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魔法世界は運用で回る  作者: 月の位相
夫婦編

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第239話 壊れないように作れ

 見張り部屋の小さな窓が、かすかに鳴っていた。


 風が、出てきたのだ。

 窓の枠が、ときどき、思い出したように小さく震える。そのたびに、外の空の灰色が、少しずつ濃くなっていた。


 部屋の中の唸りは、変わらなかった。

 低く、平らで、どこまでも同じ高さの唸りである。外で何が起きていても、この建物の中だけは、昨日と同じ刻が流れている。そういう音だった。


「北の海の見張り台の記録が、昼前まで届きませんでした」


 机の一つに座った若い術師が言った。

 ネリ、と名乗った。二十を少し出たくらいだろう。袖口が、トキと同じように肘までまくってあった。


「嵐の手前で、遠話が乱れたんです。いつもは夜明けに揃うものが、揃ったのが昼前で。いつもなら昼過ぎに出る見立てが、今日は、まだ途中です」


「最初の一本道が、伸びたんですね」


 私は言った。


「はい。……講堂の話、聞こえていました」


 ネリは、少しだけ笑った。

 笑ってから、手元の盤に目を戻した。


「三日先まで回すうちの、いま、一日と半分です」


「締めは」


「日暮れの鐘です。蒼穹空路社が、明日の朝の浮遊船を出すかどうか決めるので」


 窓の外で、風が一度、強く鳴った。


 学生たちは、見張り部屋の壁際に並んで、表示盤の地図を見ていた。

 北の海の白い渦が、さっきより、少しだけ大きい。

 大きくなったのか、近づいたのか、地図を見慣れない目には、区別がつかない。


 区別がつかないものを、区別するために、この建物はある。


———

「倒れた一台の代わりに、控え盤を差すことはできないんですか」


 私は訊いた。


 王都の花火の夜、私は控え盤で急場をしのいだ。

 壊れたものを外して、控えを差して、今夜の分だけ成り立たせる。

 術盤の世話をする者なら、誰でも最初に思いつく手だ。


「控え盤は、倉にあります」


 トキは言った。


「ですが、控え盤を差し込んでも、拍子には乗れません。今の途中結果を持っていないので。倒れた一台が受け持っていた空の区画の、今の風を、控え盤は知りません。知らない者が拍子に加わっても、隣に渡す札がありません」


「では」


「結局、直前の時写しまで全員で巻き戻って、控え盤ごと足並みを揃え直すしかありません。控え盤が役に立つのは、全員が、同じ時写しから、一緒にやり直すときだけです」


 術盤群なら、倒れた一台の欠片を、別の一台に渡し直せば済む。

 ここでは、倒れた一台の代わりを差しても、その一台だけ、今に追いつけない。

 今に追いつけない一台がいると、全員が今を手放して、過去へ戻る。


「一台一台は、どれくらいの間隔で倒れるんですか」


 学生の一人が訊いた。講堂で、弱いところはなくなる、と言った学生だった。


「普通の術盤なら、三年に一度、倒れるかどうか、というところです」


AIエージェント:「補足:三年に一度倒れる術盤を千と二十四台並べると、どれか一台が倒れる間隔は、一日と少しです」


「今、それを言うな」


「そのとおりです」


 トキが言った。

 AIエージェントの言葉に、ふつうに頷いていた。この人は、正しいことを言う者が何者であっても、気にしないらしい。


「ですから、三年に一度では困るんです。うちの術盤は、一台一台を、三十年に一度倒れるかどうか、というところまで作り込んであります。値段も、普通の術盤の何倍もします」


「三十年に一度なら、まず倒れませんね」


「それでも、千と二十四台並べれば、十日あまりに一度は、どれかが倒れます」


 学生は、黙った。

 千台あるから、弱いところが千か所ある。

 講堂で気づいたことを、今、数で受け取った顔だった。


 私は、術盤群のことを考えていた。


 術盤群は、壊れる前提で、そこそこの術盤を束ねる。一台一台は安い。そのかわり、一台が倒れても全体は倒れないように、束ね方のほうで信頼を作る。

 この建物は、逆だ。

 壊れない前提を、一台一台に背負わせて、速さを作っている。


 どちらが正しい、という話ではない。

 何を払って、何を買うかの違いだ。

 術盤群は、速さを少し払って、倒れても困らないことを買った。この建物は、高い値札と几帳面さを払って、ほかのどこにも無い速さを買った。


「時写しは、どれくらいの間隔で取るんですか」


 私は訊いた。


「半刻ごとです」


 トキは言った。


「取るあいだは、全員が手を止めます。千と二十四台が、それぞれの区画を、一斉に書き写す。取りすぎれば、見立てが遅れます。取らなすぎれば、倒れたときの巻き戻りが長くなります。半刻は、その間を取った数です」


