第238話 千台あっても、一本道は一本道
朝の台所に、炒った麦の匂いがしていた。
リゼが、鍋の蓋を少しずらして、中を覗いている。
蓋の縁から、湯気が一筋だけ逃げていった。
祭りが終わって、四日が経つ。
通りから幟が消えた。屋台の骨組みも、昨日のうちに片づいた。
残っているのは、少し肌寒くなった朝と、祭りのあいだに溜まった用事だけである。
「今日、課外授業だ」
私は言った。
「課外授業? 珍しいね」
「王都郊外に、特別製の術盤があるらしい」
「特別製?」
「速いけど、気難しい子、みたいな感じらしい」
リゼは、蓋を戻した。
戻してから、こちらを見た。
「それ、あなたのことかと思った」
「どこがだ」
「速いところ」
「気難しいところは」
「言わなくていいでしょ」
言わなくていいらしい。
言わなくても伝わっている、という意味だろう。
最悪だ。
リゼは、椀に麦粥をよそって、私の前に置いた。
それから、自分の椀の脇に、小さな紙を一枚置いた。
「わたしも行くんだよ。学生だもん」
紙には、ルドー先生の字で、二行だけ書いてあった。
課外 郊外
歩ける靴
「これだけか」
「これだけ。昨日、講堂の戸に貼ってあった」
「どこへ行くのかも、書いてない」
「書いてないね。でも、みんな知ってた。毎年あるんだって。上の学年の人が言ってた。行くと、寒いんだって」
「寒い」
「秋なのに、冬みたいに寒いんだって。あと、うるさい」
寒くて、うるさい。
速くて、気難しい。
ずいぶん手のかかる子らしい。
「何をする術盤なの」
「それは、聞いていない」
「ユウも知らないの」
「ルドー先生に、知らせる気がない」
「それは、そう」
リゼは、粥を一口食べた。
「千台くらい並んでるって、上の学年の人は言ってた」
「千台」
「千台。……千台もあったら、何でもすぐ終わりそうだけど」
私は、匙を止めた。
千台あれば、何でもすぐ終わる。
たぶん、今日の講堂でも、誰かが同じことを言う。
そして、ルドー先生に一語で切られる。
「今日の授業の答えが、分かった気がする」
「何それ」
「千台あっても、すぐには終わらないものがある」
「なんで」
「それを、たぶん講堂で言わされる」
———
講堂は、いつもより賑やかだった。
学生が三十人ほど。皆、足元だけがいつもと違う。革の長靴。底の厚い編み上げ。旅用の布靴。歩ける靴、の二行は、きちんと読まれていたらしい。
鞄を膝に抱えている者もいる。中で、包みが鳴った。弁当だろう。
課外の日の学生は、少しだけ子どもに戻る。
人類は、いくつになっても、遠出の朝には同じ顔をする。
ルドー先生が、教壇に立った。
鞄も、本も、持っていない。
「術盤を千台束ねれば、性能は千倍になるか」
手が挙がった。前の列の学生である。
「なります」
「違う」
次の手。
「千倍は無理でも、九百倍くらいには」
「違う」
三人目は、少し考えてから手を挙げた。
「……速さは分かりません。でも、千台あれば、弱いところはなくなるはずです」
「違う」
四人目は、手を挙げかけて、下ろした。
賢明だ。
ルドー先生の目が、こちらへ来た。
「ユウ」
「はい」
「はい」
「はいは一回だ」
最前列の誰かが、小さく吹き出した。
———
私は、教壇の脇の箱を開けた。
白い札が、百枚入っている。朝のうちに、学校の事務方から借りてきたものだ。
それと、学校の印を十。綴じ紐を一本。札には、事務方が綴じ穴を先に開けておいてくれた。
「手伝ってくれる人を、十人」
前の三列から、十人が出てきた。
さっき「なります」と言った学生も混じっている。
「この百枚の札に、一枚ずつ印を押します。押し終えたら、私が、番号の順に一冊に綴じます」
札を十枚ずつに分けて、印と一緒に十人へ配った。
「では、どうぞ」
十人が、一斉に押しはじめた。
とん、とん、とん。
講堂に、印の音が重なって響いた。
一人十枚なので、すぐに終わった。
