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魔法世界は運用で回る  作者: 月の位相
夫婦編

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233/249

第233話 記録は、残すだけでは残らない

 九千八百式は、膝に載せると、膝が沈む。


 三日後の朝、私はそれを布で包んで、辻浮遊車に乗っていた。

 九千八百式の本体を膝に。重い表示鏡を座席の隣に。

 入力盤は、リゼが持っている。肩には、術務室の仕事用の術盤も掛けている。


 角張った灰色の箱である。

 最初に見たとき、持ち上げるだけで腰に悪そうだと思った。

 車に積み込むときに、思ったとおりだと分かった。


「代わろうか」


 リゼが言った。


「入力盤と代わっても、軽くならない」


「軽くならないね」


「言ってみただけだろう」


「言ってみただけ」


 御者席の男が、振り返らずに言った。


「坂の上まで、でしたね」


「はい。石が重いので、止まるときは、ゆっくりお願いします」


「うちは、いつもゆっくりです」


 男は、それだけ言った。

 辻浮遊車の止まる強さは、たいてい、帳面で決まっている。

 今日は、それがありがたかった。


 窓の外で、朝の鐘が鳴った。

 石畳の継ぎ目に、夜の雨が少しだけ残っている。

 浮いている車は、それを拾わない。

 どこかの台所で、豆を煮ている匂いだけが、窓から入ってきた。


 義父から預かって、何か月になるだろう。

 しばらく預かれ、と言って持たされた。

 あの人なりの、たぶん、何かだった。


 返しに行くのではない。

 今日は、使いに行く。


 最悪だ。

 膝が。


———

 辻浮遊車は、義父の家の前で、ゆっくり止まった。

 約束どおりだった。


 九千八百式を抱えて降りると、家の前に、アンセルが立っていた。


 布で包んだ木の箱を、両手で持っている。

 三日前と同じ箱である。

 持ち方が、三日前より少し固い。


「おはようございます」


「おはようございます。……それが」


 アンセルは、私の腕の中の布の包みを見た。


「読む盤です」


「思っていたより、大きい」


「中身は、そこまで大きくありません」


「では、なぜ、こんなに」


「昔の物は、だいたいそうです」


 リゼが、戸を叩いた。


 叩き終わる前に、戸が開いた。


 義父が立っていた。


 朝である。

 この人が朝に戸口まで出てくるのを、私は見たことがない。

 たぶん、待っていた。


「来たか」


 義父は、私の腕の中の九千八百式を見た。


 それから、アンセルの手の中の箱を見た。


 目が、変わった。


———

 居間の卓は、もう片づいていた。


 片づいていた、というより、空けてあった。

 布が敷いてある。

 その上に、細い刷毛。先の曲がった細い鉤。小さな板の束。

 古い記憶石の紙箱が五つ。

 起動巻物が、三巻。


「あなた、まだ暗いうちから起きてたのよ」


 義母が、茶の盆を持って台所から出てきた。


「娘婿が、読めない石を持ってくる、って言って」


「言っていない」


「言ってたわよ。三回」


 義父は、何も言わずに九千八百式の布を解きにかかった。

 私の腕の中で。


「お義父さん、下ろしてからでいいです」


「下ろせ」


「下ろします」


 奥の部屋から、ノルが顔を出した。


「うわ、ほんとに来た」


 ノルは、アンセルを見て、姿勢を直した。

 それから、姉のほうを見た。


「姉ちゃん。父さんの石が役に立つ日が来るなんて、俺、思ってなかった」


「私も」


「母さんは」


「今でも思ってないわ」


 義母は、アンセルの前に茶を置いた。


「ようこそ。散らかっていてごめんなさいね。この人が散らかしたんです」


「散らかしていない。並べた」


「並べたのね」


 家庭である。


 アンセルが、茶碗を両手で持って、困ったように頭を下げた。

 学芸士というのは、たぶん、他人の家の卓の上の物を、勝手に数えてしまう人である。

 目が、刷毛と鉤と紙箱の上を、順に動いていた。


———

 九千八百式を卓に据えて、表示鏡をつないだ。


 義父が、魔力導線を繋いだ。

 まだ起こさない。


「見せてくれ」


 義父が、アンセルに言った。


 アンセルが、箱の蓋を開けた。

 布をめくった。


 義父は、石を見た。


 手に取らなかった。

 顔を近づけて、見た。

 角の欠け。錆の雲。切り欠き。裏の小窓。


「古い詰め方だ」


 すぐに、それだけ言った。


「詰め方」


 アンセルが聞き返した。


「うちの石より、一つ前の詰め方だ。同じ大きさに、薄く詰めてある。薄く詰めてあるから、ゆっくり回す」


