第234話 進まない船
丘の上の風は、王都より一枚ぶん冷たかった。
秋である。
東門を出て丘をひとつ越えると、塔が三本見えてくる。石と鉄で組んだ高塔で、てっぺんから斜めに渡し廊下が伸びていて、その先に、船が浮いている。
支えは無い。柱も、綱も、下に置いた台も無い。
話には聞いていた。
聞いていても、見上げると首の後ろが少しこわばる。
わたしは、乗船券の裏を読んでいた。
細かい字で、二十と少しの条が並んでいる。遅れたときの扱い。欠航したときの扱い。荷を失くしたときの扱い。席が足りなかったときの扱い。
最後の条は、去年の秋に足されたものらしい。字の濃さが、ほかと少し違う。
「読んでいるんですか」
隣で、アンセルが言った。
「読んでいるわ」
「乗る前に」
「乗る前に読まないで、いつ読むの」
アンセルは、少し考える顔をした。
「……たしかに」
この人は、こういうところで引かない。引かないで、考える。考えて、納得したら、納得したと言う。
十一日前から、この人はわたしの夫である。
言葉にすると、まだ少し、他人の書いた条のように聞こえる。
———
塔の下は、朝の音で満ちていた。
呼び出しの声。荷札を打つ音。魔導の搬送台が、箱をひとつずつ吸い込んでいく低い音。
油と、金物と、朝の人の匂い。
アンセルは、手に小さな木の箱を提げていた。文物院の人は、どこへ行くにもこういう箱を持つらしい。中身は、薄紙と、柔らかい刷毛と、拡大の硝子と、書き付けの帳面だという。
「新婚旅行、って柄じゃないと思ってたんだけど」
わたしは言った。
「文物院への口実つきですが」
「口実がないと落ち着かない性分なのよ、わたしたちは」
北方学都の学び舎が、古い帳簿を荷車二台ぶん、文物院へ寄贈したいと言ってきた。その下見を一日。残りの四日は、湖のほとりの宿を取ってある。
口実のほうが一日で、本題のほうが四日。
そういう割り振りにしたのは、わたしである。契約は、本題を後ろに書くと揉めない。
「マリエさん」
列の脇から、声がした。
背の低い、目の下が黒い係員である。去年、この塔の下で、乗れなかった客に頭を下げ続けていた人だ。
「ノナさん」
「覚えていてくださったんですか」
「覚えているわ。あなたが客に説明できるかどうかで、席の決め方を直したんだもの」
ノナは、少しだけ背筋を伸ばした。
「今日は、お客様なんですね」
「お客様よ。今日は、条を読むだけ」
「読まれるお客様は、怖いです」
ノナは、疲れた顔で正確なことを言った。
この人は、去年から変わっていない。
———
渡し廊下へ上がる階段の途中に、窓がひとつあった。
窓から、船の腹が見えた。
腹の下の縁に、環が三つ。その少し上に、丸い蓋が四つ並んでいて、そのうち一つが開いていた。
蓋の前に、足場が組んである。
足場の上に、二人いた。
若い女が一人。長い竿を、蓋の中へまっすぐ下ろしている。
竿を抜いて、濡れた跡を目で読んで、石板に何か書いた。
隣の年かさの男が、自分の石板を見せた。
女が、それを覗き込む。
二人で、頷いた。
「合った」
「合いました」
声が、窓の隙間から届いた。
「何をしているんでしょう」
アンセルが言った。
「魔力樽の残りを、測っているのね。二人で別々に計算して、合わせているんだわ」
「二人で」
「読み合わせよ」
わたしは言った。
「契約書も、そうするの。一人が読んで、もう一人が写しを追う。二人とも同じところで止まらなければ、写し違いは無い」
「文物院の目録も、同じです」
アンセルは、窓から目を離さなかった。
「一人で数えた目録は、目録と呼びません。下書きと呼びます」
足場の二人は、石板を突き合わせて、もう一度頷き合っていた。
わたしは、それを見て、少し安心した。
人は、自分の仕事と同じ形をしたものを見ると、安心する。
———
船の中は、思っていたより広かった。
細長い客室に、椅子が二列ずつ並んでいる。窓は丸い。天井は低くない。床は、塔の渡し廊下と同じ板で張ってあって、歩くと同じ音がした。
わたしたちの席は、左の窓際だった。
通路を挟んだ向こうに、家族連れがいた。若い父親と、五つか六つくらいの男の子。男の子は、木を削った翼竜の玩具を両手で持っていた。
「翼竜、好きなの?」
男の子は、わたしを見て、玩具を少し引っ込めた。
