第239話 壊れないように作れ
見張り部屋の小さな窓が、かすかに鳴っていた。
風が、出てきたのだ。
窓の枠が、ときどき、思い出したように小さく震える。そのたびに、外の空の灰色が、少しずつ濃くなっていた。
部屋の中の唸りは、変わらなかった。
低く、平らで、どこまでも同じ高さの唸りである。外で何が起きていても、この建物の中だけは、昨日と同じ刻が流れている。そういう音だった。
「北の海の見張り台の記録が、昼前まで届きませんでした」
机の一つに座った若い術師が言った。
ネリ、と名乗った。二十を少し出たくらいだろう。袖口が、トキと同じように肘までまくってあった。
「嵐の手前で、遠話が乱れたんです。いつもは夜明けに揃うものが、揃ったのが昼前で。いつもなら昼過ぎに出る見立てが、今日は、まだ途中です」
「最初の一本道が、伸びたんですね」
私は言った。
「はい。……講堂の話、聞こえていました」
ネリは、少しだけ笑った。
笑ってから、手元の盤に目を戻した。
「三日先まで回すうちの、いま、一日と半分です」
「締めは」
「日暮れの鐘です。蒼穹空路社が、明日の朝の浮遊船を出すかどうか決めるので」
窓の外で、風が一度、強く鳴った。
学生たちは、見張り部屋の壁際に並んで、表示盤の地図を見ていた。
北の海の白い渦が、さっきより、少しだけ大きい。
大きくなったのか、近づいたのか、地図を見慣れない目には、区別がつかない。
区別がつかないものを、区別するために、この建物はある。
———
「倒れた一台の代わりに、控え盤を差すことはできないんですか」
私は訊いた。
王都の花火の夜、私は控え盤で急場をしのいだ。
壊れたものを外して、控えを差して、今夜の分だけ成り立たせる。
術盤の世話をする者なら、誰でも最初に思いつく手だ。
「控え盤は、倉にあります」
トキは言った。
「ですが、控え盤を差し込んでも、拍子には乗れません。今の途中結果を持っていないので。倒れた一台が受け持っていた空の区画の、今の風を、控え盤は知りません。知らない者が拍子に加わっても、隣に渡す札がありません」
「では」
「結局、直前の時写しまで全員で巻き戻って、控え盤ごと足並みを揃え直すしかありません。控え盤が役に立つのは、全員が、同じ時写しから、一緒にやり直すときだけです」
術盤群なら、倒れた一台の欠片を、別の一台に渡し直せば済む。
ここでは、倒れた一台の代わりを差しても、その一台だけ、今に追いつけない。
今に追いつけない一台がいると、全員が今を手放して、過去へ戻る。
「一台一台は、どれくらいの間隔で倒れるんですか」
学生の一人が訊いた。講堂で、弱いところはなくなる、と言った学生だった。
「普通の術盤なら、三年に一度、倒れるかどうか、というところです」
AIエージェント:「補足:三年に一度倒れる術盤を千と二十四台並べると、どれか一台が倒れる間隔は、一日と少しです」
「今、それを言うな」
「そのとおりです」
トキが言った。
AIエージェントの言葉に、ふつうに頷いていた。この人は、正しいことを言う者が何者であっても、気にしないらしい。
「ですから、三年に一度では困るんです。うちの術盤は、一台一台を、三十年に一度倒れるかどうか、というところまで作り込んであります。値段も、普通の術盤の何倍もします」
「三十年に一度なら、まず倒れませんね」
「それでも、千と二十四台並べれば、十日あまりに一度は、どれかが倒れます」
学生は、黙った。
千台あるから、弱いところが千か所ある。
講堂で気づいたことを、今、数で受け取った顔だった。
私は、術盤群のことを考えていた。
術盤群は、壊れる前提で、そこそこの術盤を束ねる。一台一台は安い。そのかわり、一台が倒れても全体は倒れないように、束ね方のほうで信頼を作る。
この建物は、逆だ。
壊れない前提を、一台一台に背負わせて、速さを作っている。
どちらが正しい、という話ではない。
何を払って、何を買うかの違いだ。
術盤群は、速さを少し払って、倒れても困らないことを買った。この建物は、高い値札と几帳面さを払って、ほかのどこにも無い速さを買った。
