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魔法世界は運用で回る  作者: 月の位相
夫婦編

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231/248

第231話 見える順番と覚えている順番

 翌朝、外務院の三階に、卓を二つ突き合わせた。


 天井が高い。声がよく響く部屋で、小さい声で話すと、かえって聞こえない。


 王国側に、マリエ、ネド、リゼ、私。翠路工房からマルク。外務院から二人。


 月砂国側に、エシャとハノ。


 ルドーは、いちばん端の窓際に椅子を持っていって座った。呼んでいない。来ている。


 最悪だ。今日も授業が始まる。


「先に、決めておきたいことがあります」


 マリエが、卓の真ん中に紙を置いた。


「この直しは、王国側だけで確かめません。一つ直すたびに、そちらの盤でも見ていただきます」


 エシャが、わずかに眉を動かした。


「それは、手間が三倍になります」


「なります」


 マリエは言った。


「王国側が正しいと言っても、相手国の書記が読めなければ、条約文書として失格よ」


 エシャは、しばらくマリエを見ていた。


 それから、ハノに何か短く言った。月砂語である。ハノが、鞄から術盤を出して卓に置いた。


「では、手間を三倍にしましょう」


 エシャは言った。


「昨日までより、ましです」


 私は、マリエの紙を受け取った。


「賛成します。表示は、読む人の文化まで含みます」


 私は言った。


「同じ石の中身を、二つの国が別の向きに読みます。どちらの読み方も、その国では正しい。正しさが二つあるなら、片方だけで確かめても意味がありません」


 卓の端で、マルクが小さくなっていた。


 この人は、翠路工房の術師である。前に、配備の日の深夜作業で潰れかけていたところを見ている。あのときより背が伸びた気がするが、縮こまっているので分からない。


 条約文書の札面を組んだのは、この工房だった。


 札面の中で、文字を受け取って盤の上へ並べる部分を、工房では文字組み器と呼ぶ。名前が付いているだけで、ふだん誰も話題にしない。うまく動いているうちは、名前を思い出してもらえない。土台とは、だいたいそういうものである。


「ユウさん」


 マルクが、手を挙げた。挙げてから、下ろした。


「僕、文字は、並べるだけだと思っていました」


 誰も笑わなかった。


「並べるだけなら簡単です」


 私は言った。


「並べるだけでは済まないのが、文字です。マルクさんが甘かったのではありません。この国が、今まで一つの向きしか使わずに済んでいただけです」


 マルクは、それでも下を向いていた。


 ルドーが、窓際から言った。


「マルク」


「は、はい」


「顔を上げろ。書き直す者が下を向いていると、書き直した物まで下を向く」


 マルクが、顔を上げた。


 ルドーは、それきり何も言わなかった。


———

「では、一つ目です」


 私は、表示盤に書いた。


   段の向き


「文書の段ごとに、どちら向きが基本かを、文書の側に持たせます」


 私は、下に二行足した。


   王国語の段は、左から右

   月砂語の段は、右から左


「段の向きが決まると、その段の中では、どの部分をどう並べるかが決まります。混ざった文でも、どちらが主かが先に決まっていれば、囲みも区切りも、迷わずに済みます」


 ネドが、手を挙げた。


「あの。それ、文の中身を見て、当てられませんか」


 来た。


 私も、昨夜これを考えた。考えて、朝までかかって捨てた。


「当てられます」


 私は言った。


「たいてい、当たります」


「じゃあ」


「たいてい当たる仕組みは、外れたときに、いちばん困ります」


———

 私は、表示盤を新しくして、四つ書いた。


   一、頭が数で始まる段

   二、頭が囲みの印で始まる段

   三、まだ何も書いていない空の欄

   四、港の名だけが並んだ欄


「一つ目。数には向きがありません。正確には、数の中の並びは決まっていますが、段の向きは決めてくれません。頭が数の段は、どちら向きか当てられません」


 ハノが、頷いた。


「二つ目。囲みの印も同じです。まわりに従う印なので、先頭にあるとき、従う相手がいません」


「三つ目」


 マリエが言った。


「空の欄」


「はい。署名の欄は、署名するまで空です。空の欄の向きを、中身から当てることはできません。中身がないので」


 マリエが、紙の角をそろえた。


「うちは、空の欄に何十と印を押すわ」


「四つ目は、いちばん厄介です」


 私は言った。


「港の名だけが並んだ欄。月砂の港の名を、王国語の字で書き写すことがあります。中身は王国語の字です。ですが、その欄は月砂の文書の一部です。字を見れば左から右、意味を見れば右から左です」


