第230話 右から来た文字
夜のうちに雨が降ったらしい。
窓を開けると、石畳がまだ黒い。初夏の雨は、土ではなく石の匂いがする。
卓の向こうで、リゼが買い物の覚えを書いていた。
豆。油。塩。糸。
左の端から書き始めて、行の終わりで折り返す。折り返して、また左から書く。
当たり前である。
当たり前すぎて、私はそれを、一度も見たことがなかった。見てはいたが、見ていなかった。
「なに」
リゼが、筆を止めた。
「いや」
私は言った。
「字を書くところを、見ていた」
「気持ち悪いね」
「そうか」
「そうだよ」
リゼは、糸のあとに「針」と書き足して、紙を折った。
AIエージェント:「観測:あなたはこれまで、文字が左から右へ進むことを、一度も疑っていません」
「疑う理由がなかった」
AIエージェント:「補足:理由がなかったことと、正しいことは、別です」
私は、パンをちぎる手を止めた。
朝からこういうことを言われる日は、だいたい、昼までに何か起きる。
———
王都術務室の第三卓に、紙の束が積んであった。
積んだのはマリエである。積み方で分かる。角が全部そろっている。
その隣で、ネドが書き付けの帳面を三冊広げていた。所在台帳の続きをやっている。この人は、手が速い。速いことは、この仕事ではだいたい良いことで、たまに悪いことになる。
卓の向こうに、見たことのない外套が二つ並んでいた。
厚い生地で、裾が長い。襟に砂よけの布を巻き込む作りになっている。王都の仕立てではない。
月砂国の書記官だった。
海を渡る便ができたのは去年からである。それまでこの国の人に会うには、翼竜を乗り継いで十日かかった。いまは浮遊船で二日と少しで着く。条約の話が急に進んだのは、たぶん、そのせいだ。
「ユウさん」
マリエが、そろっている角を、もう一度そろえた。
「この条約文書、見た目通りに読めないの」
リゼが、隣の卓から顔を上げた。
「見た目通りに読めない文書って何?」
「文字の世界では、たまにあります」
私は言った。
リゼは、それで納得した顔をしなかった。当然である。私も、まだ納得していない。
———
「紹介します」
マリエが、卓の向こうへ手を向けた。
「月砂国外務の書記官、エシャさん。こちらは写字の担当のハノさん」
年上のほうが、立たずに頭を下げた。頭の下げ方に、慣れた省き方がある。何百回も同じ礼をしてきた人の下げ方である。
「エシャです」
声が低い。王国語は、少し硬いが正確だった。
「半年、この文書を作りました」
「ハノです」
若いほうが、こちらは深く頭を下げた。手に、細い筆を二本持っている。持ったまま礼をしたので、筆が外套に当たった。
エシャが、卓の上の術盤を指した。
「そして、そちらの盤で見ると、この文書は、我々の言葉ではありません」
言い方に、責める色はなかった。事実を読み上げる声だった。
それが、いちばん怖い言い方である。
———
術盤の札面を、こちらへ向けてもらった。
条約の第一条が出ている。
上半分は王国語だった。読める。通商の目的と、適用の範囲。硬いが、まともな文章である。
下半分が、月砂語だった。
読めないのは当たり前である。私は月砂語を知らない。
だが、読めなさの手触りが、妙だった。
文字は並んでいる。整った字形で、きれいに並んでいる。行の長さもそろっている。
なのに、ハノの顔が、さっきから少しずつ曇っている。
「ハノさん」
私は言った。
「これは、どう見えていますか」
ハノは、筆の尻で行の端をなぞった。
「まず、そろっている側が、逆です」
「そろっている側」
「はい」
ハノは、左の端を指した。
「この文書は、行の頭が左でそろっています。我々の文は、右からそろいます。右の端に頭が来て、左へ流れて、余りが左に出ます」
言われてみれば、右の端が、行ごとにばらばらだった。
王国語の紙なら、それは何でもない。左でそろっていれば、それで整っている。
「もう一つ、あります」
ハノは、一行の右の端を指した。
「文の終わりの印が、文の頭に付いています」
「……終わりの印が」
「はい。この丸は、文の終わりに打つものです。それが、頭の側に来ています」
ハノは、いくつかの行を順に指した。どの行も同じだった。
全部の文が、終わりを先頭に付けたまま並んでいる。
