第226話 獣と君
初夏の光は、石畳でいちど跳ねてから目に入ってくる。
魔法学校の中庭には、水盤が一つある。昼前の休みになると、学生はそこへ集まる。桶の水で手首を冷やす者。縁に腰かけて菓子をかじる者。木陰で、明日の実技の心配をしている者。
私は、講堂を出て、その脇を通ろうとしていた。
歌が聞こえた。
明るい旋律だった。
祭りの屋台から流れてきそうな、妙に無邪気な歌だった。
手を打つ音が混じっている。二つ打って、一つ空ける。それだけの拍だった。覚えやすい。二度聞けば、私にも覚えられた。
水盤の縁に、学生が四人。声を揃えている。足で拍を取っている者もいる。誰も上手ではない。上手である必要のない歌だった。
合いの手が入った。
短い言葉だった。王国語として崩れているわけではない。ただ、どの語がどの語に掛かっているのかが分からない。そういう並びだった。
そこで、廊下の側にいた大人の顔色が変わった。
一人ではない。
三人とも、同じ瞬間に変わった。
書庫係の年配の女性が、抱えていた綴じ紐の束を持ち直した。実技の若い教師が、庭から目をそらして歩き出した。そして、私の隣にいたルドーが、動かなくなった。
ルドーが動かないのは、珍しい。この人はだいたい、動くか、動かない理由を一言で言うかの、どちらかである。
「先生」
「聞いている」
ルドーは、庭を見たまま言った。返事のわりに、顔が動いていない。
「何の歌ですか」
「……歌だ」
答えになっていない。
この人の返事が短いのはいつものことである。短いのと、避けるのは、違う。
———
リゼが、水盤のほうから歩いてきた。紙に包んだ菓子を持っている。
「ユウ」
「ここにいたのか」
「ねえ、あれ」
リゼが、後ろを指した。
「最近よく聞くんだけど、何の歌なの?」
水盤の学生が、こちらに気づいた。若い顔が、嬉しそうに振り向く。
「『獣と君』です」
明るい声だった。
「映像広場で、いちばん書き込みの多い映像片ですよ。王国で一番なんです」
「一番」
「はい。二番に四倍くらい差をつけてます」
私は、礼を言った。学生は、また歌のほうへ戻っていった。
映像広場というのは、ここ二年ほどで王都に広まった服務である。
誰でも、映像片を一本上げられる。上げた映像片は、誰でも見られる。見た者は、その下の棚に、思ったことを書ける。棚の書き込みは、上げた者にも、他の見た者にも読める。
それだけの仕組みである。
万景社という新しい会社が営んでいて、二年前には術者の遊び場だった。いまは、菓子屋が作り方を上げ、治療師が包帯の巻き方を上げ、王都報導社が夕刻報せの短い版を上げている。祖母が孫の初歩きを上げているのも見たことがある。
その広場で、いちばん人が書き込んでいるものが、この歌だという。
私は、ルドーを見た。
ルドーは、まだ庭を見ていた。
「先生」
「聞いている」
「顔色が変わりましたね」
「変わった」
否定しないのが、この人である。
「あとで話す」
ルドーは、それだけ言って歩き出した。
リゼが、私の袖を軽く引いた。
「なんか、変じゃない?」
「変だ」
AIエージェント:「観測:この節は、直近三十日であなたの周囲で十一度流れています」
「十一度」
AIエージェント:「補足:うち四度は、あなたが鼻歌で追っていました」
「黙れ」
最悪だ。
———
昼過ぎ、講堂の裏の廊下でルドーが立ち止まった。
窓の外は明るい。石壁の照り返しが眩しくて、ルドーの顔だけが暗く見えた。
「さっきの歌だが」
「はい」
「古い見世物の言い回しが、混じっている」
私は、待った。
「三十年ほど前だ。夜の市で、こっそり売られていた類のものだ」
「……それは」
「食卓で説明するには、向かん」
ルドーは、それだけ言った。
私は、それ以上は聞かなかった。聞いても、この人は言わない。言わないと決めた話題については、この人は石より硬い。
「本体は、とうに誰も見ておらん」
ルドーが続けた。