「……はあ」


「ゆっくり回すのを、今の回りで回すと、読めん。そこを合わせる」


「合わせる」


「爪がある。背中に」


 義父は、九千八百式を少し持ち上げて、背中の板を見せた。

 小さな切り替えの爪が、三つ並んでいた。


「真ん中だ。三十年、触っとらん」


「……三十年」


「触らんでも、覚えとる」


 アンセルは、頷いた。


 何に頷いたのかは、たぶん本人も分かっていない。


———

 義父は、刷毛を取った。


 石の表を、撫でるより軽く掃いた。

 粉が、布の上に落ちた。

 灰色の、細かい粉である。三日前にアンセルの袖に付いていたのと、同じ色だった。


「落ちるな」


「落ちます」


 アンセルが言った。


「毎朝、棚に」


「毎朝か」


 義父は、刷毛を止めた。


「なら、一度しか回さん」


「一度」


「錆びた石は、回すたびに削れる。二度目は、一度目より悪い。三度目は、無いと思え」


 義父は、鉤の先で、石の裏の小窓を少しだけ開けた。

 中の円盤を、指先で、ほんの少しだけ回した。

 回して、止めて、顔を近づけた。


「貼りついとらん。回る」


「それは、よいことですか」


「よいことだ。貼りついとったら、回した途端に剥がれる」


 アンセルが、口を開けて、閉じた。


「一度しか回さんから、回したら、すぐに写す」


 義父は言った。


「原本では遊ばん。写しで遊ぶ」


 私は、それを聞いて、少しだけ笑いそうになった。


 この人は、文物院の学芸士の前で、文物院がまだ言葉にしていない原則を、若いころの遊びの作法として話している。


 遊ぶ人間は、壊す痛みを先に知る。

 知っているから、作法ができる。


———

 義父は、起動巻物を広げた。


 細かい詠唱が、びっしりと書いてある。

 書き込みの上に書き込みがあり、その上に、また書き込みがある。三十年分の地層である。


「今の巻物は、今の詰め方の石を読む制御術式を呼んどる」


 義父は、巻物の一行を指した。

 指したまま、別の巻物を開いた。


「古い詰め方を読む術式は、こっちだ。こっちのほうが、大きい」


「大きい」


「古いほうが大きい。そういうものだ」


 アンセルが、頷いた。


 義父は、指を折りはじめた。


 何かを数えている。

 口の中で、数を言っている。

 声に出していない。出していないが、唇が動いている。


「表示で、これだけ。入力で、これだけ。読みの術式が、これだけ。……足りん」


 指が、止まった。


「音楽術式を外す」


 私は、思わず義父を見た。


 音楽術式を外せば動く。

 だが、それでは駄目なんだ。

 前に、この卓で、この人はそう言った。


 音が鳴らない古い遊戯は、半分死んでいる。

 私もそう言って、この人は深く頷いた。


「外すんですか」


「今日は、遊ぶんじゃない」


 義父は、迷わず、巻物の一行に線を引いた。


「読むだけなら、音は要らん」


 そして、上位記憶晶の隙間の行に、指を移した。


「入力の術式を、上に押し込む。押し込むと、これだけ空く。……空いた。まだ足りん。表示の術式を軽いほうに替える。替えると、文字しか出ん」


「文字しか出ないと、どうなるのですか」


 アンセルが聞いた。


「絵が出ん」


「絵は、要りますか」


「分からん。中を見るまで分からん。……文字で足りることにする」


 義父は、また指を折った。

 今度は、途中で止まらなかった。


「入った」


 アンセルは、深く頷いた。


 何が入ったのかは、たぶん、分かっていない。

 分かっていないが、入ったことは分かった顔をしていた。


 義母が、横で茶をすすっていた。


「あの人、今、何語を喋ってるの」


「王国語です」


 私は言った。


「たぶん」


AIエージェント:「補足:今の説明には、記憶晶の割付と、読みの術式の差し替えと、表示の簡略化の三つが混ざっています」


「知ってる」


AIエージェント:「提案:学芸士の方に、三つに分けて説明し直しますか」


「黙れ」


 アンセルが、こちらを見た。


「何か、おっしゃいましたか」


「いえ。道具が、少し」


 最悪だ。

 義父は、こちらを見もしなかった。


———

 義父は、書き換えた巻物を、新しい記憶石に写した。


 起動用の石である。

 それを九千八百式に差して、起こした。


 小さな起動音が鳴った。


 表示鏡に、黒地に白の、粗い文字が浮かんだ。

 いつもより、行が少ない。音楽術式の行が無い。


 義父は、九千八百式を少し傾けて、背中の爪の真ん中を、爪の先で押した。


 かち、と小さな音がした。


「回りを落とした」


 それから、アンセルの石を、差し込み口に入れた。


 ゆっくり。

