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魔法世界は運用で回る  作者: 月の位相
夫婦編

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230/248

第230話 右から来た文字

 夜のうちに雨が降ったらしい。


 窓を開けると、石畳がまだ黒い。初夏の雨は、土ではなく石の匂いがする。


 卓の向こうで、リゼが買い物の覚えを書いていた。


 豆。油。塩。糸。


 左の端から書き始めて、行の終わりで折り返す。折り返して、また左から書く。


 当たり前である。


 当たり前すぎて、私はそれを、一度も見たことがなかった。見てはいたが、見ていなかった。


「なに」


 リゼが、筆を止めた。


「いや」


 私は言った。


「字を書くところを、見ていた」


「気持ち悪いね」


「そうか」


「そうだよ」


 リゼは、糸のあとに「針」と書き足して、紙を折った。


 AIエージェント:「観測:あなたはこれまで、文字が左から右へ進むことを、一度も疑っていません」


「疑う理由がなかった」


 AIエージェント:「補足:理由がなかったことと、正しいことは、別です」


 私は、パンをちぎる手を止めた。


 朝からこういうことを言われる日は、だいたい、昼までに何か起きる。


———

 王都術務室の第三卓に、紙の束が積んであった。


 積んだのはマリエである。積み方で分かる。角が全部そろっている。


 その隣で、ネドが書き付けの帳面を三冊広げていた。所在台帳の続きをやっている。この人は、手が速い。速いことは、この仕事ではだいたい良いことで、たまに悪いことになる。


 卓の向こうに、見たことのない外套が二つ並んでいた。


 厚い生地で、裾が長い。襟に砂よけの布を巻き込む作りになっている。王都の仕立てではない。


 月砂国の書記官だった。


 海を渡る便ができたのは去年からである。それまでこの国の人に会うには、翼竜を乗り継いで十日かかった。いまは浮遊船で二日と少しで着く。条約の話が急に進んだのは、たぶん、そのせいだ。


