第23話 近いものを残せ
魔法学校の教室に入った瞬間、今日は嫌な予感がするな、と思った。
机の上に、透明な板が何枚も並んでいたからだ。
しかも、ただの板じゃない。
薄く光る。魔法で加工されたやつだ。
こういうのが出てくる授業は、だいたい面倒くさい。
リゼが隣で小さく言った。
「今日の先生、また変なもの持ってきたね」
「うん。嬉しそうなのが最悪だ」
「最近ずっと最悪って言ってる」
「最近ずっと最悪だからな」
事実だ。反論は受け付けない。
ルドーはいつも通り目つきが悪かった。
その目つきの悪い教師が、今日は教卓の上に透明板を三枚立てている。
一枚目には城壁。
二枚目には塔。
三枚目には森。
全部、雑な線で描かれている。
雑なのに、妙に嫌な予感だけは精密だ。
「座れ」
全員が座る。
ルドーは黒板に大きく書いた。
『近いものを残せ』
教室が少し静かになる。
前の方の生徒が首を傾げた。
「何をですか?」
「絵だ」
ルドーが即答する。
生徒の何人かが「は?」という顔をする。
分かる。私もした。
ルドーは透明板を指した。
「今日は“見せ方”の話だ。
王城では最近、遠景投影の魔法を使う機会が増えている」
私は少しだけ身を起こした。
遠景投影。たぶん立体地図とか幻灯とかの話だ。
ルドーは続ける。
「立体の地図。戦場の再現。幻灯の飾り。
便利だが、重なると壊れる」
透明板を三枚、少しずつずらして見せる。
手前に城壁。
その向こうに塔。
さらに向こうに森。
見れば、順番は分かる。
普通に見れば。
「さて」
ルドーが言った。
「これを一枚の板に描け。
見た通りにだ」
前列の生徒が呼ばれた。
元気そうなやつだ。こういう授業で最初に死ぬタイプ。
そいつは前に出て、白い描画板の前に立った。
そして順番に描いていく。
まず城壁。
次に塔。
最後に森。
描き終わった板を持ち上げる。
……変だ。
森の線が、城壁の前に出ている。
塔の一部も、城壁を突き抜けている。
つまり、全部が全部、最後に描いた順で前に来てしまっている。
教室に、なんとも言えない空気が流れる。
「……変です」
前列の生徒が自分で言った。
えらい。自分で気づけるのはえらい。
ルドーが冷たく言う。
「なぜ変だ」
「奥にあるものが……前に出てます」
「そうだ」
ルドーは黒板に書き足した。
『描いた順は、見える順ではない』
私は少しだけ頷いた。
当たり前のようで、やると壊れるやつだ。
———
ルドーは次に、別の生徒を呼んだ。
「では、お前は逆から描け」
「逆?」
「森からだ。次に塔。最後に城壁」
呼ばれた生徒は、少し戸惑いながらも描いた。
森。
塔。
城壁。
出来上がりは、さっきよりかなりマシだった。
森は後ろに引っ込み、塔も城壁の後ろに見える。
教室のあちこちで「おお」と声が漏れた。
ルドーが言う。
「これで十分か?」
少し静かになる。
そして、リゼが小さく手を挙げた。
「……見る向きが変わったら、だめになります」
良い。
私は少しだけ嬉しくなった。
ルドーは頷いた。
「そうだ。
今回はたまたま、“奥から順”が分かっていたからマシに見えただけだ」
透明板を少し傾ける。
城壁と塔の位置関係が、見る角度で変わる。
さっきまで塔の方が奥に見えていた部分が、少し横へずれると、塔の一部が城壁より手前に来る。
すると、さっきの“逆から描く”方法でも壊れる。
ルドーが言った。
「順番で解決しようとするな。
順番は、角度が変わると裏切る」
黒板にさらに書く。
『順番ではなく、距離を見ろ』
これは、だいぶ分かりやすい。
いい授業だ。珍しい。
———
ルドーは机の上から、小さな札束を取り出した。
細い木札だ。
片面に数字を書く欄、片面に描いたものを書く欄がある。
「これを距離札とする」
黒板に書く。
『距離札』
「一つの場所に何かを描くたび、
今そこに見えているものまでの距離を記録する」
前の方の生徒が聞く。
「距離が短い方が、手前ですよね」
「そうだ」
ルドーは頷いた。
「もっと近いものが来たら描き換える。
遠いなら捨てる。
それだけだ」
私は少しだけ口の端を上げた。
分かりやすい。やっぱり今日は珍しい。
ルドーは透明板の一部を指した。
「例えば、この位置だ」
城壁の線が通る位置。
その向こうで、塔の線も同じ位置を通る。
「先に塔を描いたとする。距離札には“遠い”と書く」
次に、城壁をその位置に描く。
「城壁の方が近い。だから描き換える」
そこで止める。
「森が来ても、もっと遠い。
だから捨てる」
前列の生徒が小さく言う。
「……近いものだけ残る」
