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魔法世界は運用で回る  作者: 月の位相
夫婦編

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225/246

第225話 誰も使っていない道具

 朝の卓に、皿が三つ並んでいた。


 パンと、豆の汁と、塩漬けの魚。魚は、義母のミレアが持たせてきたものだ。この人が持たせてくるときは、必ず多すぎる。


「ゆうべ、遅かったね」


 リゼが匙を取りながら言った。


「遅かった」


「まだ嘘つきの話?」


「まだだ」


 私は、汁をすくった。


「昨日の続きで、今日、集まりがある」


「何を決めるの」


「壊れ方を決める」


 リゼが、匙を止めた。この人が考えるときは、匙が止まる。


「壊れないようにするんじゃないの」


「それもやる。ただ、壊れないようにするのは、いつか失敗する」


「失敗したときのために、壊れ方を決めるんだ」


「そうだ」


 私は言った。


「昨日の道具は、壊れ方が悪かった。誰もいない、と答えた。本当は、分からない、だった」


 リゼは、しばらく皿を見ていた。それから、自分の前の皿を少し押した。


「空っぽのお皿と、お皿が無いのは、違うよね」


 私は、手を止めた。


「……そうだ」


「全然違うよ」


 リゼは、押した皿を戻した。


「空っぽのお皿は、誰も食べてないって意味でしょ。お皿が無いのは、そもそも台所を見てないって意味じゃん」


 この人は、いつも、私が十行かけて言うことを一行で言う。


 最悪だ。今日の表示盤に書く一行を、朝食の卓で取られた。


———

 王都術務室の広間に、卓を二列に並べた。


 関所盤からレイナ。基盤魔術班からセシル。魔安対からカナメ。監査の担当が一人。外の請けの工房から二人。配達局から一人。住民台帳の保守から一人。


 王都術務室から、マリエと、フィンと、リゼ。


 ルドーは、いちばん後ろの壁際に椅子を持ってきて座った。卓には着かない。


「講義は」


「移した」


「移してよい講義が」


「ない」


 前にも、この人と同じやり取りをした覚えがある。


———

 最初に口を開いたのは、カナメだった。


 この人は、謝りに来たのではない。言い分を言いに来たのでもない。事実を先に置く人である。


「昨日の断りは、こちらの型の落ち度です。それは先に認めます」


 カナメは、巻物を卓の中央へ置いた。


「そのうえで、一つだけ申し上げます」


「どうぞ」


「余計なものを読ませないのは、正しいはずです」


 部屋の何人かが、少し身構えた。


「正しいです」


 私は言った。


「だから厄介なんです」


 カナメは、まばたきをした。


「正しくないなら、やめればいい。やめるかやめないかの話になります。正しいと、やめられません。やめられないものが、現場を壊しています」


 私は、表示盤の前に立った。


「今日は、やめる話をしません。両方立てる話をします」


———

 表示盤に、二行書いた。


   在席 なし

   在席 分からない


「この二つは、違う意味です」


 私は、上の行を指した。


「上は、見てきました、誰もいませんでした、という意味です」


 下の行を指した。


「下は、見に行けませんでした、という意味です」


 私は、上の行を丸で囲んだ。


「昨日、《誰在》が返したのは、上です。返すべきだったのは、下でした」


———

「見に行けなかったのなら、黙っていればよいのではないか」


 ルドーが、壁際から言った。


「黙るのは、答えないことです」


 私は言った。


「昨日、《誰在》は答えました。答えたので、後ろにいる者は、全員それを信じました」


 私は、表示盤に線を三本引いた。


   《誰在》 → 自動の落とし

   《誰在》 → 監査の突き合わせ

   《誰在》 → 人の手順書