「……じいちゃんが、乗ってた」
「おじいさまが」
「翼竜乗りだったんです」
父親が、代わりに言った。
「もう乗ってません。翼竜場が閉まったので。これは、じいさんが削ったやつです」
男の子は、翼竜の首を、窓のほうへ向けた。
「こっちのほうが、速い?」
「速いよ」
父親が言った。
「翼竜なら四日かかるところを、昼過ぎに着く」
男の子は、納得していない顔で、翼竜の首を撫でた。
客室の前のほうに、係の女が立った。三十を少し過ぎたくらいで、髪をきつくまとめている。
「客室係の、ダナと申します。本日は北方学都まで、四刻ほどの船旅でございます」
声は大きくないのに、客室の後ろまで届いた。
届く声の出し方を、知っている人の声だった。
———
渡し廊下の板が、一度だけ鳴った。
それから、床の下で、音が始まった。
細い唸りである。
遠くの蜂の巣に耳を当てたような、途切れない音。
三つの音が、少しずつ高さをずらして重なっていた。
「押し環ですね」
アンセルが言った。
「知っているの」
「文物院に、石場で使っていた古い押し環が一つあります。鳴らしたことはありませんが、どんな音がするかは、目録に書いてあります」
「目録に、音まで」
「音も、記録ですから」
窓の外で、塔がゆっくり下へ滑っていった。
船が、上がっている。
体が沈む感じは、ほとんど無い。窓の外の景色だけが、静かに入れ替わっていく。
塔が小さくなる。丘が小さくなる。王都の屋根が、ひとかたまりの灰色になる。
やがて、白いものが窓を覆った。
雲の中である。
しばらく何も見えなかった。
それから、急に明るくなった。
窓の下に、雲が海のように広がっていた。
上には、何も無い。
空の色が、地面から見るより、一段濃かった。
男の子が、窓に額をつけていた。
高さが整うと、船はほとんど揺れなくなる。
唸りだけが、床の下で続いている。
雲の海が、窓の外を、後ろへ、後ろへと流れていく。
進んでいるという感覚だけが、少しずつ薄れていく。
———
一刻が過ぎ、二刻目に入った。
アンセルは、木の箱から帳面を出して、何か書いていた。
覗くと、今朝の日付と、塔の数と、渡し廊下の板の数が書いてあった。
「数えていたの」
「癖です」
「板の数を」
「三十一枚でした」
わたしは、少し笑った。
この人と初めて会ったのは、寄贈の取り決めの席だった。二十頁の取り決めを、最後まで読んだのはこの人だけだった。十九頁目に、栞を三枚挟んで返してきた。
三枚とも、正しかった。
正しいものに栞を挟む人と、条を読む人が、同じ船で窓の外を見ている。
妙な組み合わせだと、人は言う。
わたしは、そう思っていない。読む人と数える人は、同じ種類の人である。どちらも、書いてあることと、起きていることの間に、隙間があると知っている。
アンセルが、帳面から顔を上げた。
「……唸りが、変わりましたか」
「気のせいじゃない?」
わたしは言った。
言いながら、耳を澄ませた。
床の下の音は、続いている。
続いているが、何かが違った。
「三つ、鳴っていましたね」
アンセルは、指を三本立てた。
「今は、二つです」
わたしは、もう一度耳を澄ませた。
高さのずれた音の重なりが、薄くなっていた。
三つ重なっていたものが、二つになっている。
言われなければ、気づかなかった。言われれば、もう、そうとしか聞こえなかった。
「環が一つ、休んでいるだけかもしれないわ」
「そうかもしれません」
アンセルは、そう言って、窓の外を見た。
わたしも見た。
雲の海が、流れていた。
流れていたが、さっきまでと違った。
流れが、遅くなっていた。遅くなりながら、少しずつ、流れる向きを変えていた。まっすぐ後ろへではなく、斜めに。
二つの唸りのうち、一つが、ふっと低くなった。
低くなって、途切れた。
残った一つが、細く鳴っていた。
しばらく鳴っていた。
それも、止んだ。
———
音が無くなると、客室は、急に広く感じた。
誰かの椅子が軋む音。紙をめくる音。咳払い。
今まで床の下の唸りに紛れていた音が、ひとつずつ聞こえるようになった。
客室の前に、ダナが立った。
さっきと同じ立ち方だった。
ただ、両手を体の前で重ねていて、その指に、少しだけ力が入っていた。
「お客様にお知らせいたします」
客室が、静かになった。