 一度しか回さない、と言った人の手つきで。


———

 差し込み口の奥で、何かが回りはじめた。


 低い音がした。

 擦れる音。

 それから、細かく、何かを叩くような音。


 表示鏡に、行が出た。


   読めません 区画 三

   読めません 区画 四

   読めません 区画 五


 義父の手が、止まった。


「回りが、まだ合っとらん」


 義父は、耳を差し込み口に近づけた。

 目は、表示鏡を見ていなかった。


「……回りが揺れとる。石が冷えとる」


「冷えている」


「古い石は、冷えとると回りが揺れる。少し回して、温めてから読む」


「温める」


 アンセルが、繰り返した。

 この人は、分からない言葉を、一度繰り返してから飲み込む。


「石は、生き物ではありませんよね」


「生き物ではない」


 義父は言った。


「だが、機嫌はある」


———

 義父は、読むのを止めて、石を空で回した。


 擦れる音が、少しずつ滑らかになった。


 しばらくして、義父は、もう一度読ませた。


 表示鏡に、行が流れはじめた。


   区画 一 照合印 合う

   区画 二 照合印 合う

   区画 三 照合印 合う

   区画 四 照合印 合わない

   区画 五 照合印 合う


「照合印」


 アンセルが言った。


「区画ごとに、中身から印を作って、一緒に書いてあります」


 私は言った。


「読んだ中身から、同じ作り方でもう一度印を作ります。書いたときの印と合えば、その区画は、書いたときのまま読めた。合わなければ、どこかが錆びて変わっています」


「どこが変わったかは」


「分かりません。変わった、ということだけが分かります」


「……それだけ、ですか」


「それだけで、大事です」


 私は言った。


「変わっていないと思って読むのが、いちばん危ないので」


 アンセルは、表示鏡の四行目を見ていた。


「照合印が無い記録は」


「錆びても、錆びたことが分かりません」


 アンセルは、何も言わなかった。


 文物院の地下の三百は、たぶん、その側にある。


———

 照合印の合わない区画が、ぽつぽつと出た。


 義父は、合わない区画だけを、もう一度読ませた。

 合わなかった。

 もう一度。

 合った。


「読めた」


「一度で読めなかったのに、二度目で読めるのですか」


「錆びた区画は、機嫌で読める」


「……機嫌」


「機嫌だ。石が温まる。回りが揃う。読みの頭が、少しずれたところを拾う。三度か四度で、読めることがある」


 義父は、表示鏡から目を離さずに言った。


「読めんこともある」


 最後まで流れたとき、照合印の合わない区画は、三つ残った。


 三つ。

 全部で、千二百と少しの区画の中の、三つである。


「三つは、駄目だ」


 義父は言った。


「これ以上回すと、ほかが削れる」


「残りは」


「全部、合った」


 義父は、すぐに、新しい記憶石を二つ出した。


 紙箱の一つから。

 封を切っていない石である。三十年、封を切らずに持っていたらしい。


「写す」


「二つ、ですか」


「一つは、失くす」


 義父は、当たり前のことを言う顔で言った。


「失くさんつもりで一つにすると、失くす。二つにしておくと、一つは残る」


 アンセルが、筆を出して、何かを書き付けた。


 学芸士が、義父の言葉を書き付けている。

 義父は、それに気づいていなかった。


———

 写しが終わると、義父は、原本の石を差し込み口から抜いた。


 抜いて、布の上に置いて、もう触らなかった。


「ここからは、写しで遊ぶ」


 義父は言った。


「遊ぶんじゃないでしょ、お父さん」


 リゼが言った。


「遊ぶ」


「中を読むの」


「中を読むのが遊ぶことだ」


 義母が、茶を注ぎ足しながら言った。


「言い返すだけ無駄よ」


 リゼは、口を閉じた。

 閉じたが、少し笑っていた。


———

「ねえ」


 リゼが、私の袖を引いた。


「前に、古い術盤を、今の術盤の中に作れるって言ってなかった?」


「古式再現」


「それ。それがあれば、お父さんの九八式、要らなかったんじゃないの」


 アンセルが、顔を上げた。

 同じことを、思っていた顔だった。


「中は、作れる」


 私は言った。


「今の術盤の中に、昔の九千八百式を、術で組み直せる。起動巻物も、記憶晶の狭さも、表示の粗さも、そのまま作れる」


「じゃあ」


「作れないものが、一つある」


 私は、布の上の原本を指した。


「石を回す手」


 リゼが、原本を見た。


「盤の中の九千八百式は、盤の中にしかいない。この石に触れない。石の中身を、一度だれかが外へ出してくれれば、そこから先は古式再現で読める。でも、最初の一回は、物が要る」