私は、胸の中で呼吸を数えていた。九つと少し。十には届かなかった。
札が、私の手元へ戻ってくる。
私は、札を番号の順に並べた。
揃えて、端を叩いて、穴に紐を通す。数枚通しては、順番が狂っていないかを確かめる。また通す。
十人は、手を止めて、私の手元を見ていた。
見ているしかない。
紐は一本で、通す手は一組で、順番を確かめる目も、ここには二つしかない。
紐を結び終えたとき、胸の中の数は、十を越えていた。
十人で押した印より、私一人で通した紐のほうが、長くかかっていた。
「一人でやったら、どうなっていたと思いますか」
前の列の学生が答えた。
「百枚ぜんぶ押して、それから綴じるので……印のほうに、ずっとかかります」
「そうです。今、数えていました。十人で押して、九呼吸と少し。一人で百枚押せば、その十倍で、九十呼吸ほどです。綴じは、私一人で、十呼吸ほどでした」
私は表示盤に書いた。
かかった呼吸の数
印押し 綴じ 合わせて
一人 九十 十 百
十人 九 十 十九
百人 〇・九 十 十と〇・九
千人 〇・〇九 十 十と〇・〇九
「表の数は、どれも、かかった刻です。呼吸の数で数えています。少ないほど、早く終わったということです」
私は、一番上の行を指で叩いた。
「一人でやると、印押しに九十呼吸、綴じに十呼吸。合わせて百呼吸かかる仕事です。これを、人を増やしてやってみる。印押しは、人数で割れます。十人なら九呼吸、百人なら〇・九呼吸。綴じは、割れません。一本の紐を通すのは、何人いても私一人です。だから、どの行も十呼吸のまま」
私は、合わせての列を、上から下へ指でなぞった。
「速さは、合わせての数で比べます。百呼吸かかっていた仕事が、十人なら十九呼吸で終わる。百を十九で割って、五倍と少し速い。百人なら、十と〇・九呼吸で終わるので、九倍と少し。千人なら、十と〇・〇九呼吸」
AIエージェント:「補足:百を十と〇・〇九で割ると、九・九一です。千人でも、一人のときのおよそ九・九倍です。十倍には届きません」
「今、それを言うところだった」
AIエージェント:「観測:あなたが『言うところだった』と言うとき、たいてい、言うところではありません」
「黙れ」
学生の何人かが笑った。
笑ったあとで、表示盤の数字を見直している。
「束ねて速くなるのは、分けられるところだけです」
私は言った。
「印押しは、分けられます。百枚を十人で分けても、千人で分けても、押される印は同じです。ですが、綴じは分けられない。順番どおりに、一本の紐で通すしかない。順番を守らないと解けない仕事は、何人いても、一人ぶんの刻がかかります」
私は、表の綴じの列を、上から下まで丸で囲んだ。
四行とも、十のままである。
「人をいくら増やしても、合わせての数は、綴じの十呼吸より少なくなりません。百呼吸の仕事が、十呼吸より早くは終わらない。ですから、百を十で割った十倍が、天井です」
「その一本道が、全体の一割あったら」
「千台束ねても、十倍に届かない」
講堂が、少し静かになった。
千倍と言った学生が、九百倍と言った学生と、顔を見合わせていた。
千倍と、九・九倍。
自分の答えと正しい答えのあいだに、桁が二つある。
人は、桁を二つ間違えたと知ったとき、だいたい黙る。
私は、表の下に、三行書いた。
千人で薪を割っても
運ぶ道が一本しかなければ
そこで詰まる
「台数を増やすほど、分けられるところは小さくなります。小さくなった分、残った一本道が、全体の中で目立ってくる。最後は、一本道の長さだけが残ります」
中ほどの列で、手が挙がった。
リゼだった。
「台所に何人いても、竈が一つなら、煮るのは順番ってこと?」
私は、リゼのほうを向いた。
「そういうことだ」
「切る人を百人にしても、鍋が煮えるのは待つしかない」
「待つしかない」
リゼは、満足そうに座った。