「現在、本船は、進む力に異常が出ております。安全のため、原因を確かめております。お席を立たず、そのままお待ちください」
一拍、誰も何も言わなかった。
それから、後ろのほうで、男が立ち上がった。
「落ちるのか」
商人風の、肩掛けの鞄を抱えた男だった。
「落ちるんじゃないのか、これは」
その声で、客室の空気が、一段低くなった。
通路の向こうで、男の子が、父親の袖をつかんだ。
ダナは、立ち上がった男のほうへ、まっすぐ顔を向けた。
「船が落ちることはございません」
はっきりした声だった。
「本船は、浮遊石が高さを保っております。何もしなくても、浮いております。止まっているのは、前に進む力だけでございます」
「……進む力だけ」
「はい。前に、進めなくなっております」
男は、しばらく立っていた。
それから、座った。座ったというより、膝が勝手に折れたように見えた。
いちばん悪い怖さが、ひとつ消えた。
客室の空気が、ほんの少しだけ戻った。
ほんの少しだけだった。
———
「落ちないのは、分かりました」
前のほうの席で、年配の女が言った。
背筋を伸ばして、膝の上の手袋を握っていた。
「でも、このままだと、どうなるんです。ずっと、ここにいるんですか」
ダナは、すぐには答えなかった。
「……ただいま、船長が地上と話しております。分かり次第、お伝えいたします」
答えになっていないことを、ダナ自身がいちばんよく分かっている顔だった。
客室の中に、小さな声がいくつも生まれた。
落ちないって。
進めないって。
どういうこと。
じゃあ、降りられないの。
わたしは、膝の上の乗船券を見た。
遅れたときの扱い。欠航したときの扱い。
進めなくなったときの扱いは、どこにも書いていない。
書いていないことが起きたとき、人は、まず全部をいっぺんに怖がる。
怖がるのは悪くない。ただ、全部をいっぺんに怖がると、どれから手をつければいいのか分からなくなる。
「アンセル」
「はい」
「落ちない。進めない。降りられない」
わたしは、指を一本ずつ折った。
「……いい話から悪い話まで、順番に並べましょう」
アンセルは、わたしの指を見た。
「降りられない、は、まだ誰も言っていません」
「言っていないわ。でも、進めないのに、降りられるとは思えないの」
「たしかに」
「だから、三つ目は、分からない、にしておく」
わたしは、三本目の指を、半分だけ折った。
「落ちない。これは確か。進めない。これも確か。降りられるかどうかは、分からない。……分からないものは、分からない欄に入れておくの。確かな欄に入れると、人は、それを信じるから」
アンセルは、少し黙った。
それから、自分の膝の上の、木の箱を見た。
「文物院にも、動かせない遺物はたくさんありますが」
アンセルは言った。
「人が乗ったまま動かない、というのは、初めてです」
「不謹慎よ」
わたしは言った。
「でも、少し分かる」
———
王都術務室の昼前は、茶の匂いがする。
誰かが必ず、この刻に湯を沸かす。誰が沸かしているのか、私はいまだに知らない。知らないまま、毎日その匂いで昼が近いと分かる。
私は、自分の卓で、学び舎の申請札の束を見ていた。
面白い仕事ではない。面白くない仕事を、面白くないまま片付けるのも、仕事のうちである。
AIエージェント:「観測:あなたは同じ札を三度めくっています」
「めくっている」
AIエージェント:「補足:三度とも、同じ欄で止まっています」
「黙れ」
最悪だ。
図星である。
政務術式支援班の卓で、リゼが顔を上げた。
「マリエさん、今ごろ雲の上ね」
「そのはずだ」
「いいなあ」
「湖の宿は、いいらしい」
「そっちじゃなくて」
リゼは、窓の外を見た。
「雲の上。わたし、まだ乗ったことない」
そのとき、部屋の入口の遠話鏡が鳴った。
———
鏡に映ったのは、マイスだった。
蒼穹空路社の運行の長である。去年、過剰予約の件で何度も顔を合わせた。四十くらいで、肩が広い。数を隠さない人だった。
その人の顔から、色が抜けていた。
「ユウさん。塔まで、来ていただけますか」
「何がありました」
「朝の二番、北方学都行きです」
マイスは言った。
「進めなくなりました。空の上で」
私が何か言う前に、椅子の倒れる音がした。
