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魔法世界は運用で回る  作者: 月の位相
夫婦編

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228/248

第228話 速い記憶、安い記憶

 朝の卓に、紙が一枚、伏せて置いてあった。


 リゼは、豆の汁をよそいながら、それを裏返さない。


「見ないで」


「見ていない」


「見てる」


 見ていた。赤い印が、裏からでも透けている。


「先月の、あれか」


「返ってきたの」


 リゼは椀を置いて、それから、諦めたように紙を表へ返した。


 私は紙を引き寄せた。問いは短かった。


   問一 術盤の記憶の仕組みは、正記憶晶と副記憶板に大別される。

      一般に、正記憶晶に比べ、副記憶板は読み書きが【ア】であり、

      【イ】のために用いられる。


   【ア】 一、低速  二、同程度  三、高速


   【イ】 一、容量が小さく、記憶の短期的な保存

       二、容量が小さく、記憶の長期的な保存

       三、容量が大きく、記憶の短期的な保存

       四、容量が大きく、記憶の長期的な保存


 問一の配点は二点。【ア】と【イ】が両方合って、はじめて二点になる。片方だけ合っても、一点にはならない。


 【イ】には丸が付いていた。四を選んでいる。正しい。


 【ア】には×が付いていた。三を選んでいる。


 点の欄には、赤で零と書いてあった。


「零点」


 リゼが自分で言った。


「半分は合ってたのに」


「半分合っても、零点だ」


「それ、ずるくない?」


 ずるくはない。問いがそう決めてある。ただ、そう言いたくなる気持ちは分かる。


「高速に、したのか」


「したわよ」


 リゼは椀を持ち上げた。


「だって、速いもん」


「何がだ」


「うちの記憶板。差してすぐ読める」


 そう言われると、返す言葉に少し間が要る。


「うちのは、たしかに速い」


「でしょう」


「でも、低速が正解だ」


「なんで」


 私は汁を一口飲んだ。


「それを、たぶん今日、講堂で喋らされる」


———

 卓の脇に、もう一つ束が置いてあった。


 昨日の夕方、ルドー先生が術務室に寄って、私の机に置いていったものである。置いて、「読め」とだけ言って帰った。


 採点済みの答案だった。ひと組ぶん。


 私は上から何枚かめくった。


 【イ】は、だいたい合っている。


 【ア】が、驚くほど当たっていない。


 AIエージェント:「観測:この束の問一の平均点は、二点のうち〇・六に届いていません」


「勝手に数えたのか」


 AIエージェント:「補足:昨夜、卓の上で数えました。あなたは寝ていました」


「……使える数字だな。助かる」


 AIエージェント:「観測:珍しく礼を言われました。記録しておきます」


「黙れ」


 リゼが、こちらを見ずに言った。


「どっちに言ったの、それ」


「両方だ」


———

 講堂は、朝から重かった。


 学生が三十人ほど。誰も紙を出していない。返された答案を鞄にしまう速さだけが、妙に揃っていた。


 ルドー先生は、教壇に答案の束を置いた。置いただけで、開かない。


「先月の問いだ」


 束を、指で二度叩く。


「正記憶晶と副記憶板。どちらが速い」


 手が挙がった。前の方の学生である。


「副記憶板です」


「なぜだ」


「うちの板、速いので」


「座れ」


 次の手。


「同じくらいだと思います」


「根拠」


「……触った感じで」


「座れ」


 三人目。


「正記憶晶です」


「なぜだ」


「教科書に、そう書いてあったので」


「それは答えだ。理由ではない」


 三人目が座った。座り方に、納得がなかった。


 四人目は、なかなか出なかった。


 後ろの方で、手が半分だけ挙がった。リゼである。


「分かりません」


「何が分からん」


「速いとか遅いとかは、何と比べて言ってるんですか」


 ルドー先生が、一拍おいた。


「それだ」


 リゼが座った。


 そして、この人はこちらを見た。


「ユウ」


「はい」


「はい」


「はいは一回だ」


 講堂が、少しだけ緩んだ。


 人間は、自分が答えなくてよいと分かった瞬間に、急に元気になる。


———

 私は前に出た。


 表示盤に、横線を四本引く。


   演算晶の中の房

