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魔法世界は運用で回る  作者: 月の位相
夫婦編

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232/247

第232話 読めない石

 朝の王都術務室は、乾いた墨の匂いがした。


 窓は東向きで、この季節は日が早い。卓の上に斜めの光が入って、紙の束の縁だけが白く光っている。

 束は、昨日までより低かった。


 四十一。


 月砂国との条約の、付属の文書の数である。

 見えない囲いの印を、三段目に出して、見て、閉じて、次を出す。十六の付表には、言葉の欄を足しながら。

 それを、十日かけて四十一回やった。


 最後の一枚を閉じたのは、昨日の夕方だった。


 私は、自分の卓に座って、何もない卓の上を見ていた。

 何もない卓というのは、久しぶりに見ると、落ち着かない。


AIエージェント:「観測:あなたは三分間、何も置かれていない卓を見ています」


「見ている」


AIエージェント:「補足:仕事が無いのではありません。次の仕事がまだ届いていないだけです」


「黙れ」


 最悪だ。

 正しい。


———

 向かいの卓で、マリエが紙の角をそろえていた。


 四十一の束の、最後の一枚である。

 角はもう、そろっている。そろっているのを、もう一度そろえている。


 この人は、大事なことを言う前に、一度座り直す。

 今日は、座り直す前に、角をそろえている。


 たぶん、もっと大事なことである。


 リゼが、政務術式支援班の卓から顔を上げた。

 手に、比較表の写しを持っている。持ったまま、マリエのほうを見ていた。


 この人も、気づいている。


 窓際に、ルドーがいた。

 十日前の「試すもの」の二十四行を写しに来て、写し終わって、まだいる。


 呼んでいない。来ている。


 マリエが、椅子に座り直した。


「ユウさん」


「はい」


「先日私はあなたに、報告したいことがある、と言ったわよね」


「おっしゃっていましたね。悪い話ではない、と」


「ええ」


 マリエは、紙を卓に置いた。

 置いてから、手を膝の上に重ねた。


「私事ですが、結婚します」


———

 部屋が、一拍だけ静かになった。


 最初に動いたのは、リゼだった。


 比較表の写しを卓に置いて、置いたのを忘れたみたいに立ち上がった。


「ほんとに?」


「ほんとうよ」


「いつ?」


「秋に」


「相手は? どんな人? どこで会ったの?」


「一つずつ答えるわ」


 マリエは言った。

 照れていない。事務的である。

 ただ、事務的に言いながら、口の端が、いつもより少しだけ上がっていた。


 条約文書の山を越えた朝に、こういう顔をする人だったのか、と思った。

 たぶん、越えるまで言わないと決めていたのだと思う。

 この人は、そういう順番の付け方をする。


「おめでとうございます」


 私は言った。


「本当に。おめでとうございます」


「ありがとう、ユウさん」


 窓際から、声がした。


「式は」


「秋です」


「……そうか」


 ルドーは、写した紙を畳んだ。


「めでたい」


 それだけだった。

 この人にしては、長い。


———

 リゼが、マリエの卓の前にしゃがみこんで、何か聞いていた。


 私は、自分の卓で、もう一度、何もない卓の上を見た。


 マリエ。


 この人の名前を、私はもう何年も呼んでいる。

 最初に名乗られたときに、少しだけ引っかかったのを覚えている。

 引っかかって、すぐに流した。

 流すのには、慣れていた。


 私のいた世界では、その響きはフランス語で「花嫁」を意味した。


 花嫁という名で呼ばれ続けて、ずっと結婚していなかった人が、今日、結婚すると言った。


 名前が、現実に追いついた。


 笑うところである。

 実際、少し笑いそうになった。


 笑いそうになって、途中で、止まった。


 慣れたと思っていた。


 極東島国の言葉が、私のいた国の言葉に似ていることには、もう理由を付けた。

 物が落ちてくるとき、端のほうに向こうの字が残る。そう考えれば、体験版の三文字も説明がつく。