前の列の何人かが、振り返ってリゼを見た。夫婦の言葉づかいが講堂に混ざると、学生はだいたい振り返る。もう慣れた。
———
「ただし」
私は言った。
講堂に、嫌な空気が流れた。
学生たちは、私の「ただし」をもう信用していない。正しい。
「一本道は、綴じのところにだけあるとは限りません」
私は、さっきの十人に、もう一度札を配った。今度は、まだ印を押していない白い札を、十枚ずつ。
「今度は、一枚押すたびに、両隣の人と見せ合ってください。印の向きが揃っているかを確かめる。両方と揃っていたら、次の一枚へ。列の端の人は、反対の端の人と見せ合ってください」
十人が、顔を見合わせた。
「始め」
とん。
見せる。見せられる。頷く。
とん。
見せる。見せられる。頷く。
さっきより、ずっと遅い。
それに、拍子が出てきた。誰かが押すのを、両隣が待つ。その両隣が押すのを、またその隣が待つ。十人が、一つの拍子で動きはじめた。
六枚目のところで、一人が札を落とした。
さっき「なります」と言った学生だった。
札は、教壇の下に滑り込んだ。学生は、しゃがんで手を伸ばした。
両隣が、止まった。
両隣が止まったので、その隣も止まった。
その隣も。
十人が、全員、止まっていた。
一人が教壇の下から札を拾い上げるのを、九人が待っていた。
「……すみません」
「謝らなくていいです。それが、見せたかったものです」
私は言った。
「さっきの印押しは、一人一人が、自分の十枚を黙って押すだけでした。誰かが遅れても、ほかの九人は関係ない。今度は違います。隣と確かめ合いながら、全員が一つの拍子で進んでいる。そうすると、一人が遅れれば、全員が足を止めます」
「確かめるのを、やめればいいのでは」
さっき九百倍と言った学生だった。
「やめられない仕事が、あるんです」
私は、表示盤の空いたところに、三つの絵を描いた。
一つ目は、同じ形の小さな盤を、横一列にずらりと並べた絵。
「一つ目は、並べ計算。描画術盤が得意なものです。同じ型の単純な仕事を、大量に一斉にやる。一つ一つは、隣を見ない」
二つ目は、大きめの盤を十ほど、ゆるく線で結んだ絵。
「二つ目は、術盤群。王都の記録整理で使っているものです。大きな仕事を欠片に分けて配る。一台一台は、自分の欠片を黙々と片づけるだけで、隣とはほとんど話さない。だから、一台が倒れても、その一台の欠片を、別の一台に渡し直せば済みます。結ぶ線も、普通の術網で足ります」
三つ目は、盤と盤のあいだを、太い線で網の目のように結んだ絵。
線を、何度もなぞって太くした。
「三つ目は、こういう束ね方です。一つの大きな計算を細かく割るけれど、割った欠片どうしが、互いの途中の答えを、絶えず受け渡しながら進む。隣の答えが来ないと、自分の次の一歩が出せない。さっきの、印の向きを見せ合ったのと同じです」
「なんで、そんな面倒なことを」
「欠片どうしが、本当に絡み合っているからです。分けたのは、こちらの都合です。仕事のほうは、分かれたつもりがない」
私は、三つ目の絵の上に書いた。
密結び算陣
「密に結んで、一つの算を解く陣。そう呼ばれています」
「……一台が倒れたら?」
三人目の、弱いところはなくなる、と言った学生だった。
「渡し直せません。倒れた一台が持っていた途中の答えは、その一台にしか無いので。全員で、どこかまで戻ってやり直すことになります」
「千台いたら、千台とも?」
「千台とも」
学生は、黙った。
千台あれば、弱いところはなくなる。
同時に、千台あるから、弱いところが千か所ある。
そのことに、今、気づいた顔だった。
私は、三つ目の絵の太い線を、指で叩いた。
「この線も、普通の術網では足りません。隣と話す回数が多すぎるので、専用に引いた、太くて速い結び網が要ります。高くつきます」
「高いうえに、壊れたら全部やり直しなんですか」
「高いうえに、壊れたときに痛い。そのかわり、一つの大きな計算を、ほかのどんなやり方よりも速く解きます」