「読めないのではありません。読めます。読めてしまいます」
ハノは言った。
「一行なら、直して読みます。二行でも直します。……この文書は、条文が二百あります」
私は、そこで背中が冷えた。
読めないほうが、まだよかった。読めないものは、誰かが必ず騒ぐ。
———
「ちょっと待って」
リゼが、卓を回り込んできた。
「右から左に読むだけなら、反対に並べればいいんじゃないの?」
ハノが、困った顔をした。エシャは、何も言わなかった。
「それで済むなら、みんな幸せでした」
私は言った。
リゼが、こちらを見た。
「済まないんだ」
私は、リゼを見た。
「済まない」
私は、表示盤を引き寄せた。
「ここからは、少し長くなります」
エシャが、はじめて椅子の背から体を離した。
「長い話は、歓迎します」
エシャは言った。
「短い話を、半年、聞かされてきたので」
———
表示盤に、四角を九つ書いた。
□□□□□□□□□
その下に、番号を振った。
一 二 三 四 五 六 七 八 九
「文字は、記憶石の中では、一列に並んでいます」
私は言った。
「書いた順に、一、二、三と並びます。これは、どの国の言葉でも同じです。石の中に、左も右もありません」
ハノが、頷いた。
「ここまでは、揉めません。揉めるのは、ここからです」
私は、四番から八番までを丸で囲った。
「一から三が王国語。四から八が月砂語。九がまた王国語。こういう文があるとします」
マリエが、紙を一枚めくった。
「条約文は、だいたいそうなっているわ」
「はい」
私は、表示盤の下の段に、もう一列書いた。
一 二 三 八 七 六 五 四 九
「これが、盤の上に見える順です」
私は、二つの列のあいだに、線を一本引いた。
「記憶石の中では、文字は一列に並んでいます。でも盤の上では、読む向きに合わせて、部分ごとに並び替えられます」
リゼが、二つの列を見比べた。
「……真ん中だけ、逆」
「逆です」
「なんで逆にするの?」
「そう見えるのが、正しいからです」
私は、四番から八番の下に線を引いた。
「月砂語は右から左へ進みます。ですから、この五文字は、右の端から始めて左へ並べないと、読めません。盤は、正しくやっています」
ハノが、小さく息を吐いた。
「そこは、合っています」
「はい」
私は言った。
「合っているのに、困るんです」
———
私は、表示盤の二列を指でなぞった。
「上の列が、書かれた順。下の列が、見える順」
そして、下の列の番号を、左から順に読み上げた。
「一、二、三、八、七、六、五、四、九」
リゼが、指を折りながら聞いていた。
「増えて、減って、また増えた」
「そこです」
私は言った。
「今日いちばん大事なのは、そこです」
私は、表示盤に短く書いた。
番号と場所が、いっしょに増えなくなる
「王国語だけの文なら、右へ行くほど番号が増えます。ずっと増えます。だから、右の隣は次の字で、左の隣は前の字です。誰も疑いません」
「疑わないね」
「月砂語が混じると、途中で減ります。減ったあと、また増えます」
私は、指を二列のあいだで往復させた。
「右の隣が次の字だとは、もう言えません。選んだ範囲が、記憶石の中でひとつづきだとも言えません。消そうとした字が、指したところにあるとも言えません」
リゼが、ゆっくり言った。
「それ、ずるくない?」
「文字は昔からずるいです」
卓の向こうで、エシャの肩が、わずかに動いた。笑ったのだと思う。顔は動いていなかった。
———
廊下から、足音がした。
迷いのない足音である。この人は、入る部屋を間違えたことがない。
「ルドー先生」
リゼが立った。
ルドーは、外套を椅子の背にかけた。
「古い写本のことで呼ばれた」
「はい。月砂語の写しが、王都にあるかどうかを」
「ある。三冊。大図書館の奥だ」
ルドーは、卓の上を一度だけ見た。表示盤の二列に、目が止まった。
「これは」
「書かれた順と、見える順です」
ルドーは、しばらく黙っていた。
「書かれた順番と、見える順番が違うのか」
「違います」
「ふむ」
ルドーは、椅子を引いて座った。
「授業なら、そこで半分終わっている」
「終わっていません」
「そうだろうな」
ルドーは、月砂国の二人に短く会釈をした。
「現場こそ授業だ。続けろ」
———
「次は、数の話をします」
私は、表示盤を新しくした。
