↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
魔法世界は運用で回る  作者: 月の位相
夫婦編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
226/246

第226話 獣と君

 初夏の光は、石畳でいちど跳ねてから目に入ってくる。


 魔法学校の中庭には、水盤が一つある。昼前の休みになると、学生はそこへ集まる。桶の水で手首を冷やす者。縁に腰かけて菓子をかじる者。木陰で、明日の実技の心配をしている者。


 私は、講堂を出て、その脇を通ろうとしていた。


 歌が聞こえた。


 明るい旋律だった。

 祭りの屋台から流れてきそうな、妙に無邪気な歌だった。


 手を打つ音が混じっている。二つ打って、一つ空ける。それだけの拍だった。覚えやすい。二度聞けば、私にも覚えられた。


 水盤の縁に、学生が四人。声を揃えている。足で拍を取っている者もいる。誰も上手ではない。上手である必要のない歌だった。


 合いの手が入った。


 短い言葉だった。王国語として崩れているわけではない。ただ、どの語がどの語に掛かっているのかが分からない。そういう並びだった。


 そこで、廊下の側にいた大人の顔色が変わった。


 一人ではない。

 三人とも、同じ瞬間に変わった。


 書庫係の年配の女性が、抱えていた綴じ紐の束を持ち直した。実技の若い教師が、庭から目をそらして歩き出した。そして、私の隣にいたルドーが、動かなくなった。


 ルドーが動かないのは、珍しい。この人はだいたい、動くか、動かない理由を一言で言うかの、どちらかである。


「先生」


「聞いている」


 ルドーは、庭を見たまま言った。返事のわりに、顔が動いていない。


「何の歌ですか」


「……歌だ」


 答えになっていない。


 この人の返事が短いのはいつものことである。短いのと、避けるのは、違う。


———

 リゼが、水盤のほうから歩いてきた。紙に包んだ菓子を持っている。


「ユウ」


「ここにいたのか」


「ねえ、あれ」


 リゼが、後ろを指した。


「最近よく聞くんだけど、何の歌なの?」


 水盤の学生が、こちらに気づいた。若い顔が、嬉しそうに振り向く。


「『獣と君』です」


 明るい声だった。


「映像広場で、いちばん書き込みの多い映像片ですよ。王国で一番なんです」


「一番」


「はい。二番に四倍くらい差をつけてます」


 私は、礼を言った。学生は、また歌のほうへ戻っていった。


 映像広場というのは、ここ二年ほどで王都に広まった服務である。


 誰でも、映像片を一本上げられる。上げた映像片は、誰でも見られる。見た者は、その下の棚に、思ったことを書ける。棚の書き込みは、上げた者にも、他の見た者にも読める。


 それだけの仕組みである。


 万景社という新しい会社が営んでいて、二年前には術者の遊び場だった。いまは、菓子屋が作り方を上げ、治療師が包帯の巻き方を上げ、王都報導社が夕刻報せの短い版を上げている。祖母が孫の初歩きを上げているのも見たことがある。


