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魔法世界は運用で回る  作者: 月の位相
夫婦編

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229/246

第229話 取り出すと高い記憶

 王都記録監査院は、中央区の外れにある。


 石造りの、窓の高い建物だった。中へ入ると、紙の匂いがする。古い紙ではない。新しい紙と、墨と、綴じ紐の匂いである。この建物では、毎日、誰かが何かを綴じている。


 案内された部屋は、三階の角だった。


 卓の上に、紙の束が四つ置いてある。四つとも、角がぴたりと揃っていた。


「朝からすまない」


 オーレンさんが言った。


 五十代の、背の高い人である。話す前に、束の角をもう一度そろえた。もう揃っているのに、そろえた。この人はいつもそうする。


「請求が来た」


 オーレンさんは、束の上から一枚を抜いて、こちらへ向けた。


 私は受け取った。


 受け取って、下の方の数を見た。


「……これは」


「全部で、銀貨千八百枚だ」


 マリエさんが、向かいの席で筆を置いた。リゼが、その隣で紙を覗き込んで、目を丸くしている。


「先月まで、この記録の保管料は、月に銀貨十二枚でした」


 マリエさんが言った。


「十二枚が、千八百枚」


 リゼが繰り返した。


「百五十倍」


「置いていたぶんではありません」


 マリエさんは言った。


「出したぶんです」


———

「順に聞かせてください」


 私は紙を卓に置いた。


「何を、どこから出したんですか」


「印借り控えだ」


 オーレンさんが答えた。


「基幹記録庫を、誰が、いつ、どの印で開いたか。その控えを、十年ぶん」


「十年ぶん」


「王城から、指図が来た」


 オーレンさんは、二つ目の束を開いた。


「五年前に一件、記録が外へ出た疑いのある件がある。あれを、十年遡って検め直せ、と。期限は三月」


「量は」


「控えの全部だ。日に何万件も出るものだから、十年となると」


 オーレンさんは、そこで言葉を切った。


「……正直に言うと、量の見当がついていなかった」


 私は頷いた。


 この人は、悪意も怠けもない。ただ、量を数える前に、検めを始めてしまった。


「控えは、どこに置いてありましたか」


「深雪倉です」


 答えたのは、オーレンさんではなかった。


 卓の端に、若い検め官が座っていた。二十代の半ばくらいに見える。ずっと黙っていた人である。


「キリと申します」


 その人は言った。


「深雪倉へ入れる決裁をしたのは私ではありませんが、出したのは、私です」


———

「深雪倉は、ご存じですね」


 私は、卓に置いてあった表示盤を借りた。


 縦に線を引いて、段を三つ描く。


   手元の記憶板

   雲域の記憶庫

   深雪倉


「上ほど、近い。近いから、すぐ読めます。そのかわり、置いておく料金が高い」


 私は、いちばん下の段を指した。


「深雪倉は、いちばん下です。置くのがいちばん安い。十年ぶんの控えを、月に銀貨十二枚で預かってくれる。安いです。安すぎるくらい安い」


「そこは、こちらも分かっていた」


 オーレンさんが言った。


「決裁の紙に、そう書いた。保管料が安いので、こちらへ、と」


「保管料が安い、という説明だけ見て契約したのね」


 マリエさんが言った。


 責める言い方ではなかった。確かめる言い方だった。


「見た」


 オーレンさんは、束の角をそろえた。


「取り出す側は、見ていなかった」


 最悪だ。


 深雪倉が安いと講堂で言ったのは、私である。


———

「深雪倉は、棚ではありません」


 私は表示盤の下の段を、丸で囲った。


「物を置く棚だと思うと、間違えます。あれは、物を眠らせる倉です」


「眠らせる」


 リゼが言った。


「はい。預けたものを、深いところへ沈めて、動かさないようにします。動かさないから安い。術勢もほとんど食わない。そのかわり、欲しくなったときは、まず掘り出さないといけません」


