↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
魔法世界は運用で回る  作者: 月の位相
夫婦編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
240/248

第240話 八十年の予想、半刻の検算

 その夜、王都の通りから、人が消えた。


 灯りは点いている。

 どの窓にも点いている。

 点いているのに、通りには誰もいない。屋台の呼び声も、荷車の軋みも、酔った誰かの歌も無い。

 かわりに、窓という窓から、同じ青白い光が漏れていた。


 大陸蹴球杯の、決勝である。


 四年に一度、諸国が一つの球を蹴り合う。

 その最後の一戦を、王都じゅうが、同じ刻に、同じ映像盤で見ている。


 王都術勢供給庁は、今夜も身構えているはずだ。

 前半の終わりの笛が鳴れば、王都じゅうの湯沸かしに、一斉に火が入る。あの人たちは、それをもう知っている。


 居間の映像盤の前で、リゼが膝を抱えていた。


「今の、入ってた」


「入ってなかった」


「入ってたでしょ」


「線の上だった」


「線の上は、入ってるの」


 そういう決まりらしい。

 私は、蹴球の決まりを、まだ半分しか覚えていない。


 王国は、決勝に出ていない。

 出ていないので、リゼは、王国と一度だけ親善の試合をしたことのある国を応援している。

 人類は、応援する理由を、だいたい後から作る。


「ユウ、寝てる?」


「起きてる」


「目、閉じてる」


「耳で見てる」


「それ、寝てる人の言い方」


 そのとおりである。

 延長に入ったあたりから、私の記憶は途切れている。


———

 同じ刻。


 海の向こうの新大陸で、一つのつぶやきが囁を流れた。


 私がそれを読んだのは、翌朝である。

 だから、ここから先は、あとで知ったことだ。


 書いたのは、ネヴィンという数理魔導士だった。

 人間本位社に籍を置いている。《寓話》を作った、あの会社である。


   ケレルの巻き戻し予想、偽でした。

   アシルが訊いてくるから悪い。決勝のあいだ、うちの《寓話》が働いてくれた。感謝。


 その下に、三行の変換術式が付いていた。

 それから、三つの場所と、それが写る先の、たった一つの場所。


 それだけだった。


 誰も、気に留めなかった。

 決勝の夜だったからである。


———

 翌朝の台所は、煮えた豆の匂いがしていた。


 窓の外で、掃除の人が、昨夜の紙吹雪を箒で寄せている。

 勝った国の色の紙も、負けた国の色の紙も、同じ山になっていた。


「延長の最後、見てた?」


 リゼが、鍋をかき混ぜながら言った。


「見てない」


「寝てたもんね」


「寝てた」


「いちばんいいところだったのに」


 四年に一度のいちばんいいところを、私は耳でも見ていなかったらしい。

 最悪だ。


 私は、それ以上の返事をしなかった。

 携帯術盤の面を、見ていた。


 ネヴィンのつぶやきの下に、返しが、朝までに何千と付いていた。


 最初のほうは、冗談だと思われていた。


   決勝の夜に、何を言ってる

   アシルって誰

   うちの《寓話》は今夜、勝敗の見立ても外した


 夜半を過ぎたあたりから、流れが変わっていた。


   検算した。合ってる

   こっちも合った。三つとも、同じところへ行く

   待て。量率も確かめた。どこでも同じだ。本当に、どこでも

   八十年だぞ


 最後の返しは、海の向こうの魔法学校の、数理術科の学生だった。

 時刻からすると、向こうは朝である。朝飯の前に、八十年を検算したらしい。


「……何、その顔」


 リゼが、椀を二つ置いた。


「八十年解けなかった問いが、一晩で崩れたらしい」


「どんな問い?」


 私は、少し考えた。

 朝の台所で話せる大きさに、切らないといけない。


「変換術式、というのがある。……積み木を、隙間なく詰めた箱を思い浮かべてくれ」


「箱」


「縦にも、横にも、高さにも、小さな升がびっしり並んでいる。どの升も、縦と横と高さの、三つの数で場所が言える。変換術式は、その箱を、升ごと、まるごと別の形に写す術式だ。三つの数を受け取って、別の三つの数を返す」