 リゼが、口を挟んだ。


「当てるの、無理じゃない?」


「無理ではありません」


 私は言った。


「たいていは当たります。そこが問題です」


 私は、表示盤の下へ、一行だけ書いた。


   当てる仕組みは、当たっているあいだ、誰も確かめない


 部屋が、少し静かになった。


「昨日の四と一は、半年、誰も確かめませんでした。盤が当てていたからではありません。盤が黙って並べていたからです。黙って正しいものと、黙って間違っているものは、見た目が同じです」


 ルドーが、窓際で言った。


「だから、文書に書かせるのか」


「はい」


 私は言った。


「当てさせずに、書かせます」


「文字だけ見れば分かる、とは限らないのだな」


「限りません」


 私は言った。


「文書の作りが、助ける必要があります」


———

「二つ目です」


 私は、表示盤に書いた。


   向き印

   向き囲い


「向き印というのは、字を持たない印のことです。盤の上には何も出ません。出ないのに、並べ方だけを変えます」


「向き囲いは」


 マリエが訊いた。


「向き印のうち、ここからここまで、と挟むものです。今日いちばん使うのは、こちらです」


 私は言った。


「段の向きが決まっても、段の中に違う向きの部分が混ざります。そこを囲います」


 私は、線を二本引いて、そのあいだに四角を置いた。


「ここからここまでは右から左、ここからここまでは左から右。そう書いた印で、前と後ろを挟みます」


 マルクが、書き付けながら言った。


「挟むだけ、ですか」


「挟むだけです。ですが、挟み方が二通りあります」


 私は、表示盤に二つ書いた。


   まわりに向きを伝える挟み方

   まわりへ向きを漏らさない挟み方


「前のほうは、囲った中の向きが、囲いの外へ滲みます。囲いの外の区切りや囲みの印が、中の向きに引きずられます」


「後のほうは」


「漏れません。中で何が起きても、外は外の向きのままです」


 私は、後のほうに丸を付けた。


「使うのは、こちらです」


 エシャが、はじめて身を乗り出した。


「なぜ、漏れる挟み方が存在するのですか」


「古いからです」


 私は言った。


「先に作られたほうが、漏れます。漏れると気づいたのは、あとです。あとで作った漏れないほうを使ってください、と言って回っている最中です」


 エシャは、短く息を吐いた。


「どこの国も、同じですね」


「同じです」


———

「違う向きの文字を混ぜる時は、ただ貼るのではなく、ここからここまでが別の向きだと囲う必要があります」


 私は、そう言って、札面の第九条を出してもらった。


 トゥラ港の行である。


 数が二つ、あいだを空けて並んでいる。


「昨日、この二つが入れ替わって見えました。原因は、あいだの空きです」


「囲えばいいんですね」


 マルクが、札面に手を伸ばした。


 数を一つずつ囲った。


   [四]  [一]