「時写しは、どれくらいの間隔で取るんですか」
私は訊いた。
「半刻ごとです」
トキは言った。
「取るあいだは、全員が手を止めます。千と二十四台が、それぞれの区画を、一斉に書き写す。取りすぎれば、見立てが遅れます。取らなすぎれば、倒れたときの巻き戻りが長くなります。半刻は、その間を取った数です」
「前の時写しは」
「四半刻と少し前です」
ネリが、盤を見ずに答えた。
———
「下を、お見せします」
トキは、見張り部屋の脇の、細い階段を降りはじめた。
学生たちが、一列になってついていく。
階段の下は、さらに寒かった。
唸りが遠くなった。かわりに、耳の奥がしんとするような、乾いた静けさがあった。
低い天井の部屋に、棚が並んでいた。
上の棚とは違う。術盤は差していない。
棚の一段一段に、拳ほどの大きさの晶が、隙間なく並んでいた。
何百、いや、何千あるのだろう。どれも、薄く、蜂蜜のような色に光っている。光は、息をするように、ほんのわずかに強くなったり弱くなったりしていた。
「命綱術勢庫です」
トキは言った。
「外からの術勢が絶たれたら、ここが数分だけ保たせます」
「数分だけ、ですか」
前の列の学生が言った。講堂で、なります、と言った学生である。
「一晩もたせればいいのに」
「一晩もたせるだけの晶を並べたら、隣に、もう一つ観天算陣が建ちます」
学生は、口を閉じた。
「それに」
トキは続けた。
「命綱術勢庫は、動かし続けるためのものじゃありません。正しく止めるためのものです。最後の時写しを一つでも多く残して、正しく止める。そのための数分です」
「止めるために、こんなに?」
リゼが訊いた。
「いきなり術勢が切れると、書きかけの時写しが、半分だけ残ります」
トキは言った。
「半分の時写しは、時写しではありません。運が悪ければ、その前の時写しまで巻き込んで壊します。それに、熱いまま急に止まった算術盤は、まれに、そのまま起きなくなります。千と二十四台のうちの、何台が起きないかは、止まってみるまで分かりません」
熱いまま、急に止まる。
上の部屋の、冬のような冷たさを思い出した。あれだけ冷やしていても、中は熱いのだ。
トキは、棚の端の晶を一つ、指の背で軽く叩いた。
澄んだ音がした。
「これは、まだ大丈夫です」
隣の晶を叩いた。
さっきより、わずかに濁った音がした。
トキは、腕の帳面から赤い糸を一本抜いて、その晶の台座に結んだ。
「これは、来月、入れ替えます」
「入れ替えるんですか。まだ光ってますけど」
「光っているうちに、入れ替えます」
トキは言った。
「蓄え晶は、数年で弱ります。弱っても、光り方はほとんど変わりません。ある日、要るときに、要るだけ出ない。そういう弱り方をします。ですから、要る日が来る前に、音で聞き分けて、順に入れ替えます」
棚を見渡した。
赤い糸の結ばれた台座が、ところどころにあった。十に一つ、くらいだろうか。
「地味ですが、うちで一番お金がかかっている場所かもしれません」
一番お金がかかっている場所が、一度も使われない日が、一年のほとんどである。
使われない日の続くものに、金を出し続けるのは難しい。人類は、だいたい、使われたことのないものから削る。
「これが止まったら、王都はどうなるの?」
リゼが訊いた。
晶の棚ではなく、上の階のほうを、指で示していた。
トキは、少し考えてから答えた。
「明日の天気が、明日になるまで分かりません」
「……それ、けっこう困るね」
「困りますか?」
学生の一人が言った。
「明日になれば、分かるなら」
「浮遊船を出してから嵐に会うのと、出さないで済むのは、違うでしょ。空の上で困るのは、マリエさんので、もうこりごり」
リゼは言った。
「乗合馬車の乗り場も、雨が降ってから動かしたら、みんな濡れながら走るんだよ。わたし、走ったことある」
学生は、頷いた。
濡れながら走ったことのある顔だった。
———
見張り部屋に戻ると、窓の外の灰色が、丘の上まで来ていた。