速い。高い。痛い。
朝、リゼが言っていた。速いけど、気難しい子。
「今日は、この三つ目の束ね方で動いている場所を、見に行きます。千台を束ねて、一つの計算だけを、毎日解き続けている場所です」
ルドー先生が、教壇の端から言った。
「昼の鐘で、出る」
「何の計算をしているところなんですか」
前の列の学生が訊いた。
「見れば分かる」
「遠いんですか」
「郊外だ」
それきりだった。
紙の二行と、ちょうど同じだけの量である。
———
昼の鐘のあと、学校の前に、乗合馬車が二台来た。
学校が借り切ったものだ。
借りたのは事務方で、頼んだのはルドー先生で、払うのは、たぶん王城である。
王都の西門を出て、川沿いの道を北へ向かった。
刈り取りの済んだ麦畑が、両側に続いている。切り株の列が、日を受けて白く光っていた。
馬車の中で、学生たちは、弁当の包みを開けたり閉じたりしていた。開けて、昼の鐘のすぐあとだったことを思い出して、閉じる。それを三度くり返した者もいた。
リゼは、窓の外を見ていた。
「ユウ、あれ」
畑の向こうに、丘があった。
丘の中腹に、長い建物が見えた。
石造りの、低くて長い建物である。半分、丘に埋もれているように見えた。屋根の上に、煙突に似た筒が何本も立っている。煙は出ていない。
建物の脇を、川から引いた水路が通っていた。
馬車を降りると、足の裏に、何かが伝わってきた。
音、ではない。
音になる手前の、低い唸りである。地面の下で、大きな獣が寝息を立てているような。
建物に近づくにつれ、唸りは耳でも聞こえるようになった。
それから、風が来た。
建物の戸の隙間から、冷たい風が吹き出している。
秋の昼の陽は、まだ背中に暖かい。なのに、戸の前だけ、冬の朝の匂いがした。
「寒い」
リゼが言った。
「上の学年の人が、言ったとおりだ」
「うるさいのも、合ってる」
建物の裏手へ回る水路から、湯気が上がっていた。
入っていく水は冷たく、出ていく水は温かいのだろう。この建物は、川の水で中の何かを冷やしている。
冷やさなければならないほど、中の何かが、熱を出している。
———
戸が開いて、人が一人出てきた。
五十を少し過ぎたくらいの女だった。白いものの混じった髪を、後ろで一つに束ねている。袖を肘までまくった腕に、細い革紐で、小さな帳面が括りつけてあった。
背は高くない。歩き方が静かで、足音がしない。この唸りの中で、足音がしない、というのも変な言い方だが。
「毎年恒例ですね」
女は、ルドー先生を見て言った。
「現場こそ授業だ」
「去年も、そうおっしゃいました」
「去年も、現場だった」
女は、少しだけ目を細めた。
笑ったのだと思う。顔の筋が、ほとんど動かない人だった。
「観天算陣の運用を預かっております、トキと申します」
トキは、学生たちに向かって、浅く頭を下げた。
「観天算陣は王国のものですが、動かしているのは、王国から任されたうちの工房です。わたしは、その運用の主任をしております。……毎年、同じことを申し上げていますね」
「去年も聞いた」
ルドー先生が言った。
トキは、それには答えなかった。
「中は寒いので、上着の前を閉めてください。それと、棚には触らないでください。触っても壊れませんが、触った方のお名前は、帳面に残します」
学生たちが、一斉に上着の前を閉めた。
寒い、より、帳面に名前が残る、のほうが効いたらしい。
———
中は、薄暗かった。
天井の低い、長い部屋である。奥が、暗がりに溶けて見えない。
背丈より高い棚が、何十列も並んでいた。棚の一段一段に、術盤が差してある。一台一台は、王都術務室の机にあるものと、そう変わらない大きさだ。それが、棚という棚に、隙間なく詰まっている。
術盤の縁で、小さな灯が瞬いていた。
何千もの灯が、少しずつずれた拍子で、点いたり消えたりしている。
棚の上を、太い束が走っていた。