 義父が、差し込み口の縁を、布で拭きながら言った。


「物を読むには、物が要る」


 それだけ言って、また拭いた。


 アンセルが、そこも書き付けた。


———

「だから、両方でやります」


 私は、リゼの仕事用の術盤を借りて、卓の端に置いた。


「写しの中身を、こちらの盤にも入れます。こちらでは、古式再現で読みます。九千八百式で読めて、古式再現でも読めれば、二つの道具で同じものが読めたことになります」


「片方が壊れても」


「片方が残ります」


 古式再現を起こした。


 盤の中に、黒い四角が開いた。

 四角の中に、粗い白い文字が出た。

 九千八百式の表示鏡と、同じ文字だった。


 その四角が、止まった。


   起動巻物が見つかりません


「……巻物が要るのか」


 義父が、はじめて、九千八百式から顔を上げた。


「要ります」


 私は言った。


「古式再現が作るのは、機械だけです。その機械に何を読ませて、どう割り付けるかは、作っていません。それは、知っている人が書くしかない」


 義父は、しばらく、盤の中の黒い四角を見ていた。


「貸せ」


 義父は、リゼの術盤の前に座った。

 さっき書き換えた巻物を、今度は、盤の中の九千八百式のために書いた。


 指を折らなかった。

 さっき一度数えたからである。


「入った」


 黒い四角の中で、古式再現が、起きた。


———

 二つの盤に、同じ一覧が出た。


 石の中の、中身の目録である。

 並んでいるのは、七つ。


 九千八百式の表示鏡と、リゼの術盤の中の黒い四角に、同じ七行が、同じ順で並んでいた。


「読めた」


 アンセルが言った。


 声が、少しだけ震えていた。

 三日前、期待しないように低くしていた声の、逆だった。


 私は、二つの盤を見た。


「道具と、形式と、読む人」


 私は言った。


「三つ揃って、はじめて記録になります」


 義父が、差し込み口の縁を拭く手を止めた。


「丈夫な石だ」


 それだけ言った。


———

 七行の、頭の字が、読めた。


 私に、だけ。


 私は、一つ目を開いた。


 表示鏡に、文字が並んだ。


 この世界の文字ではない。

 極東島国の文字でもない。


 私のいた世界の、文字だった。


———

 順番に、考えた。


 まず、九千八百式で読めた。

 それだけでは、まだ何も言えない。

 東の島国には、九千八百式によく似た系譜の術盤がある。形式が、かなり近い。東の遊戯は、九千八百式でだいたい動く。

 九千八百式で読める石だから向こうから来た、とは言えない。

 東で作られた石でも、同じことが起きる。


 次に、中身が、私のいた世界の文字で書かれていた。


 ここで、はじめて決まる。


 九千八百式の付属品に残っていた字は、落ちてくるときに書き換えられそこねた、端の字だった。

 変換漏れ。人が見ないところに、残ったもの。


 これは、違う。


 書かれている中身が、この世界のことだった。

 こちらの井戸は深い、と書いてある。

 こちらの麦は、向こうの麦より粒が小さい、と書いてある。

 こちらの人は、魔力の話をするとき、手のひらを上に向ける、と書いてある。


 この石は、落ちてきたのではない。

 こちらで、書かれた。


 こちらで書かれたものは、どこへも移っていない。

 だから、書き換えられていない。

 書いた者の字が、書いた者の字のまま、残っている。


 私より前に、私のいた世界から来て、ここで、自分の字で、これを書いた人がいた。


———

 中身は、覚え書きだった。


 井戸の水を澄ませる、砂と炭の層の重ね方。

 灰の汁で脂を煮るときの、割合。

 水車の歯の数の割り方と、その計算の手順。

 滑車を二つ組むと、重さが半分になること。三つ組むと、どうなるか。


 道具の作り方と、計算の手順が、淡々と並んでいた。

 字は、急いでいなかった。

 丁寧に、ゆっくり書いてある。

 書いた人は、急いでいなかったのだと思う。

 あるいは、急いでも仕方がないと、分かっていた。


 ところどころに、数が並んでいた。


   十二の七の三


 頁の頭に、決まってそういう三つ組の数がある。

 日付らしい。


 だが、何を起点にした暦なのかが、分からない。

 私のいた世界の暦なのか。

 王国の暦なのか。

 それとも、この人がここへ来た日から数えた暦なのか。


 数はある。読める。

 読めるのに、分からない。


 書いた人には、当たり前だったのだと思う。

 当たり前のことは、書かれない。


 三日前、私は、自分でそう言った。


———

 照合印の合わなかった三つの区画は、三つの穴になっていた。


 文の途中で、字が崩れている。