北の空の雲の壁が、もう壁ではなかった。空の半分が、低く、重く垂れている。丘の麓の木々が、一斉に同じ方向へ傾いていた。
「学生は帰る」
ルドー先生が言った。
「嵐の前に、馬車を出す」
学生たちが、ざわついた。
まだ見たいものがある、という顔と、帰れるなら帰りたい、という顔が、半分ずつだった。
「リゼ」
「はい」
「数えて帰れ」
「なんで、わたし」
「数えられる」
リゼは、何か言い返しかけて、やめた。
ルドー先生に言い返して、勝てた学生を、私は見たことがない。
「先生は」
「残る」
ルドー先生は、見張り部屋の隅の椅子に、腰を下ろした。
引率を学生に任せる教師というのは、どうなのだろう。たぶん、責任は王城が取る。
「ユウは?」
リゼが、こちらを見た。
「残る。邪魔にならないところで、見ている」
「邪魔しないでね。ここの人たちの」
「しない」
「それから」
リゼは、少しだけ声を落とした。
「ちゃんと、帰ってきてね」
私は、リゼの顔を見た。
今度は、ちゃんと見た。
頬が、寒さで少し赤かった。目は、窓の外の空を一度だけ見て、それからまた、私に戻った。
「帰る」
リゼは頷いて、学生たちのほうへ向き直った。
「はい、並んで。数えるよ。一、二、三……」
声が、遠ざかっていった。
戸の開く音がして、冷たい風が、一度だけ見張り部屋まで吹き込んだ。
———
「二日先まで来ました」
ネリが言った。
「残り、一日ぶんです。日暮れの鐘まで、一刻と少し」
「間に合いますか」
「このままなら、四半刻足らずの余りがあります」
四半刻足らずの余り。
余りがあるうちは、余りの話をしなくていい。
風の音が、高くなっていた。
窓の枠が、震えるのをやめて、鳴りっぱなしになっている。
そのとき、見張り部屋の灯が、一度だけ暗くなった。
ほんの一瞬である。
まばたきと区別がつかないほどの、一瞬。
唸りが、半音だけ下がった。
下がって、戻った。
机の上の鈴が、鋭く鳴った。
さっきの小さな鈴とは、音が違った。
「術勢拍、乱れました!」
ネリが言った。
声が、少し裏返っていた。
「北の端の棚、灯が赤です。……三台、落ちかけてます。いま、戻りました」
「外は」
トキが言った。
声は、変わらなかった。
「外の術勢……」
もう一つの机の術師が、盤を叩いた。
「途切れました。北の送り線です」
見張り部屋の灯が、消えた。
暗くなった。
残ったのは、壁一面の表示盤の光だけだった。白い渦と、刻々と変わる色が、暗い部屋に浮かんでいる。
「命綱、入りました」
「灯りは、命綱から外してあります」
トキが、暗がりの中で言った。
「ご心配なく。灯りは止まっても、困りませんので」
唸りは、続いていた。
さっきと、ほとんど同じ高さで。
ほとんど、というところに、耳が引っかかった。半音の、さらに半分ほど、低い。下の部屋の、蜂蜜色の光が、今、上へ上がってきているのだ。
「命綱、残り六分」
ネリが言った。
「時写し、取ります」
トキが言った。
迷いの無い声だった。誰かに諮る間も、置かなかった。
「全員、手を止めて」
唸りが、一段低くなった。
千と二十四台が、空を進めるのをやめた。
それぞれが受け持った区画の、今の風と、今の温みと、今の湿りを、一斉に書き写しはじめた。
AIエージェント:「補足:時写しの途中で命綱が尽きた場合、書きかけの時写しは使えず、前の時写しも危うくなります」
「黙れ」
分かっている。
さっき、下の部屋で、トキがそう言った。この部屋の全員が、それを知っている。知っていることを、最悪の刻に、正確に言われるのが、いちばん堪える。
「残り、五分」
「時写し、三割」
ネリの声が、少し落ち着いてきた。
読み上げる数があると、人の声は落ち着く。
「残り、四分」
「時写し、七割」
窓の外で、何かが倒れる音がした。
丘の麓の木か、どこかの柵か。誰も、窓のほうを見なかった。
「残り、三分半」
「時写し、取れました」
「照らし合わせ」
「……合っています」
「止めます」
トキは言った。
「待ってください」
ネリが、振り返った。