「ユウさん」


 マリエが、そろっている角を、もう一度そろえた。


「この条約文書、見た目通りに読めないの」


 リゼが、隣の卓から顔を上げた。


「見た目通りに読めない文書って何?」


「文字の世界では、たまにあります」


 私は言った。


 リゼは、それで納得した顔をしなかった。当然である。私も、まだ納得していない。


———

「紹介します」


 マリエが、卓の向こうへ手を向けた。


「月砂国外務の書記官、エシャさん。こちらは写字の担当のハノさん」


 年上のほうが、立たずに頭を下げた。頭の下げ方に、慣れた省き方がある。何百回も同じ礼をしてきた人の下げ方である。


「エシャです」


 声が低い。王国語は、少し硬いが正確だった。


「半年、この文書を作りました」


「ハノです」


 若いほうが、こちらは深く頭を下げた。手に、細い筆を二本持っている。持ったまま礼をしたので、筆が外套に当たった。


 エシャが、卓の上の術盤を指した。


「そして、そちらの盤で見ると、この文書は、我々の言葉ではありません」


 言い方に、責める色はなかった。事実を読み上げる声だった。


 それが、いちばん怖い言い方である。


———

 術盤の札面を、こちらへ向けてもらった。


 条約の第一条が出ている。


 上半分は王国語だった。読める。通商の目的と、適用の範囲。硬いが、まともな文章である。


 下半分が、月砂語だった。


 読めないのは当たり前である。私は月砂語を知らない。


 だが、読めなさの手触りが、妙だった。


 文字は並んでいる。整った字形で、きれいに並んでいる。行の長さもそろっている。


 なのに、ハノの顔が、さっきから少しずつ曇っている。


「ハノさん」


 私は言った。


「これは、どう見えていますか」


 ハノは、筆の尻で行の端をなぞった。


「まず、そろっている側が、逆です」


「そろっている側」


「はい」


 ハノは、左の端を指した。


「この文書は、行の頭が左でそろっています。我々の文は、右からそろいます。右の端に頭が来て、左へ流れて、余りが左に出ます」


 言われてみれば、右の端が、行ごとにばらばらだった。


 王国語の紙なら、それは何でもない。左でそろっていれば、それで整っている。


「もう一つ、あります」


 ハノは、一行の右の端を指した。


「文の終わりの印が、文の頭に付いています」


「……終わりの印が」


「はい。この丸は、文の終わりに打つものです。それが、頭の側に来ています」


 ハノは、いくつかの行を順に指した。どの行も同じだった。


 全部の文が、終わりを先頭に付けたまま並んでいる。


「読めないのではありません。読めます。読めてしまいます」


 ハノは言った。


「一行なら、直して読みます。二行でも直します。……この文書は、条文が二百あります」


 私は、そこで背中が冷えた。


 読めないほうが、まだよかった。読めないものは、誰かが必ず騒ぐ。


———

「ちょっと待って」


 リゼが、卓を回り込んできた。


「右から左に読むだけなら、反対に並べればいいんじゃないの?」


 ハノが、困った顔をした。エシャは、何も言わなかった。


「それで済むなら、みんな幸せでした」


 私は言った。


 リゼが、こちらを見た。


「済まないんだ」


 私は、リゼを見た。


「済まない」


 私は、表示盤を引き寄せた。


「ここからは、少し長くなります」


 エシャが、はじめて椅子の背から体を離した。


「長い話は、歓迎します」


 エシャは言った。


「短い話を、半年、聞かされてきたので」


———

 表示盤に、四角を九つ書いた。


   □□□□□□□□□


 その下に、番号を振った。


   一 二 三 四 五 六 七 八 九


「文字は、記憶石の中では、一列に並んでいます」


 私は言った。


「書いた順に、一、二、三と並びます。これは、どの国の言葉でも同じです。石の中に、左も右もありません」


 ハノが、頷いた。


「ここまでは、揉めません。揉めるのは、ここからです」


 私は、四番から八番までを丸で囲った。


「一から三が王国語。四から八が月砂語。九がまた王国語。こういう文があるとします」


 マリエが、紙を一枚めくった。


「条約文は、だいたいそうなっているわ」


「はい」


 私は、表示盤の下の段に、もう一列書いた。


   一 二 三 八 七 六 五 四 九


「これが、盤の上に見える順です」


 私は、二つの列のあいだに、線を一本引いた。


「記憶石の中では、文字は一列に並んでいます。でも盤の上では、読む向きに合わせて、部分ごとに並び替えられます」


 リゼが、二つの列を見比べた。


「……真ん中だけ、逆」


「逆です」


「なんで逆にするの?」


「そう見えるのが、正しいからです」


 私は、四番から八番の下に線を引いた。


「月砂語は右から左へ進みます。ですから、この五文字は、右の端から始めて左へ並べないと、読めません。盤は、正しくやっています」