「前の時写しは」


「四半刻と少し前です」


 ネリが、盤を見ずに答えた。


———

「下を、お見せします」


 トキは、見張り部屋の脇の、細い階段を降りはじめた。

 学生たちが、一列になってついていく。


 階段の下は、さらに寒かった。

 唸りが遠くなった。かわりに、耳の奥がしんとするような、乾いた静けさがあった。


 低い天井の部屋に、棚が並んでいた。

 上の棚とは違う。術盤は差していない。


 棚の一段一段に、拳ほどの大きさの晶が、隙間なく並んでいた。

 何百、いや、何千あるのだろう。どれも、薄く、蜂蜜のような色に光っている。光は、息をするように、ほんのわずかに強くなったり弱くなったりしていた。


「命綱術勢庫です」


 トキは言った。


「外からの術勢が絶たれたら、ここが数分だけ保たせます」


「数分だけ、ですか」


 前の列の学生が言った。講堂で、なります、と言った学生である。


「一晩もたせればいいのに」


「一晩もたせるだけの晶を並べたら、隣に、もう一つ観天算陣が建ちます」


 学生は、口を閉じた。


「それに」


 トキは続けた。


「命綱術勢庫は、動かし続けるためのものじゃありません。正しく止めるためのものです。最後の時写しを一つでも多く残して、正しく止める。そのための数分です」


「止めるために、こんなに?」


 リゼが訊いた。


「いきなり術勢が切れると、書きかけの時写しが、半分だけ残ります」


 トキは言った。


「半分の時写しは、時写しではありません。運が悪ければ、その前の時写しまで巻き込んで壊します。それに、熱いまま急に止まった算術盤は、まれに、そのまま起きなくなります。千と二十四台のうちの、何台が起きないかは、止まってみるまで分かりません」


 熱いまま、急に止まる。

 上の部屋の、冬のような冷たさを思い出した。あれだけ冷やしていても、中は熱いのだ。


 トキは、棚の端の晶を一つ、指の背で軽く叩いた。

 澄んだ音がした。


「これは、まだ大丈夫です」


 隣の晶を叩いた。

 さっきより、わずかに濁った音がした。


 トキは、腕の帳面から赤い糸を一本抜いて、その晶の台座に結んだ。


「これは、来月、入れ替えます」


「入れ替えるんですか。まだ光ってますけど」


「光っているうちに、入れ替えます」


 トキは言った。


「蓄え晶は、数年で弱ります。弱っても、光り方はほとんど変わりません。ある日、要るときに、要るだけ出ない。そういう弱り方をします。ですから、要る日が来る前に、音で聞き分けて、順に入れ替えます」