   短憶晶

   記憶晶

   記憶板


「演算晶工房の見学で、見たものです。覚えている人は」


 手が七つか八つ挙がった。ちょうど、あの日に行った人数である。


「近い順に、上から並んでいます」


 私は財布を出した。


 中から、麻の糸を一本つまみ出す。手のひらを開いたくらいの、頼りない長さである。ヨルグさんにもらったまま、ずっと入れてある。


「これが一拍です。演算晶の一拍のあいだに、魔力波が進む長さ」


 前の席の学生が、身を乗り出した。


「それだけ、ですか」


「それだけです」


 私は糸を表示盤の下へ貼った。


「一段目までは、この糸の中で用が足ります。二段目は、少し出ます。三段目は、糸で何百本ぶんです。四段目は、その先です」


「四段目が、記憶板ですか」


「そうです」


 私は、四本の線の横に、三つの言葉を書いた。


   近い  速い 小さい 高い

   遠い  遅い 大きい 安い


「近い場所は、狭いから速い。広げると遠くなる。遠くなると遅くなる。だから段になります」


 私は、表示盤の上半分を、指で囲った。


「教科書は、この四段を二段に潰しています」


 私は二段の図を、隣に描いた。


   正記憶晶

   副記憶板


「上が正記憶晶、下が副記憶板。教科書の階段です」


「潰していいんですか」


 学生の一人が言った。


「最初は、いいです」


 私は答えた。


「段が四つあっても、覚えることは同じですから。近いほど速くて小さくて高い。遠いほど遅くて大きくて安い。この一行を、先に持ってもらうための潰し方です」


———

「では、なぜ当たらんのだ」


 ルドー先生が、束を指で叩いた。


「潰し方が正しいのなら、答えも当たるはずだ」


「正しさと、当たることは別です」


 私は言った。


「皆さんの言い分を、先に並べます」


 私は表示盤の端に、聞こえていたぶんを書いた。


   うちの記憶板は速い

   手元の記憶晶も大きい

   どっちも十分速い

   短期的な保存、長期的な保存が何のことか分からない

   副記憶板の副は、予備のことだと思っていた

   正記憶晶という言い方を、試験でしか見ない


「最後のが、いちばん多かったです」


 笑いが起きた。半分は、自分のことを言われた笑いである。


「五つ目から先に片づけます。副は、予備という意味ではありません。二つ目、という意味です」


 何人かが、顔を上げた。


「予備なら、正記憶晶が壊れたときに代わりに働くはずですよね。働きません。あれは、いつも一緒に働いています」


「じゃあ、なんで副なんですか」


「近い方から数えて、二つ目だからです」


 私は言った。


「近い方を一つ目と呼ぶ、というだけの決まりです。偉いとか、予備とか、そういう話は入っていません。入っていないのに、字を見ると入っているように見える。そこが厄介です」


「全部、間違っていません」


 私は言った。


「残りを、順に見ます」


———

「一つ目。いつの術盤の話か、です」


 私は表示盤に、年を二つ書いた。


   三十年前の正記憶晶

   いまの副記憶板


「どちらが速いと思いますか」


 学生が黙った。黙ったのは、答えが読めたからである。


「いまの副記憶板です」


 私は言った。


「三十年前の正記憶晶より、いまの副記憶板の方が速い。これは本当です」


「じゃあ、教科書が間違ってます」


「いいえ」


 私は線を一本、二つの年のあいだに引いた。


「教科書が比べているのは、同じ時代の同じ術盤の中の、上の段と下の段です。時代をまたいだ比べ方はしていません」


「ずるくないですか」


「ずるく聞こえますが、ずるくはないです。術盤を作る側は、同じ術盤の中でしか選べませんから」


 私は少し考えて、付け足した。


「この学校の地下に、壊し場がありますね。壊してよい古い術盤が並んでいる部屋です」


 何人かが頷いた。行ったことのある顔である。


「あそこのいちばん古い術盤の正記憶晶は、いまの記憶板より、はるかに狭くて、はるかに遅い。当時の術者は、その狭い記憶晶へ何をどう置くかで、半日悩んでいました」


「半日、ですか」


「半日です。置ききれないものは、下の段へ回した。どれを上に置くかを、人が決めていました」


 私は表示盤に戻った。


「その人たちにとって、正記憶晶は速くて高くて狭いものでした。いまの皆さんにとっても、そこは変わっていません。変わったのは、下の段が、昔の上の段より速くなったことです」