「うん」


「写すときに、どこかの升を押し潰していなければ、元に戻せるはずだ。積み木が、板みたいにぺしゃんこになっていなければ。……と、八十年、みんな思っていた」


「戻せなかったの?」


「どの升も潰れていないのに、三つの別々の升が、同じ一つの場所に写った。一つになったら、どれが元だったか、もう分からない」


 リゼは、匙を持ったまま、少し考えた。


「でも、それ、どうして崩れたって分かるの。崩れました、って言っただけかもしれないじゃない」


「確かめられるんだ。誰でも」


「誰でも?」


「三つを入れて、三つとも同じ一つになるか。算術で見ればいい。……向こうの魔法学校の学生が、朝飯の前にやってる」


 リゼは、椀を手前に引いた。


「探し物と同じね」


「探し物」


「見つけるまでは、家じゅうひっくり返すけど。見つかったかどうかは、一目で分かる」


 私は、匙を止めた。


 そのとおりである。

 八十年かけてひっくり返したのは、家のほうだ。見つかった鍵は、手のひらに載る。

 今日の授業の半分は、たぶん、この比喩で済む。


 残りの半分は、ここからだ。


 ネヴィンは、人間本位社の人間である。

 自分の会社の模型で、自分の会社の名を上げた、と言えなくもない。

 それに、うちの《寓話》、と書いてある。


 私の机の引き出しには、紙が一枚ある。

 《寓話》でなければできない仕事、と一行目に書いて、二行目がずっと白い紙である。

 八十年が崩れた朝に、真っ先に思い出すのが、自分の宿題らしい。

 最悪だ。


 竈の上で、湯沸かしが鳴りはじめた。


AIエージェント:「観測:当該の反例は、湯が沸くより短い刻で検算できると推定されます。信じない自由は残っていますが、検算しない言い訳は失われました」


「黙れ」


 リゼが、笑いながら湯沸かしを下ろした。


「ほら。一目で分かるって」


———

 講堂は、いつもより声が大きかった。


 昨夜の決勝の話と、今朝のつぶやきの話が、半分ずつ混ざっている。

 どちらも、八十年に一度くらいの騒ぎらしい。片方は四年に一度だが、それを言うと面倒になるので、言わない。


 ルドーが教壇に立つと、声が引いた。


「八十年解けなかった予想が、昨夜、崩れたと流れた」


 ルドーは言った。


「信じるか」


 前の列で、手が挙がった。


「信じません。生成変換器は、嘘をつきます」


「では、確かめろ」


 次の手。


「……数理院の裁定を、待つべきだと思います」


「待つあいだに、式は変わるのか」


 三人目は、少し声を落とした。


「書いたのは、人間本位社の人です。自分の会社の《寓話》の宣伝なのでは」


「宣伝でも、式が正しければ正しい。確かめろ」


 四人目の手は、上がらなかった。

 上がりかけた手が一つ、そっと膝の上へ戻っていった。


 ルドーの目が、こちらへ来た。


「ユウ」


「はい」


「はい」


「はいは一回だ」


———

 私は、教壇の脇に、講義用の変換台を出した。


 平たい石の台である。

 上に置いたものの色と、透けぐあいと、温みを読み、決まった術式どおりに、それを別の色と透けぐあいと温みに書き換える。

 学生が最初の年に、変換術式の手ほどきを受ける道具だ。


「変換術式から始めます」


 私は言った。


「三つの数を受け取って、三つの数を返す術式です。この台なら、色と、透けぐあいと、温み。どれも、数で読めます」


 表示盤に、二つ書いた。


   受け取る数 三つ

   返す数   三つ


「三つの数の組は、縦と横と高さのある箱の中の、一つの場所だと思ってください。色が横、透けぐあいが縦、温みが高さ。この箱の中に、ありうる結晶の様子が、全部入っています。変換術式は、この箱を、まるごと別の箱へ写します」