黒い紐を何十本も撚り合わせたような束が、天井の樋を伝って、棚から棚へ渡されている。束は棚ごとに枝分かれして、術盤の一台一台へ降りていた。
講堂で、私が表示盤に描いた絵。
盤と盤のあいだを、何度もなぞった太い線。
あれが、ここでは本物の太さで、頭の上を走っていた。
「これが、結び網ですか」
「はい」
トキは言った。
「隣の術盤と話すための線です。普通の術網の、何十倍も速く話せます。そのかわり、この線一本で、普通の術盤が一台買えます」
学生の誰かが、天井を見上げて、小さく口笛を吹いた。
吹いてから、慌てて口を押さえた。帳面のことを思い出したらしい。
「全部で、何台あるんですか」
リゼが訊いた。
「千と、二十四台です」
「半端だね」
「半端に見えますか」
トキは、少しだけ首を傾げた。
「割るのに、ちょうどいい数なんです。半分にして、また半分にして、また半分にして。十回割っても、端数が出ません」
私は、少しだけ笑いそうになった。
現世にも、こういう数を、ちょうどいいと言う人たちがいた。
トキは、棚と棚のあいだを、奥へ歩きはじめた。
学生たちが、列になってついていく。
「この子は」
トキが言った。
子、と呼んだ。
「速いですが、気難しいです。速さは、脆さと引き換えでしか買えません。うちは、その引き換えを、毎日払っている場所です」
前を歩くリゼが、ちらりとこちらを振り返った。
何も言わなかった。言わなくても分かる顔だった。
———
奥の突き当たりに、小さな部屋があった。
見張り部屋、とトキは呼んだ。
壁の一面が、まるごと大きな表示盤になっている。机が三つ。それぞれに、若い術師が一人ずつ座っていた。
表示盤に、王国の地図が映っていた。
地図の上を、薄い白い渦が、ゆっくりと流れている。渦の縁で、細かい色が刻々と変わっていた。青、緑、黄色。ところどころ、赤。
「ここで作っているのは、天候見立てです」
トキは言った。
「数日先までの空模様の見立てを、出しています。どこで、いつ、どれくらいの風が吹くか。雨が降るか。降るなら、どれくらいか」
「数日先まで」
「三日先までなら、だいたい当たります。五日先は、当たればいいほうです。外れる日も、あります」
外れる日もある。
そう言うときのトキの声は、少しも揺れなかった。外れた日の数を、自分で数えている人の声だった。
「誰が使うんですか」
学生の一人が訊いた。
「浮遊船も、生誕祭の花火も、乗合馬車の案内も、元をたどれば、ここの見立て待ちです」
トキは、地図の上を、いくつか指した。
「蒼穹空路社は、毎日、日暮れの鐘までに、翌朝の浮遊船を出すかどうかを決めます。そのとき見るのが、ここの見立てです。前は翼竜場が同じことをしていましたが、翼竜場が閉まってからは、蒼穹空路社です。風読みの方たちは、朝いちばんにも見に来られます。生誕祭の花火は、打ち上げの三日前から、ここの見立てを見て刻を決めます。中央の乗合馬車広場が乗り場を動かすのも、ここが、崩れる、と言った日です」
生誕祭の花火。
私は、あの夜の打ち上げ場を思い出した。控え盤と仮組みで、ぎりぎり成り立たせた夜だ。
あの夜、打ち上げると決めた誰かがいて、その誰かは、ここの見立てを見ていたのだ。
乗合馬車広場の案内が混乱した日のことも、思い出した。祭礼と悪天候が重なった日だった。
午後から天候が崩れる見込みです、とあの日、誰かが言っていた。
その「崩れる」も、ここから出ていたのだろう。
毎日、王都のどこかで、誰かがここの見立てを待っている。
待っていることを、たぶん、待っている本人も知らない。
———
「王都の記録整理には、術盤群を使います」
トキは言った。
「あちらは、一台が壊れても、その欠片だけ、他の一台に投げ渡せば済みます」
「ここは、そうはいかない、ということですか」
私は訊いた。
「はい。うちの計算は、隣の欠片の今の途中結果を、絶えず受け渡しながら進みます。全員が同じ拍子で足並みを揃えているので、一人が遅れれば、全員が足を止めます」