「掘り出すのに、金がかかるの」


「かかります。しかも、起こすときにかかる金の方が、寝かせているあいだの金より、ずっと大きい」


 リゼが、少し考えてから言った。


「寝かせるのは安いけど、起こすのが高いんだ」


「そうです」


 私は言った。


「かなり嫌な寝起きです」


 オーレンさんが、初めて、少しだけ笑った。


 笑ってから、すぐ真顔に戻った。この人は、笑ったことを自分で叱る癖がある。


———

「内訳を、見ましょう」


 私は請求の紙を表へ返した。


 紙には、六つの行が並んでいた。


   掘り出し賃    銀貨 九百枚

   急ぎ賃      銀貨 四百枚

   運び賃      銀貨 二百六十枚

   仮置き料     銀貨 百四十枚

   読み料      銀貨 六十枚

   術台の借り賃   銀貨 四十枚


「六つ、あります」


 私は言った。


「深雪倉の請求は、たいていこの形です。掘り出すこと自体の料金は、上の二行だけです。下の四行は、掘り出したあとに、別の理由でかかります。ここを読み落とす人が多い」


「多いのか」


「多いです。上の二行だけなら、千三百枚でした。下の四行で、五百枚増えています」


 キリさんが、紙を見つめていた。


「二つ目の、急ぎ賃というのは」


 マリエさんが訊いた。


「掘り出す速さです」


 私は言った。


「深雪倉は、ゆっくり掘れば安い。急いで掘れば高い。この請求では、七日で全部出しています」


「七日」


 マリエさんが、こちらを見た。


「期限は、三月でしたね」


「三月です」


 オーレンさんが言った。


 部屋が、少し静かになった。


———

「なぜ、七日で出したんですか」


 私は、キリさんに訊いた。


 責める気はなかった。理由が要る。


 キリさんは、少し背筋を伸ばした。


「検めは、抜き取りではなく、全部を並べて見るのが筋だと教わりました」


「はい」


「一部だけ出して検めると、出していない年に何かあったときに、見落としになります。ですから、先に全部出して、揃えてから検めようと」


 私は、少し黙った。


 それは、筋が通っている。通りすぎるくらい通っている。


「その考え方は、間違っていません」


 私は言った。


「検めは、抜き取りにすると、抜かなかったところの言い訳が立たなくなります。全部並べる、は正しいです」


「では」


「間違っていたのは、出す順と、出す速さです」


 私は表示盤に書いた。


   全部出す      正しい

   一度に全部出す   高い

   急いで全部出す   もっと高い


「三月あるなら、年ごとに十回に分けて、ゆっくり掘り出しても、終わっていました。急ぎ賃の四百枚は、その場合かかりません」


「四百枚」


 オーレンさんが言った。


「七日で終わらせた代わりに、四百枚か」


「はい。そして、七日で終わらせても、検めは三月かかります」


 私は言った。


「先に全部揃えた方が気持ちはいいです。ですが、検めの速さは、揃った量では決まりません。人が読む速さで決まります」


 キリさんが、何か言いかけて、やめた。


 やめてから、小さく言った。


「……揃っていないと、落ち着かなくて」


「分かります」


 私は言った。


 実際、分かる。揃っていないものを前にして仕事を始めるのは、気持ちが悪い。その気持ちの悪さに、銀貨四百枚の値が付いていただけである。


———

「三つ目から六つ目も、同じ形です」


 私は、残りの行を指した。


「運び賃は、雲域から王都まで運んだぶん。仮置き料は、掘り出したものを置いておく場所の代。読み料は、読んだぶん。術台の借り賃は、調べるために借りた術台の代です」