「変換術式には、量率というものがあります」


「量率」


「受け取る数をほんの少し動かしたとき、返す数がどれだけ動くか。その広がりの率です。箱を、小さな升に切ったところを思い浮かべてください。術式を通したあと、ある升が倍の大きさになっていれば、そこの量率は二です」


 前の列の学生が、頷いた。

 ここまでは、教本に書いてある。


「量率が零のところでは、升が潰れています。積み木が、板になるか、線になるか、点になっている。厚みを失った升からは、どれが元だったか分からない。元に戻せません」


「戻す術式は、巻き戻し術ですね」


「そうです」


 私は、表示盤に一行足した。


   量率が零なら、潰れる。潰れたら、巻き戻せない


「では、量率がどこでも同じで、零でもないなら。どこも潰れていないのだから、必ず巻き戻せるはずだ」


 私は、その行を指した。


「八十年余り前に、ケレルという数理魔導士が、そう言いました。言っただけで、示せなかった。誰も示せず、誰も崩せなかった。それが、ケレルの巻き戻し予想です」


「……みんな、正しいと思っていたんですか」


「思っていました。思っていたので、王国の変換術の認可規格にも、その上に建った条があります」


 講堂の後ろのほうで、誰かが小さく、あ、と言った。

 変換術の認可を、実習で書いたことのある学生だろう。


「ケレル但し書き」


「それです。量率が一定の変換術式は、巻き戻せるものとみなして、検分を簡略にしてよい」


 私は、但し書きの文を、表示盤の端に写した。


「予想の上に、規格が建っていたわけです。悪いことではありません。建っていると書いてあったから、今朝、どこを見ればいいかすぐに分かった」


———

 私は、懐から小箱を出した。


 中に、結晶が三つ入っている。

 赤みがかったもの。青く透けたもの。ほとんど白い、濁ったもの。


「今朝、つぶやきにあった三つの場所どおりに、整えてきました」


 三つを、台の上に並べた。


「そして、こちらがつぶやきにあった三行の変換術式。ネヴィンが書いて、《寓話》が見つけたものです」


 台の脇の石板に、三行を写した。

 それから、学生のほうへ向き直った。


「この術式の量率は、どこでもきっかり二です。向きだけ、鏡に映したように裏返る。潰れているところは、どこにもありません」


 台に、術を流した。


 赤い結晶の色が、ゆっくり抜けていった。

 青い結晶の透けが、曇っていった。

 白い結晶が、少しずつ、温みを帯びていった。


 三つとも、同じ方へ寄っていく。


 最後に、三つとも動きを止めた。


 淡い琥珀色の、少しだけ曇った、手に取るとほのかに温かい結晶が、三つ並んでいた。


 寸分も、違わなかった。


 講堂が、静かになった。


「どれが、さっきの赤いのですか」


 私は訊いた。


 誰も、答えなかった。


「私にも、分かりません」


 私は言った。


「分からない、というのが、巻き戻せない、ということです。三つが一つに潰れたら、一つから三つへは戻れない。どれへ戻せばいいのか、決まらないからです」


 前の列の学生が、手を挙げた。


「でも、量率が、どこでも二なんですよね。どこも潰れていないのに、どうして」


「いい問いです」


 私は、表示盤に、螺旋を一つ描いた。


「螺旋の階段を、思い浮かべてください。どの一段を見ても、広さは同じです。潰れている段はない。だから、どの一段の上でも、足元は巻き戻せる」


「はい」


「でも、真上から見下ろすと」


 螺旋の上に、点を一つ打った。