講堂で札を落とした学生が、私の隣で小さく身じろぎした。
「一人が壊れたら?」
「直前の時写しまで、全員で巻き戻ります。そこまでの計算は、丸ごと無駄になります」
トキは、表示盤の地図の上に、指で升目を描いた。
「空を、細かい升目に切ります。一台の術盤が、升目の一区画を受け持ちます。受け持った区画の風と温みと湿りを、少しずつ先の刻へ進めていく。一刻み進めるたびに、区画の端の値を、隣の区画の術盤と渡し合います」
「なんで、渡し合うんですか」
前の列の学生が訊いた。
「風は、区画の端で止まってくれませんので」
トキは、真顔で言った。
「北の区画で吹いていた風は、次の刻みには、南の区画に入っています。南の術盤は、北の術盤から端の値をもらわないと、自分の区画に何が入ってくるのか分からない。ですから一刻みごとに、全員が、隣と札を見せ合います」
講堂で、私がやらせたことと同じだった。
一枚押すたびに、隣と見せ合う。
あれを、千と二十四台が、一刻みごとにやっている。
「一刻みって、どれくらいですか」
「空の中の、ほんの少しの刻です。三日先まで見立てるのに、何千回も刻みます」
何千回。
そのたびに、千と二十四台が、隣と札を見せ合う。
一台でも遅れれば、千と二十三台が待つ。
私は、頭の中で数えかけて、やめた。
数えなくても分かる。この部屋の速さは、千と二十四台のうち、いちばん遅い一台の速さだ。
「一人が遅れれば、全員が足を止めます。誰かが壊れたら、直前の時写しまで、全員で巻き戻ります」
トキは、もう一度言った。
「うちには、『後回し』という言葉がありません」
———
「この計算にも、一本道はありますか」
私は訊いた。
トキは、私の顔を見た。
それから、少しだけ、唇の端を上げた。
「講堂で、その話をなさったんですね」
「しました」
「あります」
トキは、地図の縁を指でなぞった。
「最初に、王国中の見張り台から届いた空の記録を、一つに揃えるところ。それと、最後に、見立てを書き出すところ。そこは、千台いても、一台ずつしか通れません」
「どれくらいの割合ですか」
「いい日で、一割を少し切ります」
学生たちが、表示盤から、私のほうへ目を移した。
一割。
講堂の表と、同じ数である。
「毎年、そこを削る工夫をしています。一本道が一呼吸縮むと、千と二十四台の全員が、一呼吸早く帰れますので」
台数を増やすより、一本道を削るほうが効く。
それを毎年やっている人の言い方だった。
人類は、たいてい台数を増やすほうを先に試す。増やすのは、金を出せば済むからだ。削るのは、誰かが考えなければ済まない。
———
「うちの計算の中身は、空を覆う揺れを、波の重なりとして分解して読む仕事が大半です」
トキは言った。
「波分け術、と呼んでいます。大きなうねりと、小さなさざ波が、重なって一つの揺れに見えている。それを、うねりはうねり、さざ波はさざ波に分けて、別々に進めて、また重ねる。そのほうが、ずっと楽に、ずっと正しく進められます」
「合唱を、一人ずつの声に分けて聞くみたいな?」
リゼが言った。
「そうです」
トキは、少しだけ目を見開いた。
この人の顔が動くのを、はっきり見たのは、それが最初だった。
「よくお分かりになりますね」
「鍋なら、もっと分かります」
学生の何人かが笑った。トキは笑わなかった。
かわりに、腕の帳面に、何か一行書きつけた。
名前を残されたのでないことを、祈るしかない。
「その波分けを、素早くやる工夫があります。疾波分け、と呼んでいます」
トキは、表示盤の隅に、波打つ線を一本描いた。
線の上に、点を八つ打った。
「この揺れの中に、ある一つの波がどれだけ混じっているかを知りたいとします。それには、点の一つ一つに、その波を当てて、合わせてみるしかありません」
「点の数だけ、当てるんですか」