「この三つは、《誰在》の答えを読んで、次を決めます。上の二つは術式です。術式は、疑いません。書いてあるとおりに読みます」


 監査の担当が、顔を上げた。


「私は、空の帳面を、空のまま突き合わせの片側にしました」


 その人は、昨日からそれを言いたかったらしい。


「あなたの落ち度ではありません」


 私は言った。


「空と、分からないを、同じ顔で出した側の落ち度です」


———

 私は、表示盤の下の方へ、小さく二行書いた。


   事成る

   事成らず


「小術は、終わるときに、印を一つ返します。うまくいったか、いかなかったか。それだけです」


「終いの印、ですか」


 セシルが言った。


「はい。人はほとんど読みません。読むのは、後ろにいる術式です」


 私は、上の行を指した。


「昨日、《誰在》は、空を返して、事成る、と言いました」


 レイナが、卓の上で手を組んだ。


「……うまくいった、と言ったんですか」


「言いました」


「誰も見つけられていないのに」


「見つからなかったのではありません。見に行った先が、もう無かったんです」


 私は言った。


「行き先が無くなっていることに、《誰在》は気づいていません。気づく作りになっていない。だから、空の帳面を正しく読んで、正しく空を返して、正しく成功しました」


 リゼが、卓の端から言った。


「空っぽのお皿と、お皿が無いのは、違うのに」


 部屋の何人かが、そこで顔を上げた。


 私は、その一行を表示盤に書いた。書いておくと、みな覚えて帰る。うちの者の言い方は、たいてい私のより短い。


———

 私は、表示盤を書き直した。


   在席 三名

   文言札が読めません


「これが、まともな壊れ方です」


 私は言った。


「文言札は、表に出す言葉の札です。読めなければ、言葉が出ません。それだけのことで、人が何人いるかは分かります」


「飾りですね」


 カナメが言った。


「飾りです。表示の飾りが壊れたときに、本体まで倒れてはいけません」


 リゼが言った。


「誰がいるか分かれば、言葉がちょっと変でもいいもんね」


「急ぎのときなら、なおさらです」


 私は、その下にもう二行書いた。


   在席 分からない

   読む先が、ありません


「そして、こちらが、昨日返してほしかったものです」


 私は、両方を指した。


「飾りが壊れたら、本体だけ出す。本体が読めないなら、飾りだけ揃えて出さない。両方書かないと、片方しか守られません」


———

 フィンが、手を挙げた。


「あの。どうして、三月も誰も気づかなかったんですか」


 いい問いである。昨日の晩、私も同じことを考えていた。


 私は、表示盤を替えた。


   誰が、《誰在》を使っているか


「昨日、これが分からない、という話になりました。今日は、これを数える話をします」


 私は、下に並べていった。


   手で叩く人

   手順書のとおりに叩く人

   自動の術が叩く

   監査の術が叩く

   障害のときだけ叩く人

   夜番だけが叩く

   月に一度の締めで叩く

   年に一度の棚卸しで叩く

   外の請けの者が、古い手順書のとおりに叩く

   辞めた者が残した術の中で、叩かれている


「上の二つは、聞けば出てきます」


 私は、上から三行目に線を引いた。


「ここから下は、聞いても出てきません」


 リゼが言った。


「辞めた人には、聞けないもんね」


「聞けません。書き置きもありません」


 私は言った。


「そして、いちばん下の者は、たいてい、いちばん長く動いています」


———

「昨日、四百十二枚の術盤に同じ版が入っていて、この三月に《誰在》が叩かれたのは十四枚だ、と聞きました」


 私は言った。


「十四枚のどれでも、《誰在》は誤った答えを返していました。苦情は、一つも来ていません」


「十四枚の人は、困らなかったんですか」


 フィンが言った。


「困っていません。自分の卓に自分しかいない人は、誰もいない、と出ても、だいたい合っていますから」