「全部、量で決まるのね」


 マリエさんが言った。


「全部、量です」


 私は言った。


「そして、十年ぶんを一度に出したので、全部の行が、十年ぶんの量で計算されています」


「一つの判断が、六か所に効いたのね」


「効きました」


 リゼが、紙を横から見て言った。


「置いてあるあいだは、一行しかないのに」


 私は、その言い方を少し気に入った。


「そうです。置いてあるあいだは、保管料の一行だけです。出した月だけ、行が六つに増えます」


———

「値段の表は、出ていなかったのか」


 オーレンさんが言った。


「出ていました」


 マリエさんが、自分の巻物を開いた。


「恒河沙極社の札面に、最初から出ています。わたし、昨日読みました。読みにくくはありますが、隠してはいません」


「隠していないのか」


「隠していません。掘り出し賃も、急ぎ賃も、刻ごとの値まで書いてあります」


 マリエさんは巻物を閉じた。


「これは、相手が悪いという話にはできないわ。読まなかったのは、こちら」


 オーレンさんは、束の角をそろえた。


「私が決裁した」


 この人は、いつもこう言う。


 この二年で三度、市民の前に出て、同じ言い方をした人である。


「ただし」


 マリエさんが続けた。


「読まなかったこちらが悪い、で終わらせると、次も同じことが起きるわね。読める形にしていなかった側の話も、少し残しておく」


———

「直し方を、四つ出します」


 私は表示盤を消した。


   一、掘り出す前に、額を出させる

   二、請求に上限を置き、超えたら止まる

   三、戻し稽古の紙に、額の欄を足す

   四、入れるときに、出す都合で分ける


「一つ目から」


 私は言った。


「恒河沙極社の側に、掘り出しの申し出を受けたら、先に額を返す仕組みがあります。頼めば出ます。頼まなければ出ません」


「頼めば出るのか」


「出ます」


「なぜ、黙っているんだ」


「聞かれていないからです」


 私は言った。


「向こうから見ると、値段の表は出してあります。こちらから見ると、表は読んでいないし、額も聞いていない。どちらも嘘はついていません」


 マリエさんが、書き取りながら言った。


「起こす前に見積もりを出す仕組みが必要ね」


「はい」


「それは、こちらの決まりにできるわ。掘り出しの申し出は、額の返事を紙にしてから、という一行を入れる」


———

「二つ目は、上限です」


 私は言った。


「決めた額を超えたら、掘り出しが途中で止まる。止まると仕事が遅れます。遅れますが、驚くよりはいい」


「途中で止まると、検めが半端になるのでは」


 キリさんが言った。


「なります」


 私は言った。


「ですから、上限は罰ではなく、知らせです。止まったときに、誰が、いくらまでなら出していいと決めるのか。その人を、先に決めておいてください」


「私だ」


 オーレンさんが即答した。


「それなら、止まって構わない」


———

「三つ目が、いちばん言いたいところです」


 私は、表示盤の三行目を丸で囲った。


「控えを取ったら、戻せるかどうかを試す。あれを、戻し稽古と呼んでいます」


「やっている」


 オーレンさんが言った。


「年に二度。手順と、かかる刻を測っている」


「刻は、測っていますか」


「測っている」


「額は」


 オーレンさんが、止まった。


「……測っていない」


 私は頷いた。


「戻し稽古の紙には、だいたい、何刻かかったかが書いてあります。いくらかかったかは、書いていないことが多い。稽古のときは、量が少ないので、額が小さく出ます。小さく出るので、誰も見ない」