 崩れた字の前後から、何が書いてあったかは、だいたい分かる。

 分かるところは、分かる。


 私は、そこを、分かったことにしなかった。


 穴の前後を書き写して、穴の場所に、推し量り、と書いた。


 推し量りを、読めたことにすると、次の人は、それを記録だと思う。

 百年前の遺構を、百年前の石だと思ったのと、同じことになる。


———

 日付は、読めなかった。


 形式は、読めた。


 そして、形式のほうが、日付より多くを教えてきた。


 この石は、九千八百式より一つ前の詰め方で書かれている。

 書いた人は、その詰め方を、自分の道具として使っていた。

 九千八百式が、まだ動いていた頃の人である。


 私は、それよりずっと後に、向こうを出た。

 手のひらに乗る端末が、誰の懐にも入っているのが当たり前になった頃である。


 その人は、私より先に、私より古い向こうから来た。


 何年前なのかは、分からない。

 分かるのは、私より前、というところまでである。


 道具の古さが、その人がいつ向こうを出たのかを、暦より正確に教えてきた。


———

 最後の一つを、開いた。


 短かった。


 覚え書きではなかった。

 計算も、道具の作り方も、無かった。


 一行だけだった。


   帰る方法を探している


 署名は、無かった。


 その下に、何も無かった。

 探している、の続きは、どこにも無かった。


———

 しばらく、何も聞こえなかった。


 義父が、差し込み口の縁を拭く布の音だけがしていた。


 あり得ると思っていた。


 二百年前の令を読んだ日から、思っていた。

 異界より漂着せる者。七件。

 その中に、私と同じ世界から来た者がいたかもしれない。


 思っていたことと、目の前にあることは、別だった。


 条文の中の区分だったものが、筆の跡になって、目の前にある。

 受理の年月だったものが、読めない暦の三つ組になって、頁の頭に並んでいる。


 そして、この人は、帰りたがっていた。


 リゼに、いつか戻されるのかと聞かれた夜、私は、分からないと答えた。

 あれから、答えの材料は増えなかった。


 今日、一つ増えた。


 最悪の形で。


 前にも、誰かが探した。


 探して、この一行を書いた。


 帰る方法は、書いていなかった。


———

「ユウ」


 リゼの声がした。


 顔を上げると、リゼが、私を見ていた。

 表示鏡ではなく、私を見ていた。


「なんて書いてあるの」


 私は、すぐには答えられなかった。


 答えを持っていないからではない。

 持っているからである。


———

 私は、端末を出した。


「照合してくれ」


 私は言った。


「この字の並びを、写しの二つと突き合わせてくれ。それから、欠けた三つの区画の前後を、王国語に訳してくれ」


AIエージェント:「観測:」


 そこで、止まった。


 私は、待った。


 続きは、来なかった。


 いつもなら、この間に三つは余計なことを言っている。

 最悪のときに、最も正しいことを言う。

 それがこの端末である。


「……観測、なんだ」


 返事は無かった。


「訳してくれ。字は、お前も知っている字だ」


 長い間があった。


AIエージェント:「観測:この部屋の湿り気は、記憶石の保管に向いていません」


 私は、それを、しばらく見ていた。


 答えていない。

 黙ってもいない。

 沈黙を、別の言葉で埋めている。


 二度目だ。


 一度目は、俺の話をしたときだった。


 今日は、俺より前の誰かの話をした。


 一度目より、長かった。


 私は、自分の手の中の端末を見た。


 いつもと、同じ顔をしていた。


———

「いい石だ」


 義父が言った。


 差し込み口の縁を拭き終えて、布を畳んでいた。

 表示鏡の中の字は、見ていなかった。

 見ても読めないし、たぶん、読む気も無い。

 この人が見ていたのは、ずっと、差し込み口と、回りの音と、照合印の行だった。


「三つしか落ちとらん。錆びとるのに」


 義父は、原本の石を、布ごと持ち上げて、光にかざした。


「昔の板は、丈夫だな」


 私は、何も言えなかった。


 この人は、自分が何を開けたのかを、知らない。

 知らないまま、三十年かけて覚えた手つきで、開けた。


 知らせる理由は、無い。

 知らせたところで、この人の手つきは変わらない。


———

「覚え書きです」


 私は、ようやく、言った。


 アンセルと、義父と、義母と、ノルに向けて。


「道具の作り方と、計算の手順が書いてあります。井戸の水の澄ませ方。水車の歯の割り方。滑車の組み方」


「誰が、書いたのですか」


 アンセルが言った。


「名前は、書いてありません」


「いつ」