 私は言った。


「困るのは、人が何人も入っている場です。王都で、そういう場は多くありません。多くないから、三月、静かでした」


 フィンが、卓の上で指を組んだ。


「……静かなのは、直ってるからじゃないんですね」


「違います」


 私は言った。


「静かなのは、まだ、壊れて困る場所まで届いていなかったからです」


———

「普段使われていない道具ほど、壊したときにだけ重さが分かります」


「嫌な道具だね」


 リゼが言った。


「嫌な道具ですが、番の場には多いです」


 私は、表示盤の脇へ小さく書いた。


   壊して、初めて利用者が見える


「これは、数え方としては最悪です。ただ、今のところ、いちばん確実です」


 ルドーが、壁際で言った。


「確実な数え方が、いちばん高くつくわけだ」


「はい」


———

 セシルが、卓の上に紙の束を置いた。


「棚卸しの話なら、うちが先に始めています」


 この人は、こういうとき、詫びずに紙を出す。


「基本小術集のうち、在席帳を読んでいるものを数えました。《誰在》のほかに、四つです」


「四つ」


「《前の在席》、締めの集計、夜の引き継ぎ札、それと、関所盤の落としの仕掛け」


 レイナが、そこで小さく声を出した。


「落としの仕掛けも、読んでいたんですか」


「読んでいます」


「……昨日、止めておいてよかった」


 レイナが、額に手を当てた。


 私は、うなずいた。この人は、昨日、私が言い終わる前に止めた。あれが無ければ、昨日のうちに何人か作業中に落ちている。


———

「四つは、数えられました」


 セシルが言った。


「小術は、数えられます。中を読めば、何を読んでいるかは書いてあります」


 セシルは、そこで紙を伏せた。


「数えられないのは、その四つが、どの手順書の何行目に書かれているかです」


「前に、記録庫の棚卸しをしましたね」


 私は言った。


「板手へ移すと決めた年です。あのときは、絡みついているのが術式でした。術式は、紙の上に出せます」


「出せました」


 セシルが言った。


「今度は、絡みついている先が、人の手です」


 その人は、自分の手のひらを少し開いた。


「手は、紙の上に出ません」


———

 私は、表示盤に並べた。


   叩かれた記録を、長くさかのぼって見る

   手順書を全部引いて、名前で探す

   監査の術を、名前で引く

   夜の術、月の術、年の術を、名前で引く

   障害のときの手順を、名前で引く

   外の請け先の手順も、聞く

   人の多い場で試す

   《術鎧》を着せた場と、着せない場の両方で試す

   出す形が、昔と同じかを見る


「上から順に、やっていきます」


「一つ目で止まります」


 セシルが言った。


「叩かれた記録は、そんなに残っていません」


「どれくらいですか」


「二十日です」


 私は、表示盤の一行目を見た。


「それより古いものは」


「場所を空けるために、消しています。関所盤は人が多いので、記録がすぐ膨れます」


 部屋が、少し静かになった。


「では」


 私は言った。


「月に一度の道具は、月によっては記録に出ません。年に一度の道具は、一度も出ません」


「出ません」


「……記録に出ないから使われていない、と読むと」


「昨日と同じことになります」


 セシルが言った。


 私は、表示盤の一行目に、短く書き足した。


   二十日ぶんの記録で、一年の道具は数えられない


———

 マリエが、そこで筆を置いた。


「記録を残す日数を、道具の叩かれる間合いに合わせていないのね」


「合わせていません」


「誰が決めたの」


「場所の都合です」


 セシルが言った。


「膨れたら困るので、短くしました」


「では、直しましょう」


 マリエが言った。


「全部を長く残す必要はないわ。年に一度しか叩かれない道具の記録だけ、年より長く残せばいい」