 だが、これは極東島国の言葉ではない。

 王国の言葉である。


 私が毎日しゃべっている言葉の中にも、混ざっている。


 ずっと、耳のすぐそばにあった。

 呼ぶたびに、口に出していた。


 私は、それを誰にも言わなかった。

 言ったら、たぶん、安くなる。


 それに、今日は、この人の日である。


———

「それでね」


 マリエが、立ち上がったリゼを、手で座らせながら言った。


「今日のお昼、空いているかしら。二人とも」


「空いてます」


 リゼが、私より先に答えた。

 私の昼が空いているかどうかを、私より先に知っている人である。


「空いています」


 私も言った。


「紹介したい人がいるの。四人で、食べましょう」


 マリエは、束の最後の一枚を、ようやく箱に入れた。


「相手も、ユウさんに会いたいと言っていたわ」


「私に、ですか」


「ええ」


 マリエは、箱の蓋を閉めた。


「仕事の話も、少しあるみたい。……少し、で済めばいいけれど」


 済まない予感がした。


 この人の「少し」は、だいたい、少しではない。


———

 昼、王都の小さな店に入った。


 中央区の裏手の、坂の途中である。

 表に看板は無い。戸口の脇に、鍋の絵を刻んだ板が掛かっているだけだった。


 中は薄暗く、焼いた玉葱の匂いがした。

 卓が五つ。奥の卓に、男が一人、座っていた。


 私たちが入ると、男は立ち上がった。


 背が高い。

 三十を少し過ぎたくらいだと思う。

 髪が短く、額が広い。

 袖の先が、ほんの少しだけ灰色に汚れていた。粉のような汚れである。紙の埃か、石の埃か、どちらかだと思った。


 卓の上に、布で包んだ小さな箱が置いてあった。

 男は、立ち上がるとき、その箱に一度だけ手を添えた。


「アンセルです」


 男は言った。


「王立文物院で、学芸士をしています」


———

 私たちは、名乗り合った。


 アンセルは、私の名を聞いても、顔を変えなかった。

 変えない顔を、作ったわけでもなかった。


「ユウさんのことは、マリエから聞いています」


「どこまで、ですか」


「異世界から来た方だ、ということまでです」


 リゼが、椅子を引く手を止めた。


「知ってるんですか」


「知っています」


 アンセルは、穏やかに言った。


「驚かないんですか」


「驚くべきなのかもしれません」


 アンセルは、少し考えてから言った。


「ですが、文物院には、説明のつかないものがいくらでもあります。あなたが異世界から来たことも、その一つです」


 リゼが、私を見た。


 私は、少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。


 説明のつかないものの一つ、という扱いは、思ったより楽だった。

 説明を求められないからである。

 説明を求めない相手というのは、この世界に来てから、あまり多くなかった。


「助かります」


 私は言った。


「何がですか」


「説明のつかないものの一つとして数えてもらえるのが、です」


 アンセルは、小さく笑った。


「文物院では、一つとして数えるのが仕事ですから」


———

 汁と、焼いた玉葱と、固いパンが出た。


 マリエが、パンを割りながら言った。


「出会ったのは、仕事よ」


「仕事」


 リゼが身を乗り出した。


「文物院に、古い家から記録の寄贈があったの。代々の土地の書き付けと、帳簿と、手紙が、荷車で三台ぶん」


「三台」


「その寄贈の取り決めを、私が見たの。誰のものを、誰に渡して、誰が読んでよくて、誰が写してよいのか。寄贈した家の人が亡くなったあと、どうなるのか」


 マリエは、パンの片方をリゼに渡した。


「取り決めは、二十頁あったわ」


「長い」


「長いの。それを、最後まで読んだのが、この人だけだったのよ」


 アンセルが、汁の匙を置いた。


「保管する側が読まずに、誰が読むんですか」


「たいていの人は、読まないの」


 マリエは言った。


「読まずに、判を押すの。この人は、十九頁目の、寄贈者の孫が閲覧を申し出たときの条に、栞を三枚挟んで返してきたわ」


「三枚」


「三枚とも、正しかったの」