「段が、上がってきてる」


 リゼが言った。


「そう。階段ごと、上へ動いた」


 私は二段の図の横に、矢印を一本、上へ引いた。


「階段ごと上がったので、段と段の差は残っています。全体が速くなったのに、段はなくならない」


———

「二つ目。誰が測るかの話です」


 私は、また糸を指した。


「人が見て、どちらも十分速い、というのは正しいです。人の目は、そこまで細かく刻めません」


「じゃあ、どっちでもいいのでは」


「人にとっては、どっちでもいいです」


 私は糸の端を持ち上げた。


「ですが、この糸で数える側は、どっちでもよくありません。演算晶は、一拍ごとに仕事をします。記憶板まで取りに行くと、そのあいだ何万拍も、手が空きます」


「何万」


「何万です」


 私は表示盤に一行書いた。


   人の目には、どちらも一瞬。演算晶の目には、桁が違う


「速い遅いは、誰の目で見るかで変わります。試験の問いは、演算晶の目で書かれています。皆さんの実感は、人の目で書かれています。どちらも正しくて、噛み合っていない」


 ルドー先生が、腕を組んだ。


「では、問いの方を直せばよいのではないか」


「直せます。ですが、直すと長くなります」


 私は言った。


「二点の問いに、演算晶から見た場合は、と書き足すと、それだけで一行増えます。増えた一行を読む学生は、たぶん今より少ないです」


「……そうだろうな」


 ルドー先生は、それ以上言わなかった。


———

「三つ目です。ここからが、今日の本題です」


 私は表示盤を消した。


 消してから、真ん中に一行だけ書いた。


   残す場所と、使う場所は、違ってよい


「銀嶺商会の帳場に、面白い台帳があります」


 学生が顔を上げた。銀嶺商会は、大きい。学生でも名前は知っている。


「取引の台帳です。もとは記憶板にあります。長く残すものですから、そこでいい」


「教科書どおりです」


「はい。ですが、毎朝、その台帳を丸ごと正記憶晶へ写します」


 間が空いた。


「丸ごと、ですか」


「丸ごとです。全部」


「教科書に、反してませんか」


「反していません」


 私は二段の図を描き直した。上の段に丸を一つ、下の段にも同じ丸を描いて、上へ矢印を引いた。


「長く残す場所は、下の段のままです。変わっていません。変えたのは、使う場所の方です」


「なぜ、そんなことを」


「速いからです」


 私は言った。


「下の段へ毎回取りに行くと、集計に半刻かかります。上へ載せてしまえば、同じ集計が茶を淹れる前に終わります。帳場の者は、それを一日に何十回もやる」


「じゃあ、全部そうすればいいのでは」


 いつもここで、誰かがそう言う。


 私は頷いた。


「そう思いますよね。ただし、と付きます」


 私は下に四つ書いた。


   正記憶晶は高い

   術勢が切れると消える

   朝、載せきるまで使えない

   書いたものは、下へ戻しておかないと残らない


「三つ目を、少し詳しく言います。銀嶺商会は、台帳を載せるのに毎朝半刻かかります。そのあいだ、帳場は開いていません」


 ルドー先生が、ふと口を挟んだ。


「三十年前もそうだった」


「はい」


 私は頷いた。


「あの商会は、三十年前にも、毎朝半刻、盤を起こしていました。三人がかりで詠唱して。いまも毎朝半刻、台帳を載せています」


「同じか」


「刻は同じです。中身はまったく違います」


 ルドー先生は、何も言わなかった。少しだけ、笑ったように見えた。


 私は表示盤の一行を、指で叩いた。


   残す場所と、使う場所は、違ってよい


「これが言いたかったことです。教科書は、長く残すのは下の段だと書いています。銀嶺商会もそう置いています。そのうえで、使うときだけ上へ写している。教科書を壊したのではなく、教科書の上に、もう一段、積んだだけです」