「見ておらんのに、言い回しだけが残った。三十年、飲み屋と、荷馬車の宿と、若い術者の詰所を、転々としてきた」
「言い回しだけが」
「言い回しだけだ」
ルドーは、窓の外を見た。
「知っている者は、笑って使う。知らん者は、意味が分からんまま覚える。それでも通じるので、誰も困らん。困らんまま、三十年だ」
「物のほうは、どうなったんですか」
ルドーが、こちらを見た。この話になって、はじめて顔を動かした。
「魔法横丁に出ている」
「……売り物として、ですか」
「売り物としてだ」
ルドーは、窓へ顔を戻した。
「値は聞くな。聞くと、今日一日、その数のことを考える羽目になる」
「数」
「聞くなと言った」
「そこへ、節が付きました」
「付いた」
ルドーが、短く息を吐いた。
「困ったことに、わしはもう、あれを鼻で歌える」
最悪だ。私もである。
———
午後、王都術務室へ寄った。所在台帳の続きの用である。
用は四半刻で済んだ。済んでから、フィンが茶を持ってきて、向かいに座った。座り方で分かる。この人は、休みの日の話をするときだけ、座り方が違う。背もたれを使わなくなる。
「ユウさん、『獣と君』、ご存じですか」
「今朝、覚えました」
「覚えちゃいましたか」
「覚えました」
フィンは、嬉しそうな顔をした。嬉しそうな顔をしてから、少し困った顔になった。この二つが同時に出るのが、この歌の厄介なところらしい。
「あれ、人が歌ってないんですよ」
「歌っていない」
「歌の生成変換器です。半年くらい前から出回ってます」
フィンは、早口になった。
「文を作る変換器と、作りは同じらしいです。大量の歌を聞かせて、続きを当てさせる。当てさせ続けると、頼んだ言葉から節と声が出てくるようになる。頼むほうは『明るい、跳ねる、女の声、短い』みたいに書くだけです」
「歌詞は」
「歌詞も頼めます。頼まないで、こちらで用意した文を歌わせることもできます。『獣と君』は、たぶん後ろです」
私は、茶を置いた。
「用意した文が」
「はい。例の、三十年の言い回しです」
フィンが、少しだけ声を落とした。この人でも落とす。
「上げ主は灰猫という名乗りの人で、素性は誰も知りません。二年前に一本上げて、それきりです」
「それきり」
「それきりです。何も言わない。消しもしない」
私は、少し考えた。
「数は」
「再生が四千八百万。書き込みが二百万を超えました。先月です」
「……王国の人の数は」
「そこは、いいんです。見る人は国の外にもいますし、一人で何度も書きますから」
フィンは手を振った。
「大事なのは、そこじゃなくて、二番との差です。去年まで王国で書き込みが一番多かったのは、商会が賞品を配った映像片で、五十五万でした。それを四倍近く抜いています」
「四倍」
「四倍です。しかも、まだ増えています」
フィンは、自分の携帯術盤を出して、こちらへ向けた。
棚の書き込みが、下から上へ流れていく。止まらない。止まる気配がない。
「三十拍に三つくらい、増えます」
「……それは」
「ずっとです。二年、ずっとです」
私は、流れる文字を見ていた。
見ているうちに、違和感が来た。
どの書き込みも、歌の話をしていなかった。
———
帰りに、遠回りをした。
魔法横丁は、王都の北側にある。二本の大通りの間に残った細い道が、いつの間にか市になった場所である。建物が上へせり出しているので、昼でも空がほとんど見えない。
記憶石屋の戸を開けると、サイさんが帳簿から顔を上げた。
「これは。……ユウ様」
「探し物ではないんです」
私は、少し迷ってから言った。
「三十年前の、夜の市の品を置いている店があると聞きました」
サイさんは、帳簿を閉じた。閉じ方が、いつもより丁寧だった。
「歌のほうですね」
「……はい」
「うちにも、一つあります」
サイさんは、奥を顎で示した。
「出しておりません」
「売れないものですか」
「売れます。いまは、いちばん売れます」
