、次に来るのが証明もどきだったとき、同じ急ぎ方をしてしまう」
背中のほうで、紙の角をそろえる音がした。
「追認にも、意味はあるわ」
マリエだった。
王城から戻ったところらしい。外套の肩が、少し湿っている。
「誰が、いつ、どう確かめたかを、記録に残す人が要るもの。学生が千人検算しても、千人は記録を書かないわ。委員会は書く」
「……そうですね」
「それと、こちらの話」
マリエは、卓に綴りを置いた。
王城の布告の写しである。
「ケレル但し書きで簡略に認められた変換術式を、全部、点検し直すことになったわ。王国に、四十と少し」
「四十」
「多くはないわね。全部が巻き戻せないわけでもない。巻き戻せるものが大半のはずよ。ただ、どれが大半に入るかは、一つずつ見ないと分からない」
マリエは、綴りの表紙を指で叩いた。
「予想の上に建っていた規格は、予想と一緒に点検が要るわ」
「但し書きが、書いてあってよかったです」
私は言った。
「書かずに前提にしていたら、どの規格が予想の上に建っていたかを探すところから、始めることになりました」
「書いてあったから、四十と分かった」
「はい」
マリエは、小さく頷いた。
それから、もう一枚、紙を出した。
「数理院の声明の、最後の一文。誰も読んでいないみたいだから」
読んだ。
なお、数を二つしか受け取らない変換術式については、本件は何も述べていない。
「……崩れたのは、三つの版だけなんですね」
「二つの版は、まだ八十年のままだそうよ」
いちばん易しく見える形が、いちばん長く残る。
そういうことは、よくある。
フィンが、自分の携帯術盤を見ながら言った。
「人間本位社の《神話》は、国の外へは持ち出せないじゃないですか。《寓話》だって、ちょっと前まで、止められたり戻されたりしてた」
「そうですね」
「でも、三行の反例は、昨夜のうちに、どの国にも届いてるんですよね」
私は、少し考えた。
「力は、国境と契約で止められます。三行は、止められません」
止める必要も、ない。
三行の反例で、誰かの術盤が破られるわけではない。崩れるのは、八十年分の思い込みだけである。
———
夕方、家に帰ると、リゼが先に戻っていた。
卓の上に、政務術式支援班の綴りが広がっている。
リゼは、その上に頬杖をついていた。
「おかえり」
「ただいま。……持ち帰り?」
「持ち帰り」
リゼは、綴りを閉じた。
「うちの班の減免計算、来週、配備なの」
「冬越しの」
「冬越しの。薪と灯り油のぶん、税を軽くするやつ。今年から、古い出納の術式じゃなくて、新しく書いた術式で出すの」
「試験は」
「全部、緑灯」
リゼは、少し間を置いた。
「全部緑灯なんだけど、ブレンが眠れてないのよね」
「ブレン」
「班の術師。若い人。真面目なの。試験札も、自分で全部書いたの。全部通ったの。それなのに、毎朝、目の下が黒くなってく」
私は、外套を掛けた。
全部緑灯で、眠れない。
眠れないのは、だいたい、試験が足りないからではない。試験が何を見ていないかを、どこかで分かっているからだ。
「……壊れない入力しか、試していないのかもしれない」
声が、出ていた。
リゼが、頬杖を外した。
「それ、ブレンに言ったら、たぶん泣くわよ」
「言わない」
「言わないの?」
「言われて分かるより、自分で気づいたほうが、次に効く」
リゼは、少しのあいだ、私を見ていた。
「ずるい人ね」
「ずるい」
「でも、たぶん、近いうちに呼ばれるわよ」
「たぶん、呼ばれる」
リゼは、綴りを鞄に戻した。
戻してから、湯沸かしを火にかけた。
今朝と同じ湯沸かしである。
今朝、この湯が沸くあいだに、八十年の話をした。
———
夜更けに、目が覚めた。
リゼは、隣で眠っている。
窓の外の通りに、昨夜のような静けさは無い。遠くで、まだ決勝の話をしている酔った声がする。
私は、居間に出て、携帯術盤を手に取った。
ケレルの巻き戻し予想。
一荷一道の予想。
どちらも、名前は違う。
だが、中身には、覚えがあった。
現世にも、同じ予想があった。
二つとも、だ。
中身が同じなのは、分かる。数理だからである。どの世界でも、三は三で、螺旋は螺旋だ。同じ問いを立てれば、同じところに行き着く。
だが。
同じくらいの年月、放っておかれた。
同じくらい、有名だった。
同じくらいの人数が、同じところで、探し止めを決めていた。
それは、数理ではない。
歴史だ。
「……この予想、現世にもあったな」
私は、面に向かって言った。
AIエージェントは、答えなかった。