条約の第九条の付表を、札面に出してもらった。
港ごとに、二つの数が並んでいる。入りの税と、出の税である。百につきいくつ、という形で書いてある。
港の名は月砂語。数は、数字だった。
数の字のあとに、月砂語の一続きが添えてある。ハノに訊くと、同じ数を言葉で綴ったものだという。
「エシャさん。ひとつ伺います」
私は言った。
「月砂国では、数はどちら向きに書きますか」
エシャは、少し意外そうな顔をした。
「左からです」
「文字は右から左なのに、数だけは左からですか」
「そうです」
エシャは、卓の上に指で書いた。
「大きい位を先に書きます。千の位、百の位、十の位。左から順に」
私は、ハノを見た。ハノが頷いた。
「王国も、まったく同じです」
私は言った。
「文字の向きは、こんなに違うのに」
エシャが、はじめて口の端を動かした。
「数は、商人が広めましたから」
「……なるほど」
「字で書いた数のあとに、言葉でもう一度綴るのも、商人の作法です」
エシャは、付表の月砂語の一続きを指した。
「字の数は、一つ足せば桁が変わります。言葉は、足しにくい。綴りの終わりには"これきり"と書きます。そのあとに何も足させないためです」
「王国でも、手形は字と言葉の両方で書きます」
マリエが言った。
「食い違ったら、言葉のほうを取る決まりよ」
私は、表示盤に書いた。
文字の向きは国ごとに違う
数の向きは、どの国も同じ
人類は、思想では何百年も争うのに、帳面の付け方だけは、いつのまにか揃えている。揃えたほうが儲かるからである。
商人のほうが、学者より先に世界を統一していた。しかも、疑い深さまで揃えていた。
———
「ここが、今日のいちばん厄介なところです」
私は言った。
「月砂語の文の中に、数が入ります。文は右から左へ進む。数は左から右へ進む。一つの行に、向きが二つあります」
リゼが、眉を寄せた。
「行の中で、喧嘩してるんだ」
「喧嘩はしていません。それぞれ、自分の向きを持っているだけです」
私は、表示盤に足した。
数は数で、自分の向きを持っている
囲みや区切りは、周りに引きずられる
「数は強いです。まわりが何語だろうと、左から右へ並びます。これは変わりません」
「囲みは」
「弱いです」
私は言った。
「囲みの印も、区切りの印も、それ自体には向きがありません。ですから、まわりの字の向きに引きずられます。王国語のあいだに置けば王国語の向きに、月砂語のあいだに置けば月砂語の向きになります」
リゼが、札面をのぞき込んだ。
「文字が、まわりの様子をうかがってるの?」
「うかがっています」
私は言った。
「術盤が人の様子をうかがおうとすると、だいたい厄介になります」
ネドが、書き付けの手を止めて、その行を二重線で囲った。
———
付表の行を、拡げて出してもらった。
トゥラ港の行である。
月砂語の名のあとに、数が二つ、あいだを空けて並んでいる。
一 四
「マリエさん」
私は言った。
「これは、どう読みますか」
「入りが百につき一。出が百につき四」
マリエは即答した。
「先月、外務院の写しからそのまま書き取ったわ」
エシャが、札面を見た。
それから、もう一度見た。
外套の裾が、ほんの少し動いた。
「……違います」
エシャは言った。
「入りが四です。出が一です」
部屋が、静かになった。
マリエが、紙をめくる手を止めた。
「半年、うちは、入りが一だと思っていたわ」
「我々は、四だと申し上げてきました」
「文書には、一と書いてあります」
「書いていません」
エシャの声が、低くなった。
「我々が送った写しに、一と書いた覚えはありません」
ハノが、札面に顔を寄せた。
数の字ではなく、そのあとの月砂語の一続きを、指でたどった。右から左へ。
「言葉では」
ハノは言った。
「入りが四つ。出が一つ。これきり、です」
マリエが、紙の束をめくった。王国語の本文の、第九条である。付表の上に、港ごとの税が、言葉で書いてある。
マリエの指が、止まった。
「……トゥラ港に入る王国の荷は、百につき四つ」
マリエは、声に出して読んだ。
「言葉では、四よ」
誰も、すぐには何も言わなかった。
条約の値は、最初から正しかった。月砂語の綴りにも、王国語の本文にも、四と書いてあった。食い違っていたのは、王都の盤に映った、数の字の並びだけである。