前の列の学生が訊いた。
「はい。それを、調べたい波の数だけ、やります。点が八つで、調べる波も八つなら、八かける八で、六十四回」
「六十四なら、まあ」
「うちの升目は、八では済みません」
トキは、表示盤の地図のほうを見た。
「点が千あれば、調べる波も千あります。千かける千で、百万回。それを、一刻みごとにやります」
学生が、黙った。
百万回を、一刻みごとに。
その刻みを、三日先まで、何千回。
「疾波分けは、その百万回を減らす工夫です」
トキは、八つの点を、一つおきに丸で囲んだ。
丸の付いた四つと、付いていない四つに分かれた。
「点を、一つおきに二組に分けます。それぞれの組で、先に波分けを済ませておく。二つの組の答えを合わせると、八つ全部の答えになります」
「分けても、手間は同じじゃないんですか」
「合わせ方に、こつがあるんです。組で出した答えの一つ一つが、合わせるときに、二度使えます。一度当てて出した答えを、別の波のために、もう一度当て直さなくて済む」
トキは、丸で囲んだ四つを、さらに一つおきに二つずつに分けた。
「その組を、また一つおきに二組に。それをまた二組に。一つずつになるまで割っていきます。八つなら、三回で割り切れます」
「千と二十四なら」
私は言った。
「十回です」
トキは言った。
「先ほど、割るのにちょうどいい数だと申し上げました。うちの台数がこの数なのも、少しはそのためです。手間は、点の数に、割った回数を掛けたくらいで済みます。千と二十四に、十を掛けて、一万と少し」
「百万が、一万」
学生の誰かが言った。
百分の一である。
「どうして、そんなに減るんですか」
「同じ当て合わせを、何度もしないで済むように、順番を並べ替えるからです。計算の中身は、何も削っていません。答えも、そのまま分けたときと、まったく同じです」
削らずに、減らす。
同じことを二度しないように並べ替えるだけで、百万が一万になる。
手品のようだが、手品ではない。順番の工夫だ。
トキは続けた。
「これが進むと、声写し盤や図柄照合みたいな、天候とは関係ない別の計算まで速くなるそうです」
「見立てを使う人たちとは、また別の話ですね」
私は言った。
「そうです。あちらは、見立ての結果の話。こちらは、見立てを出す魔術そのものの話です」
トキは、表示盤の白い渦を見た。
「声も、絵も、揺れも、分けてみれば波です。疾波分けが一割速くなると、うちの見立てが速くなるだけではなくて、波を分けて扱う計算が、王国中で一斉に、少しずつ速くなります。ですから、魔導士の方たちが、毎年ここへ来ては、疾波分けをいじっていかれます」
一本道を削る話と、逆の話だ、と思った。
大半を占めるところを速くすれば、全体が速くなる。
しかも、その速さは、よその計算にまで配られる。
千と二十四台を一つの仕事のために束ねた、この上なく専用の場所で、いちばん大事に磨かれているのが、いちばん使い回しの効く工夫だった。
———
見張り部屋の隅で、鈴が一つ、小さく鳴った。
机の若い術師が、手元の盤を見て、トキのほうを振り返った。
何も言わなかった。言わずに、トキの顔を見ていた。
トキの表情が、少しだけ変わった。
ほとんど動かない顔の、どこかが、ほんの少し締まった。
「ちょうど今日は、少し大きめの見立てが動いています」
トキは、表示盤の地図の、上の端を指した。
白い渦の一つが、ほかより濃かった。
北の海の上で、ゆっくりと回りながら、こちらへ近づいている。
私は、見張り部屋の小さな窓から、外を見た。
丘の向こう、空の北の端に、灰色の壁が立っていた。
雲の壁である。
さっき馬車の窓から見たときには、無かった。
「北の海から、そこそこの嵐が来ています」
トキは言った。
声は、少しも揺れなかった。
そこそこ、と言った。
この人の「そこそこ」がどれくらいなのかを、私はまだ知らなかった。
最悪だ。