リゼが、立っていた。
手に持っていた写しを、卓に置いたのか落としたのか、分からない置き方をしていた。
「朝の二番」
リゼは言った。
「マリエさんと、アンセルさんが乗ってる」
鏡の向こうで、マイスが目を伏せた。
「……名簿に、お名前があります」
———
王都浮遊港の塔の三階に、運行の部屋がある。
去年と同じ部屋だった。
壁の一面が図になっていて、王都を真ん中に、線が四方へ伸びている。線の上に、船の名と刻を書いた札が刺してある。
一枚だけ、線の上にない札があった。
北へ伸びる線から、右へ外れたところに、ぽつんと刺してある。
その横に、小さな札がもう一枚。
半刻前の位置。
さらにその右に、もう一枚。
今の位置。
札は、東へ、並んでいた。
「定めの報せが、来なかったんです」
マイスが言った。
「朝の二番は、半刻ごとに、船の位置を遠話で知らせてきます。二刻目の報せが、来なかった。こちらから呼んで、ようやく船長が出た。そのときにはもう、線から外れていました」
壁の図の前に、若い術者が立っていた。
タリである。予約配座盤の見立てを組んでいる。去年、盤の入れ替えで欄の分け方が変わったことを、自分から申し出た人だ。
タリは、札と札のあいだを、指でなぞった。
「北へ進んでいた船が、東へ流されています。高いところの風は、この季節、西からまっすぐ吹きます。……その風の速さと、ほとんど同じです」
「風に、乗っている」
「乗っているんじゃなくて」
タリは言った。
「運ばれています」
———
部屋の奥の遠話鏡に、船の操舵室が映っていた。
映りは悪い。高いところからの遠話は、ときどき絵が崩れる。
崩れる絵の中に、五十がらみの男がいた。日に焼けた顔で、目の脇に深い皺がある。
「船長のホルトです」
マイスが言った。
「翼竜乗りでした。十年、北の路を飛んでいた。翼竜場が閉まって、うちへ来た」
私は、鏡の前に立った。
「王都術務室のユウです」
「聞いている」
ホルトの声は、崩れた絵より落ち着いていた。
「状況を、伺えますか」
「高さは、石が持っている。落ちる気配はない」
ホルトは言った。
「だが、前にも後ろにも、右にも左にも、船を動かせない」
「環は」
「三つとも、止めた」
「止まったのではなく」
「止めた」
ホルトは、言い直さなかった。
鏡の端から、若い男が顔を出した。船員の服を着ている。額に汗が浮いていた。
「樽番のベルノです。……樽が、空です」
ベルノは言った。
「四本とも、底しか残っていません。竿を下ろしても、先がほとんど濡れません」
「出る前の検算では」
ホルトが言った。
「足りているはずだった。航程の要る量に、余りまで乗せて、ぴったりだった」
———
「一つ目の環が咳き込んだとき」
ホルトは続けた。
「ベルノに樽を見させた。四本とも、底だった。……それで、残りの二つも止めさせた」
「止めさせた」
隣で、リゼが小さく繰り返した。
「進み続ければ、北方学都の近くまでは行けたかもしれん」
ホルトは言った。
「だが、着いた先で、止まれない。浮遊船は、止まるにも逆向きに注ぐ。進むのに使った樽と、止まるのに使う樽は、同じ樽だ。底を進むのに使い切れば、塔の前を、この速さで通り過ぎる」
私は、黙って聞いていた。
浮遊車のときに、同じ話をした。
止まるために魔力が要るなら、魔力が切れたときに止まれない。進むのと止まるのが同じ器から出ている乗り物は、器が空になると、進めなくなるだけでなく、止まることまで一緒に失う。
この人は、それを、咳き込んだ環の音ひとつで決めた。
「底は、残してある」
ホルトは言った。
「少しだけだ。使い道は、まだ決めていない」
「降りることは」
私は聞いた。
「できない」
ホルトの答えは、短かった。
「降りはじめるのに、下へ注ぐ。降りるのを止めるのに、上へ注ぐ。底の半分で降りはじめたら、残りの半分では止まれん。地面の手前で止まれない降り方は、降り方ではない」
そうだ。
この乗り物は、落ちない。
落ちないが、降りるのも、自分の力でやるしかない。
支えるのは無料で、動かすのは有料である。
上下も、動かすうちに入る。
「今は、風任せです」
ホルトは言った。
鏡の端で、ベルノが言った。
「船は、風の言うことしか聞きません」
———
「客室は」
リゼが、鏡に向かって言った。