 その広場で、いちばん人が書き込んでいるものが、この歌だという。


 私は、ルドーを見た。


 ルドーは、まだ庭を見ていた。


「先生」


「聞いている」


「顔色が変わりましたね」


「変わった」


 否定しないのが、この人である。


「あとで話す」


 ルドーは、それだけ言って歩き出した。


 リゼが、私の袖を軽く引いた。


「なんか、変じゃない?」


「変だ」


 AIエージェント:「観測:この節は、直近三十日であなたの周囲で十一度流れています」


「十一度」


 AIエージェント:「補足:うち四度は、あなたが鼻歌で追っていました」


「黙れ」


 最悪だ。


———

 昼過ぎ、講堂の裏の廊下でルドーが立ち止まった。


 窓の外は明るい。石壁の照り返しが眩しくて、ルドーの顔だけが暗く見えた。


「さっきの歌だが」


「はい」


「古い見世物の言い回しが、混じっている」


 私は、待った。


「三十年ほど前だ。夜の市で、こっそり売られていた類のものだ」


「……それは」


「食卓で説明するには、向かん」


 ルドーは、それだけ言った。


 私は、それ以上は聞かなかった。聞いても、この人は言わない。言わないと決めた話題については、この人は石より硬い。


「本体は、とうに誰も見ておらん」


 ルドーが続けた。


「見ておらんのに、言い回しだけが残った。三十年、飲み屋と、荷馬車の宿と、若い術者の詰所を、転々としてきた」


「言い回しだけが」


「言い回しだけだ」


 ルドーは、窓の外を見た。


「知っている者は、笑って使う。知らん者は、意味が分からんまま覚える。それでも通じるので、誰も困らん。困らんまま、三十年だ」


「物のほうは、どうなったんですか」


 ルドーが、こちらを見た。この話になって、はじめて顔を動かした。


「魔法横丁に出ている」


「……売り物として、ですか」


「売り物としてだ」


 ルドーは、窓へ顔を戻した。


「値は聞くな。聞くと、今日一日、その数のことを考える羽目になる」


「数」


「聞くなと言った」


「そこへ、節が付きました」


「付いた」


 ルドーが、短く息を吐いた。


「困ったことに、わしはもう、あれを鼻で歌える」


 最悪だ。私もである。


———

 午後、王都術務室へ寄った。所在台帳の続きの用である。


 用は四半刻で済んだ。済んでから、フィンが茶を持ってきて、向かいに座った。座り方で分かる。この人は、休みの日の話をするときだけ、座り方が違う。背もたれを使わなくなる。


「ユウさん、『獣と君』、ご存じですか」


「今朝、覚えました」


「覚えちゃいましたか」


「覚えました」


 フィンは、嬉しそうな顔をした。嬉しそうな顔をしてから、少し困った顔になった。この二つが同時に出るのが、この歌の厄介なところらしい。


「あれ、人が歌ってないんですよ」


「歌っていない」


「歌の生成変換器です。半年くらい前から出回ってます」


 フィンは、早口になった。


「文を作る変換器と、作りは同じらしいです。大量の歌を聞かせて、続きを当てさせる。当てさせ続けると、頼んだ言葉から節と声が出てくるようになる。頼むほうは『明るい、跳ねる、女の声、短い』みたいに書くだけです」