 この人は、こういうところで速い。


「名前の一覧は、うちが出せます」


 セシルが言った。


「四つ、と、昨日の巻物に出ていた小術の名前」


———

 ルドーが、壁際から立った。


 立つと、この人は少し前に出る。前に出ると、その場が講堂になる。


「ユウ」


「はい」


「今の話を、学生に教えるなら、何と呼ぶ」


 私は、少し考えた。


「新しくできることではなく、昔できたことを守る試験です」


「名前を付けろ」


「……昔通り試験、でどうでしょう」


「長い」


「では」


「いや」


 ルドーは、手を振った。


「それでいい。長いほうが、省かれにくい」


 部屋の何人かが、小さく笑った。ルドーは笑っていない。この人は、本気でそう言っている。


———

 私は、表示盤を替えた。


   《誰在》の、昔通り試験


「昔できたことを、一つずつ書き出します」


   三人いるとき、三人とも出る

   本当に誰もいないときは、なし、と出る

   読む先が無いときは、分からない、と出し、事成らずを返す

   文言札が読めなくても、人数は出る

   《術鎧》を着せた場で、要る帳面だけ読める

   出す形が、昔と同じ

   古い手順書の書き方で叩いても通る

   人が何人も入っている場で試す


「三つ目が、いちばん落とされます」


 私は言った。


「読む先が無いときを試す人は、少ないです。無いものを、わざわざ無くしてから試すことになりますから」


「壊れない入力しか試していなかった、ですね」


 フィンが言った。


 よく覚えている。あれは、この術務室の合言葉のようなものになっている。


「はい。ただ、今回はもう一段あります」


 私は、二つ目の行を指した。


「本当に誰もいないときは、なし、と出る。これは試されていました。試されていて、通っていました」


「……通ってたんですか」


「通っていました。正しく、なし、と出ますから」


 私は言った。


「同じ答えを返す二つの場面を、一つの試験で見ていました。誰もいない場面と、帳面が無い場面です。答えが同じなので、試験は両方とも通ります」


 ルドーが、短く言った。


「答えが同じでも、意味が違うわけだな」


「はい」


———

「基本小術集の側は、どう試していましたか」


 私はセシルに聞いた。


「代表で三つ、試していました」


「どの三つですか」


「よく使われている三つです」


 セシルは、そこで言葉を止めた。止めて、自分で続けた。


「……よく使われている三つは、壊れたら、その日のうちに分かります」


「はい」


 私は言った。


「試験が要るのは、壊れても分からない側です」


 セシルは、紙の端を折った。折り目を、指で二度押した。


「並べ直します」


———

 カナメが、巻物を開いた。


「《術鎧》の側を、直します」


「型を、どう書きますか」


「何も読ませないのが、いちばん安全です」


 カナメは、そう言ってから、自分で首を振った。


「いちばん安全で、いちばん使えません」


「はい」


 私は言った。


「《術鎧》の目的は、何も読ませないことではありません。要るものだけを読ませることです」


 私は、表示盤を二つに割った。


   《誰在》に要るもの

   座の控え

   文言札

   今の刻

   席の名

   どこから入ったか

   書き出す先


   《誰在》に要らないもの

   ほかの帳面

   秘印

   人の私の文

   外へ出す文

   ほかの術を呼ぶこと

   自分の許しを広げること


「左が短いほど、右が効きます」


 カナメが、左の欄を見ていた。


「これは、限定印のときの考え方ですね」


「同じです」


 私は言った。


「要るだけの印を持つ。ただ、前にも言いました。細かく刻むことと、要るだけにすることは、違います。細かく刻むだけなら、六つを六十に割れば偉そうに見えます。見えるだけです」