「日付らしいものはあります。ですが、何を起点にした暦か分かりません」


 アンセルは、しばらく私を見ていた。


 それから、何も聞かずに、筆を置いた。


 この人は、聞かないほうがいい場面を知っている。

 文物院の地下で、説明のつかないものを、一つとして数えてきた人である。


 リゼが、卓の下で、私の手に触れた。


 私は、リゼにだけ聞こえる声で言った。


「あとで話す」


「うん」


 リゼは、それ以上、聞かなかった。


———

 義母が、茶を淹れ直した。


 卓の上の刷毛と鉤を、端へよけて、茶碗を四つ置いた。

 ノルが、パンを切って持ってきた。

 窓から、昼に近い光が入ってきた。


 私は、茶を一口飲んで、それから、アンセルに言った。


「保存の話をさせてください」


「はい」


「今日、読めたのは、一つです。三百のうち、一つ。しかも、読めたのは、偶然と、お義父さんの三十年のおかげです」


 義父は、パンをかじっていた。

 自分の名前が出たことに、気づいていなかった。


「残りの二百九十九を、同じやり方で読むことはできません。お義父さんは、一人しかいません。九千八百式も、一台しかありません」


「では、どうすれば」


「読めなくなる理由は、四つでした」


 私は、義父の起動巻物の、いちばん古い一巻を指した。


「お義父さん、これの裏を使ってもいいですか」


「使え」


 義父は、パンから顔を上げずに言った。


———

 私は、巻物の裏に、書いた。


   媒体は、錆びる

     定期的に、新しい石へ移し替える

     照合印で、錆びたことを見つける


「一つ目。媒体は、放っておくと錆びます。錆びきる前に、中身を新しい石へ写します。写すたびに、照合印も一緒に写して、合っているか確かめます」


「何年ごとに」


「石の種類によります。錆びる速さが違います。ですから、ときどき、決まった数の石を抜き出して、照合印を見ます。合わない石が増えてきたら、その種類は写し時です」


   道具は、消える

     古式再現で、道具ごと残す

     ただし、再現する道具も、いつか古くなる


「二つ目。読む盤が消える前に、盤ごと、古式再現で組み直しておきます。今日、リゼの術盤の中でやったことです」


「それなら、ずっと読めるのでは」


「古式再現も、術盤の上で動きます。その術盤も、いつか古くなります。古式再現を、次の術盤の上で動く古式再現に、また移さないといけません」


「……終わりませんね」


「終わりません」


   形式は、忘れられる

     形式そのものを文書にして、中身と一緒に残す

     対訳石


「三つ目。並び方の決まりを、文書に書いて、石と一緒に置きます。決まりを知っている人がいなくなっても、決まりが残るように」


「対訳石、というのは」


「同じ中身を、いくつかの形式で刻んだ石です。古い石の中身と、それを今の形式に写したものと、どう写したかの決まりを、並べて刻みます。片方が読めれば、もう片方も読める」


 アンセルは、しばらく、その三行を見ていた。


「一つが読めれば、ほかも読める」


「はい。読めなくなるのは、たいてい、一つずつ別々に置いたときです」


   文脈は、欠ける

     添え書きと出所書きを、中身と同じ場所に、同じ強さで残す


「四つ目。誰が、いつ、何のために書いたか。それを、添え書きとして、中身の隣に置きます。どこから出て、誰が掘って、誰が運んで、どこに置かれてきたか。それは、出所書きとして」


「台帳に、書いてはいます」


「台帳は、中身と別の場所にあります」


 私は言った。


「別の場所にあると、別々に失くします。石が残って台帳が失くなると、今日の、この石になります。台帳が残って石が失くなると、欄だけになります」


 アンセルは、何も言わなかった。


「同じ強さで、というのは」


「中身は、三重に写して、照合印を付けて、湿気の無い棚に置く。添え書きは、紙に一枚書いて、事務の引き出しに入れる。それでは、添え書きのほうが先に死にます。中身と同じだけ、大事にしてください」


———

 私は、巻物の裏の、いちばん下に、一行足した。


   分け置き


「そして、一か所に置かないこと。一つの形式に頼らないこと。写しを、別々の場所に置きます」


 義父が、パンを飲み込んだ。


「一つは失くす」


「はい」


 私は言った。


「お義父さんが、さっき言ったことです」


 義父は、また、パンをかじった。


「最後に、一つだけ」


 私は、巻物の裏を見ながら言った。


「移し替えも、古式再現も、万能ではありません。移し替えるたびに、何かが少しずつ落ちます。形式を変えると、前の形式でしか書けなかったものが、落ちます。古式再現は、再現する側が、いつか古くなります」