「歌詞は」


「歌詞も頼めます。頼まないで、こちらで用意した文を歌わせることもできます。『獣と君』は、たぶん後ろです」


 私は、茶を置いた。


「用意した文が」


「はい。例の、三十年の言い回しです」


 フィンが、少しだけ声を落とした。この人でも落とす。


「上げ主は灰猫という名乗りの人で、素性は誰も知りません。二年前に一本上げて、それきりです」


「それきり」


「それきりです。何も言わない。消しもしない」


 私は、少し考えた。


「数は」


「再生が四千八百万。書き込みが二百万を超えました。先月です」


「……王国の人の数は」


「そこは、いいんです。見る人は国の外にもいますし、一人で何度も書きますから」


 フィンは手を振った。


「大事なのは、そこじゃなくて、二番との差です。去年まで王国で書き込みが一番多かったのは、商会が賞品を配った映像片で、五十五万でした。それを四倍近く抜いています」


「四倍」


「四倍です。しかも、まだ増えています」


 フィンは、自分の携帯術盤を出して、こちらへ向けた。


 棚の書き込みが、下から上へ流れていく。止まらない。止まる気配がない。


「三十拍に三つくらい、増えます」


「……それは」


「ずっとです。二年、ずっとです」


 私は、流れる文字を見ていた。


 見ているうちに、違和感が来た。


 どの書き込みも、歌の話をしていなかった。


———

 帰りに、遠回りをした。


 魔法横丁は、王都の北側にある。二本の大通りの間に残った細い道が、いつの間にか市になった場所である。建物が上へせり出しているので、昼でも空がほとんど見えない。


 記憶石屋の戸を開けると、サイさんが帳簿から顔を上げた。


「これは。……ユウ様」


「探し物ではないんです」


 私は、少し迷ってから言った。


「三十年前の、夜の市の品を置いている店があると聞きました」


 サイさんは、帳簿を閉じた。閉じ方が、いつもより丁寧だった。


「歌のほうですね」


「……はい」


「うちにも、一つあります」


 サイさんは、奥を顎で示した。


「出しておりません」


「売れないものですか」


「売れます。いまは、いちばん売れます」


 サイさんは、帳場に肘をついた。


「値の付け方が、うちのやり方ではないので」


 私は、待った。


「うちは、中身を見て値を付ける店です。ちゃんと映るか。欠けが無いか。何度目の写しか。……あれは、中身で値が付いておりません」


「では、何で」


「数です」


 サイさんは、通りの奥を顎で示した。


「見てくるとよろしい。値札が出ております」


 この人は、分からないことを分からないと言う人である。今日は、言えることだけを言った顔をしていた。


———

 台は、通りの奥にあった。


 布を敷いた上に、小さな硝子箱が一つ据えてある。中に、古い水晶が一つ。角が擦れている。箱は、絵の側を奥へ向けて立ててあった。何が描いてあるかは、見えない。


 その手前に、札が立っていた。


   銀貨六百六枚

   銅貨六百六枚


 私は、二度読んだ。


 台の主は、若い男だった。私が札を読んでいるのを見て、黙って待っていた。慣れている。


「下の行も、値段ですか」


「値段です」


「銅貨六百六枚は」


「銀貨のほうに比べたら、あって無いようなものですよ」


 男は、あっさり答えた。


「値段の話じゃないんです、下の行は」


「……歌ですか」


「歌です」


 男は、指で札を叩いた。


「合いの手に、数が混じってるんですよ。知らない人には、ただの数です。知ってる人には、そうじゃない。だから、値札をその数にしてあります」


「前に出したときは」


「二百二と、二百二でした。半日で売れました」


「次は」


「まだ残ってます。数は、いくつもあるので」


 私は、硝子箱を見た。


 銀貨六百六枚。王都の外れなら、小さい店が一つ買える。


「最初に写したぶんなら、もう一つ上です」


 男が、付け足した。


「あれは、めったに出ません。出たら、その日のうちに動きます」


「買う人は、見るために買うんですか」


 男は、はじめて笑った。


「見たい人は、三十年前に見てますよ」


「では」


「あの数を払いたい人です」


———

 大通りに戻ると、日が戻ってきた。


 私は、少しのあいだ、そこに立っていた。


 言い回しのほうは、軽くなって遠くまで飛んだ。飛んだぶん、遠くの人まで知っている。

 元の物のほうは、逆に動いていた。誰も見ないのに、値が上がっている。


 同じ一つの見世物から、正反対の二つが出ていた。


 それから、もう一つ気づいた。


 あの銀貨六百六枚は、誰の手に入るのか。


 作った者ではない。三十年前に売って、とうに畳んでいる。

 演じた者でもない。

 入るのは、台の主と、それをどこかの家の倉から見つけてきた誰かである。


 名前が広がった側と、金が入る側が、別々になっている。


 ルドーの言ったとおりだった。

 私は、その数のことを考えながら、東市場まで歩いた。


———

 夕方の市場は、匂いで道が分かる。焼いた粉の匂いの角を曲がると、干した魚の匂いになる。その先が、煮た豆の匂いである。三つ目の匂いのところに、リゼの好きな豆屋がある。