サイさんは、帳場に肘をついた。
「値の付け方が、うちのやり方ではないので」
私は、待った。
「うちは、中身を見て値を付ける店です。ちゃんと映るか。欠けが無いか。何度目の写しか。……あれは、中身で値が付いておりません」
「では、何で」
「数です」
サイさんは、通りの奥を顎で示した。
「見てくるとよろしい。値札が出ております」
この人は、分からないことを分からないと言う人である。今日は、言えることだけを言った顔をしていた。
———
台は、通りの奥にあった。
布を敷いた上に、小さな硝子箱が一つ据えてある。中に、古い水晶が一つ。角が擦れている。箱は、絵の側を奥へ向けて立ててあった。何が描いてあるかは、見えない。
その手前に、札が立っていた。
銀貨六百六枚
銅貨六百六枚
私は、二度読んだ。
台の主は、若い男だった。私が札を読んでいるのを見て、黙って待っていた。慣れている。
「下の行も、値段ですか」
「値段です」
「銅貨六百六枚は」
「銀貨のほうに比べたら、あって無いようなものですよ」
男は、あっさり答えた。
「値段の話じゃないんです、下の行は」
「……歌ですか」
「歌です」
男は、指で札を叩いた。
「合いの手に、数が混じってるんですよ。知らない人には、ただの数です。知ってる人には、そうじゃない。だから、値札をその数にしてあります」
「前に出したときは」
「二百二と、二百二でした。半日で売れました」
「次は」
「まだ残ってます。数は、いくつもあるので」
私は、硝子箱を見た。
銀貨六百六枚。王都の外れなら、小さい店が一つ買える。
「最初に写したぶんなら、もう一つ上です」
男が、付け足した。
「あれは、めったに出ません。出たら、その日のうちに動きます」
「買う人は、見るために買うんですか」
男は、はじめて笑った。
「見たい人は、三十年前に見てますよ」
「では」
「あの数を払いたい人です」
———
大通りに戻ると、日が戻ってきた。
私は、少しのあいだ、そこに立っていた。
言い回しのほうは、軽くなって遠くまで飛んだ。飛んだぶん、遠くの人まで知っている。
元の物のほうは、逆に動いていた。誰も見ないのに、値が上がっている。
同じ一つの見世物から、正反対の二つが出ていた。
それから、もう一つ気づいた。
あの銀貨六百六枚は、誰の手に入るのか。
作った者ではない。三十年前に売って、とうに畳んでいる。
演じた者でもない。
入るのは、台の主と、それをどこかの家の倉から見つけてきた誰かである。
名前が広がった側と、金が入る側が、別々になっている。
ルドーの言ったとおりだった。
私は、その数のことを考えながら、東市場まで歩いた。
———
夕方の市場は、匂いで道が分かる。焼いた粉の匂いの角を曲がると、干した魚の匂いになる。その先が、煮た豆の匂いである。三つ目の匂いのところに、リゼの好きな豆屋がある。
その手前で、子どもの声がした。
五つか六つの子が、母親の手を引きながら、例の合いの手を歌っていた。二つ打って、一つ空ける拍で、足を跳ねさせている。
母親の足が、止まった。
「ねえ、これ、どういう意味?」
子どもが、上を向いた。
母親は、少しのあいだ、何も言わなかった。
「……昔の、劇の、言い回し……かな」
「どんな劇?」
「大人になってから知ればいい劇」
「学校でみんな歌ってるよ」
母親は、しばらく子どもの頭を見ていた。
「学校はたまに地獄を持ち帰るのよ」
子どもは、意味が分からない顔をして、また歌い出した。
母親は、豆屋の列に並び直した。列に並ぶ人が、三人ほど、同じ方向を見ないようにしていた。
私は、そのまま通り過ぎた。
あの母親は、嘘をついていない。
説明していないだけである。
そして、説明しないという判断を、たぶん、今日はじめてしたわけではない。
最悪だ。
———
翌日の講堂は、いつもより静かだった。
静かなのは、たいてい、全員が同じことを考えているときである。