「真上から見た一点に、一段目と、二段目と、三段目が、重なっています。上から見ただけでは、どの段にいたのか分からない」


「……近くで見ると潰れていなくて、遠くで重なっている」


「そうです。量率は、近くの話しかしません。八十年、みんな、近くの話から遠くの話を信じていた」


 数理魔導士たちが、怠けていたわけではない。

 近くで正しいことは、遠くでもだいたい正しい。だいたい正しいから、そう思う。

 人間の直観は、だいたいのところで、とても強い。


———

「確かめろ」


 ルドーが言った。


 講堂じゅうが、こちらを見た。


「全員だ」


 ルドーは、教卓に紙の束を置いた。

 つぶやきにあった三行の術式と、三つの場所の数が、写してある。私が来る前に、自分で写したらしい。


「現場こそ授業だ」


 ここは講堂である。

 だが、この人が現場と言えば、そこが現場になる。


 学生たちが、紙を回しはじめた。


 筆の音が、講堂を埋めた。

 後ろの列で、リゼも、誰の紙も覗かずに、黙って筆を動かしていた。

 足し算と、掛け算と、引き算だけである。三つの場所の数を、三行の術式に通して、写る先の数を出す。三回。それから、量率を出す。これは少し手間がかかる。


 私は、教卓の脇に立って、待った。


 四半刻ほどで、前の列の、いちばん年若い学生が、筆を置いた。


 紙を、両手で持って、もう一度見直している。

 見直して、顔を上げた。


「……三つとも、同じになりました」


 声が、少し震えていた。


「量率も、二です。どこで取っても」


 ルドーが、その学生を見た。


「八十年は、長いか」


 学生は、答えに詰まった。


「……長い、です」


「検算は、半刻だ」


 ルドーは、それだけ言った。


 半刻が経つころには、講堂の半分が筆を置いていた。

 置いた者は、まだ置いていない隣の紙を、覗き込んでいた。覗き込まれた者は、手で隠した。

 自分で確かめたいのだ。

 当然である。今朝まで八十年だったものが、自分の手の中で、半刻で崩れるのだから。


———

「これは、言葉ではありません」


 私は言った。


「品物です。品物は、検分できます」


 表示盤に、二つ並べて書いた。


   証明  長い。読むのに、信用が要る

   反例  短い。確かめるのに、算術しか要らない


「証明は、長い綴りです。百枚あれば、百枚のどこかに穴があるかもしれない。だから、読める者が読み、その者を信じる者が信じ、さらにその者を信じる者が信じる。信用が、鎖になって伝わります」


「反例は」


「三行と、三つの点です。誰でも、自分の手で、半刻で閉じられる。鎖が要りません」


 私は、少し間を置いた。


「前に、雑談用の生成変換器が、もっともらしい嘘を混ぜた話をしました」


 何人かが、頷いた。

 あのとき、王都じゅうが、言葉の模型の出す答えに振り回された。根拠らしきものを並べて、根拠が無い。だから、出てきた言葉は、必ず原典照合にかけろ、と言った。


「あのとき分かったのは、生成変換器の言葉は、確かめるのが高い、ということでした。読んで、照らして、裏を取る。手間が、出した側の何倍もかかる」


「今回は」


「今回は、確かめるのが、とても安い。……生成変換器の言うことを信じるな、は今も正しいです。今回は、信じる必要がないんです」


 三人目の誤答をした学生が、少し顔を上げた。


「宣伝かどうか、も」


「関係ありません」


 私は言った。


「見つけたのが人間本位社の身内でも、無名の学生でも、話は変わりません。名があるかどうかも、利害があるかどうかも、関係ない。信じるかどうかの問いを、検算が消してしまうんです」