「外の術勢、戻るかもしれません。止めたら、起こし直すのに刻がかかります。日暮れに……」
「戻るかもしれないものを、待ちません」
トキは言った。
「戻らなかったとき、命綱が尽きるまで待っていたら、止め損ねます。止め損ねたら、今取った時写しが、無駄になります。止めます」
ネリは、一呼吸だけ止まった。
それから、盤を叩いた。
「止めます」
千と二十四台が、端から順に、静かになっていった。
唸りが、細くなった。
細くなって、低くなって、消えた。
この建物に入ってから、初めて、静かになった。
静かになって、初めて、外の嵐の音が、まともに聞こえた。風が、建物の角で、長く鳴いていた。
「命綱、残り一分半で、止めきりました」
ネリが言った。
トキは、腕の帳面に、一行書いた。
灯の無い部屋で、表示盤の光だけを頼りに、小さな字で。
———
外の術勢が戻ったのは、止めてから四半刻足らずのあとだった。
灯が戻り、見張り部屋が明るくなった。
供給庁が、別の送り線へ回したのか、即応炉を立ち上げたのか。即応炉なら、温めから十数分。いつか、供給庁の監視室で聞いた数と、だいたい合っていた。
「起こします」
トキが言った。
唸りが、戻ってきた。
低いところから、少しずつ高くなって、さっきと同じ高さに揃っていく。棚の灯が、一列ずつ、緑に灯っていった。
起こすのにも、刻がかかる。千を超える術盤が、棚の端から一台ずつ目を覚ますのを、待つしかない。
「……北の端の棚、二台、起きません」
ネリが言った。
「さっき、落ちかけていた三台のうちの、二台です」
熱いまま、急に止まった算術盤は、まれに、そのまま起きない。
急に止めたのではない。命綱で、正しく止めた。それでも、乱れた拍の一瞬を、まともに受けた二台があったのだ。
「控え盤、二台、入れます」
トキは言った。
「今なら入れます。全員、同じ時写しから始めますので」
さっきの話だった。
控え盤が役に立つのは、全員が、同じ時写しから、一緒にやり直すときだけ。
今が、そのときだった。
別の部屋から、術師が二人、控え盤を抱えて走っていった。走る、というより、急いで歩いていた。この建物の人たちは、急いでも走らないらしい。
控え盤が差し込まれ、千と二十四台ぶんの区画の時写しが、それぞれの術盤へ読み戻された。起こしはじめてから、ここまでで、四半刻近くかかった。
千と二十四台が、もう一度、同じ拍子に乗った。
「再開しました」
ネリが言った。
それから、手元の盤を見て、言葉を止めた。
「……このまま、いつもの目で残りの一日ぶんを回すと、日暮れの鐘を、半刻近く過ぎます」
余りは、消えていた。
止めて、待って、起こして、控えを差して。そのあいだに、余りを使い果たして、さらに足りない。
最悪だ。
ネリが、遠話の盤に手を伸ばした。
「蒼穹空路社に、遅れると伝えます」
「その前に」
私は言った。
ネリの手が、止まった。
「蒼穹空路社が日暮れに要るのは、何ですか」
「……明日の朝の浮遊船を、出すかどうか、です」
「どの路の、どの刻の、何ですか」
ネリは、少し考えた。
「明朝の、北方学都への便と、南の商都への便の、高いところの風です。……それと、たぶん、王都の上の、今夜半の雨」
「三日先までの見立ては、今夜、日暮れまでに要りますか」
「……要りません」
遅れる、と伝える前に、何が要るかを訊く。
この前、祭りの通りでリオに教わったことと、根は同じだった。数字が正しいかどうかより先に、受け取る側を見る。
それ以上は、私の仕事ではなかった。
トキが、腕の帳面を外した。
表紙の擦り切れた帳面を、後ろから開く。最後のほうの頁に、細かい字で、何かの手順が並んでいた。
嵐の日の絞り方、と、頁の頭にあった。
「一日先まで、に切ります」
トキは言った。
「北の海から王都までの帯だけ、目をいつもの細かさで残します。ほかの区画は、目を粗くします。三日先は、今夜、鐘のあとで回し直します」
ネリが、盤を叩きはじめた。
もう一人の術師が、トキの帳面を覗き込みながら、別の盤を叩いた。
私は、壁際に下がった。
完全に戻すのは、あとでいい。