 その手前で、子どもの声がした。


 五つか六つの子が、母親の手を引きながら、例の合いの手を歌っていた。二つ打って、一つ空ける拍で、足を跳ねさせている。


 母親の足が、止まった。


「ねえ、これ、どういう意味?」


 子どもが、上を向いた。


 母親は、少しのあいだ、何も言わなかった。


「……昔の、劇の、言い回し……かな」


「どんな劇?」


「大人になってから知ればいい劇」


「学校でみんな歌ってるよ」


 母親は、しばらく子どもの頭を見ていた。


「学校はたまに地獄を持ち帰るのよ」


 子どもは、意味が分からない顔をして、また歌い出した。


 母親は、豆屋の列に並び直した。列に並ぶ人が、三人ほど、同じ方向を見ないようにしていた。


 私は、そのまま通り過ぎた。


 あの母親は、嘘をついていない。

 説明していないだけである。

 そして、説明しないという判断を、たぶん、今日はじめてしたわけではない。


 最悪だ。


———

 翌日の講堂は、いつもより静かだった。


 静かなのは、たいてい、全員が同じことを考えているときである。


 ルドーが、表示盤の前に立った。


「歌の話をする」


 講堂が、わずかに揺れた。笑いとも、身じろぎともつかない音である。


「流行っている歌がある。学内で歌うな、と言うつもりはない。言っても無駄だからだ」


 誰かが笑った。


「その代わり、何が起きているかは教える。誰かが説明に困ったとき、困っている理由が分かるようにしておく。それだけだ」


 ルドーは、表示盤に一つ書いた。


   符丁


「ずいぶん前に、郵便局でやったな」


 ルドーが、こちらを見ずに言った。


「郵便で、符丁表が合わなくて地獄になった話だ。番号と文字の対応表を、二種類同時に回していた」


「覚えています」


「あれは、取り決めた対応表だ。誰かが決めて、紙にして、配った」


 ルドーは、その下に書き足した。


   符丁表  決めた者がいる

   符丁   決めた者がいない


「符丁には、もう一つの顔がある。仲間内でだけ通じる言い回しのことだ。誰も決めておらん。紙も無い。それなのに、通じる者のあいだでは、寸分違わず通じる」


 ルドーが、講堂を見渡した。


「どちらが厄介だと思う」


 前の列の学生が手を挙げた。


「決めた者がいるほうです。間違って配られたら、直せません」


「直せる。刷り直せばいい」


 次が挙がった。


「決めた者がいないほうです。誰にも直せません」


「近い」


 三人目。


「いつからその意味になったのか、誰も知らないから、ですか」


「それだ」


 ルドーは、指を一本立てた。


「符丁表は、配った者が回収できる。符丁は、誰の手にもない。手にないものは、止められん」


 ルドーが、表示盤から離れた。


「ユウ」


「はい」


「はいは一回だ」


 もう様式美である。講堂の何人かが笑った。


「続きを説明しろ。わしは、この歌の中身を説明する気がない」


「分かりました」


 私は、前に出た。


———

「まず、順番を確かめます」


 私は、表示盤に四つ書いた。


   一、ある見世物があった

   二、その中の言い回しだけが、外へ出た

   三、外に出た言い回しが、三十年、人の口を回った

   四、そこに、生成変換器が節を付けた


「一と二のあいだで、何かが落ちています」


「何ですか」


 前の列の学生が聞いた。


「文脈です」


 私は、二の横に線を引いた。


「言い回しというのは、もともと、どこかに置いてあります。誰が、誰に、どういう場面で言ったか。その置き場所ごと持ち出さないと、意味は運べません。ですが、人は、置き場所を運びません。面白い部分だけを、つまんで持っていきます」


「つまむと、どうなりますか」


「軽くなります。軽いものは、遠くまで飛びます」


 私は、三の横に書いた。


   三十年、飛び続けた


「元の文脈から切り離された言葉が、長く漂っていたんです。そこへ生成変換器が、妙に明るい旋律を付けてしまった」


 リゼが、後ろの席から言った。


「しまった、なんだ」


「しまった、ですね」


「変換器が悪いの?」


「いいえ」


 私は、首を振った。


「変換器は、頼まれた言葉に節を付けただけです。中身が何かは、見ていません。見る仕組みが入っていません。明るい節を頼まれたので、明るい節を付けた。それだけです」


「じゃあ、頼んだ人が悪いの」


「そこも、たぶん、はっきりしません」


 私は、表示盤に戻った。


「頼んだ人は、三十年転がっていた言葉を拾いました。拾った時点では、もう軽くなっていた。軽いものを拾った人が、どこまで重さを知っていたかは、外からは分かりません」


 講堂が、静かになった。


「これは、誰かが悪いという形をしていません。だから、片づかないんです」


———

「次に、二重になっているところを見ます」


 私は、表示盤を消して、二つ書いた。


   元を知っている人  危ない歌

   元を知らない人   変な歌


「同じ歌です。同じ音が、同じ順で鳴っています。それでも、聞いている人によって、別のものが鳴っています」


「どっちが本当なんですか」


 後ろのほうから声がした。


「どちらも本当です」


 私は言った。


「意味を知っている人には危険で、知らない人には無害に見える。その二重構造が、流行をややこしくしています」


 リゼが、言った。


「無害に見えるだけなんだね」


「はい。見えるだけです」


 私は、二つの行のあいだに線を引いた。


「厄介なのは、この線が、外から見えないことです。教室で歌っている四人のうち、何人が知っているか。歌っている本人にも分かりません。知っている者は、たいてい黙っています。知らないふりをしたほうが、この歌は歌いやすいので」