———

「一つ、お願いがあります」


 カナメが、セシルのほうを向いた。


「鎧の型は、こちらだけでは書けません」


「……はい」


「《誰在》が何を読むかは、《誰在》を書いた側にしか分かりません。昨日の文言札は、私が知らなかったから書けませんでした。私が怠けたのではなく、知らなかったんです」


 セシルが、うなずいた。


「書き直したほうの《誰在》は、文言札を読みます。古いほうは、読みません」


「名前は、同じですね」


「同じです」


 私は、表示盤に一行書いた。


   名前が同じでも、読むものが変わったら、鎧の型も変わる


「奥を書き直すときに、呼び口が同じなら呼ぶ側は直さなくていい。それはそうです。ただ、読む先まで同じとは限りません」


 カナメが、めずらしく口の端を動かした。


「では、こうしましょう。基本小術集を出すときに、何を読むかの一覧を付けてください。鎧の型は、それを見て書きます」


「付けます」


 セシルが言った。


「付けていませんでした」


———

 フィンが、また手を挙げた。


 この人は、昨日から手を挙げる回数が増えた。悪くない。


「あの。観測盤があります」


「あります」


「《誰在》を、いつまで持つんですか」


 部屋の何人かが、フィンを見た。レイナが、口を開きかけた。


「いずれ、やめていいです」


 私が先に言った。


 レイナが、こちらを見た。フィンも見た。


「やめていいんですか」


「やめていいです。古い道具を、永遠に持てとは言いません。道具が増えると、守る場所も増えます」


 私は言った。


「ただ、やめ方があります」


———

 表示盤に並べた。


   代わりを先に置く

   手順書を、全部書き直す

   猶予を置く

   叩かれた記録を、猶予のあいだ見る

   取り止めの触れを出す

   叩かれたときに、道具自身が触れを出す

   障害のときにどうするかを、先に決める

   外の請け先にも知らせる

   監査の術を直す

   消す前に、まだ叩いている者がいないかを見る


「上から二つ目が重いです」


 私は言った。


「手順書は、術務室にあるものだけではありません。工房にも、請け先にも、地方の診療所にもあります。表紙の黒くなった、誰が書いたか分からないものが」


 レイナが、自分の帳面の表紙を見た。


「六つ目は、いい手です」


 私は、六行目を指した。


「叩かれたときに、道具自身が、この道具は取り止めます、と一行出す。触れ書きは読まれませんが、道具は叩かれます」


「使う人に、使っているときに言うわけね」


 マリエが言った。


「はい。触れを出す先を探さなくて済みます。向こうから来てくれますから」


———

「古い道具を消すな、ではありません」


 私は言った。


「消すなら、誰がそれに寄りかかっているかを見てからです」


 マリエが、筆を置いた。


「ユウさん」


「はい」


「東市場の工房の人が、前に言っていたわね。うちは呼び口を盗まれる心配は少ない、会社が自分で壊すので、と」


「言っていました」


 あの人は、目の下に隈を作って、術務室へ来た。昨日まで通っていた術が、今日、通らなくなったと言って。


「あのとき、私たちは、壊される側だったわね」


「壊される側でした」


「今度は」


「壊す側です」


 マリエは、少し黙った。


「気分が違うわね」


「違います」


 私は言った。


「やることは、同じです」


———

 マリエが、自分の紙を開いた。


「変更の決まりを、書き直すわ」


 この人が「書き直す」と言うときは、もう下書きがある。


   何を変えたかを書く

   出す形が変わるかを見る

   《術鎧》を着せた場で試す

   人の多い場で試す

   手順書を、名前で引く

   監査の術を、名前で引く

   叩かれた記録を、決めた日数ぶん見る

   やめるつもりなら、触れを出す

   猶予を置く

   戻し方を、先に用意する


「十です」


 マリエが言った。


「多いですね」


 セシルが言った。


「多いわ。全部を、全部の変更でやれとは言わない。ただ、どれを省いたかは書いてもらう」


 マリエは、筆の尻で卓を軽く叩いた。


「小さい変更ほど、承認が軽くなりがち。でも小さい変更が小さい響きとは限らないわ」


 部屋が、少し静かになった。


「それと、もう一つ」


 マリエが、表示盤のほうを見た。


「今回のもとになった変更は、どれも決めの紙に守りのことだけ書いてあったの。読ませない。桁を直す。危ない書き方を塞ぐ。全部、守りの話」


「運びの話は」


「一行も無いわ」


 マリエは、そこを指で押さえるように言った。


「守りと運びの両方を決めの紙に書かないと、どちらかが勝手に負けるわ」


———

 昼を回って、応急と恒久を分けた。