「では、どちらを」


「どちらか一方では、足りません」


 私は言った。


「両方を、回し続けるしかありません」


———

 アンセルが、巻物の裏を見ていた。


 長いあいだ、見ていた。


「記録は」


 私は言った。


「書いた時点では、残りません。読める形で、読める道具と一緒に、読む人がいる場所に置いて、はじめて残ります」


 アンセルは、顔を上げた。


「では、私たちがやってきたのは、何なのですか」


 責める声ではなかった。

 本当に、知りたがっている声だった。


「保管です」


 私は言った。


「一つも失くさずに、三十年、置いてきた。それが無ければ、今日のこの石も、ありませんでした」


「……保管」


「はい。保存は、これからです」


 アンセルは、しばらく黙っていた。


 それから、茶碗を取って、冷めた茶を、一口飲んだ。


「三十年ぶんの、保管」


 アンセルは言った。


「悪くない言葉です」


———

 昼を少し過ぎて、戸が叩かれた。


 マリエだった。


 紙の束を抱えている。

 角は、そろっていた。


「遅くなったわ。文物院の持ち出しの手続きが、三枚じゃ済まなかったの」


「何枚でしたか」


「九枚」


 マリエは、義母に頭を下げてから、卓の端に座った。

 義母が、黙って茶を出した。


「結婚するって、聞いたわ。おめでとう」


 義母が言った。


「ありがとうございます」


 マリエは、茶を受け取った。

 受け取りながら、卓の上の巻物の裏を見た。


 見て、座り直した。


「……読めたのね」


「一つ、読めました」


 アンセルが言った。


「三百のうち、一つ」


「一つでも、読めたなら、話が変わるわ」


 マリエは、紙の束を卓に置いた。


「読めないものを保管するのと、読めるかもしれないものを保存するのとでは、予算の欄が違うの」


———

 マリエは、巻物の裏の五行を、写した。


 写しながら、実務に落としていった。


「三百を、一度にはやらないわ。優先の順をつける」


「順は、何で決めますか」


 アンセルが聞いた。


「錆びる速さで」


 私は言った。


「錆びるのが速い種類から。それから、読む盤がまだ残っている種類から。盤が残っているうちに移せるものは、先に移します」


「読めないものは」


「後です。後に回すのは、捨てることではありません」


 マリエが、書き付けた。


「人は、学芸士だけでは足りないわね」


「足りません」


「術士を入れる。古い術盤を読める術士を、年に何人か、文物院付きで雇うの。一人だと、その人が辞めた日に止まるから、二人以上」


 アンセルが、少し笑った。


「一人しかいない、というのは、さっき、ユウさんに言われたばかりです」


「言われたのね」


「お義父さんのことを」


 義父は、パンの皿を片づけていた。

 聞いていなかった。


———

「それから」


 マリエは、紙の束の一枚目を返した。


「移し替えの記録を、残すわ。何を、いつ、どの形式から、どの形式へ移したか。誰が移したか。照合印は合ったか」


「移し替えの、記録の記録ですか」


 リゼが言った。


「そうよ。移し替えも、いつか誰かが読み直すものだから」


「失敗したものも」


 私は言った。


「読めなかった石も、記録に残してください。どの盤で、何度、どう試して、読めなかったか」


 マリエが、筆を止めた。


「読めなかった、ということを残すの」


「はい。読めなかったという事実も、記録です。それが無いと、次の人が、同じことを最初からやります」


 マリエは、頷いた。


「それから、手順書そのものも、対訳石にするわ。百年後に、同じ手順を読めない人がいることを前提に」


「百年後」


 アンセルが言った。


「百年後も、同じ問題が起きるわ」


 マリエは、当たり前のことを言う顔で言った。


「そのときに、私たちの手順書が読めなかったら、今日の話は無かったことになるの」


———

 そこまで書いて、マリエの筆が、止まった。


「この一つは」


 マリエは、布の上の原本を見た。


「どう載せればいいの」


 私は、答えなかった。


 答えを持っていなかった。


「添え書きに、何と書くか」


 マリエは、自分で続けた。


「中身を読めたのは、ユウさん一人ね」


「はい」


「解読者、ユウ、と書けば、中身の説明を求められるわ。誰に、何を、どこまで、説明するのか」


「はい」


「未解読、と書けば」


 マリエは、そこで一度、筆を置いた。


「読めた、という事実のほうが、記録から落ちるわ」


 誰も、何も言わなかった。


 読めたという事実を残せば、読めたものを説明しなければならない。

 説明しなければ、読めたことが消える。


 三日前、台帳の欄が中身を覚えていないと言った。

 今日、欄に、何を書けばいいのかが分からない。


———

「これは」


 マリエが、静かに言った。


「保存の話じゃなくなるわね」


 この人は、法の側から見ている。

 読めた中身が何であれ、その中身が、異界と関わるものなら、文物院の棚の話では済まない。

 軍か、外務院の話になるかもしれない。

 それを、この人は、もう分かっている。


 分かっていて、今日は、決めない顔をしていた。


「たぶん」


 私は言った。


「……もう少しだけ、預からせてください」


 マリエは、私を見た。


 それから、頷いた。


 何を預かるのかも、なぜ預かるのかも、聞かなかった。


 契約術務士として、聞かないほうがいい場面を、この人は知っている。


「預かり証は、私が書くわ」


 マリエは、紙を一枚出した。


「文物院から、あなたへの貸し出し。期限は空けておく。空けておくと、誰かが気にするから、ちょうどいいの」


 ラドゥルには、まだ言っていない。


 言うべきことは、分かっていた。

 順番を間違えると、周りが判断できない。

 前に、そう言われた。