 札面が、書き換わった。


   一 四


 何も変わっていなかった。


「……変わりません」


 マルクが言った。


「変わりません」


 私は言った。


「囲う場所が違います」


 私は、表示盤に二つ並べて描いた。


   [四] [一]   数が二つ並んでいる

   [四 一]     数の並びが一つある


「一つずつ囲うと、囲いが二つできます。二つのものが月砂語の行の中に並んでいる、という話は、何も変わっていません。並ぶ順は、やはり右から左です」


 リゼが、口を開けた。


「囲っても駄目なんだ」


「囲った中身が、守りたいものと違っていました」


 私は言った。


「守りたかったのは、数そのものではありません。数と数の並びです。ですから、二つまとめて囲って、その囲いの中は左から右、と書きます」


 マルクが、囲いを引き直した。


 一つの囲いが、数二つをまとめて抱えた。


 札面が、書き換わった。


   四 一


 王都の盤である。


「ハノさん」


「……四、一です」


 ハノが、自分の術盤を見た。


「こちらも、四、一です」


 部屋の空気が、ほんの少し緩んだ。


 緩んだところで、マリエが言った。


「ユウさん。いま、文書に何が増えたの」


「見えない印が二つです」


「見えない印」


「はい」


 私は言った。


「囲いの印は、字を持ちません。盤の上には何も出ません。ですが、石の中には入ります」


 マリエは、しばらく札面を見ていた。


「見えない印で、数の並びが変わるのね」


「変わります」


「……ユウさん」


 マリエは、紙の角をそろえた。今度は、そろえながら言った。


「見えない向き印で意味が変わるなら、それも契約上の記載と同じ扱いにしないといけないわ」


 私は、その一言を、書き付けた。


 書き付けてから、少し手が止まった。


 この人は、いつも、私が気づいた半歩先に立っている。


———

「三つ目です」


 私は、表示盤に書いた。


   針の動かし方


「昨日、リゼが、右を押して左へ行きました」


「行った」


 リゼが言った。


「あれは、どっちが正しいの」


「正しい答えが、ありません」


 部屋が、静かになった。


 リゼが、こちらを見た。


「……無いんだ」


「無いです」


 私は、表示盤に二つ書いた。


   記憶の順で動かす

   見えた並びで動かす


「上は、石の中の並びで一つ進みます。書き直すときは、こちらが筋です。消した字と、写した字と、印を押す対象が、全部この順で数えられます」


「欠点は」


 リゼが訊いた。


「針が飛びます。右を押したのに左へ行く。昨日のあれです」


 私は、下の行を指した。


「下は、盤の上で隣に見える字へ動きます。人の目には、こちらが自然です。文書を読み返すときは、こちらが要ります」


「欠点は」


「石の中の並びとずれます。消すときと、写すときに、話が合わなくなります」


 私は、二つを線で結んだ。


「書き手は、見た目の隣へ行きたいこともあります。でも、術盤は、記憶の並びで書き直したいこともあります」


 リゼが、腕を組んだ。


「両方いるんだ」


「両方います」


 私は言った。


「片方だけにすると、別の人が怒ります」


———

「両方、付けられるのですか」


 マルクが訊いた。


「付けられます。ですが、混ぜると、いちばん悪くなります」


 私は言った。


「どちらで動いているかを、使う人が分からないまま動かすのが、いちばん悪いです。ですから、一つ決めて、決めたことを書きます。書いたうえで、もう一方へ切り替える手を、端に置いておきます」


 エシャが言った。


「どちらを選びますか」


「記憶の順です」


 私は言った。


「契約の文書だからです。この文書で最後にいちばん大事なのは、読みやすさではなく、印がどこに掛かるかです」


「読みやすさを、捨てるのですか」


「捨てません」


 私は言った。


「読むための道具を、別に付けます。針の話とは分けます」


———

「それと、もう一つ、謝っておくことがあります」


 私は、表示盤に、二つの向きの境目を描いた。


「境目では、一つの場所が、盤の上に二つあります」


 ネドが、顔を上げた。


「二つ、ですか」


「二つです」


 私は、境目の左と右に、それぞれ針を描いた。


「月砂語が終わって王国語が始まるところ。石の中では、そこは一か所です。ですが、盤の上では、月砂語の側の端と、王国語の側の端と、二か所あります。どちらにも、針は立てられます」


「どっちに立つんですか」


「決めるしかありません」


 私は言った。


「そして、決めたことを、使う人に見せるしかありません。針の形を変えるか、傾けるか。次に字を入れたらどちらへ入るかが、針を見て分かるようにします」


 リゼが、手を挙げた。


「それ、教えてもらわないと分からないよね」


「分かりません」


「ずるい」


「ずるいです」


 私は言った。


「ですが、隠すよりましです。隠しても、無くなりません」


———

「四つ目です」


 私は書いた。


   消す前に、消える字を光らせる


「消しの鍵を押す前に、これから消える字を、一度光らせます。押し続けているあいだだけでいいです」


「それだけ?」


 リゼが言った。


「それだけです」


 私は言った。


「向きの話を全部覚えてもらうより、消える字が光るほうが、早いです」


 マリエが、頷いた。


「選んだ範囲も、同じにできるかしら」


「できます」


 私は言った。


「選んだ帯が二つに割れるのは、直しません。直すと、石の中の並びと合わなくなります。代わりに、割れた帯を同じ色の細い線でつなぎます。離れて見えるが、ひとつづきだ、と分かるようにします」