 リゼが、私のほうを見た。


 言いたいことは分かった。

 マリエの半歩先に立てる人を、私は、この人以外に見たことがない。


「それは、結婚しますね」


 私は言った。


「でしょう」


 マリエは言った。

 照れていなかった。

 照れていないのに、耳が少しだけ赤かった。


———

AIエージェント:「観測:あなたは祝いの席で、相手の袖の汚れの成分を推測しています」


 私は、端末を伏せた。


「黙れ」


 リゼが、横目で見た。


「なんて言われたの」


「俺が行儀が悪いと言われた」


「それはそう」


 アンセルが、自分の袖を見た。

 それから、少し困ったように笑った。


「石の粉です。朝、地下の棚にいたので」


「地下」


「文物院の地下です」


 アンセルは、汁の匙をもう一度取って、取っただけで、また置いた。


 この人は、仕事の話になると、匙を置くらしい。


———

「マリエから、仕事の話が少しある、と聞いていると思います」


「少し、と聞きました」


「少しで済めばいいのですが」


 同じことを言っている。

 この二人は、たぶん、よく似ている。


「文物院の地下に、記憶石が三百あります」


 アンセルは言った。


「古い遺構から出たものです。王国の中の、あちこちの遺構から、何十年もかけて集まりました。一つも、読めません」


「一つも」


「一つも、です」


 アンセルは、卓の上の、布の箱に手を置いた。


「焼けたわけでも、盗まれたわけでもないんです。ただ、読めない」


———

 私は、汁の椀を脇へよけた。


 リゼが、ため息をついた。

 ついてから、自分の椀も脇へよけた。


「読めない、というのは」


 私は聞いた。


「どう、読めないんですか」


「どう、とは」


「いくつか、あると思います」


 アンセルは、少し首をかしげた。


「読めないものは、読めないのでは」


「読めないにも、種類があります」


 私は、マリエのほうを見た。


 マリエは、何も言わずに、鞄から紙を一枚出して、私の前に置いた。

 筆も出した。


 この人の鞄には、いつも紙が入っている。

 結婚しても、たぶん入っている。


———

 私は、紙に、四つ書いた。


   媒体

   道具

   形式

   文脈


「記録が読めなくなる理由は、だいたい、この四つのどれかです」


 アンセルが、紙をのぞき込んだ。


「一つ目。媒体が朽ちる」


 私は、一行目を指した。


「石そのものが、傷みます。ひびが入る。欠ける。表面が、少しずつ錆びる。錆びたところに書いてあったものは、そこだけ消えます」


「錆びるのですか。石が」


「記憶石は、ただの石ではありません。表に、書くための薄い層が載っています。その層が、錆びます」


 アンセルは、自分の袖の粉を見た。


「……この粉は」


「たぶん、その層です」


 アンセルは、しばらく袖を見ていた。


「毎朝、棚に、この粉が落ちています。拭いていました」


「石から落ちた粉です」


「毎朝、少しずつ、落ちていたのですね」


「毎朝、少しずつ、です」


 アンセルは、何も言わなかった。


 錆は、音を立てない。

 静かに進んで、気づいたときには、そこにあったはずのものが無い。


———

「二つ目。道具が消える」


 私は、二行目を指した。


「記憶石は、それだけでは読めません。差し込んで、回して、読む盤が要ります。その盤が、もう作られていない」


「作られていない」


「作っていた工房が、別のものを作るようになった。直せる職人が、引退した。替えの部品が、どこにも無い」


 私は言った。


「石より、読む盤のほうが先に死にます。たいていは」


「なぜですか」


「盤のほうが、動くからです。回って、擦れて、すり減ります。石は、棚で寝ているだけです」


 リゼが、パンをちぎる手を止めた。


「動かないほうが、長生きするんだ」


「長生きする。ただ、読めない」


———

「三つ目。形式が忘れられる」


 私は、三行目を指した。


「石が無事で、盤も動いたとします。それでも、中で字がどう並んでいるかの決まりを知らないと、読めません。どこから読み始めて、どこで区切って、どれが字でどれが目印なのか」