今夜を成り立たせるだけなら、要るところに絞る。
花火の夜、私が打ち上げ場でやった仮組みと、同じ形だった。
違うのは、ここでは、それが何年も前に、帳面に書いてあったことだ。
ルドー先生は、隅の椅子に座ったまま、何も言わなかった。
目を閉じていた。眠っているのかもしれない。眠っていないのかもしれない。
———
「一日先まで、残り、三割」
ネリが言った。
窓の外は、もう暗くなりはじめていた。
日暮れが近いからなのか、雲が厚いからなのか、もう分からない。
「残り、二割」
ネリの手が、盤の上で、ときどき止まった。
止まって、祈るように、表示盤の白い渦を見上げた。それから、また動いた。
「残り、一割」
丘の麓の村のほうから、鐘が聞こえはじめた。
日暮れの鐘だった。
一つ。
風に千切れて、遠く、細く聞こえる。
二つ。
「書き出し、始めます」
最後の一本道だった。
千と二十四台が出した答えを、一台ずつしか通れない道で、見立てに書き出す。ここだけは、何台いても縮まない。
三つ。
「……出ました」
ネリが言った。
「蒼穹空路社へ、送ります」
四つ目の鐘が鳴ったとき、遠話の盤に、蒼穹空路社の運行の詰め所からの受けの印が灯った。
ネリは、受けの印を読み上げた。
「北方学都の便、明朝は見送り。南の商都の便は、昼から。……受け取った、と」
見張り部屋の誰も、声を上げなかった。
トキが、腕の帳面に一行書いた。もう一人の術師が、冷めた茶を一口飲んだ。それだけだった。
ぎりぎりだった。
ぎりぎり、というのは、余りが無かった、ということだ。
余りが無くても、間に合えば、外からは何も起きなかったのと同じに見える。
明日の朝、北方学都への浮遊船は出ない。
浮遊港で、明日の便を待っていた誰かが、残念がるだろう。
嵐の中へ船を出されずに済んだことを、その誰かが知ることは、たぶん無い。
———
ネリが、椅子の背にもたれた。
長く、息を吐いた。
「……祈ってました」
ネリは言った。
「ずっと。外の術勢が戻りますように、って。起きない二台が、起きますように、って。間に合いますように、って」
トキは、帳面を閉じた。
「壊れないことを祈っても、意味がありません」
トキは言った。
「壊れないように作る。それだけです」
ネリは、黙った。
トキは、それ以上、何も言わなかった。
叱ったのでも、慰めたのでもなかった。手順を一つ読み上げたのと、同じ声だった。
今日、ここで間に合ったのは、祈りが通じたからではない。
六分の命綱があった。
時写しを、半刻ごとに取っていた。
照らし合わせてから、止めた。
控え盤が、倉にあった。
嵐の日の絞り方が、帳面に書いてあった。
蓄え晶は、光っているうちに、音で聞き分けて入れ替えてあった。
全部、何も起きない日に、誰かが作っておいたものだった。
トキは、今日、祈らなかった。
祈るかわりに、六分を数えた。
「束ねれば束ねるほど、こういう危うさも増えていきますね」
私は、隅の椅子のほうへ言った。
「千台あれば、千か所。台数は、魔法じゃない」
ルドー先生が、目を開けた。
「講堂で言え」
それだけ言って、また目を閉じた。
———
帰りの支度をしていると、トキが、奥の戸の前で手招きした。
戸の向こうは、もう一つの長い部屋だった。
上の部屋と同じように、棚が並んでいる。
けれど、灯が、ほとんど点いていなかった。唸りも無い。冷たい風も、ここには吹いていない。棚の術盤は、どれも、上の部屋のものより一回り大きく、角ばって見えた。
「先代です」
トキは言った。
「十二年、ここで見立てを出しました。今は、上の子が倒れたときに、粗い見立てだけでも出せるように、半分だけ起こしてあります」
トキは、棚の一つに、手を置いた。
触ると帳面に名前が残る棚に、自分で触れていた。
「もうすぐ、これも退役です。来月、火を落とします」
その手つきは、古い馬の首を撫でる人のそれに似ていた。
「退役した算術盤は、どうなるんですか」
「ほとんどは、砕いて、使える晶の粉を取り直します」
トキは、棚から手を離して、壁際の引き出しを開けた。