「言葉を読めば、分かったのね」
マリエは、紙の角をそろえなかった。
「半年、誰も言葉を読まなかった。付表は、数の列だけ拾うための表だもの。外務院も、商会も、わたしも、数の列しか見ていなかったわ」
助かった、という顔ではなかった。
この人は、助かったときほど、怖い顔をする。
———
私は、席を立った。
立ったのは、考えるためである。座っていると、考えより先に口が動く。
「ハノさん」
「はい」
「あなたの国の盤では、この行はどう見えますか」
ハノが、自分の鞄から小さな術盤を出した。薄い石を二枚重ねた形で、王都のものより角が丸い。
同じ文書の写しを開いた。
同じ行が、出た。
四 一
私は、その二つを並べて見た。
同じ文書である。同じ写しである。石の中身は、一字も違わない。
王都の盤では「一 四」。
月砂の盤では「四 一」。
最悪だ。
———
「どうしてそうなるの」
リゼが言った。
「数と数のあいだに、空きがあります」
私は言った。
「空きは、字ではありません。向きを持っていません。ですから、まわりに従います。まわりは月砂語です。月砂語は右から左です」
私は、表示盤に四角を三つ書いた。
[四] 空き [一]
「数そのものは、中身が左から右です。これは崩れません。崩れるのは、数と数の並び順のほうです」
私は、矢印を右から左へ引いた。
「空きが右から左を向いているので、二つの数は、束として右から左へ並べられます。右に四、左に一」
「じゃあ、左から読むと」
「一、四です」
リゼが、口を開けたまま、しばらく黙った。
「……数はひっくり返ってないのに」
「ひっくり返っていません」
「並び順だけ、ひっくり返った」
「はい」
私は言った。
「一つ一つは正しくて、順番だけが違う。いちばん見つけにくい壊れ方です」
ルドーが、卓の端から言った。
「四が一に化けたなら、誰かが気づく」
「気づきます」
「化けていないから、気づかん」
「気づきませんでした」
私は言った。
「半年、気づきませんでした」
———
「待って」
リゼが、札面に手を伸ばした。
「これ、書き直せるの?」
「書き直せます。編める文書ですから」
リゼは、札面の月砂語の行に、挿し針を置いた。
文字のあいだで光る細い針である。ここに字が入る、という目印だけの、ささやかな道具だった。
リゼが、右へ一つ動かした。
針が、左へ飛んだ。
「……え」
もう一度、右を押した。
針が、また左へ動いた。
「右へ動かしたのに、左へ行った!」
リゼが、こちらを見た。目が丸い。
「記憶石の並びでは、右へ進んでいます」
私は言った。
「見た目では、左へ行きます」
「じゃあ私は、どっちへ進めたの?」
「そこが問題です」
リゼは、針をもう二つ動かして、やめた。
「気持ち悪い」
「気持ち悪いです」
「あなた、平気そうな顔してる」
「平気ではありません」
私は言った。
「顔に出す余裕がないだけです」
———
ハノが、遠慮がちに手を挙げた。
「あの。我々の盤でも、同じことが起きます」
私は、顔を上げた。
「王国語が混ざったときです」
ハノは、自分の術盤を回してきた。
「我々の文の中に、そちらの港の名を入れると、針が右へ飛びます。我々にとっては、右が後ろですから。若い者は、みな一度は驚きます」
私は、その術盤を見た。
同じ困りごとが、鏡のように立っている。
こちらが壊れているのではない。向こうが壊れているのでもない。
二つの向きが同じ行に来ると、どちらの側でも、同じところがねじれる。
「エシャさん」
私は言った。
「そちらでは、これをどう扱っていますか」
「紙です」
エシャは短く言った。
「重要な文書は、いまも写字生が紙に書きます。ハノの仕事はそれです。盤は、下書きにしか使いません」
「盤を信じていない、ということですか」
「信じられる盤に、会ったことがないだけです」
エシャは、わずかに肩を上げた。
「今日も、会えていません」
———
「削除を、試してもいいかしら」
マリエが言った。
「どうぞ」
マリエは、針を月砂語の一字の手前に置いて、消しの鍵を押した。
消えたのは、画面で言えば、針の反対側の字だった。
マリエの手が止まった。
「……いま、何が消えたの」
「記憶石の並びで、一つ前の字です」