「並び方の決まり」


「はい。読み解きの術、と言ったほうがいいかもしれません。その術を知っている人が、いなくなると」


「読めなくなる」


「石の中には、全部残っています。ただ、並んでいるだけになります」


 マリエが、小さく言った。


「条約の囲いと、同じね」


「同じです」


 私は言った。


「見えない決まりは、知っている人がいるあいだは、見えないままで済みます。いなくなった日に、はじめて見えます。見えたときには、読めません」


———

「四つ目」


 私は、最後の行を指した。


「文脈が失われる」


 アンセルが、そこで、はじめて表情を動かした。


「誰が、いつ、何のために書いたのか。それが分からなくなることです」


「中身が読めれば、分かるのでは」


「分からないことが多いです」


 私は言った。


「たとえば、数の並んだ表が一枚、読めたとします。何の数か分からなければ、ただの数です。税の数か、兵の数か、麦の数か。一年ぶんか、十年ぶんか。書いた人が、自分には分かっているから書かなかったことは、書いた人がいなくなると、誰にも分かりません」


「書き手には、当たり前だったこと」


「当たり前のことは、書かれません。書かれないので、残りません」


 アンセルは、紙の四行目を、しばらく見ていた。


———

「四つのうち、一つでも欠けると読めません」


 私は言った。


「四つとも、時間が経つと勝手に欠けます」


 しばらく、誰も何も言わなかった。


 店の奥で、鍋の蓋が鳴った。


 リゼが、口を開いた。


「鍵は残ってるのに、その鍵で開く家がもう壊されてる、みたいな話?」


 私は、少し考えた。


「近い」


 私は言った。


「しかも、鍵の形を測る道具も無くなってる」


「最悪だね」


「最悪だ」


 言ってから、アンセルの前だと気づいた。

 気づいたが、訂正する言葉が見つからなかった。


 アンセルは、笑わなかった。

 笑わずに、紙を見ていた。


「私たちは」


 アンセルは言った。


「読めないものを、読めないまま大事にしています」


 布の箱に、手が乗ったままだった。


「湿気を払って、棚を拭いて、台帳に番号を付けて、一つも失くさずに。私の前の代から数えれば、三十年です。それを保存と呼んでいいのか、ずっと分からない」


———

 マリエが、パンの残りを皿に置いた。


「呼んでいいかどうかは、あとで決めればいいわ」


 マリエは言った。


「先に言っておくことがあるの。保存は、善意でやると続かないわ。制度にしないと続かない」


 アンセルが、マリエを見た。


 マリエは、アンセルを見なかった。

 紙の四行目を見ていた。


「あなたが毎朝拭いてきた棚は、あなたが拭かなくなった日に、誰も拭かなくなるの。それは、あなたのせいではないわ。拭くことが、あなたの善意の中にしか書かれていないからよ」


 アンセルは、しばらく黙っていた。


 それから、少しだけ笑った。


「これを、朝から晩まで言われます」


「言っているの」


「言われています」


 リゼが、卓の下で、私の足を軽く蹴った。


 言いたいことは分かった。

 似合いである。


———

「一つ、見ていただきたいものがあります」


 アンセルが、布の箱を卓の真ん中へ寄せた。


 布を解いた。

 中は、薄い木の箱だった。

 蓋を開けると、柔らかい布がもう一枚あって、その中に、石が一つ入っていた。


 薄い石の板である。

 手のひらに載るほどの四角。

 角が一つ、欠けている。

 表面に、細かい錆が、雲のような模様を作っていた。


「三百のうち、いちばん状態のよいものです」


 アンセルは言った。


「王都の東の、古い遺構から出ました」


———

「三百とも、この形なのですか」


 私は聞いた。


「いいえ」


 アンセルは、首を振った。


「三百は、ばらばらです。出た場所も、時期も、形も。大半は、王国の中の古い術盤の石です。厚いものも、丸いものも、箱に入った帯のようなものもあります。形だけで、二十通りほどに分かれます」