 八十年分の権威より、半刻の検算のほうが強い。

 そういう品物が、たまにある。


———

「ただし」


 私は言った。


 講堂の空気が、少しだけ締まった。

 この学年は、もう、この言葉の後に何が来るかを知っている。


「検算が安いのは、これが反例だからです。証明だったら、こうはいきません。生成変換器が出したもの一般が、急に信用できるようになったわけではない」


「はい」


「それから、もう一つ」


 私は、ルドーが配った紙の束を、一枚取った。


「皆さんが検算したのは、どの式ですか」


「この紙の……」


「この紙は、ルドー先生がつぶやきから写したものです。つぶやきの式は、ネヴィンが書いたものです。ネヴィンの式は、《寓話》が出したものです」


 学生たちが、紙を見た。


「写しの写しで検算しても、写しが正しいことしか分かりません。一つ書き違えていれば、皆さんは、正しく、別の式を検算したことになる」


「……原典照合」


「そうです。検算する前に、検算する式が、元と同じかを確かめてください。品物を検分する前に、品物が本物かを見る」


 ルドーが、教卓の上で、自分の紙を元のつぶやきと並べた。

 一行ずつ、指で追っている。


 誰も笑わなかった。

 写したのは、この人である。


 指が、三行目の終わりで止まった。


「合っている」


 ルドーは言った。


「次から、自分で照らせ」


———

 講義の終わりが近づいたころ、講堂の後ろで、携帯術盤が鳴った。


 一つ鳴ると、続けて二つ鳴った。

 それから、あちこちで鳴りはじめた。


 ルドーは、止めなかった。

 止めても、誰も聞かないときがある。この人は、それを知っている。


「……また、です」


 後ろの列の学生が、面を見たまま言った。


「また崩れました。一荷一道の予想、って」


 講堂が、ざわついた。


 私も、自分の携帯術盤を出した。


 二件目だった。


 崩れたのは、一荷一道の予想。三十年、誰も証明も反証もできなかった。

 見つけたのは、リュヴァンという数理魔導士。今は新大陸の術式工房に勤めているが、昔は数理院にいた人らしい。

 使ったのは、人間本位社ではない、別の社の生成変換器だった。


「一荷一道って、何ですか」


 前の列から、声が来た。


 私は、表示盤を半分消した。


「荷運びの話です」


 道を、何本か描いた。

 それから、荷を、いくつか描いた。


「荷を、細かく分けて、何本もの道へ流す。こうすると、いちばん安く運べます。どの道も混みすぎない」


「はい」


「でも、本当の荷は分けられません。一つの荷は、一本の道を通るしかない。……一つの荷は、一つの道。それが、一荷一道です」


「東方の言い方ですね」


「数理魔導士が好んで使う、硬い言い方です」


 私は、続けた。


「三十年前、三人の数理魔導士が、こう示しました。分けて流した運び方を、分けない運び方に寄せ直しても、どの道の混みようも、いちばん大きな一荷ぶんしか超えない」


「三名の運び定理」


 後ろの列の誰かが言った。

 習ったことがあるらしい。


「その先に、一つ残っていたんです。しかも、運び賃も増やさずに寄せ直せる、と。それが、一荷一道の予想です」


 私は、携帯術盤の面を見た。


「今回の図では、分けて流せば、運び賃は五十八。分けずに、混みの超過を一荷ぶんに収めて運ぼうとすると、どう工夫しても、六十を切らない」


「……二、高い」


「二、高い。それで、三十年が終わりました」


 これも、検算できる。

 図があって、荷があって、道がある。分けずに運ぶやり方を全部並べて、どれも六十を切らないかを数えればいい。半刻では済まないが、一晩あれば済む。


 リュヴァンは、囁に、もう一つ、つぶやきを足していた。


   反例探しが流行りになっているのは、承知している。