———

「四つ目」


 私は表示盤の右の端を空けた。


「ここまで、値段の話を後回しにしていました」


 私は二段の図の横に、二つ書き足した。書きながら、少し嫌な気分になった。


   正記憶晶 高い

   副記憶板 高い


「両方ですか」


 誰かが言った。


「両方です。今年は」


 私は言った。


「速い方が高いのは、前からです。近い場所は狭いので、そうなります。これは階段の形のとおりです」


 私は下の「高い」に丸を付けた。


「困るのは、こちらです。遅くて大きい方まで高い。階段の形のとおりではありません」


「なぜ、そんなことに」


「生成変換器です」


 言った瞬間、何人かが、ああ、という顔をした。このところ、王都の誰もが一度は口にしている言葉である。


「変換器を動かす術盤は、記憶を桁違いに食います。だから、記憶晶を焼く窯が、注文で埋まりました。千層記憶晶社の窯は、来年まで空きがないそうです」


「記憶板は、関係ないのでは」


「窯場が、同じです」


 私は言った。


「速い記憶と、大きい記憶は、別の窯で焼きます。ですが、窯を据える場所も、焼ける職人も、材も、同じところから取り合います。片方の注文が埋まれば、もう片方の窯は後回しになる。今年、その両方の値が上がっています」


 学生が黙った。


「教科書の階段は、上が高くて下が安い形をしています。いま王都で記憶庫を建てようとすると、上も下も高い。階段が、値段のところで歪んで見えます」


 私は表示盤の前で、少し考えた。


「歪んで見えるだけで、階段が消えたわけではありません。近い場所が狭いのは、今年も変わっていません」


「じゃあ、何が変わったんですか」


「妥協の中身です」


 私は言った。


「階段の段は、自然に決まっているものではありません。その時代の、速さと、大きさと、値段と、運び方の、折り合いのつけ方です。折り合いの片方が動けば、段の高さも動きます」