「二十通り」


「どれも読めませんが、どれが王国のどの頃の術盤のものかは、だいたい見当がついています。見当がついていても、その術盤が一台も残っていないので、読めないのですが」


 アンセルは、箱の中の石を見た。


「この一つだけが、どの二十通りにも入りませんでした。王国のどの術盤の石とも、形が合わない。だから、ほかとは分けて、箱に入れています」


「一つだけ」


「一つだけ、です」


 私は、手を伸ばした。


「持ってもいいですか」


「どうぞ。端を持ってください」


 私は、石の縁を、指先で持ち上げた。


———

 動きが、止まった。


 重さは、ほとんど無い。

 厚みは、爪の先ほど。

 片側の縁に、差し込むための切り欠きがある。

 その切り欠きの、角の落とし方。

 裏の、小さな窓の位置。


 見覚えがあった。


 義父の家の、棚の上。

 色の褪せた紙箱の中に、何十と並んでいた。

 九千八百式の差し込み口に、義父が何度も入れて、何度も抜いた。


 あの石と、同じ形をしている。


 私は、表情を変えないようにした。

 変えないようにしている、という顔になっていないかどうかは、自分では分からない。


 隣で、リゼが、私の手元を見ていた。

 石ではなく、手元を見ていた。


「読める、のですか」


 アンセルが言った。


 声が、さっきまでより少しだけ低かった。

 期待しないように、声を低くしている人の声である。


「読める道具に、心当たりがあります」


 私は言った。


「読めるかどうかは、分かりません。ですが、この形の石を差し込める盤を、一台、知っています」


 マリエが、私を見た。

 リゼは、もう分かっている顔をしていた。


———

 心当たりは、一台しかない。


 義父の九千八百式である。


 三十年前、魔法横丁で、二十歳そこそこの義父が買った。

 東の島国から来た、と店は言った。

 義父も、そう思っている。

 今も、そう思っている。


 違うことを、私は知っている。


 あれは、東から来たのではない。

 ニコという少年の部屋に、ある夜、現れた機械である。

 私のいた世界から、落ちてきた一台である。


 その一台で読める石が、東の遺構から出た。


 私は、それを口に出さなかった。


 義父に言っていないことを、ここで言う理由は無い。

 ニコの話を、もう一度、あの人の前に並べる理由も無い。


AIエージェント:「観測:あなたの脈が、この三十秒で速くなっています」


 私は、端末を、もう一度伏せた。


 黙れ、とは言わなかった。

 言うと、リゼに聞かれる。


 もう聞かれている気はした。


———

 私は、石を箱の布の上に戻した。


 戻してから、聞いた。


「アンセルさん」


「はい」


「この記憶石が百年前のものだと、どうやって分かったんですか」


 アンセルは、少し意外そうな顔をした。


「出た遺構が、百年以上前のものですから」


「遺構の年代は、どうやって」


「建物の作りと、石組みの様式です。それに、遺構のほかの場所から出た陶片と、硬貨。そちらは、確かです。文物院の中でも、いちばん確かな部類です」


「遺構の年代は分かる」


 私は言った。


「でも、この石がいつ書かれたかは、誰も確かめていないということですね」


———

 アンセルが、黙った。


 黙り方で、分かった。

 この人は、そこが痛いところだと、知っていた。

 知っていて、何年も、そこを押さずに来た人の黙り方だった。


 人類は、痛いところを押さずに暮らすのが上手い。

 押さずに暮らしているうちに、そこが痛かったことを忘れる。


「台帳を、見たことがあります」


 アンセルは、しばらくして言った。


「この石の行です。番号と、東遺構出土、百年以上前。書いてあるのは、それだけです」


「どの層から出たかは」


「書いていません」


「周りに、何があったかは」


「書いていません」


「誰が掘って、誰が運んだかは」


「……書いていません」


 アンセルは、布の箱の縁を、指でなぞった。


「石そのものにも、何も刻まれていません。日付も、書いた者の名も。見えるところには、何も」


 そして、言った。


「……台帳には、出土した場所しか書いていません。私たちは、それを、年代だと思ってきました」


———

 誰も、何も言わなかった。


 マリエが、紙の四行目を指で押さえていた。

 文脈、と書いた行である。


「場所は、年代ではないわね」