   だが、これは私が本気で考えた問題だ。若いころ、何週間も考えた。示す側からも、崩す側からも。

   この道の者は、みな一度は考えたはずだ。


 軽口は無かった。

 昨夜のつぶやきとは、ずいぶん違う書きぶりである。


 一件目は、決勝を見ながらの、友人への返事だった。

 二件目は、この問題に若いころの何週間かを置いてきた人が、道具を替えて、もう一度戻ってきた話だった。


「一件は、事件だ」


 ルドーが言った。


「二件は、流行りだ」


———

 鐘が鳴った。


 学生たちが、鞄を手に取りかけた。


「待て」


 ルドーが言った。

 手が、止まった。


「八十年と、三十年だ」


 ルドーは、教卓に両手をついた。


「誰も、探さなかったのか」


 講堂が、静かになった。


 誰も、答えなかった。

 答えようとして、答えの形が見つからない顔が、いくつか並んでいた。


 ルドーの目が、こちらへ来た。

 今度は、名前を呼ばなかった。


「誰も探さなかったわけでは、ありません」


 私は言った。


「探したと思います。八十年のあいだに、何百人も。探して、出なくて、やめたんです」


 表示盤の前に立った。

 書くことは、あまり無かった。


「数理魔導士は、直観が強い人たちです。これは正しいはずだ、と感じたら、反例を探すのは無駄だと判断する。そして、示す側に回る。それは、有能さの一部です。間違った方向へ一生を使わないための、正しい勘です」


「……その勘が、外れていた」


「八十年のあいだ、誰の勘も、外れていると言わなかった。だから、みんな、同じところでやめた」


 私は、一行だけ書いた。


   予想とは、みんなが探し止めを決めた場所につけられた名前


「探し止め、と呼ぶことにします。探すのを、ここで打ち切る、と決めること」


 学生たちが、それを写しはじめた。


「生成変換器に、直観と呼べるものがあるのかどうかは、分かりません。あると言う人もいますし、無いと言う人もいます」


 私は言った。


「ただ、聞くかぎりでは、これは正しいはずだから探さない、という止まり方は、あまりしないそうです。八十年分の、正しいはずだ、を背負っていない。……だから、人間がやめた場所を、平気で掘ります」


 ルドーは、しばらく黙っていた。


「やめたのは、誰だ」


 ルドーは訊いた。


 学生たちは、答えなかった。

 答えは分かっている。分かっているから、言いにくい。


「……全員です」


 私は言った。


 ルドーは、頷きもしなかった。

 紙の束を脇に抱えて、講堂を出ていった。


 では、やめどきは、誰が決めるのか。

 ルドーは、それを訊かずに出ていった。

 訊かなかったのは、たぶん、次に訊くためである。


———

 昼過ぎに術務室へ行くと、表示盤の前に、また人が固まっていた。


 冬でもないのに、部屋の奥だけが暖かい。


「数理院が、声明を出しました」


 フィンが言った。

 早口である。この男は、休みの日の話と、新大陸の報せのときだけ早口になる。


「正式な検分の委員会を置く、そうです。それから、発表の場が夜の囁だったのは、学問の作法として望ましくない、と」


「苦言ですね」


「苦言です」


 セシルが、向かいの卓から言った。


「でも、委員会が開かれるの、十日後ですって。その頃には、たぶん、王都の学生が全員検算し終わってますけど」


「追認になりますね」


 私は言った。


 フィンが、少し笑った。

 笑い方に、ほんの少し、意地の悪いものが混じっていた。


「遅いですよね」


「遅いです。でも、遅いのには理由があります」


 私は、表示盤の脇の椅子に座った。


「数理院は、昔、検めるのが難しい証明もどきに、何度も振り回されています。三百枚の綴りで、二年かけて読んで、最後の十枚に穴があった、というような。だから、急いで認めない。急いで認めないことで、守ってきたものがある」