「本番では、量が違うな」


「本番の量でかけ算をしてください」


 私は言った。


「稽古で一年ぶんを出して銀貨十八枚なら、十年ぶんなら百八十枚。急げばその倍。それを、紙に書いておく。それだけで、今回の請求は誰かの目に見えていました」


 キリさんが、速く書き取っていた。


 書き取ってから、顔を上げた。


「戻せることは、確かめていたんです」


「確かめていました」


 私は言った。


「戻せるかは、確かめてありました。いくらで戻せるかは、誰も確かめていなかった」


———

「四つ目」


 私は最後の行を指した。


「入れるときに、出す都合で分けてください」


「どういうことだ」


「十年ぶんの控えを、全部まとめて深雪倉へ入れています。ですが、十年ぶんが同じように要るわけではないですよね」


 オーレンさんが、少し考えた。


「……直近の二年は、よく引く」


「引きますよね。二年より前は」


「めったに引かん。今回のような指図が来たときだけだ」


「では、直近の二年は、深雪倉に置かない方が安いです」


 私は表示盤に二段描いた。


   直近二年   雲域の記憶庫へ  置くのは高いが、出すのはただ同然

   それ以前   深雪倉へ     置くのは安いが、出すのは高い


「保管料だけを見ると、全部を下へ入れた方が安く見えます。年に一度でも上から引くものがあるなら、上に置いた方が、合計では安い」


「出口の値踏みね」


 マリエさんが言った。


「幻景機関のときにやったのと、同じ話だわ」


「同じです」


 私は言った。


「あのときは、商会を選ぶ前に、抜けるときの費えを数えました。今回は、倉を選ぶ前に、出すときの費えを数えます。入るときの値がいちばん安く見えるのも、同じです」


「計算しないと分からんな」


「計算してください」


 私は言った。


「深雪倉へ入れるかどうかは、置くときの都合ではなく、出すときの都合で決めます。これが、いちばん効きます」


 オーレンさんは、束の角をそろえた。


 そろえてから、こちらを見た。


「今回の千八百枚は、どうにかなるか」


「なりません」


 私は言った。


「もう掘り出してしまったので、払うしかありません」


「……そうか」


「次からは、掘り出す前に額が見えます」


 私は言った。


「それだけか、と思われるかもしれません。ですが、見えている額は、誰かが止められます。見えていない額は、誰にも止められません」


 オーレンさんは、しばらく紙を見ていた。


「止める者の名を、書いておこう」


「お願いします」


———

 午後、王都商務院へ回った。


 マリエさんが、朝の話をしている途中で、こんな話もあります、と言ったからである。


 商務院の三階には、整札庫を扱う部屋がある。


 入った瞬間、部屋の空気が、監査院とはまるで違った。


 紙が少ない。卓の上に術盤が四枚並んでいて、そのうちの二枚が、ずっと何かを数えている。数えている音はしないが、盤面の端で、数だけが動き続けていた。


 部屋の真ん中に、若い技師が立っていた。


 立ったまま、壁の請求の紙を見ていた。


「ヒバです」


 その人は、こちらを見ずに名乗った。


 それから、壁の紙を指した。


「先月が、銀貨で四百二十枚でした」


 指が、隣の紙へ移った。


「今月が、八百三十枚です」


「倍ね」


 マリエさんが言った。


「倍です」


 ヒバさんは、そこでようやくこちらを向いた。


「何も増やしていません。台帳の中身は、先月と同じです」


———

「整札庫の中身を、教えてください」


 私は言った。


「王都の商いの届け出です」


 ヒバさんは言った。


「毎日、市場と商会から届け出が来ます。それを日ごとの束にして、整札庫へ積みます。十年ぶんあります」


「集計は」


「毎日します。月の頭は、過去十年ぶんを引き当てます。年ごとの並びを出すので」


「読むだけですか」


「読むだけです。書き換えはしません」


 私は表示盤を借りた。


「では、長眠の話をします」


 私は書いた。


   九十日、触らなかった束は、長眠に入る

   長眠に入ると、保管料が半分になる

   読むだけでは、目を覚まさない

   書き換えると、その束が目を覚ます

   目を覚ますと、保管料が元に戻り、そこから九十日を数え直す