 ハノが、小さく息を吐いた。


「そこは、合っています」


「はい」


 私は言った。


「合っているのに、困るんです」


———

 私は、表示盤の二列を指でなぞった。


「上の列が、書かれた順。下の列が、見える順」


 そして、下の列の番号を、左から順に読み上げた。


「一、二、三、八、七、六、五、四、九」


 リゼが、指を折りながら聞いていた。


「増えて、減って、また増えた」


「そこです」


 私は言った。


「今日いちばん大事なのは、そこです」


 私は、表示盤に短く書いた。


   番号と場所が、いっしょに増えなくなる


「王国語だけの文なら、右へ行くほど番号が増えます。ずっと増えます。だから、右の隣は次の字で、左の隣は前の字です。誰も疑いません」


「疑わないね」


「月砂語が混じると、途中で減ります。減ったあと、また増えます」


 私は、指を二列のあいだで往復させた。


「右の隣が次の字だとは、もう言えません。選んだ範囲が、記憶石の中でひとつづきだとも言えません。消そうとした字が、指したところにあるとも言えません」


 リゼが、ゆっくり言った。


「それ、ずるくない?」


「文字は昔からずるいです」


 卓の向こうで、エシャの肩が、わずかに動いた。笑ったのだと思う。顔は動いていなかった。


———

 廊下から、足音がした。


 迷いのない足音である。この人は、入る部屋を間違えたことがない。


「ルドー先生」


 リゼが立った。


 ルドーは、外套を椅子の背にかけた。


「古い写本のことで呼ばれた」


「はい。月砂語の写しが、王都にあるかどうかを」


「ある。三冊。大図書館の奥だ」


 ルドーは、卓の上を一度だけ見た。表示盤の二列に、目が止まった。


「これは」


「書かれた順と、見える順です」


 ルドーは、しばらく黙っていた。


「書かれた順番と、見える順番が違うのか」


「違います」


「ふむ」


 ルドーは、椅子を引いて座った。


「授業なら、そこで半分終わっている」


「終わっていません」


「そうだろうな」


 ルドーは、月砂国の二人に短く会釈をした。


「現場こそ授業だ。続けろ」


———

「次は、数の話をします」


 私は、表示盤を新しくした。


 条約の第九条の付表を、札面に出してもらった。


 港ごとに、二つの数が並んでいる。入りの税と、出の税である。百につきいくつ、という形で書いてある。


 港の名は月砂語。数は、数字だった。


 数の字のあとに、月砂語の一続きが添えてある。ハノに訊くと、同じ数を言葉で綴ったものだという。


「エシャさん。ひとつ伺います」


 私は言った。


「月砂国では、数はどちら向きに書きますか」


 エシャは、少し意外そうな顔をした。


「左からです」


「文字は右から左なのに、数だけは左からですか」


「そうです」


 エシャは、卓の上に指で書いた。


「大きい位を先に書きます。千の位、百の位、十の位。左から順に」


 私は、ハノを見た。ハノが頷いた。


「王国も、まったく同じです」


 私は言った。


「文字の向きは、こんなに違うのに」


 エシャが、はじめて口の端を動かした。


「数は、商人が広めましたから」


「……なるほど」


「字で書いた数のあとに、言葉でもう一度綴るのも、商人の作法です」


 エシャは、付表の月砂語の一続きを指した。


「字の数は、一つ足せば桁が変わります。言葉は、足しにくい。綴りの終わりには"これきり"と書きます。そのあとに何も足させないためです」


「王国でも、手形は字と言葉の両方で書きます」


 マリエが言った。


「食い違ったら、言葉のほうを取る決まりよ」


 私は、表示盤に書いた。


   文字の向きは国ごとに違う

   数の向きは、どの国も同じ


 人類は、思想では何百年も争うのに、帳面の付け方だけは、いつのまにか揃えている。揃えたほうが儲かるからである。


 商人のほうが、学者より先に世界を統一していた。しかも、疑い深さまで揃えていた。


———

「ここが、今日のいちばん厄介なところです」


 私は言った。


「月砂語の文の中に、数が入ります。文は右から左へ進む。数は左から右へ進む。一つの行に、向きが二つあります」


 リゼが、眉を寄せた。


「行の中で、喧嘩してるんだ」


「喧嘩はしていません。それぞれ、自分の向きを持っているだけです」


 私は、表示盤に足した。


   数は数で、自分の向きを持っている

   囲みや区切りは、周りに引きずられる


「数は強いです。まわりが何語だろうと、左から右へ並びます。これは変わりません」


「囲みは」


「弱いです」


 私は言った。


「囲みの印も、区切りの印も、それ自体には向きがありません。ですから、まわりの字の向きに引きずられます。王国語のあいだに置けば王国語の向きに、月砂語のあいだに置けば月砂語の向きになります」