「そうだ」
ルドーが黒板を叩く。
「それが欲しかった結果だ」
リゼが小声で言った。
「なんか、郵便局のときにちょっと似てる」
「うん」
私は答えた。
「全部を見るんじゃなくて、その場所に今ある“正解”を一個だけ残す」
「ユウ、ちょっと楽しそう」
「いや」
「楽しそう」
「……ちょっとだけ」
まあ、これは面白い。悔しいけど。
———
後半は演習だった。
生徒たちは二人一組で、簡単な立体図形を投影する。
立方体。
円柱。
小さな木の模型。
まずは、距離札なしで描く。
当然、壊れる。
「向こうの辺が前に来た!」
「影の線が飛び出た!」
「箱の中身が外に見える!」
すごい。
人類は何も考えずに描くと、箱の中身すら外に出す。
次に距離札を使う。
一つの点ごとに、今そこに見えているものまでの距離を書く。
もっと近いものが来たら更新。
遠いなら捨てる。
すると、急に絵が壊れにくくなる。
完璧ではない。
でも、前よりずっとマシだ。
ルドーが歩き回りながら言う。
「お前、遠いのを上書きするな」
「そこ、距離を書け」
「その辺は捨てろ。見えないものを描くな」
私は最後の一言に少し反応した。
見えないものを描くな。
なるほど。
これは絵の話でもあり、情報の話でもある。
———
ルドーは教室の後ろに置いてあった、少し大きな魔導投影板を前に出した。
「では最後に、現場で壊れる例を見せる」
嫌な言い方をするな。
投影板の上に、立体の簡易地図が浮かぶ。
城壁。塔。森。
そこにさらに、小さな旗の印が立つ。
王城の作戦室で使いそうなやつだ。
「これを距離札なしで回すと、どうなるか」
ルドーが術式を切り替える。
地図が回転する。
すると、塔が一瞬、城壁の前に飛び出す。
森の線が旗を突き抜ける。
遠くの丘が、手前の門より前に出る。
教室のあちこちで「うわっ」と声が上がる。
「気持ち悪い」
「酔いそう」
「どこが手前か分からない」
ルドーが頷く。
「そうだ。
見えている順がおかしいと、人は信用しない」
投影を止め、今度は距離札ありに切り替える。
同じ地図が回る。
今度は、崩れない。
城壁は手前に残り、塔はその後ろに収まり、旗もちゃんと前後関係を守る。
見た目は地味だ。
だが、安定している。
ルドーが言う。
「派手な魔法ではない。
だが、見え方が壊れていないというだけで、人はそれを“本物っぽい”と感じる」
私は少しだけ頷いた。
そういうもんだ。人間は。
———
授業の終わり。
ルドーは黒板に宿題を書いた。
『宿題:重なった絵を壊さず描け』
『条件:近いものだけを残せ』
今日は、だいぶ分かりやすい。
教室の空気もそれを感じている。
だがもちろん、ルドーは一拍置いて私を見た。
「……ユウ」
はい来た。
「前へ」
もう様式美だな。嫌だが。
私は前に出た。
ルドーは声を落として言った。
「お前は紙で出すな」
「……はい」
よし、一回だ。進歩。
ルドーが少しだけ頷く。
「お前の宿題は現場だ。
“奥にあるものが手前に出る”事故を直してこい」
「どこで」
「王城の展示室だ」
私は少し黙った。
展示室。
リゼが小さく聞く。
「何それ」
ルドーが答える。
「明日、東方使節団向けの夜会で、王国の宝物を投影で見せるらしい。
だが今の術式だと、重なり順が壊れて安っぽい」
なるほど。
外交案件の残り火か。最悪だ。
ルドーは続ける。
「しかも、偉い連中は“きらびやかに見せろ”としか言っていない。
現場は死ぬ」
「いつものやつですね」
「そうだ」
ルドーは頷いた。
「まず、近いものを残せ。
光の話は、その次だ」
光の話。
嫌な予感が増えた。次回予告が雑すぎる。
ルドーは最後に黒板を指した。
『近いものを残せ』
「覚えておけ。
描いた順ではなく、見える順を残せ。
そうしないと、全部が嘘っぽくなる」
嫌なほど筋が通っている。
———
授業が終わって、廊下に出る。
リゼが私の袖を掴んだ。
「ユウ」
「うん」
「今日の授業、好きかも」
「距離札のやつ?」
「うん。
“今そこに見えてる正解を一個だけ残す”って、分かりやすかった」
「そうだな」
私は少し考えてから言った。
「全部を残そうとすると壊れる。
今見えるものだけ残す方が、むしろ本物っぽくなる」
リゼが頷く。
「なんか、人生みたい」
「急に重くするな」
「ユウが言ったんでしょ」
たしかに少しそれっぽいことを言った。反省する。
窓の外には、夕方の光。
王城の展示室の方角が、妙に静かに見える。
明日はたぶん、静かには終わらない。
最悪だ。
でも、たぶんちょっと面白い。