「これは、こちらが頼んだ仕組みではありません。雲域の側が、勝手にやってくれます」


「勝手に安くなるんですか」


 リゼが言った。


「安くなります。触らなければ」


 私は言った。


「十年ぶんの束のうち、九十日より古いものは、ほとんど全部が長眠に入っていました。だから先月まで、四百二十枚だった」


「半額だったのね」


 マリエさんが言った。


「半額でした」


———

「今月、何をしましたか」


 私は、ヒバさんに訊いた。


「欄を、一つ足しました」


 ヒバさんは言った。


「届け出の様式が変わったんです。今年から、浮遊船で運んだ荷を、別に数えることになって。それで、束の欄に、運び方を書く欄を一つ足しました」


「今年ぶんだけに足しましたか」


「いえ」


 ヒバさんは言った。


「全部の束に足しました。そうしないと、年ごとの並びが出せないので」


 私は頷いた。


 それも、筋が通っている。


「十年ぶんの束を、全部、書き直したことになりますね」


「……なります」


 ヒバさんは、壁の紙を見た。


「眠っていた十年ぶんの台帳が、一斉に起きました」


 リゼが、こちらを見た。


「起きると、高いの?」


「高くなります」


 私は言った。


「寝ていてくれた方が安い台帳です」


———

「読むのは、何度やっても覚めないんですか」


 ヒバさんが訊いた。


「覚めません」


 私は言った。


「毎日引いても、月の頭に十年ぶん引いても、覚めない。触ったことにならないので」


「じゃあ、ずっと寝ていたのに」


「欄を一つ足したので、起きました」


 私は表示盤に、束を十並べて描いた。


「長眠は、台帳ごとではなく、束ごとに数えます。これは、よくできた決まりです。去年の束だけを直したなら、去年の束だけが起きて、残りは眠ったままです」


「欄は、全部の束に要るので」


「要りますね。欄を足すというのは、束を一つずつ開けて、新しい欄を書き足すことです。全部の束を開けたので、全部が起きました」


「先に聞いていれば」


 ヒバさんが言った。


「どうしていましたか」


「……どうもしなかったかもしれません」


 ヒバさんは言った。


「欄は、足さないといけなかったので」


「そうです」


 私は言った。


「足さないという選択はありませんでした。ですから、これは、やらなければよかった話ではありません」


———

「では、どうすればよかったの」


 マリエさんが言った。


「三つあります」


 私は書いた。


   一、いつ足すかを選ぶ

   二、足すことをまとめる

   三、新しい欄を、別の台帳に置く


「一つ目です。欄を足すと、そこから九十日、全部が高いままになります。ですから、足す刻は、そのあとしばらく触らずに済む刻を選びます」


「今月でなくてよかった、ということ?」


「今月でなくてよかったです」


 私は言った。


「今年の届け出の様式が変わったのは、年の初めです。今月まで待った理由が、たぶん、特にありません」


 ヒバさんが、少し下を向いた。


「……手が空いたのが、今月でした」


「それは、よくあります」


 私は言った。


「ただ、手が空いた月と、安い月は、別です」


———

「二つ目。まとめることです」


 私は言った。


「欄を足す予定が、これから他にもありますか」


「あります」


 ヒバさんが即答した。


「二つ。来月と、秋に」


「それを、今月と一緒にやってしまえば、起きるのは一度で済みました」


「三回やると」


「三回起きます。三回とも、九十日の数え直しです。九十日ごとに足していくと、この台帳は、永久に長眠へ入れません」


 リゼが、小さく言った。


「起こされ続けるのね」


「起こされ続けます」


 私は言った。


「それが、いちばん高い状態です」


———

「三つ目は、少し重い直しです」


 私は表示盤の三行目を指した。


「新しい欄を、古い束へ書き足さないで済ませる手です。新しい欄だけを別の台帳に置いて、引くときに結びます」


「引くのが、遅くなりませんか」


 ヒバさんが言った。


「遅くなります」


 私は言った。


「その代わり、古い束は眠ったままです。どちらを取るかは、引く回数と、眠っている量で決まります。月に一度しか引かない台帳で、十年ぶんが眠っているなら、たぶん分けた方が安い」