ルドーが、表示盤の前に立った。
「歌の話をする」
講堂が、わずかに揺れた。笑いとも、身じろぎともつかない音である。
「流行っている歌がある。学内で歌うな、と言うつもりはない。言っても無駄だからだ」
誰かが笑った。
「その代わり、何が起きているかは教える。誰かが説明に困ったとき、困っている理由が分かるようにしておく。それだけだ」
ルドーは、表示盤に一つ書いた。
符丁
「ずいぶん前に、郵便局でやったな」
ルドーが、こちらを見ずに言った。
「郵便で、符丁表が合わなくて地獄になった話だ。番号と文字の対応表を、二種類同時に回していた」
「覚えています」
「あれは、取り決めた対応表だ。誰かが決めて、紙にして、配った」
ルドーは、その下に書き足した。
符丁表 決めた者がいる
符丁 決めた者がいない
「符丁には、もう一つの顔がある。仲間内でだけ通じる言い回しのことだ。誰も決めておらん。紙も無い。それなのに、通じる者のあいだでは、寸分違わず通じる」
ルドーが、講堂を見渡した。
「どちらが厄介だと思う」
前の列の学生が手を挙げた。
「決めた者がいるほうです。間違って配られたら、直せません」
「直せる。刷り直せばいい」
次が挙がった。
「決めた者がいないほうです。誰にも直せません」
「近い」
三人目。
「いつからその意味になったのか、誰も知らないから、ですか」
「それだ」
ルドーは、指を一本立てた。
「符丁表は、配った者が回収できる。符丁は、誰の手にもない。手にないものは、止められん」
ルドーが、表示盤から離れた。
「ユウ」
「はい」
「はいは一回だ」
もう様式美である。講堂の何人かが笑った。
「続きを説明しろ。わしは、この歌の中身を説明する気がない」
「分かりました」
私は、前に出た。
———
「まず、順番を確かめます」
私は、表示盤に四つ書いた。
一、ある見世物があった
二、その中の言い回しだけが、外へ出た
三、外に出た言い回しが、三十年、人の口を回った
四、そこに、生成変換器が節を付けた
「一と二のあいだで、何かが落ちています」
「何ですか」
前の列の学生が聞いた。
「文脈です」
私は、二の横に線を引いた。
「言い回しというのは、もともと、どこかに置いてあります。誰が、誰に、どういう場面で言ったか。その置き場所ごと持ち出さないと、意味は運べません。ですが、人は、置き場所を運びません。面白い部分だけを、つまんで持っていきます」
「つまむと、どうなりますか」
「軽くなります。軽いものは、遠くまで飛びます」
私は、三の横に書いた。
三十年、飛び続けた
「元の文脈から切り離された言葉が、長く漂っていたんです。そこへ生成変換器が、妙に明るい旋律を付けてしまった」
リゼが、後ろの席から言った。
「しまった、なんだ」
「しまった、ですね」
「変換器が悪いの?」
「いいえ」
私は、首を振った。
「変換器は、頼まれた言葉に節を付けただけです。中身が何かは、見ていません。見る仕組みが入っていません。明るい節を頼まれたので、明るい節を付けた。それだけです」
「じゃあ、頼んだ人が悪いの」
「そこも、たぶん、はっきりしません」
私は、表示盤に戻った。
「頼んだ人は、三十年転がっていた言葉を拾いました。拾った時点では、もう軽くなっていた。軽いものを拾った人が、どこまで重さを知っていたかは、外からは分かりません」
講堂が、静かになった。
「これは、誰かが悪いという形をしていません。だから、片づかないんです」
———
「次に、二重になっているところを見ます」
私は、表示盤を消して、二つ書いた。
元を知っている人 危ない歌
元を知らない人 変な歌
「同じ歌です。同じ音が、同じ順で鳴っています。それでも、聞いている人によって、別のものが鳴っています」
「どっちが本当なんですか」
後ろのほうから声がした。
「どちらも本当です」
私は言った。