 マルクが、書き付けた。


「それは、難しくないです」


「難しくないものから片づけます」


 私は言った。


「十日しかありません」


———

 ネドが、手を挙げた。


「あの。昨日、言葉のほうは正しかったんですよね」


「正しかったです」


「だったら、言葉と数を、盤に突き合わせさせればいいんじゃないですか。食い違っている行を、盤が拾ってくれます」


 筋のいい案である。


 昨日の半年を、一刻で見つけられる案に見える。


「やってみましょう」


 私は言った。


 マルクが、第九条の付表の全部の行に、言葉の綴りと数の字を比べる小術を掛けた。


 盤が、答えを返した。


 食い違い、なし。


 ネドが、札面をのぞき込んだ。


「……なし、ですか。トゥラ港も」


「トゥラ港も、なしです」


 私は言った。


「盤は、石の中を比べます。石の中では、言葉も四、数の字も四です。最初から、何も食い違っていません」


 ネドが、口を開けたまま止まった。


「食い違っていたのは、私たちの目に映ったほうだけです」


 私は、表示盤に書いた。


   盤に比べさせると、一致と言う

   人の目で比べると、食い違って見える


「昨日、言葉で救われたのは、盤が見つけたからではありません。ハノさんが、目で読んだからです」


 ハノが、少しだけ背を伸ばした。


「ですから、突き合わせは、人の目に映ったものでやります。次の五つ目は、そのための仕組みです」


 エシャが言った。


「付表の全部の行に、言葉の欄を足しましょう。王国の側の港の行にも」


 マリエが、顔を上げた。


「月砂の作法に、こちらが合わせるのね」


「合わせていただけるなら」


「合わせるわ」


 マリエは言った。


「言葉が勝つ、という決まりはあるわ。でも、食い違った紙は、言葉が勝つ前に、まず突き返されるものよ。勝ち負けを決める場まで持っていく時点で、契約術務としては負けているの」


———

「五つ目です。これが、いちばん大事です」


 私は、表示盤を全部消して、三つ書いた。


   見えている文

   石の中の並び

   印が掛かる文


「印を押す前に、この三つを並べて出します」


 マリエが、椅子に座り直した。この人は、大事なことを聞く前に、一度座り直す。


「三つとも、別々に出すの」


「出します。同じ画面に、上下に並べます」


 私は、表示盤に三段の枠を描いた。


「一段目は、盤に見えている通り。数の字の横には、言葉の綴りを並べます。二段目は、石の中に入っている順で、一字ずつ番号を振ったもの。三段目は、印が掛かる文です。見えない向き印も、そこには印として出します」