私は言った。
「消しの鍵は、記憶石の並びで一つ前を消します。それは正しい作りです。ですが、見た目では、針の右側の字が消えました」
「見た目の左を消したつもりだったわ」
「はい」
「わたしが押したのは、左の字を消す鍵よ」
「その鍵は、左の字を消すとは書いてありません」
私は言った。
「前の字を消す、と書いてあります。王国語では、前は左です。月砂語では、前は右です。同じ鍵が、同じことをして、違う場所が消えます」
マリエが、紙の角をそろえた。今度は、そろっていない角をそろえた。
「条約文書でそれは困るわ」
「はい」
私は言った。
「かなり困ります」
———
「もう一つ、見ていただきたいものがあります」
私は、札面の一文を、指でなぞって選んだ。
選んだ帯が、青く光る。
光った帯が、二つに割れた。
行の左端に一つ、真ん中に一つ。あいだの字が、選ばれていない。
「なんで飛んでるの」
リゼが言った。
「記憶石の中では、ひとつづきです」
私は言った。
「見た目では、ふたつに離れます。私が選んだのは、記憶石の中のひとつづきなので、見た目で離れるのは当たり前です」
「当たり前なんだ」
「当たり前です。腹は立ちますが」
私は、その帯を写しに取った。
別の紙面へ置いた。
並びが、変わった。
見えていた通りには、写らない。
記憶石の中の順で写るからである。
ハノが、その紙面を読んだ。
「……こちらのほうが、正しいです」
「正しいのに、さっきの画面とは違います」
「違います」
ハノは、筆の尻でこめかみを掻いた。
「そちらの画面が、間違っていたので」
———
もう一つ、ハノが見つけたものがあった。
第四条の、行の終わりである。
月砂語の一続きの言葉が、行の端で切れて、次の行の頭へ送られていた。それ自体は、どの言葉でも起きる。
ただ、送られた先で、切れた後ろ半分が、行の左端に置かれていた。
月砂語の行は、右端から始まる。
「これは」
ハノが言った。
「前の行の続きに見えません。別の言葉に見えます」
「読めますか」
「読めます。ですが、二度読みます」
ハノは、筆を置いた。
「一度目で間違えて、二度目で直します。条文を二度読むのは、写字生の仕事です。港の帳場の者の仕事ではありません」
AIエージェント:「補足:この文書は、王都の商会三十一、月砂国の商会二十四の帳場で読まれる予定です」
私は、札面から目を上げた。
「……何人だ」
AIエージェント:「観測:数えられません。帳場の人数は記録にありません」
分からないことを分からないと言う点だけは、この機械は信用できる。
———
マリエが、椅子に座り直した。
この人は、大事なことを言う前に、一度座り直す。
「ユウさん」
「はい」
「いま、この文書に印を押すとします」
「はい」
「押した印は、何に掛かるの」
私は、少し考えた。
考えるふりではない。本当に、そこで詰まった。
「記憶石の中の並びに掛かります」
私は言った。
「見えている並びではありません」
マリエが、頷いた。
「じゃあ、こう聞くわ」
マリエは、札面を指した。
「わたしが読んだ文と、わたしが印を押す文は、同じものかしら」
「……同じものです」
「同じに見えているかしら」
「見えていません」
私は言った。
「見える文と、署名される文が違って見えると、契約では地獄です」
マリエは、しばらく黙っていた。
「地獄で済めばいいけれど」
———
ルドーが、卓を一度だけ叩いた。
「ユウ」
「はい」
「誰が悪い」
私は、少し迷った。
「盤ではありません」
私は言った。
「盤は、教わった通りにやっています。月砂語を右から左に並べたのも、数を左から右に置いたのも、空きをまわりに従わせたのも、全部、作法通りです」
「では、誰が悪い」
「誰も悪くないのが、いちばん困ります」
「よろしい」
ルドーは言った。
「困れ」
———
午後になって、外務院から人が来た。
来たというより、走ってきた。
条約の署名の日取りが、十日後に迫っている。外務院の交渉役が、朝のうちに、第九条の入りの税は一で合意したはずだ、という書き付けを月砂の宿所へ送っていた。
こちらの部屋で言葉を読んでいたころには、もう届いていた。
王都の商会は、入りが百につき一だという前提で、荷の手配を始めていた。