 棚を見渡した。

 赤い糸の結ばれた台座が、ところどころにあった。十に一つ、くらいだろうか。


「地味ですが、うちで一番お金がかかっている場所かもしれません」


 一番お金がかかっている場所が、一度も使われない日が、一年のほとんどである。

 使われない日の続くものに、金を出し続けるのは難しい。人類は、だいたい、使われたことのないものから削る。


「これが止まったら、王都はどうなるの?」


 リゼが訊いた。

 晶の棚ではなく、上の階のほうを、指で示していた。


 トキは、少し考えてから答えた。


「明日の天気が、明日になるまで分かりません」


「……それ、けっこう困るね」


「困りますか?」


 学生の一人が言った。


「明日になれば、分かるなら」


「浮遊船を出してから嵐に会うのと、出さないで済むのは、違うでしょ。空の上で困るのは、マリエさんので、もうこりごり」


 リゼは言った。


「乗合馬車の乗り場も、雨が降ってから動かしたら、みんな濡れながら走るんだよ。わたし、走ったことある」


 学生は、頷いた。

 濡れながら走ったことのある顔だった。


———

 見張り部屋に戻ると、窓の外の灰色が、丘の上まで来ていた。


 北の空の雲の壁が、もう壁ではなかった。空の半分が、低く、重く垂れている。丘の麓の木々が、一斉に同じ方向へ傾いていた。


「学生は帰る」


 ルドー先生が言った。


「嵐の前に、馬車を出す」


 学生たちが、ざわついた。

 まだ見たいものがある、という顔と、帰れるなら帰りたい、という顔が、半分ずつだった。


「リゼ」


「はい」


「数えて帰れ」


「なんで、わたし」


「数えられる」


 リゼは、何か言い返しかけて、やめた。

 ルドー先生に言い返して、勝てた学生を、私は見たことがない。


「先生は」


「残る」


 ルドー先生は、見張り部屋の隅の椅子に、腰を下ろした。

 引率を学生に任せる教師というのは、どうなのだろう。たぶん、責任は王城が取る。


「ユウは?」


 リゼが、こちらを見た。


「残る。邪魔にならないところで、見ている」


「邪魔しないでね。ここの人たちの」


「しない」


「それから」


 リゼは、少しだけ声を落とした。


「ちゃんと、帰ってきてね」


 私は、リゼの顔を見た。

 今度は、ちゃんと見た。

 頬が、寒さで少し赤かった。目は、窓の外の空を一度だけ見て、それからまた、私に戻った。


「帰る」


 リゼは頷いて、学生たちのほうへ向き直った。


「はい、並んで。数えるよ。一、二、三……」


 声が、遠ざかっていった。

 戸の開く音がして、冷たい風が、一度だけ見張り部屋まで吹き込んだ。


———

「二日先まで来ました」


 ネリが言った。


「残り、一日ぶんです。日暮れの鐘まで、一刻と少し」


「間に合いますか」


「このままなら、四半刻足らずの余りがあります」


 四半刻足らずの余り。

 余りがあるうちは、余りの話をしなくていい。


 風の音が、高くなっていた。

 窓の枠が、震えるのをやめて、鳴りっぱなしになっている。


 そのとき、見張り部屋の灯が、一度だけ暗くなった。


 ほんの一瞬である。

 まばたきと区別がつかないほどの、一瞬。


 唸りが、半音だけ下がった。

 下がって、戻った。


 机の上の鈴が、鋭く鳴った。

 さっきの小さな鈴とは、音が違った。


「術勢拍、乱れました!」


 ネリが言った。

 声が、少し裏返っていた。


「北の端の棚、灯が赤です。……三台、落ちかけてます。いま、戻りました」


「外は」


 トキが言った。

 声は、変わらなかった。


「外の術勢……」


 もう一つの机の術師が、盤を叩いた。


「途切れました。北の送り線です」


 見張り部屋の灯が、消えた。


 暗くなった。

 残ったのは、壁一面の表示盤の光だけだった。白い渦と、刻々と変わる色が、暗い部屋に浮かんでいる。


「命綱、入りました」


「灯りは、命綱から外してあります」


 トキが、暗がりの中で言った。


「ご心配なく。灯りは止まっても、困りませんので」


 唸りは、続いていた。

 さっきと、ほとんど同じ高さで。

 ほとんど、というところに、耳が引っかかった。半音の、さらに半分ほど、低い。下の部屋の、蜂蜜色の光が、今、上へ上がってきているのだ。


「命綱、残り六分」


 ネリが言った。


「時写し、取ります」


 トキが言った。

 迷いの無い声だった。誰かに諮る間も、置かなかった。


「全員、手を止めて」


 唸りが、一段低くなった。


 千と二十四台が、空を進めるのをやめた。