———

「一つ、確かめたい」


 ルドー先生が、後ろから言った。


 講堂が静かになる。この人が確かめたいと言うときは、だいたい話の急所である。


「上が高く、下も高い。ならば、どちらを買えばよい」


「それは、私には決められません」


 私は言った。


「何を置くかによります。毎日読むものを下に置けば遅い。ほとんど読まないものを上に置けば、高い場所を無駄にします」


「では、両方買えばよい」


「両方買うのが、たぶん、いちばんよくある失敗です」


 私は言った。


 そのとき、講堂の扉が開いた。


———

 入ってきたのは、若い術士だった。


 二十そこそこに見える。走ってきたらしく、外套の裾が乱れている。手に巻物を三本抱えていて、そのうちの一本が、いままさに落ちそうだった。


「王都資料院の、ウカと申します」


 落ちた。


 拾った。


「術務室で、こちらだと伺いまして」


「講義中だ」


 ルドー先生が言った。


「……出直します」


「待て」


 ルドー先生は、教壇の束を脇へ寄せた。


「何があった」


「記憶庫が、遅いんです」


 ウカさんは、巻物を抱え直した。


「先々月、入れ替えたばかりで。速くなるはずだったんです」


「速くならなかったのか」


「遅くなりました」


 講堂の空気が、少し変わった。人は、他人の失敗の話になると、急に静かになる。


「それと、場所が足りません」


「どちらが足りない」


 私は訊いた。


「両方です」


 ウカさんは言った。


「速い方も、大きい方も、両方いっぱいです」


 最悪だ。


 今朝、講堂で両方買うのが失敗だと言った直後に、両方買って両方埋めた人が入ってきた。


 私は、ルドー先生を見た。


 ルドー先生は、講堂を見渡した。


「現場こそ授業だ」


 そう言って、先生は教壇を降りた。


「行くぞ」


———

 王都資料院は、中央区の北側にある。


 石造りの古い建物で、正面の階段が広い。市民が土地の書き付けや古い判例を写しに来る場所である。三階から上が書庫で、地下が記憶庫だった。


 地下は、ひんやりしていた。


 匂いが、少し違う。紙の匂いと、焼けた石の匂いが混ざっている。


 部屋の奥に、棚が二列あった。


 手前の列は、薄い板が縦に並んでいる。近づくと、音がしない。


「こちらが速記憶板です」


 ウカさんが言った。


「動く部分がないので、静かです。値は張りますが、呼べばすぐ返します」


 奥の列は、音がしていた。低い唸りである。近づくと、床から微かに伝わってくる。


「こちらが回転記憶板。中で盤が回っています。回っているので、読みたいところまで待つ刻が要ります。そのかわり、安くて大きい」


「教科書どおりだな」


 ルドー先生が言った。


「教科書どおりに、組んだつもりでした」


 ウカさんは、巻物の一本を広げた。


 図面だった。手前の棚と奥の棚が描いてあり、そのあいだに矢印が上下に引いてある。


「よく読まれる文書は、手前へ。読まれなくなった文書は、奥へ。夜のうちに、術式が勝手に運びます」


「段分けだな」


 私は言った。


「段分けです。運ぶ仕掛けは、段送りと呼んでいます」


「考え方は、間違っていません」


 私は図面を見た。


「速い場所は狭くて高い。広い場所は遅くて安い。よく読むものだけを速い場所に置けば、狭くても足ります。これは、階段の使い方として正しいです」


「正しいのに」


 ウカさんの声が、少し落ちた。


「全部、埋まりました」


———

 私は、棚の前の帳面を見せてもらった。


 症状を、順に書き出してもらう。


   一、手前の棚が、九割九分まで埋まっている

   二、奥の棚も、九割五分まで埋まっている

   三、夜のうちに段送りが終わらない

   四、終わらないので、昼も走っている

   五、昼に走ると、閲覧が遅くなる

   六、よく読まれる古い文書が、奥へ送られている

   七、利用者が怒る

   八、管理の者が泣く


「八つ目は、書かなくてよかったんじゃないか」


 ルドー先生が言った。


「書きました」


 ウカさんは真面目な顔だった。


「泣いているのは、私です」


 誰も笑わなかった。笑うところではなかった。


 私は一つずつ潰すことにした。


「まず、六つ目を聞かせてください。よく読まれる古い文書、というのは」


「判例です」


 ウカさんが即答した。


「三十年前の裁定でも、月に何度も引かれるものがあります。数としては、多くありません。月に十回か、二十回」


「それが、奥へ行った」


「行きました。段送りの術式は、直近の三十日に読まれた回数で見ています。月に十回では、手前に残れません」


「回数だけで見ていますか」


「回数だけです」


 私は帳面に書いた。


   よく読む、を回数で数えると、たまに読むが長く続くものが落ちる


「判例は、たまにしか読まれませんが、三十年たまに読まれ続けています。回数で数えると弱いのに、途切れたことが一度もない」


「では、どう数えれば」


「読まれた刻の散らばりを見ます」


 私は言った。


「先月に集中して百回読まれたものと、三十年にわたって月十回ずつ読まれてきたもの。回数で並べると前が勝ちます。ですが、来月も読まれそうなのは、後ろです」


 ウカさんが、書き取った。速い。


———

「次に、一つ目と二つ目です」


 私は手前の棚を指した。


「手前が、九割九分。ここに何が入っていますか」


「文書です」


「全部ですか」


 ウカさんが、少し止まった。


 止まってから、気づいた顔をした。


「……検めの写しが、入っています」


「検めの写し」


「市民が閲覧を申し出ると、原本をそのまま出せないので、写しを作って出します。返却されたら消します。作っているあいだは、手前に置きます。速い方が、写しが早く済むので」