「知ってても歌うの?」


「歌います」


 私は言った。


「そこが、この歌のいちばん正直なところです」


———

「では、なぜ流行ったのか」


 私は、表示盤を大きく消した。


「名曲だから、ではありません」


 私は書いた。


 引っかかりの数


  ・節が短く、二度で覚えられる

  ・拍が二つと一つで、手が勝手に動く

  ・踊りが簡単で、足を跳ねさせるだけでいい

  ・合いの手が短く、書き写しやすい

  ・意味が分からなくても歌える

  ・知っている者には、危ない可笑しさがある

  ・知らない者には、ただの変な歌に見える

  ・説明できないこと自体が、話の種になる

  ・広まっていいのか、という困惑が、そのまま広める力になる

  ・生成変換器の作った節が、妙に体温が低い


「最後のものを説明します」


 私は、いちばん下を指した。


「この歌は、うまく作られていません。人が作った歌なら、必ずどこかに作った人の癖が出ます。息継ぎの位置とか、盛り上げ方とか。この歌には、それがありません。平らです」


「平らだと、どうなるの」


 リゼが聞いた。


「上に、何でも載ります」


 私は言った。


「濃いものが載っても、節のほうが押し返さない。押し返さないので、載ったものがそのまま聞こえます。三十年ぶんの言い回しが、明るい節の上に、素のまま乗っています」


 ルドーが、後ろで言った。


「落差だな」


「落差です」


 私は、表示盤の前に立ち直した。


「これは、名曲だから流行ったというより、流行るために必要な引っかかりが妙に揃っていたんだと思います」


「褒めてるの?」


 リゼが言った。


「観察しています」


 講堂が、少し笑った。


 AIエージェント:「補足:この十項目のうち、六つは歌の性質ではなく、人の側の性質です」


 私は、少しのあいだ、黙った。


「……そうだな」


 これは、あとで使う。


———

 授業の終わりに、私は、書き込み棚を映した。


 万景社の広場は、映像片の下に棚がある。棚を開くと、書き込みが下から上へ流れていく。流れが速いときは、それだけを流して見る盤がある。流し盤という。映像を見ずに、棚だけを開くための道具である。


 道具として作られてしまっている時点で、私は、だいたいのことを察していた。


 流し盤を講堂の表示盤へ繋いだ。


 文字が、流れ始めた。


   おはよう

   今日から試験期間

   だれかいる?

   いるよ

   昨日の雨すごかったね

   北三町区、朝から並んでる

   合いの手のところ

   もう八回目の一番乗り

   仕事行きたくない

   いってらっしゃい

   いってきます


 講堂が、静まった。


 リゼが、立ち上がっていた。


「これ、歌の感想じゃないよね?」


「はい」


 私は言った。


「歌の下に、別の広場が生えています」


 誰も、何も言わなかった。


 文字は、流れ続けていた。


———

 夜、家に帰った。


 リゼが豆を煮ていて、家じゅうが甘い匂いだった。リゼの豆は、うちの豆である。ヴァルンの家から分けてもらう種で、煮ると少し粉っぽくなる。私はこの粉っぽさが好きだが、リゼは失敗だと思っているらしい。何度言っても信じない。