 リゼが、札面をのぞき込んだ。


「文字が、まわりの様子をうかがってるの?」


「うかがっています」


 私は言った。


「術盤が人の様子をうかがおうとすると、だいたい厄介になります」


 ネドが、書き付けの手を止めて、その行を二重線で囲った。


———

 付表の行を、拡げて出してもらった。


 トゥラ港の行である。


 月砂語の名のあとに、数が二つ、あいだを空けて並んでいる。


   一 四


「マリエさん」


 私は言った。


「これは、どう読みますか」


「入りが百につき一。出が百につき四」


 マリエは即答した。


「先月、外務院の写しからそのまま書き取ったわ」


 エシャが、札面を見た。


 それから、もう一度見た。


 外套の裾が、ほんの少し動いた。


「……違います」


 エシャは言った。


「入りが四です。出が一です」


 部屋が、静かになった。


 マリエが、紙をめくる手を止めた。


「半年、うちは、入りが一だと思っていたわ」


「我々は、四だと申し上げてきました」


「文書には、一と書いてあります」


「書いていません」


 エシャの声が、低くなった。


「我々が送った写しに、一と書いた覚えはありません」


 ハノが、札面に顔を寄せた。


 数の字ではなく、そのあとの月砂語の一続きを、指でたどった。右から左へ。


「言葉では」


 ハノは言った。


「入りが四つ。出が一つ。これきり、です」


 マリエが、紙の束をめくった。王国語の本文の、第九条である。付表の上に、港ごとの税が、言葉で書いてある。


 マリエの指が、止まった。


「……トゥラ港に入る王国の荷は、百につき四つ」


 マリエは、声に出して読んだ。


「言葉では、四よ」


 誰も、すぐには何も言わなかった。


 条約の値は、最初から正しかった。月砂語の綴りにも、王国語の本文にも、四と書いてあった。食い違っていたのは、王都の盤に映った、数の字の並びだけである。


「言葉を読めば、分かったのね」


 マリエは、紙の角をそろえなかった。


「半年、誰も言葉を読まなかった。付表は、数の列だけ拾うための表だもの。外務院も、商会も、わたしも、数の列しか見ていなかったわ」


 助かった、という顔ではなかった。


 この人は、助かったときほど、怖い顔をする。


———

 私は、席を立った。


 立ったのは、考えるためである。座っていると、考えより先に口が動く。


「ハノさん」


「はい」


「あなたの国の盤では、この行はどう見えますか」


 ハノが、自分の鞄から小さな術盤を出した。薄い石を二枚重ねた形で、王都のものより角が丸い。


 同じ文書の写しを開いた。


 同じ行が、出た。


   四 一


 私は、その二つを並べて見た。


 同じ文書である。同じ写しである。石の中身は、一字も違わない。


 王都の盤では「一 四」。


 月砂の盤では「四 一」。


 最悪だ。


———

「どうしてそうなるの」


 リゼが言った。


「数と数のあいだに、空きがあります」


 私は言った。


「空きは、字ではありません。向きを持っていません。ですから、まわりに従います。まわりは月砂語です。月砂語は右から左です」


 私は、表示盤に四角を三つ書いた。


   [四] 空き [一]