「消すのは、いつですか」


「その日の夜です。段送りと同じ刻に」


 私は帳面に書いた。


   一時の書きものが、いちばん高い場所を埋めている


「一日ぶんですと、どのくらいですか」


「閲覧が多い日は、棚の二割ほど」


「二割」


 ルドー先生が言った。


「二割だと」


「申し出の多い日は」


 ウカさんの声が、また落ちた。


 私は、悪意も怠けもここには無いと思った。この人は、写しを速く作るために、いちばん速い場所を使った。それ自体は、筋が通っている。


「前の記憶庫では、写しはどこに置いていましたか」


「別の棚です。写し専用の、小さいのが一つありました」


「今回、その棚は」


「無くしました」


 ウカさんは言った。


「段分けにすれば、要らないと思ったので」


 私は少し黙った。


「容量の見積もりは、どう立てましたか」


「前の記憶庫の記録から出しました。手前の棚は、全体の一割で足りる、と」


「一割の根拠は」


「前の記憶庫で、よく読まれていた文書が、全体の一割だったので」


 私は、帳面に、線を一本引いた。


   前の倉で一割だったのは、写しが別の棚にあったときの一割である


「割合だけ引き継いで、前提を置いてきています」


 ウカさんが、図面を見た。


「……置いてきました」


———

「三つ目と四つ目です」


 私は、奥の棚の方を向いた。


「段送りは、夜のうちに終わる見込みでしたか」


「終わる見込みでした」


「いまは」


「朝になっても終わりません。終わらないまま、昼になります」


「昼に走ると、どうなりますか」


「閲覧が遅くなります」


 ウカさんは言った。


「運ぶのも、読むのも、同じ棚を使うので」


 私は帳面に書いた。


   運ぶ仕事と、読ませる仕事が、同じ場所で喧嘩している


「五つ目は、ここから出ています。利用者から見ると、ただ遅い。原因は、自分の読みたい文書とは関係のない、別の文書の引っ越しです」


「引っ越しの最中に、客を通しているようなものだな」


 ルドー先生が言った。


「そうです」


 私は言った。


「しかも、引っ越しが終わりません。奥も、もう九割五分埋まっていますから、運び込む場所を空けるために、また別のものを動かす。動かすほど、遅くなります」


「では、止めればよいのか」


「止めると、手前が先に溢れます」


 私は言った。


「いまは、どちらを選んでも悪くなる状態です。これが、いちばん困る形です」


———

 ウカさんが、図面を見たまま言った。


「速い記憶と、大きい記憶を組み合わせれば、両方の利点が得られると思いました」


 声が、素直だった。


「速さは速記憶板から、大きさは回転記憶板から、もらえるはずだと」


 私は首を振った。


 振ってから、振り方が強すぎた気がして、言い直した。


「その考え方自体は、正しいです。そう組むのが普通ですし、うまくいっている記憶庫もたくさんあります」


「でも、うちは」


「容量計画を間違えると、両方の欠点が同時に来ます」


 私は言った。


「速い側は、狭いという欠点だけを出します。大きい側は、遅いという欠点だけを出します。どちらも足りているうちは、利点の方が出る。どちらかが足りなくなった瞬間に、利点が引っ込んで、欠点だけが残ります」


 ウカさんが、書き取った。


「それが、両方で起きました」


「起きました」


 私は帳面を閉じた。


「組み合わせは、足し算ではありません。足りている前提の上に載っている約束です」


———

 私は、直す順を四つ書いた。


   一、検めの写しを、段分けの外へ出す

   二、手前の棚に、二割の空きを常に残す

   三、段送りは夜だけ。朝に終わらなければ、その日はそこで止める

   四、よく読む、の数え方を、回数から刻の散らばりへ変える


「一つ目が、いちばん効きます」


 私は言った。


「写し専用の棚を、もう一度置いてください。前の記憶庫にあったものです。無くしたものを戻すだけなので、作り直す必要はありません」


「戻すんですか」


 ウカさんが、少し驚いた顔をした。


「戻します」


 私は言った。


「前の人たちは、理由があって別の棚にしていました。理由を聞かずに無くしたので、理由の方が残りました」


「……理由の方が残る」


「よくあります」


 私は二つ目を指した。


「二つ目は、地味ですが、これを守らないと一つ目も三つ目も効きません。棚を九割九分まで使うと、段送りが動けなくなります。運ぶには、先に空き場所が要るので」


「空けておくのは、もったいない気がします」


「もったいないです」


 私は言った。


「ですが、空けていない棚は、埋まりきった日から、ただの遅い棚になります。二割の空きは、速さを買う場所代です」


 ルドー先生が、棚の唸りを聞きながら言った。


「四つ目は、時間がかかるな」


「かかります」


 私は言った。


「一つ目から三つ目までは、今月できます。四つ目は、数え方を変えて、しばらく様子を見るしかありません。判例が手前に残るようになったかどうかは、三月ほど見ないと分かりませんから」


———

「これで、速くなりますか」


 ウカさんが訊いた。


 私は、少し考えてから答えた。


「入れ替える前よりは、速くなります。ただ、当初の見込みほどにはなりません」


「……そうですか」


「見込みの方が、高すぎました」


 私は言った。


「速い棚に、全体の一割しか置かない設計です。その一割の選び方がうまくいっているあいだは、九割の文書も速く感じます。うまくいかない日は、遅く感じます。それが段分けです。速さの平均を上げる仕組みであって、いつでも速くする仕組みではありません」