「意味を知っている人には危険で、知らない人には無害に見える。その二重構造が、流行をややこしくしています」
リゼが、言った。
「無害に見えるだけなんだね」
「はい。見えるだけです」
私は、二つの行のあいだに線を引いた。
「厄介なのは、この線が、外から見えないことです。教室で歌っている四人のうち、何人が知っているか。歌っている本人にも分かりません。知っている者は、たいてい黙っています。知らないふりをしたほうが、この歌は歌いやすいので」
「知ってても歌うの?」
「歌います」
私は言った。
「そこが、この歌のいちばん正直なところです」
———
「では、なぜ流行ったのか」
私は、表示盤を大きく消した。
「名曲だから、ではありません」
私は書いた。
引っかかりの数
・節が短く、二度で覚えられる
・拍が二つと一つで、手が勝手に動く
・踊りが簡単で、足を跳ねさせるだけでいい
・合いの手が短く、書き写しやすい
・意味が分からなくても歌える
・知っている者には、危ない可笑しさがある
・知らない者には、ただの変な歌に見える
・説明できないこと自体が、話の種になる
・広まっていいのか、という困惑が、そのまま広める力になる
・生成変換器の作った節が、妙に体温が低い
「最後のものを説明します」
私は、いちばん下を指した。
「この歌は、うまく作られていません。人が作った歌なら、必ずどこかに作った人の癖が出ます。息継ぎの位置とか、盛り上げ方とか。この歌には、それがありません。平らです」
「平らだと、どうなるの」
リゼが聞いた。
「上に、何でも載ります」
私は言った。
「濃いものが載っても、節のほうが押し返さない。押し返さないので、載ったものがそのまま聞こえます。三十年ぶんの言い回しが、明るい節の上に、素のまま乗っています」
ルドーが、後ろで言った。
「落差だな」
「落差です」
私は、表示盤の前に立ち直した。
「これは、名曲だから流行ったというより、流行るために必要な引っかかりが妙に揃っていたんだと思います」
「褒めてるの?」
リゼが言った。
「観察しています」
講堂が、少し笑った。
AIエージェント:「補足:この十項目のうち、六つは歌の性質ではなく、人の側の性質です」
私は、少しのあいだ、黙った。
「……そうだな」
これは、あとで使う。
———
授業の終わりに、私は、書き込み棚を映した。
万景社の広場は、映像片の下に棚がある。棚を開くと、書き込みが下から上へ流れていく。流れが速いときは、それだけを流して見る盤がある。流し盤という。映像を見ずに、棚だけを開くための道具である。
道具として作られてしまっている時点で、私は、だいたいのことを察していた。
流し盤を講堂の表示盤へ繋いだ。
文字が、流れ始めた。
おはよう
今日から試験期間
だれかいる?
いるよ
昨日の雨すごかったね
北三町区、朝から並んでる
合いの手のところ
もう八回目の一番乗り
仕事行きたくない
いってらっしゃい
いってきます
講堂が、静まった。
リゼが、立ち上がっていた。
「これ、歌の感想じゃないよね?」
「はい」
私は言った。
「歌の下に、別の広場が生えています」
誰も、何も言わなかった。
文字は、流れ続けていた。
———
夜、家に帰った。
リゼが豆を煮ていて、家じゅうが甘い匂いだった。リゼの豆は、うちの豆である。ヴァルンの家から分けてもらう種で、煮ると少し粉っぽくなる。私はこの粉っぽさが好きだが、リゼは失敗だと思っているらしい。何度言っても信じない。
「今日の、まだ考えてる?」
リゼが、椀を置きながら言った。
「考えている」
「何を」
「分からないところを、分からないまま数えている」
私は、匙を取った。
「歌のほうは、だいたい分かった。流行り方も分かる。分からないのは、棚のほうだ」
「挨拶してたね」
「していた」
リゼが、向かいに座った。
「あれ、なんで歌の下でやるんだろう」
「それだ」
私は言った。