「今日の、まだ考えてる?」


 リゼが、椀を置きながら言った。


「考えている」


「何を」


「分からないところを、分からないまま数えている」


 私は、匙を取った。


「歌のほうは、だいたい分かった。流行り方も分かる。分からないのは、棚のほうだ」


「挨拶してたね」


「していた」


 リゼが、向かいに座った。


「あれ、なんで歌の下でやるんだろう」


「それだ」


 私は言った。


「囁がある。掲示の札面もある。飲み屋もある。どれも、挨拶をするために作られている。歌の下は、感想を書くために作られている。なのに、挨拶は歌の下でされている」


「変だよね」


「変だ」


 私は、豆をすくった。


「作った人の考えた用途と、実際の用途が、ずれている。ずれているだけなら、よくある。俺が引っかかっているのは、ずれ方の大きさだ」


「大きいの?」


「大きい。二百万だ」


 リゼが、匙を止めた。この人が考えるときは、匙が止まる。


「……二百万人が挨拶したの?」


「そこまでは分からない。一人が何度も書く」


「それでも、多いね」


「多い」


 リゼは、しばらく黙っていた。


「お店の前みたい」


「店の前」


「うん」


 リゼが、椀を持ち直した。


「東市場の豆屋さん、いつも前に人が立ってるでしょ。買いに来た人じゃないのに。あそこで待ち合わせするの、うちの学校でも普通だし」


「豆は関係ないな」


「関係ない」


 リゼが笑った。


「でも、あそこに行けば誰かいるから」


 私は、匙を置いた。


 この人は、いつも、私が十行かけて言うことを一行で言う。


———

 揺れたのは、その半刻ほどあとだった。


 最初に、棚の上の皿が鳴った。


 次に、床が来た。下から持ち上げるような、鈍い動き方だった。長い。思ったより長い。


「リゼ」


「うん」


 リゼが、卓の下に入った。私も入った。炉の火は、夕方に落としてある。


 窓の外で、犬が鳴いた。どこかで、金物が落ちる音がした。遠くで、誰かが短く叫んだ。


 揺れは、十を数えるくらいで、収まった。


 私は、卓の下から出た。


 棚の瓶が一つ、床で割れていた。豆が転がっている。それだけだった。


「怪我は」


「ない。ユウは」


「ない」


 リゼが、灯りを直した。私は、窓を開けた。


 通りに、人が出ていた。向かいの家の窓が、次々に明るくなる。声が、あちこちで上がっている。怖がっている声ではない。確かめ合っている声だった。


「大丈夫ですかー」


「こっちは平気です」


「棚が落ちただけ」


 私は、携帯術盤を出した。


 囁を開いた。


 開かなかった。


 何度か押した。回っているだけである。繋ぎに行って、返ってこない。


 AIエージェント:「観測:囁への繋ぎが、九割方戻っていません」


「壊れたのか」


 AIエージェント:「推測:壊れたのではなく、混んでいます。揺れの直後に、王都と近隣から一斉に人が来ています」


「……助かる」


 私は、盤を下ろした。


 混んでいる。それはそうである。囁は、この五年で、王都の速報の背骨になった。新聞社は刷る前の報せを流し、役所は災害の報せを流す。揺れたら、全員が同時に開く。


 全員が同時に開けば、開かない。


 当たり前のことである。当たり前のことが、いちばん困る刻に起きる。


「ユウ」


 リゼが、こちらを見ていた。自分の盤を、両手で持っている。


「囁、開かないんだけど」


「こっちも開かない」


「じゃあ、みんなどこで喋ってるの」


 私は、少しのあいだ、答えられなかった。


 それから、流し盤を開いた。


———

 文字が、流れていた。


 さっきまでより、ずっと速い。目で追える速さではなかった。


   揺れた

   西区、揺れた

   こっちも

   東門の外、棚の瓶が落ちた

   南の港は無事

   うちの犬が吠えてる

   北三町区、灯りは生きてる

   囁が開かない

   こっちも開かない

   ここが一番早いのなんでだ

   今ここ何人いる?

   いるよ

   いる

   いる


 私は、盤を持ったまま、動けなかった。


 リゼが、横から覗き込んだ。


「……なんでこの歌の下で地震の話をしてるの?」


 私は、文字が三行ぶん流れるのを待った。


 待っても、答えは変わらなかった。


「人がいるからです」


 言ってから、敬語になっていたことに気づいた。


 誰に向かって言ったのか、自分でも分からなかった。


 窓の外では、まだ人の声がしている。

 盤の中でも、人の声がしている。


 どちらも、同じことを言っていた。


 誰かいますか。

 いますよ。


 二年前に上げられて、それきり誰も何も言わない一本の映像片の、その下で。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。