「毎日引く方は」


「毎日引く方は、分けない方がいいです」


 私は言った。


「同じ整札庫の中でも、台帳ごとに答えが変わります。全部に同じ決まりを当てると、どちらかが損をします」


 ヒバさんが、書き取った。


 書き取ってから、顔を上げた。


「あの」


「はい」


「これ、来月には戻りますか」


「戻りません」


 私は言った。


「いま起きた束が、もう一度眠るのは、九十日後です。そのあいだ、触らなければ」


「三月、触らないんですか」


「触らないでください」


 私は言った。


「触りたくなったら、その前に、いくらかかるかを数えてからにしてください」


———

 夕方、術務室に戻った。


 私は、壁の表示盤に、二つの階段を並べて描いた。


 左に、教科書の階段。


   速い 小さい 高い

   遅い 大きい 安い


 右に、今日見た階段。


   速いが、高い

   大きいが、高い

   安いが、遅い

   安いが、出すと高い

   触らなければ、安い

   書き換えると、高い

   読んだぶん、かかる

   運んだぶん、かかる

   約束の刻より早く消すと、残りの刻ぶん払う


 リゼが、右の方を数えた。


「九つある」


 私は、リゼを見た。


「九つだ」


「左は二つなのに」


「そう」


 マリエさんが、横から言った。


「左は、物の話ね。右は、契約の話」


「そうです」


 私は言った。


「左の二段は、石の置き場所で決まります。どこに置くと何拍かかるか。これは、値段を変えても動きません」


 私は右を指した。


「右の九つは、誰かが決めた値段の表です。表が変われば、明日には並びが変わります」


「じゃあ、右は本当じゃないの」


 リゼが言った。


「本当です」


 私は言った。


「本当で、しかも、来年には違う本当になります。そこが、いちばん厄介なところです」


 私は、表示盤の下に一行書いた。


   記憶の階段は、速さの階段だけではない。費えと、手順の階段でもある


———

 翌朝、講堂に立った。


 ルドー先生が、また束を教壇に置いていた。返し損ねた答案が、まだ何枚か残っているらしい。


 私は、表示盤に二つの階段を描き直した。昨日、術務室に描いたのと同じものである。


 学生は、右の九行を、しばらく黙って見ていた。


 それから、前の方の一人が手を挙げた。


「じゃあ、あの問題の答えは、間違いなんですか」


「いいえ」


 私は言った。


「基礎としては、正しいです」


「でも、現場では例外だらけなんですよね」


 言ったのは、リゼだった。学生の列の、後ろの方からである。


 この人は、皆が思っていて訊けないことを、代わりに訊く。講堂では、だいたいこの役である。


「例外ではないです」


 私は言った。


「例外と呼ぶと、教科書の方を本体にして、脇に例外の欄を作ることになります。例外の欄は、放っておくと必ず増えて、そのうち本体より大きくなります」


「じゃあ、何」


「基礎の上に、値段の表と、運びの手順が乗っているだけです」


 私は、左の二段を指した。


「この二段は、消えていません。近い場所が狭いのも、遠い場所が遅いのも、今年も本当です」


 私は右を指した。


「その上に、これが乗ります。乗っているぶんは、石の性質ではありません。誰かが決めた値段です」


———

「では」


 ルドー先生が、後ろから言った。


「学生には、どう教えればよい」


 講堂が静かになった。


 私は、少し考えた。考えてから、正直に答えることにした。


「まず、階段を教えるしかありません」


 私は言った。


「近いほど速くて小さくて高い。遠いほど遅くて大きくて安い。これを先に持っていないと、右の九行は、ただの嫌がらせに見えます」


「そのあとは」


「そのあとで、現場ではその階段が、請求書で歪むと教えます」


 私は言った。


「順番を逆にはできません。歪んだ形から教えると、何が歪んでいるのかが分からない」


 ルドー先生は、腕を組んだ。


「二点の問いには、そこまで書けんな」


「書けません」


 私は言った。


「二点の問いに書けるのは、階段だけです。歪みの方は、誰かが現場で見るか、誰かが講堂で喋るかしないと、伝わりません」


 ルドー先生は、しばらく黙っていた。