 マリエが、静かに言った。


「ええ」


 アンセルは言った。


「場所は、場所です。百年前の建物の中に、昨日置いたものがあっても、台帳の上では、百年前になります」


「そう書いたのは、誰なの」


「分かりません。台帳の、その行を書いた人の名も、残っていません」


 マリエは、息を吐いた。


 文物院が百年と信じてきたのは、記録ではなかった。

 推定だった。


 推定を、記録の欄に書いた。

 書いた人がいなくなった。

 残ったのは、欄だけだった。


 どこかで聞いた話である。


 二百年前の令も、そうだった。

 異界より漂着せる者。区分と、受理の年月だけ。

 入れる欄を作った時点で、当時の役所は仕事を終えていた。


 欄は、中身を覚えていない。


———

 年代の矛盾は、これで解けた。


 この石は、百年前のものではないかもしれない。

 百年前の遺構から出た、というだけである。


 解けた。

 解けたことで、もっと悪い形になった。


 では、いつのものなのか。

 誰が、いつ、なぜ、それを古い遺構に置いたのか。

 置いたのではなく、落ちたのか。


 別の世界の物が、この世界に落ちてくることは、もう知っている。

 二百年前の令が、それを前提に書かれていたことも、知っている。


 知らないのは、それが何度起きたのか、である。


 ニコの部屋に、一台。

 そして、東の遺構に、石が一つ。


 同じ一度なのか。

 別の一度なのか。

 ほかに、何度あったのか。


 私の手元には、同じ形の石を読める道具が、一台だけある。

 その一台が、どこから来たのかを知っているのは、この卓で私だけである。


———

「では」


 アンセルが言った。


「これは、いつのものなんですか」


 私は、箱の中の石を見た。


 錆の雲が、窓からの光で、少しだけ動いて見えた。

 動いてはいない。

 私の目が、動いただけである。


「分かりません」


 私は言った。


「それを、これから調べます」


 アンセルは、しばらく私を見ていた。


 それから、布を石の上に戻して、箱の蓋を閉めた。


「学芸士になって、はじめてです」


「何がですか」


「分からない、と言われて、少し安心したのが」


 アンセルは、箱を両手で持った。


「これまでは、分からないと言われると、そこで終わりでしたから」


———

 店を出ると、坂の上から風が下りてきた。


 昼の光が、石畳の上で白い。

 どこかの窓から、子どもが歌う声がした。


 マリエとアンセルが、先に坂を下りていった。

 並んで歩くと、アンセルの背が、マリエより頭一つ高い。

 高いほうが、低いほうに歩幅を合わせていた。


 リゼが、私の袖を引いた。


「ねえ」


「うん」


「あの石」


「うん」


「お父さんの、でしょ」


 私は、少しだけ笑った。


「同じ形だった」


「見てたから分かった」


「石を?」


「ユウを」


 リゼは、坂の下の二人を見た。


「顔、変えないようにしてたね」


「してた」


「できてなかったよ」


「最悪だ」


「最悪ではないでしょ」


 リゼは言った。


「お父さん、たぶん、ものすごく喜ぶよ」


 私は、それを想像した。


 想像できた。

 できすぎて、少し困った。


 あの人は、何も知らずに、ものすごく喜ぶ。


———

 夕方、術務室に戻ると、窓の外が赤くなっていた。


 卓の上には、まだ何も無い。

 何も無い卓の上に、私は、昼の紙を置いた。


   媒体

   道具

   形式

   文脈


 四行目の横に、マリエの指の跡が、うっすら残っていた。


 この石は、四つのうち、どれが欠けているのだろう。


 媒体は、錆びているが、形は残っている。

 道具には、心当たりがある。

 形式は、たぶん、義父が覚えている。


 文脈は、無い。


 誰が、いつ、何のために書いたのか。

 それが、いちばん先に欠けていた。


 欠けていたのは、石のほうではなかった。

 台帳のほうだった。


 私は、紙を畳んで、鞄に入れた。


 鞄の中で、紙が、何かに当たった。

 ニコの冊子である。

 ずっと、鞄に入れたままにしていた。


 記録は、書いた人がいなくなると、欄だけが残る。


 欄だけになる前に、誰かが、読まなければならない。


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