「ただ、少しだけ、残します。退役するときは、算術盤から演算晶を外して、世話になった方に配る慣わしがあるんです」
引き出しの中に、小さな木の箱が並んでいた。
手のひらに載るほどの箱である。蓋に、焼き印で、年が入っていた。
「先代のは、来月です。今日は、先々代ので我慢してください。まだ、少し残っていましたので」
トキは、箱を一つ取り出して、私に渡した。
蓋を開けた。
小指の先ほどの、黒い石が入っていた。
接続板ごと外してある。石の表に、細い金色の筋が、びっしりと走っていた。光にかざすと、筋が、虹のような色を一瞬だけ返した。
二十年近く前に、この石は、王国の空を先へ進めていた。
毎日、何百もの仲間と、隣と札を見せ合いながら。
「ルドー先生にも、先々代のときに差し上げました」
「机の上にある」
ルドー先生が、戸口から言った。
いつのまにか、ついてきていた。
机の上にある。
この人の机の上には、本と、採点前の答案と、冷めた茶しか無いと思っていた。
私は、手の中の小さな石を見た。
現世で、まだ若かったころ、こういう箱の並ぶ部屋を、一度だけ見学したことがある。
何に使うのかは、半分も分からなかった。低い唸りと、冷たい風と、天井を走る太い線だけを覚えている。
あのとき胸の中で鳴っていたものに、私は名前をつけたことがない。
つけないまま、ここまで来た。
それくらいで、いいのだと思う。
「型落ちが記念品になるくらい、この世界は速く進んでいるんですね」
私は言った。
「速く進むから、脆くなる場所も増えます」
トキは言った。
「それだけの話です」
トキは、引き出しを閉めた。
閉める前に、残っている箱の数を、指で数えていた。
———
建物を出ると、雨が降りはじめていた。
嵐の本体は、まだ北の丘の向こうにあるらしい。
雨は細く、風に流されて、斜めに顔に当たった。
トキの工房の荷馬車が、私とルドー先生を、王都まで送ってくれることになった。
幌の下で、荷馬車が揺れる。
私は、膝の上の木の箱を、外套の内側にしまった。
「王都術務室にも」
私は言った。
「祈っているだけの場所が、いくつかあります」
ルドー先生は、何も言わなかった。
「止まったら困るのに、止まったらどうするかを、誰も書いていない場所です。止め方も、戻し方も。……帰ったら、数えてみます」
「数えたら」
ルドー先生は言った。
「作れ」
幌を、雨が叩いていた。
———
家に帰ると、リゼが、居間の灯の下で待っていた。
髪が、まだ少し湿っていた。
卓の上に、湯呑みが二つ置いてあった。
「三十一人。全員、数えて帰した」
「助かった」
「助かったの、わたしじゃなくて、ルドー先生でしょ」
それは、そうだ。
私は、外套の内側から木の箱を出して、卓の上に置いた。
「何それ」
「先々代の算術盤の、石だ」
「記念品?」
「記念品だ」
リゼは、蓋を開けて、黒い石を灯にかざした。
金色の筋が、また虹色を返した。
「きれいだね。……今日の術盤、結局間に合ったの?」
「ぎりぎり」
「ぎりぎりって、いつもそうだよね」
「いつもそうだ」
リゼは、石を箱に戻した。
「何が、いちばん面白かった?」
私は、少し考えた。
「壊れないことを祈るな、壊れないように作れ。……今日、一番刺さった言葉だ」
リゼは、湯呑みを両手で包んだ。
少し、黙った。
「うちも似たようなこと、いつも思ってるよ」
「何を」
「あなたに対して」
私は、リゼの顔を見た。
リゼは、湯呑みの湯気越しに、こちらを見ていた。笑ってはいなかった。
「……俺は、壊れないように作られてるのか」
「作ってるの。毎朝」
リゼは言った。
「祈ってるだけだと、あなた、すぐ無茶するから」
卓の上の木の箱を、私は見た。
それから、明日の朝の粥のことを考えた。
最悪だ。
どうやら、私にも、六分の命綱と、帳面に書かれた手順があるらしい。
———
千台束ねても、一本道は一本道のままだ。
けれど、その一本道を、誰かが毎日、壊れないように支えている。
速さの裏側には、いつも見えない誰かの几帳面さがある。