言ってから、自分が口を挟んだことに気づいたらしく、私を見た。
私は、頷いた。
「客室は、どうなっていますか」
「保護術式は、樽とは別に詰めてある」
ホルトは言った。
「寒さと空気は、樽が空でも守られる。詰め替えの決まりは、航程の倍だ。……日が暮れるまでは、もつ」
日が暮れるまで。
窓の外を見た。
昼前である。
日が暮れるまでは、長いようで、長くない。
「係が、客に話している。落ちないことは伝えた。この先のことは、まだ伝えていない」
「伝えられることが、まだありませんから」
マイスが言った。
ホルトは、鏡の向こうで頷いた。
それから、少しだけ、声を落とした。
「……客の中に、術務室の方がいるそうだな」
「います」
「落ち着いておられる、と係が言っていた。客室の半分は、あの方の顔を見て座っている」
リゼが、息を吐いた。
吐いてから、両手で自分の頬を一度押さえた。
「マリエさんらしい」
「らしい」
私は言った。
この人は、書いていないことが起きたとき、書いていないことを、書いていない欄に入れる。
たぶん、今もそうしている。
———
遠話鏡の絵が、また崩れた。
崩れて、戻って、ホルトが何か言った。
音が遅れて届いた。
「次の報せは、半刻後だ」
鏡が暗くなった。
運行の部屋に、誰も喋らない間が落ちた。
マイスが、壁の図の前へ行った。
東へ並んだ札を、しばらく見ていた。
「魔力切れだ」
マイスは言った。
誰に言ったのでもない声だった。
「それも、高さは無事で、進む側だけが……」
最後まで言わなかった。
言わなくても、部屋の全員が分かった。
落ちないことは、救いである。
救いであるぶん、この先に打つ手が、何も思いつかない。
落ちる船は、落ちる前に何かをする。
落ちない船は、何もしないまま、ずっとそこにいる。
———
窓の外で、雲が止まった。
わたしがそれに気づいたのは、男の子が言ったからだった。
「雲、止まった」
通路の向こうで、男の子が窓に額をつけていた。
わたしも、窓の外を見た。
雲の海が、止まっていた。
さっきまで斜めに流れていた雲が、今は、窓の外の同じところに、同じ形で浮いていた。
船が止まったのかと思った。
違った。
雲の海の切れ間から、下が見えた。
遠く、下のほうに、茶色い畑と、細い川が見えた。
その川が、ゆっくりと動いていた。
雲は止まっている。
地面は動いている。
「風と、同じ速さになったんですね」
アンセルが言った。
「雲は、風に乗っています。船も、風に乗った。だから、雲は止まって見える」
「……それは、いい話? 悪い話?」
「分かりません」
アンセルは、正直に言った。
「分からない欄です」
———
ダナが、通路をゆっくり歩いていた。
一列ごとに止まって、同じことを小さな声で言っていた。
落ちません。寒くなりません。空気も、ございます。地上と話しております。
わたしの列まで来たとき、わたしは、声を落として聞いた。
「保護術式は、何刻もつの」
ダナの目が、少しだけ動いた。
「……詰め替えの決まりは、航程の倍でございます」
「航程は四刻ね」
「はい」
「出てから、二刻と少し」
「はい」
ダナは、それ以上言わなかった。
言わなくても、足し算はできる。
「ありがとう」
わたしは言った。
「今のは、わたしが聞いたから答えたのよね」
「……はい」
「なら、わたしが聞いたことにしておくわ。ほかの人には、聞かれたら答えて。聞かれなければ、今のままでいい」
ダナは、わたしを見た。
それから、ほんの少しだけ、肩の力を抜いた。
「かしこまりました」
ダナが次の列へ行ったあと、アンセルが言った。
「隠すんですか」
「隠さないわ。聞かれたら答える、と言ったでしょう」
「聞かれなければ」
「聞かれなければ、知りたくない人かもしれないの」
わたしは、通路の向こうの男の子を見た。
男の子は、翼竜の玩具を、窓に向けていた。
飛ばしているつもりらしかった。
止まった雲の上を、木の翼竜が、ゆっくり進んでいく。
「知る権利はあるわ」
わたしは言った。
「知らないでいる権利も、あるの。どちらも、本人が選ぶものよ。わたしが、まとめて決めていいものじゃない」
アンセルは、しばらく黙っていた。
「……文物院の寄贈の取り決めにも、同じ条がありました」