「利用者には、そう説明していませんでした」


「そこは、たぶん直した方がいいです」


 私は言った。


「速くなりますと言ってしまうと、遅い日に嘘をついたことになります。混む日でもこのくらいでは返しますと言えば、嘘になりません」


 ウカさんが、書き取った。


 書き取ってから、顔を上げた。


「あの」


「はい」


「私は、どこで間違えたんでしょうか」


 地下の唸りが、少しだけ大きく聞こえた。


「棚を二つにしたことではありません」


 私は言った。


「割合だけを、前の記憶庫から持ってきたところです。一割という数は、前の倉の形があって初めて意味のある数でした。形を変えたら、数え直さないといけなかった」


「数え直す、というのは」


「置くものを、全部並べて数えることです。文書と、写しと、検めの控えと、段送りの途中のものと、全部。面白くない仕事です」


「面白くないです」


「面白くないですが、これをやった人の記憶庫は、だいたい静かです」


———

 帰り道、外に出ると、日が高くなっていた。


 地下が涼しかったぶん、外の空気が重い。


 ルドー先生は、階段の上で足を止めた。


「あの若いのは、真面目すぎるな」


「そうですね」


「真面目な人間ほど、前の記録の数だけを信じる」


 私は頷いた。


 数は、持ち運びができる。前提は、持ち運びができない。だから数だけが次の設計へ運ばれて、前提は元の場所に置き去りになる。


 人類は、だいたいこれで同じ失敗を繰り返している。


「次の講義で使う」


 ルドー先生は言った。


「今日のを、ですか」


「二点の問いの続きだ」


 先生は階段を降りながら、こちらを見ずに言った。


「正記憶晶は速くて高い。副記憶板は遅くて安い。ここまでは、当たった学生もいた」


「はい」


「だが、あの地下では、遅い方も高かった」


 先生は一拍おいた。


「教科書には、その欄がない」


———

 術務室へ戻ると、私の机に文が一通、置いてあった。


 マリエさんの字だった。


    記録監査院のオーレンさんから。

    深雪倉に入れた古い記録を、まとめて出したそうです。

    出したあとで、請求が来たとのこと。

    明日の朝、時間をください。


 私は、文を二度読んだ。


 深雪倉なら知っている。古い記録を安く、大量に、長く保つ倉である。西区の商業許可台帳が壊れたとき、控えがそこにあって、戻すのに三日かかった。


 刻がかかる。それは、あのとき散々言った。


 私は、文の最後の行をもう一度見た。


 出したあとで、請求が来た。


「……金の話は、していなかったな」


 AIエージェント:「観測:あなたは深雪倉について、講堂で三度『安い』と述べています」


「述べた」


 AIエージェント:「補足:取り出す側の料金については、述べていません」


「……述べていない」


 AIエージェント:「提案:明朝、その点を補われることを推奨します」


「黙れ」


 最悪だ。


 自分の板書を、自分で掘り返された。


———

 夜、リゼが答案を卓に広げていた。


 【ア】の×の上に、自分で小さく書き足している。何を書いているのか、横から覗いた。


   同じ時代の、同じ術盤の中でなら


「書き足すのか」


「消したら、間違えたことが分からなくなるでしょ」


 リゼは筆を置いた。


「消さずに線を引いて、横に書く。史料館の人が言ってた」


 テッサさんである。この人は、たまにそういうものを持って帰る。


「あのね」


「ん」


「今日の、階段の話だけど」


 リゼは汁の椀を両手で持った。


「近い棚ほど、場所代が高いってことよね」


「そうだな」


「じゃあ、遠い棚が高いのは、変じゃない?」


 私は少し考えた。


「変だ」


「変なんだ」


「変だが、起きている」


 リゼは椀を置いた。


「うちの台所も、そのうちそうなる?」


「なるかもしれないな」


「やだな、それ」


 この人は、たまに、私が半日かけて説明したことを、一行で嫌がる。


 嫌がり方が、だいたい正しい。


「明日は、その続きだ」


 私は言った。


「遠い棚の話だ」


「遠い棚が、高いって話?」


「置くのは安い」


 私は言った。


「取り出すと、高い」


 リゼが、匙を止めた。


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