 それぞれが受け持った区画の、今の風と、今の温みと、今の湿りを、一斉に書き写しはじめた。


AIエージェント:「補足:時写しの途中で命綱が尽きた場合、書きかけの時写しは使えず、前の時写しも危うくなります」


「黙れ」


 分かっている。

 さっき、下の部屋で、トキがそう言った。この部屋の全員が、それを知っている。知っていることを、最悪の刻に、正確に言われるのが、いちばん堪える。


「残り、五分」


「時写し、三割」


 ネリの声が、少し落ち着いてきた。

 読み上げる数があると、人の声は落ち着く。


「残り、四分」


「時写し、七割」


 窓の外で、何かが倒れる音がした。

 丘の麓の木か、どこかの柵か。誰も、窓のほうを見なかった。


「残り、三分半」


「時写し、取れました」


「照らし合わせ」


「……合っています」


「止めます」


 トキは言った。


「待ってください」


 ネリが、振り返った。


「外の術勢、戻るかもしれません。止めたら、起こし直すのに刻がかかります。日暮れに……」


「戻るかもしれないものを、待ちません」


 トキは言った。


「戻らなかったとき、命綱が尽きるまで待っていたら、止め損ねます。止め損ねたら、今取った時写しが、無駄になります。止めます」


 ネリは、一呼吸だけ止まった。

 それから、盤を叩いた。


「止めます」


 千と二十四台が、端から順に、静かになっていった。


 唸りが、細くなった。

 細くなって、低くなって、消えた。


 この建物に入ってから、初めて、静かになった。

 静かになって、初めて、外の嵐の音が、まともに聞こえた。風が、建物の角で、長く鳴いていた。


「命綱、残り一分半で、止めきりました」


 ネリが言った。


 トキは、腕の帳面に、一行書いた。

 灯の無い部屋で、表示盤の光だけを頼りに、小さな字で。


———

 外の術勢が戻ったのは、止めてから四半刻足らずのあとだった。


 灯が戻り、見張り部屋が明るくなった。

 供給庁が、別の送り線へ回したのか、即応炉を立ち上げたのか。即応炉なら、温めから十数分。いつか、供給庁の監視室で聞いた数と、だいたい合っていた。


「起こします」


 トキが言った。


 唸りが、戻ってきた。

 低いところから、少しずつ高くなって、さっきと同じ高さに揃っていく。棚の灯が、一列ずつ、緑に灯っていった。

 起こすのにも、刻がかかる。千を超える術盤が、棚の端から一台ずつ目を覚ますのを、待つしかない。


「……北の端の棚、二台、起きません」


 ネリが言った。


「さっき、落ちかけていた三台のうちの、二台です」


 熱いまま、急に止まった算術盤は、まれに、そのまま起きない。

 急に止めたのではない。命綱で、正しく止めた。それでも、乱れた拍の一瞬を、まともに受けた二台があったのだ。


「控え盤、二台、入れます」


 トキは言った。


「今なら入れます。全員、同じ時写しから始めますので」


 さっきの話だった。

 控え盤が役に立つのは、全員が、同じ時写しから、一緒にやり直すときだけ。

 今が、そのときだった。


 別の部屋から、術師が二人、控え盤を抱えて走っていった。走る、というより、急いで歩いていた。この建物の人たちは、急いでも走らないらしい。


 控え盤が差し込まれ、千と二十四台ぶんの区画の時写しが、それぞれの術盤へ読み戻された。起こしはじめてから、ここまでで、四半刻近くかかった。

 千と二十四台が、もう一度、同じ拍子に乗った。


「再開しました」


 ネリが言った。

 それから、手元の盤を見て、言葉を止めた。


「……このまま、いつもの目で残りの一日ぶんを回すと、日暮れの鐘を、半刻近く過ぎます」


 余りは、消えていた。

 止めて、待って、起こして、控えを差して。そのあいだに、余りを使い果たして、さらに足りない。

 最悪だ。


 ネリが、遠話の盤に手を伸ばした。


「蒼穹空路社に、遅れると伝えます」


「その前に」


 私は言った。


 ネリの手が、止まった。


「蒼穹空路社が日暮れに要るのは、何ですか」


「……明日の朝の浮遊船を、出すかどうか、です」


「どの路の、どの刻の、何ですか」


 ネリは、少し考えた。


「明朝の、北方学都への便と、南の商都への便の、高いところの風です。……それと、たぶん、王都の上の、今夜半の雨」


「三日先までの見立ては、今夜、日暮れまでに要りますか」


「……要りません」


 遅れる、と伝える前に、何が要るかを訊く。

 この前、祭りの通りでリオに教わったことと、根は同じだった。数字が正しいかどうかより先に、受け取る側を見る。


 それ以上は、私の仕事ではなかった。


 トキが、腕の帳面を外した。