 エシャが言った。


「見えない印を、見えるようにするのですか」


「そこだけ、見えるようにします」


 私は言った。


「普段は見えないほうがいい印です。文書としては邪魔ですから。ですが、印を押すときだけは、邪魔なほうがいい」


 エシャは、しばらく考えていた。


「……我々の側でも、同じ三段を出せますか」


「出せます」


「では、署名の日は、両方の三段を並べましょう」


 エシャは言った。


「我々の盤と、そちらの盤で、三段が四つ並びます。全部同じなら、署名します」


 マリエが、紙の角をそろえた。


「それ、うちの決まりに書き足していいかしら」


「どうぞ」


 エシャは、はじめて、はっきり笑った。


「我々は、紙に書きます。そちらは、決まりに書き足す。どちらも、同じことです」


———

「ユウ」


 ルドーが、窓際から言った。


「そこまでで、いくつ直した」


「五つです」


「残りは」


「たくさんあります」


 私は、表示盤を新しくした。


   試すもの


   左から右の文に、右から左の言葉が入ったとき

   右から左の文に、左から右の言葉が入ったとき

   数

   単位の付いた数

   港の名

   商会の名

   条文の番号

   囲みの印

   引用の印

   区切りの印

   並べ書きの列

   表

   注

   署名の欄

   行の折り返し

   頁の変わり目

   写しと貼り

   探し

   選び

   消し

   読み上げ

   紙への刷り

   印

   差分の突き合わせ


 ルドーが、表示盤を見て、しばらく黙った。


「文字を出すだけで、なぜここまで……」


「文字を出すだけではないからです」


 私は言った。


「表示できた、だけでは足りません。書き直し、探し、印、読み上げまで試します。表示は、いちばん最初に通るところで、いちばん最後まで祟るところです」


 マルクが、表示盤の列を数えていた。


「二十四あります」


「二十四では足りません」


「足りないんですか」


「足りません」


 私は言った。


「ですが、十日で試せるのは、ここまでです。足りないぶんは、足りないと紙に書いて残します」


 マリエが、顔を上げた。


「書くの?」


「書きます」


 私は言った。


「試していないものを、試したことにしないためです。次に触る人は、この紙を読みます」


———

 昼を過ぎて、卓の上に汁とパンが並んだ。


 月砂国の二人は、パンを手で割って食べた。王都のやり方と同じだった。


 ハノが、私の隣に来た。


「ユウさん」


「はい」


「昨日、うちの盤でも同じことが起きる、と申し上げました」


「聞きました」


「あの、さっきの囲いの印は、こちらの盤でも使えますか」


 私は、ハノの術盤を見た。


「使えます。向きが逆になるだけで、考え方は同じです」


「では、国へ帰ったら、写字の部屋で話します」


 ハノは、筆を二本、卓に置いた。


「うちの部屋は、盤を信じていません。信じない理由を、うまく言えないままでした。今日、言えるようになりました」


「何と言いますか」


「盤が悪いのではなく、盤に向きを教えていなかった、と」


 私は、汁を飲む手を止めた。


 この人は、一日で、私が半年かけて言えなかったことを言った。


———

 午後、ルドーが、窓際から立ち上がった。


「一つ、関係のない話をしていいか」


「関係のない話を、この人がしたためしはありません」


 私は言った。


 リゼが、小さく笑った。


「では、関係のある話をする」


 ルドーは、卓の端まで来た。


「古い言い伝えがある。天に届く塔を建てようとした人々が、言葉を分けられた、というものだ」


 エシャが、頷いた。


「月砂にも、似た話があります」


「どの国にもある」


 ルドーは言った。


「どの国にも同じ話があるということは、どの国でも、同じことに困ったということだ」


「言葉が分かれただけなら、まだよかったですね」


 私は言った。


「書く向きまで分かれたので、文字組み器が泣いています」


 リゼが、卓に肘をついた。


「言い伝えの罰が、術盤の技師に来てるんだ」


「だいたいそうです」


 マルクが、下を向いて笑った。


 ルドーが、表示盤を指した。


「ユウ。右から左だけでなく、行の割り方や字間にも作法があるのか」


「あります」


 私は言った。


「行の終わりに置いてはいけない字があります。行の頭に来てはいけない字もあります。長い言葉を途中で割るときの、割ってよい場所の決まりがあります。字と字のあいだを詰める作法もあります。二つの字がくっついて、一つの形になる言葉もあります」