 それから、教壇の束を持ち上げた。


「では、この問いは、来年も出す」


 先生は言った。


「平均は、また低いだろう」


「たぶん、低いです」


「構わん」


 先生は、束を小脇に抱えた。


「低いところに、話がある」


———

 講堂を出ると、廊下にキリさんが立っていた。


 監査院の人が、魔法学校の廊下に立っていると、少し目立つ。


「昨日の続きで、一つだけ」


 その人は言った。


「戻し稽古の紙に、額の欄を足しました」


「早いですね」


「昨日のうちに書きました。それで、ついでに、去年の稽古の紙を全部見返したんです」


 キリさんは、巻物を抱え直した。


「刻の欄は、全部埋まっていました。十年ぶん」


「はい」


「額の欄が無いので、当然、空です。それは、いいんですが」


 その人は、少し言いにくそうにした。


「紙の下の方に、備考の欄があって。三年前の稽古の紙に、誰かが小さく書き足してあったんです」


「なんと」


「本番の量では、かなりかかると思われる、と」


 私は、少し黙った。


「名前は」


「書いてありません」


 キリさんは言った。


「欄が無かったので、備考に書いたんだと思います。備考の欄は、誰も読まないので」


———

 夜、リゼの家の卓で、汁が湯気を立てていた。


 窓は開けたままにしてある。この頃は、閉めると暑い。


「ねえ」


 リゼが、椀を置いた。


「あの、備考の人」


「ああ」


「三年前に気づいてたのに、誰も読まなかったんでしょ」


「読まなかった」


「それって、書いた人が悪いの? 読まなかった人が悪いの?」


 私は汁を一口飲んだ。


「欄を作らなかった人だな」


 リゼが、匙を止めた。


「書く場所が無いと、人は、備考に書く。備考に書かれたものは、読まれない。配達人が鞄の裏に書くのと同じだ」


「ウルさん」


「そう」


 リゼは、しばらく考えていた。


「じゃあ、欄を足したら、今度は読まれるの?」


「読まれる」


 私は言った。


「欄があると、空いているのが気になるからな。人間は、空いた欄を埋めたくなる。備考は、埋まっていても気にならない」


「単純だね」


「単純だ」


 リゼは、椀を両手で持った。


「今日の話、一行で言うと、なんなの」


 この人は、たまにこれを訊く。


 私は少し考えた。


「安いものは、安いところにしか置いていない」


「どういうこと」


「置き場所が安いだけで、出し入れまで安いとは、誰も言っていない」


 リゼが、匙を動かした。


「それ、倉の話じゃないみたい」


「ん?」


「安い宿とか、安い船とか、そういうのにも言える」


 私は、思わず笑った。


「そうだな。だいたい言える」


「でしょ」


 リゼは汁を飲んだ。


「じゃあ、覚えられる」


 AIエージェント:「補足:深雪倉から掘り出された控えは、明日から検めに入ります。期限まで、あと二月と二十一日です」


「聞いていない」


 AIエージェント:「観測:あなたは明日、その検めの手順を見てほしいと頼まれています」


「……それは聞いた」


 AIエージェント:「提案:先に、額の欄を確認されることを推奨します」


「黙れ」


 最悪だ。


 この箱は、私が今日言ったことを、私に向けて使ってくる。


———

 寝る前に、窓を閉めた。


 閉めてから、少し開け直した。


 王都の夜は、この頃、風が生ぬるい。


 深雪倉の中では、いまも十年ぶんの控えが眠っている。厳密には、これから二月と二十一日のあいだだけ、その一部が起きて、仮置きの場所に積まれている。


 眠っているものには金がかからない。起きているものには金がかかる。


 起こしてしまえば、もう戻せない。九十日待つしかない。


 教科書の階段は、そこまで書いていない。書けない。


 あの二段は、石が持っている性質である。何百年たっても変わらない。


 その上に乗っている九行は、誰かが今年決めた値段で、来年には違う形になる。


 学生は、まず二段を覚える。


 それから現場に出て、九行の方に殴られる。


 順番は、たぶんこれでいい。


 逆にはできない。


 教科書の階段は、現場では、請求書で歪む。


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