「どの条」
「十九頁目です。寄贈者の孫が閲覧を申し出たときの条」
わたしは、少し笑った。
この人は、こういう時に、こういうことを覚えている。
覚えていてくれて、よかったと思った。
———
運行の部屋で、私は、マイスに言った。
「魔力樽が空になったんですか」
「空です。四本とも」
「整備の記録を見せてください。今朝の、積み込みの分を」
マイスは、タリに目で合図した。
タリが、部屋を出ていった。
待つあいだに、私は、壁の図の横にある棚を見た。
浮遊船の手順書が並んでいる。
背表紙の新しいものと、古いものがある。新しいほうの背には、晶量、の二文字が入っていた。
魔力樽の中身は、昔から、樽の目盛りで数えてきた。
浮遊車の溜め筒と同じである。竿を下ろして、どこまで濡れたかを読む。目盛りいくつ。その数え方を、ここでは樽目と呼ぶ。
樽目は、かさを数える。
中身の濃さまでは数えない。
同じかさでも、濃い魔力と薄い魔力がある。樽が小さく、路が短いうちは、それで困らなかった。浮遊船が大きくなり、路が伸び、海を渡る便まで出るようになって、困るようになった。
それで、王都術務室が、中身そのものを数える単位を決めた。
晶量という。
新しい手順書は、全部、晶量で書いてある。航程に要る量も、積んだ量も、晶量で書く。
樽のかさを晶量に直すのは、船に据えた自動計量盤の仕事である。竿の代わりに樽の中を測り、濃さも読み、晶量で出す。
人は、盤の出した数を写せばいい。
普段は。
———
タリが、紙の束を持って戻ってきた。
「整備場から、借りてきました。今朝の、朝の二番の積み込み票です」
私は、それを卓の上に広げた。
一枚目に、赤い字で書き込みがあった。
自動計量盤 不調 修理待ち(三日前より)
「三日前から」
「盤の読みがおかしくなって、整備場が外しました」
マイスが言った。
「代わりの盤は、工房から来るのを待っています。そのあいだは、手順書どおり、整備の者が手で数えます。手で数えたときは、二人で検算する決まりです」
「二人検算」
「はい。整備士と、整備長。それぞれが別に計算して、合えば積み込み完了です」
私は、紙をめくった。
朝の二番 北方学都行き 積み込み票
航程に要る量 九百
竿の読み(残り) 三百
直し 五百四十
補い 二百
計 九百
二人検算 済 整備長ギド 整備士エダ
船長 受け ホルト
判が三つ、並んでいた。
今朝、塔の下で、竿を下ろしていた二人だろう。
合った、合いました、と言い合って、ここに判を押した。
船長は、要る量と計が同じ九百であるのを見て、受けの判を押した。
きれいな紙だった。
どこにも、書き損じがない。
AIエージェント:「観測:あなたは同じ行を四度読んでいます」
「黙れ」
四度読んでいる。
読むたびに、同じところで引っかかる。
竿の読みが、三百。
補いが、二百。
三百に二百を足しても、九百にはならない。
それなら、計の九百は、竿の読みと同じものを数えていない。
あいだに、直しの五百四十が入っている。三百が五百四十になっている。
かさが、中身に直されている。直されたところから先は、別のものを数えている。
なのに、紙のどこにも、それが書いていない。
どの数も、ただの数だった。
どの欄にも、何を数えた数なのかが、書いていなかった。
人類は、単位を書き忘れた数を、平気でやり取りする。
書いた本人には、分かっているからだ。分かっている人が書いた紙は、分かっている人にしか読めない。
そして紙は、分かっている人の手を離れて、次の人へ渡っていく。
私は、紙から顔を上げた。
「……この搭載量」
声が、思ったより低く出た。
「単位は樽目ですか、晶量ですか」
マイスが、紙を覗き込んだ。
覗き込んで、しばらく、何も言わなかった。
「え……」
マイスは言った。
「確認します」
確認します、と言う人は、その場では答えられない人である。
運行の長が、自分の船の積んだ量を、その場で答えられない。
私は、直しの欄の五百四十を見た。
三百を、五百四十に直した数。
一目を、一と八分に直した数。
その一と八分を、誰が、いつ、どの樽について決めたのか。
紙には、書いていない。
自分の顔が変わるのが、分かった。
リゼが、私の横顔を見ていた。
「まさか」
最悪だ。