「数そのものは、中身が左から右です。これは崩れません。崩れるのは、数と数の並び順のほうです」


 私は、矢印を右から左へ引いた。


「空きが右から左を向いているので、二つの数は、束として右から左へ並べられます。右に四、左に一」


「じゃあ、左から読むと」


「一、四です」


 リゼが、口を開けたまま、しばらく黙った。


「……数はひっくり返ってないのに」


「ひっくり返っていません」


「並び順だけ、ひっくり返った」


「はい」


 私は言った。


「一つ一つは正しくて、順番だけが違う。いちばん見つけにくい壊れ方です」


 ルドーが、卓の端から言った。


「四が一に化けたなら、誰かが気づく」


「気づきます」


「化けていないから、気づかん」


「気づきませんでした」


 私は言った。


「半年、気づきませんでした」


———

「待って」


 リゼが、札面に手を伸ばした。


「これ、書き直せるの?」


「書き直せます。編める文書ですから」


 リゼは、札面の月砂語の行に、挿し針を置いた。


 文字のあいだで光る細い針である。ここに字が入る、という目印だけの、ささやかな道具だった。


 リゼが、右へ一つ動かした。


 針が、左へ飛んだ。


「……え」


 もう一度、右を押した。


 針が、また左へ動いた。


「右へ動かしたのに、左へ行った!」


 リゼが、こちらを見た。目が丸い。


「記憶石の並びでは、右へ進んでいます」


 私は言った。


「見た目では、左へ行きます」


「じゃあ私は、どっちへ進めたの?」


「そこが問題です」


 リゼは、針をもう二つ動かして、やめた。


「気持ち悪い」


「気持ち悪いです」


「あなた、平気そうな顔してる」


「平気ではありません」


 私は言った。


「顔に出す余裕がないだけです」


———

 ハノが、遠慮がちに手を挙げた。


「あの。我々の盤でも、同じことが起きます」


 私は、顔を上げた。


「王国語が混ざったときです」


 ハノは、自分の術盤を回してきた。


「我々の文の中に、そちらの港の名を入れると、針が右へ飛びます。我々にとっては、右が後ろですから。若い者は、みな一度は驚きます」


 私は、その術盤を見た。


 同じ困りごとが、鏡のように立っている。


 こちらが壊れているのではない。向こうが壊れているのでもない。


 二つの向きが同じ行に来ると、どちらの側でも、同じところがねじれる。


「エシャさん」


 私は言った。


「そちらでは、これをどう扱っていますか」


「紙です」


 エシャは短く言った。


「重要な文書は、いまも写字生が紙に書きます。ハノの仕事はそれです。盤は、下書きにしか使いません」


「盤を信じていない、ということですか」


「信じられる盤に、会ったことがないだけです」


 エシャは、わずかに肩を上げた。


「今日も、会えていません」


———

「削除を、試してもいいかしら」


 マリエが言った。


「どうぞ」


 マリエは、針を月砂語の一字の手前に置いて、消しの鍵を押した。


 消えたのは、画面で言えば、針の反対側の字だった。


 マリエの手が止まった。


「……いま、何が消えたの」


「記憶石の並びで、一つ前の字です」


 私は言った。


「消しの鍵は、記憶石の並びで一つ前を消します。それは正しい作りです。ですが、見た目では、針の右側の字が消えました」


「見た目の左を消したつもりだったわ」


「はい」


「わたしが押したのは、左の字を消す鍵よ」


「その鍵は、左の字を消すとは書いてありません」


 私は言った。


「前の字を消す、と書いてあります。王国語では、前は左です。月砂語では、前は右です。同じ鍵が、同じことをして、違う場所が消えます」


 マリエが、紙の角をそろえた。今度は、そろっていない角をそろえた。


「条約文書でそれは困るわ」


「はい」


 私は言った。


「かなり困ります」


———

「もう一つ、見ていただきたいものがあります」


 私は、札面の一文を、指でなぞって選んだ。


 選んだ帯が、青く光る。


 光った帯が、二つに割れた。


 行の左端に一つ、真ん中に一つ。あいだの字が、選ばれていない。


「なんで飛んでるの」


 リゼが言った。


「記憶石の中では、ひとつづきです」


 私は言った。


「見た目では、ふたつに離れます。私が選んだのは、記憶石の中のひとつづきなので、見た目で離れるのは当たり前です」


「当たり前なんだ」


「当たり前です。腹は立ちますが」


 私は、その帯を写しに取った。


 別の紙面へ置いた。


 並びが、変わった。


 見えていた通りには、写らない。


 記憶石の中の順で写るからである。


 ハノが、その紙面を読んだ。


「……こちらのほうが、正しいです」


「正しいのに、さっきの画面とは違います」


「違います」


 ハノは、筆の尻でこめかみを掻いた。


「そちらの画面が、間違っていたので」


———

 もう一つ、ハノが見つけたものがあった。


 第四条の、行の終わりである。


 月砂語の一続きの言葉が、行の端で切れて、次の行の頭へ送られていた。それ自体は、どの言葉でも起きる。


 ただ、送られた先で、切れた後ろ半分が、行の左端に置かれていた。


 月砂語の行は、右端から始まる。


「これは」


 ハノが言った。


「前の行の続きに見えません。別の言葉に見えます」


「読めますか」


「読めます。ですが、二度読みます」


 ハノは、筆を置いた。


「一度目で間違えて、二度目で直します。条文を二度読むのは、写字生の仕事です。港の帳場の者の仕事ではありません」


 AIエージェント:「補足:この文書は、王都の商会三十一、月砂国の商会二十四の帳場で読まれる予定です」


 私は、札面から目を上げた。


「……何人だ」


 AIエージェント:「観測:数えられません。帳場の人数は記録にありません」


 分からないことを分からないと言う点だけは、この機械は信用できる。


———

 マリエが、椅子に座り直した。


 この人は、大事なことを言う前に、一度座り直す。


「ユウさん」


「はい」


「いま、この文書に印を押すとします」


「はい」


「押した印は、何に掛かるの」


 私は、少し考えた。