 私は、表示盤を指した。


「文字組み器は、国ごとの細かい作法を、まとめて背負っています。どれも、その国では、当たり前の行儀です。当たり前の行儀は、どこにも書いてありません」


「それも、今回やるのか」


「やりません」


 私は言った。


「十日では、できません。やれば、間に合いません」


 ルドーは、頷いた。


「よろしい」


「よろしいんですか」


「やらないと決めたなら、それは仕事だ」


 ルドーは言った。


「決めずに残したなら、それは事故だ」


———

 十日後。


 外務院の大広間に、卓が一つ置かれた。


 長い卓である。両端に椅子が二つずつ。真ん中に、術盤が四枚並んでいた。王国の盤が二枚、月砂の盤が二枚。


 四枚とも、三段の画面を出していた。


 見えている文。石の中の並び。印が掛かる文。


 エシャが、四枚を、右から順に見た。


 それから、左から順に、もう一度見た。


 第九条の付表で、指が止まった。


 止まって、動いた。


 四つの盤で、同じ数が、同じ順に並んでいた。


 エシャが、顔を上げた。


「これなら、我々の書記も読める」


「王国の書記も読めます」


 マリエが言った。


 私は、四枚の盤を見た。


 どの盤も、昨日までと同じ石を読んでいる。中身は一字も変えていない。変えたのは、向きの持たせ方と、見せ方と、確かめ方だけである。


「両方が読めるなら、だいぶ勝ちです」


 私は言った。


 エシャが、こちらを見た。


「だいぶ、ですか」


「だいぶです」


 私は言った。


「全部が読めるようになったとは、まだ言えませんので」


 エシャは、少しのあいだ黙っていた。


「そう言う相手のほうが、信用できます」


———

 署名が済んだあと、卓の端で、リゼが札面をいじっていた。


 第四条のあたりである。


 針を右へ押した。


 針が、左へ飛んだ。


「右を押したら、左に行った」


「そこは仕様です」


 私は言った。


 リゼが、こちらを見た。


「仕様って便利な言葉だね」


「濫用すると人が怒ります」


「今、ちょっと怒ってる」


 私は、リゼの隣に座った。


「針の形を見てくれ」


 リゼが、札面に顔を寄せた。


 針が、少し傾いている。左へ倒れている。


「……倒れてる」


「次の字は、その倒れたほうへ入る」


 リゼが、字を一つ打った。


 倒れたほうへ入った。


「入った」


「入った」


 リゼは、もう一度、針を動かした。今度は、飛んだ先を目で追っていた。


「慣れる?」


「慣れる」


 私は言った。


「慣れなくてもいいように作るのが本筋だが、これは慣れてもらうほうを選んだ」


「選んだって言えるなら、いいよ」


 リゼは言った。


「昨日までは、選んでなかったもんね」


———

 帰りに、マリエが廊下で追いついてきた。


 紙の束を抱えている。角は、そろっていなかった。この人の角がそろっていないのは、はじめて見た。


「ユウさん」


「はい」


「付属の文書が、まだ四十一あるの」


「四十一」


「第九条と同じ形の付表が、そのうち十六」


 マリエは、紙の束を持ち直した。


「囲いが入っているかどうか、一枚ずつ見ないといけないわ。囲いは、見えないから」


「見えない印を、目で探すんですか」


「三段目を出せば見えるわ」


 マリエは言った。


「出して、見て、閉じて、次を出す。四十一回。十六の付表には、言葉の欄を足しながらね」


 私は、その束を見た。


 見えない印を、見えるようにしてから、目で探す。四十一回。


 最悪だ。


「手伝います」


「助かるわ」


 マリエは言った。


「あと、これが片づいたら、報告したいことがあるの」


「悪い話ですか」


「いいえ」


 マリエは、少しだけ笑った。


 それから、紙の束の角を、歩きながらそろえ直した。


———

 夜、リゼの家の卓に、湯気が立っていた。


 夏が近い。窓を閉めると、少し暑い。


「ねえ」


 リゼが、椀を置いた。


「前にさ、遊戯の言葉を増やす仕事、してたよね」


「した」


 北方諸語と、南方交易語と、東方学府語。用語台帳を作って、文言札を盤から切り離して、場面札を付けて、実際の盤に流して確かめた。


 あのとき、私は、言葉は増やせると思った。


 増やせた。


「あれ、ちゃんとやったよね」


「ちゃんとやった」


「今日のは、その続き?」


「続きだ」


 私は、匙を置いた。


「あのとき増やしたのは、言葉だった。向きは増やしていなかった。三つとも、左から右に進む言葉だったからな」


「気づかなかったんだ」


「気づかなかった」


 私は言った。


「足りないものは、足りないと言ってくれない。足りていないことに気づくのは、たいてい、誰かが困ったあとだ」


 リゼは、匙を止めた。この人が考えるときは、匙が止まる。


「じゃあ、今日のも、まだ足りてないんだよね」


「足りていない」


「どこが」


「行の割り方。字と字のあいだ。読み上げの順。あと、紙に刷ったときの形」


 私は、指を折った。


「紙に書いて残してある。次に困った人が読む」


「次に困った人が読むんだ」


「読む」


「困る前に読めばいいのに」


「人類は、困る前には読まない」


 私は言った。


「困ったあとで読んで、書いた人に感謝して、また別のところで困る」


 AIエージェント:「補足:あなたも、今朝、昨夜書いた紙を読み返していません」


「……黙れ」


 最悪だ。


———

 寝る前に、窓を閉めた。


 外に、月が出ていた。


 月砂国の名前は、月と砂から来ているのだと、昼にハノが言っていた。乾いた土地で、日中は歩かず、夜の道を月の光で行くからだそうである。


 こちらは、雨の匂いのする石畳の上で、左から右へ書くことを覚えた。


 どちらが先でもなく、どちらが正しくもない。


 別々の土地で、別々の人が、別々に決めた。


 決めたあとで、船が海を渡った。


 文字は、記憶石の中では、一列に並んでいる。


 書いた者の順に、一、二、三と並ぶ。そこには左も右もない。


 その一列を、盤の上へ置くとき、はじめて向きが要る。


 向きは、字の中にはない。字を使う人のほうにある。


 だから、文書は、字だけでは足りない。誰の向きで読むのかを、文書自身が持っていなければならない。


 そして、見えている文と、印の掛かる文が同じであることを、押す前に、人が目で確かめられなければならない。


 文字は、ただ並べれば読めるものではなかった。


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