「でも、今回は」


「今回は、急いでも大丈夫な品物です。ただ、品物を見る前に作法を決めておかないと、次に来るのが証明もどきだったとき、同じ急ぎ方をしてしまう」


 背中のほうで、紙の角をそろえる音がした。


「追認にも、意味はあるわ」


 マリエだった。

 王城から戻ったところらしい。外套の肩が、少し湿っている。


「誰が、いつ、どう確かめたかを、記録に残す人が要るもの。学生が千人検算しても、千人は記録を書かないわ。委員会は書く」


「……そうですね」


「それと、こちらの話」


 マリエは、卓に綴りを置いた。

 王城の布告の写しである。


「ケレル但し書きで簡略に認められた変換術式を、全部、点検し直すことになったわ。王国に、四十と少し」


「四十」


「多くはないわね。全部が巻き戻せないわけでもない。巻き戻せるものが大半のはずよ。ただ、どれが大半に入るかは、一つずつ見ないと分からない」


 マリエは、綴りの表紙を指で叩いた。


「予想の上に建っていた規格は、予想と一緒に点検が要るわ」


「但し書きが、書いてあってよかったです」


 私は言った。


「書かずに前提にしていたら、どの規格が予想の上に建っていたかを探すところから、始めることになりました」


「書いてあったから、四十と分かった」


「はい」


 マリエは、小さく頷いた。

 それから、もう一枚、紙を出した。


「数理院の声明の、最後の一文。誰も読んでいないみたいだから」


 読んだ。


   なお、数を二つしか受け取らない変換術式については、本件は何も述べていない。


「……崩れたのは、三つの版だけなんですね」


「二つの版は、まだ八十年のままだそうよ」


 いちばん易しく見える形が、いちばん長く残る。

 そういうことは、よくある。


 フィンが、自分の携帯術盤を見ながら言った。


「人間本位社の《神話》は、国の外へは持ち出せないじゃないですか。《寓話》だって、ちょっと前まで、止められたり戻されたりしてた」


「そうですね」


「でも、三行の反例は、昨夜のうちに、どの国にも届いてるんですよね」


 私は、少し考えた。


「力は、国境と契約で止められます。三行は、止められません」


 止める必要も、ない。

 三行の反例で、誰かの術盤が破られるわけではない。崩れるのは、八十年分の思い込みだけである。


———

 夕方、家に帰ると、リゼが先に戻っていた。


 卓の上に、政務術式支援班の綴りが広がっている。

 リゼは、その上に頬杖をついていた。


「おかえり」


「ただいま。……持ち帰り?」


「持ち帰り」


 リゼは、綴りを閉じた。


「うちの班の減免計算、来週、配備なの」


「冬越しの」


「冬越しの。薪と灯り油のぶん、税を軽くするやつ。今年から、古い出納の術式じゃなくて、新しく書いた術式で出すの」


「試験は」


「全部、緑灯」


 リゼは、少し間を置いた。


「全部緑灯なんだけど、ブレンが眠れてないのよね」


「ブレン」


「班の術師。若い人。真面目なの。試験札も、自分で全部書いたの。全部通ったの。それなのに、毎朝、目の下が黒くなってく」


 私は、外套を掛けた。


 全部緑灯で、眠れない。

 眠れないのは、だいたい、試験が足りないからではない。試験が何を見ていないかを、どこかで分かっているからだ。


「……壊れない入力しか、試していないのかもしれない」


 声が、出ていた。


 リゼが、頬杖を外した。


「それ、ブレンに言ったら、たぶん泣くわよ」


「言わない」


「言わないの?」


「言われて分かるより、自分で気づいたほうが、次に効く」


 リゼは、少しのあいだ、私を見ていた。


「ずるい人ね」


「ずるい」


「でも、たぶん、近いうちに呼ばれるわよ」


「たぶん、呼ばれる」


 リゼは、綴りを鞄に戻した。

 戻してから、湯沸かしを火にかけた。


 今朝と同じ湯沸かしである。

 今朝、この湯が沸くあいだに、八十年の話をした。


———

 夜更けに、目が覚めた。


 リゼは、隣で眠っている。

 窓の外の通りに、昨夜のような静けさは無い。遠くで、まだ決勝の話をしている酔った声がする。


 私は、居間に出て、携帯術盤を手に取った。


 ケレルの巻き戻し予想。

 一荷一道の予想。


 どちらも、名前は違う。

 だが、中身には、覚えがあった。


 現世にも、同じ予想があった。

 二つとも、だ。


 中身が同じなのは、分かる。数理だからである。どの世界でも、三は三で、螺旋は螺旋だ。同じ問いを立てれば、同じところに行き着く。


 だが。


 同じくらいの年月、放っておかれた。

 同じくらい、有名だった。

 同じくらいの人数が、同じところで、探し止めを決めていた。


 それは、数理ではない。

 歴史だ。


「……この予想、現世にもあったな」


 私は、面に向かって言った。


 AIエージェントは、答えなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。