 表紙の擦り切れた帳面を、後ろから開く。最後のほうの頁に、細かい字で、何かの手順が並んでいた。


 嵐の日の絞り方、と、頁の頭にあった。


「一日先まで、に切ります」


 トキは言った。


「北の海から王都までの帯だけ、目をいつもの細かさで残します。ほかの区画は、目を粗くします。三日先は、今夜、鐘のあとで回し直します」


 ネリが、盤を叩きはじめた。

 もう一人の術師が、トキの帳面を覗き込みながら、別の盤を叩いた。


 私は、壁際に下がった。


 完全に戻すのは、あとでいい。

 今夜を成り立たせるだけなら、要るところに絞る。

 花火の夜、私が打ち上げ場でやった仮組みと、同じ形だった。

 違うのは、ここでは、それが何年も前に、帳面に書いてあったことだ。


 ルドー先生は、隅の椅子に座ったまま、何も言わなかった。

 目を閉じていた。眠っているのかもしれない。眠っていないのかもしれない。


———

「一日先まで、残り、三割」


 ネリが言った。


 窓の外は、もう暗くなりはじめていた。

 日暮れが近いからなのか、雲が厚いからなのか、もう分からない。


「残り、二割」


 ネリの手が、盤の上で、ときどき止まった。

 止まって、祈るように、表示盤の白い渦を見上げた。それから、また動いた。


「残り、一割」


 丘の麓の村のほうから、鐘が聞こえはじめた。


 日暮れの鐘だった。

 一つ。

 風に千切れて、遠く、細く聞こえる。


 二つ。


「書き出し、始めます」


 最後の一本道だった。

 千と二十四台が出した答えを、一台ずつしか通れない道で、見立てに書き出す。ここだけは、何台いても縮まない。


 三つ。


「……出ました」


 ネリが言った。


「蒼穹空路社へ、送ります」


 四つ目の鐘が鳴ったとき、遠話の盤に、蒼穹空路社の運行の詰め所からの受けの印が灯った。


 ネリは、受けの印を読み上げた。


「北方学都の便、明朝は見送り。南の商都の便は、昼から。……受け取った、と」


 見張り部屋の誰も、声を上げなかった。

 トキが、腕の帳面に一行書いた。もう一人の術師が、冷めた茶を一口飲んだ。それだけだった。


 ぎりぎりだった。

 ぎりぎり、というのは、余りが無かった、ということだ。

 余りが無くても、間に合えば、外からは何も起きなかったのと同じに見える。


 明日の朝、北方学都への浮遊船は出ない。

 浮遊港で、明日の便を待っていた誰かが、残念がるだろう。

 嵐の中へ船を出されずに済んだことを、その誰かが知ることは、たぶん無い。


———

 ネリが、椅子の背にもたれた。

 長く、息を吐いた。


「……祈ってました」


 ネリは言った。


「ずっと。外の術勢が戻りますように、って。起きない二台が、起きますように、って。間に合いますように、って」


 トキは、帳面を閉じた。


「壊れないことを祈っても、意味がありません」


 トキは言った。


「壊れないように作る。それだけです」


 ネリは、黙った。


 トキは、それ以上、何も言わなかった。

 叱ったのでも、慰めたのでもなかった。手順を一つ読み上げたのと、同じ声だった。


 今日、ここで間に合ったのは、祈りが通じたからではない。


 六分の命綱があった。

 時写しを、半刻ごとに取っていた。

 照らし合わせてから、止めた。

 控え盤が、倉にあった。

 嵐の日の絞り方が、帳面に書いてあった。

 蓄え晶は、光っているうちに、音で聞き分けて入れ替えてあった。


 全部、何も起きない日に、誰かが作っておいたものだった。

 トキは、今日、祈らなかった。

 祈るかわりに、六分を数えた。


「束ねれば束ねるほど、こういう危うさも増えていきますね」


 私は、隅の椅子のほうへ言った。


「千台あれば、千か所。台数は、魔法じゃない」


 ルドー先生が、目を開けた。


「講堂で言え」


 それだけ言って、また目を閉じた。


———

 帰りの支度をしていると、トキが、奥の戸の前で手招きした。


 戸の向こうは、もう一つの長い部屋だった。


 上の部屋と同じように、棚が並んでいる。

 けれど、灯が、ほとんど点いていなかった。唸りも無い。冷たい風も、ここには吹いていない。棚の術盤は、どれも、上の部屋のものより一回り大きく、角ばって見えた。


「先代です」


 トキは言った。


「十二年、ここで見立てを出しました。今は、上の子が倒れたときに、粗い見立てだけでも出せるように、半分だけ起こしてあります」


 トキは、棚の一つに、手を置いた。

 触ると帳面に名前が残る棚に、自分で触れていた。


「もうすぐ、これも退役です。来月、火を落とします」