条約の値は四である。それはもう動かない。動かなくても、話は変わる。
四と一の差は、紙の上では字が一つ違うだけである。港では、荷車で言えば何十台ぶんかの差になる。
その場で、王都側の写しと、月砂側の写しが並べられた。
並べて、誰も何も言わなくなった。
同じである。
一字も違わない。
同じ石の中身が、二つの盤で、違う数に見えている。
———
エシャが、立ち上がった。
はじめて、立った。
「半年、我々は、そちらの卓に座ってきました」
エシャは言った。
「言葉を直し、条文を削り、譲るところは譲りました。そのすべてを、我々は紙にも書き、そちらの盤にも入れました」
外務院の男が、何か言いかけた。
エシャは、その人を見ていなかった。札面を見ていた。
「そして署名の十日前になって、そちらは、数が違うと言う。言葉には、四と書いてある。そちらの本文にも、我々の綴りにも。それを読まずに、盤に映った数を持ってきた」
エシャの声は、大きくなかった。
低いまま、まっすぐ来た。
「これは、我が国を騙そうとしているのか」
部屋の空気が、止まった。
マリエが、立ち上がった。
「違います」
マリエは言った。
「表示の問題です」
エシャは、マリエを見た。
それから、ゆっくり首を振った。
「今回は、言葉が残っていたから、表示の問題で済んだのです」
エシャは言った。
「条約で"表示の問題"と言われて納得する国は、ありません」
私は、口を開いた。
開いて、閉じた。
言い返す材料が、一つも思いつかなかった。
正しいことを言っている人に、正しいことで返すのは、とても難しい。
「……その通りです」
私は言った。
———
エシャとハノが出ていったあと、部屋には紙の束だけが残った。
角は、まだそろっていた。
リゼが、椅子の背にもたれた。
「あの人、怒ってたね」
「怒っていた」
「怒って当然だと思う」
「思う」
私は、表示盤の二列を、もう一度見た。
一 二 三 四 五 六 七 八 九
一 二 三 八 七 六 五 四 九
九つの箱と、二列の番号。それだけである。
石の中に、嘘は一つもない。
盤も、嘘をついていない。作法通りに並べただけである。
人も、嘘をついていない。見えたものを読んだだけである。
誰も嘘をつかずに、条約の数が半年ずれていた。
最悪だ。
———
窓の外が、夕方になっていた。
雨あがりの空は、色が濃い。塔の影が、いつもより黒く立っている。
マリエが、卓の端に腰を下ろした。座らずに、腰だけ乗せている。この人がそれをするのは、相当疲れているときである。
「ユウさん」
「はい」
「直せる?」
「直せます」
私は言った。
「ただし、十日では、全部は無理です」
「どこまでなら」
「読める形にするところまでは、できます」
私は、表示盤を指した。
「書き直すところと、探すところと、印を押すところは、それぞれ別の難しさがあります。同じ直しでは片づきません」
「順番を」
「明日、決めます」
マリエは、頷いた。
「わたしが怖いのは、数が違って見えたことではないの」
マリエは言った。
「言葉は正しかったのに、半年、誰も気づかなかったことよ。あの卓には、王国の外務と、商務と、契約術務と、月砂の書記が座っていたわ。全員が、字を読める人よ」
「はい」
「全員が読んで、全員が違うものを読んでいた」
マリエは、紙の角をそろえた。
「それが、いちばん怖い」
———
帰り道、リゼは何も言わなかった。
石畳が、まだ濡れていた。靴の裏の音が、朝とは違う。
角を二つ曲がったところで、リゼが言った。
「ねえ」
「なんだ」
「わたしたち、今日、初めて月砂の人に会ったよね」
「会った」
「それで、最初に見せたのが、あの人の言葉が壊れてる画面だったんだね」
私は、足を止めた。
止めるつもりはなかったが、止まった。
「……そうだな」
「感じ悪いなあ」
「感じが悪い」
私は言った。
リゼは、それきり黙って歩いた。
家の戸の前で、鍵を出しながら、リゼが言った。
「文字って、並べるだけだと思ってた」
「俺もだ」
「今朝まで?」
「今朝までだ」
私は言った。
朝、この人が買い物の覚えを書くのを、ただ見ていた。
左から右へ、当たり前に進んでいた。
当たり前のものは、当たり前でなくなるまで、目に映らない。
映ったころには、たいてい、誰かが怒っている。