 考えるふりではない。本当に、そこで詰まった。


「記憶石の中の並びに掛かります」


 私は言った。


「見えている並びではありません」


 マリエが、頷いた。


「じゃあ、こう聞くわ」


 マリエは、札面を指した。


「わたしが読んだ文と、わたしが印を押す文は、同じものかしら」


「……同じものです」


「同じに見えているかしら」


「見えていません」


 私は言った。


「見える文と、署名される文が違って見えると、契約では地獄です」


 マリエは、しばらく黙っていた。


「地獄で済めばいいけれど」


———

 ルドーが、卓を一度だけ叩いた。


「ユウ」


「はい」


「誰が悪い」


 私は、少し迷った。


「盤ではありません」


 私は言った。


「盤は、教わった通りにやっています。月砂語を右から左に並べたのも、数を左から右に置いたのも、空きをまわりに従わせたのも、全部、作法通りです」


「では、誰が悪い」


「誰も悪くないのが、いちばん困ります」


「よろしい」


 ルドーは言った。


「困れ」


———

 午後になって、外務院から人が来た。


 来たというより、走ってきた。


 条約の署名の日取りが、十日後に迫っている。外務院の交渉役が、朝のうちに、第九条の入りの税は一で合意したはずだ、という書き付けを月砂の宿所へ送っていた。


 こちらの部屋で言葉を読んでいたころには、もう届いていた。


 王都の商会は、入りが百につき一だという前提で、荷の手配を始めていた。


 条約の値は四である。それはもう動かない。動かなくても、話は変わる。


 四と一の差は、紙の上では字が一つ違うだけである。港では、荷車で言えば何十台ぶんかの差になる。


 その場で、王都側の写しと、月砂側の写しが並べられた。


 並べて、誰も何も言わなくなった。


 同じである。


 一字も違わない。


 同じ石の中身が、二つの盤で、違う数に見えている。


———

 エシャが、立ち上がった。


 はじめて、立った。


「半年、我々は、そちらの卓に座ってきました」


 エシャは言った。


「言葉を直し、条文を削り、譲るところは譲りました。そのすべてを、我々は紙にも書き、そちらの盤にも入れました」


 外務院の男が、何か言いかけた。


 エシャは、その人を見ていなかった。札面を見ていた。


「そして署名の十日前になって、そちらは、数が違うと言う。言葉には、四と書いてある。そちらの本文にも、我々の綴りにも。それを読まずに、盤に映った数を持ってきた」


 エシャの声は、大きくなかった。


 低いまま、まっすぐ来た。


「これは、我が国を騙そうとしているのか」


 部屋の空気が、止まった。


 マリエが、立ち上がった。


「違います」


 マリエは言った。


「表示の問題です」


 エシャは、マリエを見た。


 それから、ゆっくり首を振った。


「今回は、言葉が残っていたから、表示の問題で済んだのです」


 エシャは言った。


「条約で"表示の問題"と言われて納得する国は、ありません」


 私は、口を開いた。


 開いて、閉じた。


 言い返す材料が、一つも思いつかなかった。


 正しいことを言っている人に、正しいことで返すのは、とても難しい。


「……その通りです」


 私は言った。


———

 エシャとハノが出ていったあと、部屋には紙の束だけが残った。


 角は、まだそろっていた。


 リゼが、椅子の背にもたれた。


「あの人、怒ってたね」


「怒っていた」


「怒って当然だと思う」


「思う」


 私は、表示盤の二列を、もう一度見た。


   一 二 三 四 五 六 七 八 九

   一 二 三 八 七 六 五 四 九


 九つの箱と、二列の番号。それだけである。


 石の中に、嘘は一つもない。


 盤も、嘘をついていない。作法通りに並べただけである。


 人も、嘘をついていない。見えたものを読んだだけである。


 誰も嘘をつかずに、条約の数が半年ずれていた。


 最悪だ。


———

 窓の外が、夕方になっていた。


 雨あがりの空は、色が濃い。塔の影が、いつもより黒く立っている。


 マリエが、卓の端に腰を下ろした。座らずに、腰だけ乗せている。この人がそれをするのは、相当疲れているときである。


「ユウさん」


「はい」


「直せる?」


「直せます」


 私は言った。


「ただし、十日では、全部は無理です」


「どこまでなら」


「読める形にするところまでは、できます」


 私は、表示盤を指した。


「書き直すところと、探すところと、印を押すところは、それぞれ別の難しさがあります。同じ直しでは片づきません」


「順番を」


「明日、決めます」


 マリエは、頷いた。


「わたしが怖いのは、数が違って見えたことではないの」


 マリエは言った。


「言葉は正しかったのに、半年、誰も気づかなかったことよ。あの卓には、王国の外務と、商務と、契約術務と、月砂の書記が座っていたわ。全員が、字を読める人よ」


「はい」


「全員が読んで、全員が違うものを読んでいた」


 マリエは、紙の角をそろえた。


「それが、いちばん怖い」


———

 帰り道、リゼは何も言わなかった。


 石畳が、まだ濡れていた。靴の裏の音が、朝とは違う。


 角を二つ曲がったところで、リゼが言った。


「ねえ」


「なんだ」


「わたしたち、今日、初めて月砂の人に会ったよね」


「会った」


「それで、最初に見せたのが、あの人の言葉が壊れてる画面だったんだね」


 私は、足を止めた。


 止めるつもりはなかったが、止まった。


「……そうだな」


「感じ悪いなあ」


「感じが悪い」


 私は言った。


 リゼは、それきり黙って歩いた。


 家の戸の前で、鍵を出しながら、リゼが言った。


「文字って、並べるだけだと思ってた」


「俺もだ」


「今朝まで?」


「今朝までだ」


 私は言った。


 朝、この人が買い物の覚えを書くのを、ただ見ていた。


 左から右へ、当たり前に進んでいた。


 当たり前のものは、当たり前でなくなるまで、目に映らない。


 映ったころには、たいてい、誰かが怒っている。


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