 その手つきは、古い馬の首を撫でる人のそれに似ていた。


「退役した算術盤は、どうなるんですか」


「ほとんどは、砕いて、使える晶の粉を取り直します」


 トキは、棚から手を離して、壁際の引き出しを開けた。


「ただ、少しだけ、残します。退役するときは、算術盤から演算晶を外して、世話になった方に配る慣わしがあるんです」


 引き出しの中に、小さな木の箱が並んでいた。

 手のひらに載るほどの箱である。蓋に、焼き印で、年が入っていた。


「先代のは、来月です。今日は、先々代ので我慢してください。まだ、少し残っていましたので」


 トキは、箱を一つ取り出して、私に渡した。


 蓋を開けた。


 小指の先ほどの、黒い石が入っていた。

 接続板ごと外してある。石の表に、細い金色の筋が、びっしりと走っていた。光にかざすと、筋が、虹のような色を一瞬だけ返した。


 二十年近く前に、この石は、王国の空を先へ進めていた。

 毎日、何百もの仲間と、隣と札を見せ合いながら。


「ルドー先生にも、先々代のときに差し上げました」


「机の上にある」


 ルドー先生が、戸口から言った。

 いつのまにか、ついてきていた。


 机の上にある。

 この人の机の上には、本と、採点前の答案と、冷めた茶しか無いと思っていた。


 私は、手の中の小さな石を見た。


 現世で、まだ若かったころ、こういう箱の並ぶ部屋を、一度だけ見学したことがある。

 何に使うのかは、半分も分からなかった。低い唸りと、冷たい風と、天井を走る太い線だけを覚えている。

 あのとき胸の中で鳴っていたものに、私は名前をつけたことがない。

 つけないまま、ここまで来た。


 それくらいで、いいのだと思う。


「型落ちが記念品になるくらい、この世界は速く進んでいるんですね」


 私は言った。


「速く進むから、脆くなる場所も増えます」


 トキは言った。


「それだけの話です」


 トキは、引き出しを閉めた。

 閉める前に、残っている箱の数を、指で数えていた。


———

 建物を出ると、雨が降りはじめていた。


 嵐の本体は、まだ北の丘の向こうにあるらしい。

 雨は細く、風に流されて、斜めに顔に当たった。


 トキの工房の荷馬車が、私とルドー先生を、王都まで送ってくれることになった。

 幌の下で、荷馬車が揺れる。


 私は、膝の上の木の箱を、外套の内側にしまった。


「王都術務室にも」


 私は言った。


「祈っているだけの場所が、いくつかあります」


 ルドー先生は、何も言わなかった。


「止まったら困るのに、止まったらどうするかを、誰も書いていない場所です。止め方も、戻し方も。……帰ったら、数えてみます」


「数えたら」


 ルドー先生は言った。


「作れ」


 幌を、雨が叩いていた。


———

 家に帰ると、リゼが、居間の灯の下で待っていた。


 髪が、まだ少し湿っていた。

 卓の上に、湯呑みが二つ置いてあった。


「三十一人。全員、数えて帰した」


「助かった」


「助かったの、わたしじゃなくて、ルドー先生でしょ」


 それは、そうだ。


 私は、外套の内側から木の箱を出して、卓の上に置いた。


「何それ」


「先々代の算術盤の、石だ」


「記念品?」


「記念品だ」


 リゼは、蓋を開けて、黒い石を灯にかざした。

 金色の筋が、また虹色を返した。


「きれいだね。……今日の術盤、結局間に合ったの?」


「ぎりぎり」


「ぎりぎりって、いつもそうだよね」


「いつもそうだ」


 リゼは、石を箱に戻した。


「何が、いちばん面白かった?」


 私は、少し考えた。


「壊れないことを祈るな、壊れないように作れ。……今日、一番刺さった言葉だ」


 リゼは、湯呑みを両手で包んだ。

 少し、黙った。


「うちも似たようなこと、いつも思ってるよ」


「何を」


「あなたに対して」


 私は、リゼの顔を見た。

 リゼは、湯呑みの湯気越しに、こちらを見ていた。笑ってはいなかった。


「……俺は、壊れないように作られてるのか」


「作ってるの。毎朝」


 リゼは言った。


「祈ってるだけだと、あなた、すぐ無茶するから」


 卓の上の木の箱を、私は見た。

 それから、明日の朝の粥のことを考えた。


 最悪だ。

 どうやら、私にも、六分の命綱と、帳面に書かれた手順があるらしい。


———

 千台束ねても、一本道は一本道のままだ。


 けれど、その一本道を、誰かが毎日、壊れないように支えている。


 速さの裏側には、いつも見えない誰かの几帳面さがある。


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