「囁がある。掲示の札面もある。飲み屋もある。どれも、挨拶をするために作られている。歌の下は、感想を書くために作られている。なのに、挨拶は歌の下でされている」
「変だよね」
「変だ」
私は、豆をすくった。
「作った人の考えた用途と、実際の用途が、ずれている。ずれているだけなら、よくある。俺が引っかかっているのは、ずれ方の大きさだ」
「大きいの?」
「大きい。二百万だ」
リゼが、匙を止めた。この人が考えるときは、匙が止まる。
「……二百万人が挨拶したの?」
「そこまでは分からない。一人が何度も書く」
「それでも、多いね」
「多い」
リゼは、しばらく黙っていた。
「お店の前みたい」
「店の前」
「うん」
リゼが、椀を持ち直した。
「東市場の豆屋さん、いつも前に人が立ってるでしょ。買いに来た人じゃないのに。あそこで待ち合わせするの、うちの学校でも普通だし」
「豆は関係ないな」
「関係ない」
リゼが笑った。
「でも、あそこに行けば誰かいるから」
私は、匙を置いた。
この人は、いつも、私が十行かけて言うことを一行で言う。
———
揺れたのは、その半刻ほどあとだった。
最初に、棚の上の皿が鳴った。
次に、床が来た。下から持ち上げるような、鈍い動き方だった。長い。思ったより長い。
「リゼ」
「うん」
リゼが、卓の下に入った。私も入った。炉の火は、夕方に落としてある。
窓の外で、犬が鳴いた。どこかで、金物が落ちる音がした。遠くで、誰かが短く叫んだ。
揺れは、十を数えるくらいで、収まった。
私は、卓の下から出た。
棚の瓶が一つ、床で割れていた。豆が転がっている。それだけだった。
「怪我は」
「ない。ユウは」
「ない」
リゼが、灯りを直した。私は、窓を開けた。
通りに、人が出ていた。向かいの家の窓が、次々に明るくなる。声が、あちこちで上がっている。怖がっている声ではない。確かめ合っている声だった。
「大丈夫ですかー」
「こっちは平気です」
「棚が落ちただけ」
私は、携帯術盤を出した。
囁を開いた。
開かなかった。
何度か押した。回っているだけである。繋ぎに行って、返ってこない。
AIエージェント:「観測:囁への繋ぎが、九割方戻っていません」
「壊れたのか」
AIエージェント:「推測:壊れたのではなく、混んでいます。揺れの直後に、王都と近隣から一斉に人が来ています」
「……助かる」
私は、盤を下ろした。
混んでいる。それはそうである。囁は、この五年で、王都の速報の背骨になった。新聞社は刷る前の報せを流し、役所は災害の報せを流す。揺れたら、全員が同時に開く。
全員が同時に開けば、開かない。
当たり前のことである。当たり前のことが、いちばん困る刻に起きる。
「ユウ」
リゼが、こちらを見ていた。自分の盤を、両手で持っている。
「囁、開かないんだけど」
「こっちも開かない」
「じゃあ、みんなどこで喋ってるの」
私は、少しのあいだ、答えられなかった。
それから、流し盤を開いた。
———
文字が、流れていた。
さっきまでより、ずっと速い。目で追える速さではなかった。
揺れた
西区、揺れた
こっちも
東門の外、棚の瓶が落ちた
南の港は無事
うちの犬が吠えてる
北三町区、灯りは生きてる
囁が開かない
こっちも開かない
ここが一番早いのなんでだ
今ここ何人いる?
いるよ
いる
いる
私は、盤を持ったまま、動けなかった。
リゼが、横から覗き込んだ。
「……なんでこの歌の下で地震の話をしてるの?」
私は、文字が三行ぶん流れるのを待った。
待っても、答えは変わらなかった。
「人がいるからです」
言ってから、敬語になっていたことに気づいた。
誰に向かって言ったのか、自分でも分からなかった。
窓の外では、まだ人の声がしている。
盤の中でも、人の声がしている。
どちらも、同じことを言っていた。
誰かいますか。
いますよ。
二年前に上げられて、それきり誰も何も言わない一本の映像片の、その下で。