 今日は、まだ、自分の中でも順番がついていなかった。


———

 マリエが、紙の束を揃えた。


「最後に、一つだけ」


 マリエは、アンセルを見た。


 今日、はじめて、まっすぐ見た。


「善意で始めた保存は、担当者が変わると止まるの」


「知っています」


「あなたが明日、転んで足を折ったら、地下の三百は、誰が拭くの」


「……誰も」


「でしょう。だから、予算と手順にしておくの。そうしておけば、あなたが転んでも、次の代が続けられるわ」


 アンセルは、少し困ったように笑った。


「転ぶ前提ですか」


「結婚したら、転ばないように見張るけれど」


 マリエは言った。


「見張る人がいなくても止まらないようにするのが、私の仕事よ」


 リゼが、横で、口を押さえていた。


 笑いをこらえている。

 こらえきれていない。


 義母が、茶を注ぎ足しながら言った。


「いいお嫁さんね」


「ありがとうございます」


 マリエは、照れずに言った。

 耳が、また少し赤かった。


———

 夕方、マリエとアンセルを、戸口で見送った。


 義父が、奥から紙箱を一つ持ってきた。

 封を切っていない記憶石が、十ほど入っている箱だった。


「持っていけ」


 義父は、アンセルに箱を渡した。


「これは」


「移し替えに使え。古い詰め方の石は、もう売っとらん」


「……ありがとうございます」


「結婚祝いだ」


 義母が、戸口の柱に手をついた。


「結婚祝いに石を渡す人がありますか」


「ある。ここに」


「ありません」


 アンセルは、箱を両手で抱えた。

 今朝、自分の箱を抱えていたのと同じ手つきだった。


「大事にします」


「大事にするな。使え」


 義父は言った。


「使わん石は、錆びる」


 マリエが、小さく吹き出した。


 二人は、坂を下りていった。

 並んで歩くと、アンセルの背が、マリエより頭一つ高い。

 高いほうが、低いほうに歩幅を合わせていた。


 アンセルが抱えた石の箱を、マリエが途中で半分持った。


 秋には、あの二人の式がある。


 私は、それを、ちゃんと楽しみにしていいのだと思った。


———

 九千八百式は、そのまま義父の家に置いてきた。


「しばらく預かれ」


 帰り際、義父は、そう言わなかった。


 代わりに、差し込み口の縁を、もう一度、布で拭いた。


「また来い。起動巻物を、元に戻す」


「音楽術式も、ですか」


「当たり前だ」


 義父は言った。


「今日は、遊ばなかった」


———

 夜、家に帰ると、窓の外で虫が鳴いていた。


 夏である。

 窓を開けると、昼の熱が、石畳からまだ上がってくる。


 リゼは、何も聞かずに、湯を沸かしていた。


 私は、卓に、写しの記憶石を一つ置いた。

 義父が写した二つのうちの、一つである。


 もう一つは、文物院の、アンセルの箱の中にある。


 分け置き。

 一つは失くす。


 私は、写しの石を見ていた。


「あの石」


 リゼが、湯の鍋の前で言った。


「誰が書いたの」


「分からない」


 私は言った。


 リゼは、鍋を見ていた。


 私は、少し黙った。


 それから、言った。


「でも、俺より前に、ここに来た人がいた。……たぶん、じゃなくて」


———

 リゼは、驚かなかった。


 鍋から顔を上げて、私を見た。

 表示鏡を見ていたときと、同じ目だった。


 私は、話した。


 字のこと。

 井戸と麦と、手のひらを上に向ける人のこと。

 読めない暦のこと。

 形式が、その人の時代を教えてきたこと。

 そして、最後の一行のこと。


 帰る方法を探している。


 リゼは、途中で一度も口を挟まなかった。


 挟まないときのこの人は、たいてい、いちばん先まで考えている。


———

 話し終えたあと、しばらく、虫の声だけがしていた。


 リゼは、湯を、茶葉の上に注いだ。


 注ぎながら、言った。


「その人は、帰れたのかな」


 私は、答えなかった。


 答えを持っていなかった。


 リゼも、たぶん、答えを求めていなかった。


 この人は、前に一度、別の問いを、私に預けている。

 いつか戻されるのか、と。

 私は、分からないと言った。

 この人は、今はそれでいい、と言った。


 同じ問いを、この人は、もう一度は聞かない。


 聞かない代わりに、別の人のことを聞いた。


 たぶん、二人とも、それを分かっていた。


 分かっていて、どちらも、言わなかった。


———

 リゼが、茶碗を二つ、卓に置いた。


 一つを、自分の前に。

 もう一つを、私の前に。


 私の前の茶碗を、少しだけ、手前に寄せた。


「お茶、ここに置くね」


 リゼは言った。


 ここに。


 私は、茶碗を取った。

 熱かった。


「熱い」


「淹れたばかりだから」


「知ってる」


「知ってるなら、少し待って飲んで」


 リゼは、自分の茶碗を両手で包んだ。


 私は、少し待って、飲んだ。


———

 記録は、残すだけでは残らない。


 石を焼かなくても、盗まれなくても、記録は死ぬ。

 読む道具が先に死に、形式が忘れられ、書いた者がいなくなる。


 あの誰かは、それを知っていたのだと思う。


 だから、いちばん丈夫な石に、いちばん素朴な形式で書いた。

 飾りの無い字で。

 絵も、音も、入れずに。

 文字しか出ない盤でも読めるように。


 いつか読む者がいることに、賭けたのだろう。


 賭けは、当たった。


 ただし、当たったのは、巨大な保存の制度のおかげではない。

 古い道具を捨てられなかった一人の男が、王都の片隅にいたからである。


 その男は、今日、自分が何を開けたのかを知らないまま、差し込み口の縁を拭いていた。


 いつ書かれたのかは、まだ分からない。


 帰る方法も、書いていなかった。


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