   今日のうちにやること

   鎧の型に、座の控えと文言札を足す

   関所盤で、人が何人もいる状態で叩いて確かめる

   落としの仕掛けを、止めたまま手で回す

   監査の突き合わせを、昨夜の夜半からやり直す

   《誰在》を使っていた他の十四枚にも、口で伝える

   重ねて作業をしていないか、住民台帳と供給網を洗う

   番と請け先に、口で伝える


   これからやること

   基本小術集に、昔通り試験を足す

   試験は、《術鎧》を着せた場で行う

   代表の三つではなく、全部を通す

   補助の札が読めないときの、落ち方を決める

   出す形が変わっていないかを、毎度見る

   関所盤を、試験の場に入れる

   基本小術集に、何を読むかの一覧を付ける

   叩かれた記録を残す日数を、道具の叩かれる間合いに合わせる

   手順書と小術の名前を、年に一度突き合わせる


 書き終わって、私は少し下がった。


 派手なものが、一つも無い。


 新しい術は、一つも無い。全部、昔からある道具を、昔どおりに動かすための紙である。


———

 夕方、関所盤の間へ寄った。


 レイナが、いつもの席にいた。碗は空だった。今日は、飲めたらしい。


「叩いてみます」


 レイナが言った。


 盤の面に、四行出た。


   在席 三名

   レイナ   関所盤の番

   ソフィ   術勢網の見張り

   請けの術士 塔の制御盤


 誰も、歓声は上げなかった。


 レイナが、帳面を閉じた。表紙の黒いところを、親指で撫でた。


「戻りました」


「戻りました」


 私は言った。


 リゼが、盤の面を覗き込んだ。


「地味だね」


「地味だ」


 私は言った。それから、レイナのほうを見た。


「地味な道具ほど、戻ってきたときに安心されます」


———

 ルドーが、廊下から顔を出した。帰るところらしい。


「ユウ」


「はい」


「今日の講義の題は、何にする」


 私は、少し考えた。


「誰も使っていない道具、でどうでしょう」


 ルドーは、盤の面の四行を見た。


「誰も使っていないと思われた道具が、実は多くの人を支えていたわけか」


「はい」


 ルドーは、少しだけうなずいた。


「巨大なものは、たいてい、小さなものの上に立っている」


「はい」


「そして、立っている側は、下を見ない」


 ルドーは、それだけ言って行った。


 この人は、いつも、締めの一行だけ持っていく。


———

 AIエージェント:「観測:本日の集まりで決まった事項は二十七件です。うち、新しい術式を要するものはゼロ件です」


「そうだな」


 AIエージェント:「補足:二十七件のうち、十九件は既に存在する道具を、既に存在する場所で試すことに関するものです」


「そうだ」


 AIエージェント:「観測:本日の成果として外部へ報告できる内容は、以前できていたことが、また以前どおりにできるようになった、の一行です」


「……それでいい」


 AIエージェント:「提案:報せ書きの書き出しを、もっと大げさにすることを推奨します。読み手の関心を保つためです」


「黙れ」


 最悪だ。


———

 夜、窓を閉めた。


 西の空の端が、まだ薄く明るい。この刻に窓を閉めるのは、冬のあいだは無かったことだ。


「ねえ」


 リゼが、卓の向こうから言った。


「明日、《誰在》は動くの」


「動く」


「明後日は」


「動く」


「来年は」


 私は、手を止めた。


「……分からない」


「分かんないんだ」


「分からない。来年、誰かがまた何かを直すからだ」


 私は言った。


「直すのは、いいことだ。桁が足りない帳面は直したほうがいい。危ない書き方も塞いだほうがいい。誰でも書ける帳面を、番の土台にしておくべきでもない」


「直すたびに、壊れるの」


「直すたびに、誰かが寄りかかっていたものが外れる」


 リゼは、少し考えてから言った。


「じゃあ、寄りかかってる人を、先に数えればいいんじゃない」


「そうだ」


 私は言った。


「今日、一日かけて決めたのは、それだけだ」


 リゼが、笑った。


「一日かけて、それだけ?」


「それだけだ」


「短いね」


「短い」


 私は言った。


「短いから、省かれる」


———

 灯りを落とす前に、昨日の紙を見た。


 在席帳を読んでいるものを、全部並べる。


 その一行の下に、今日、もう一行足してある。


 それを叩いている人を、全部並べる。


 下の行のほうが、ずっと長くかかる。たぶん、終わらない。辞めた者の残した術の中まで、全部は追えない。


 それでも、上の行だけで終わらせると、来年また同じ朝が来る。


 基本小術は、英雄のようには見えない。


 《誰在》も、《名乗り》も、《刻》も、ただ短い答えを返すだけだ。在席、三名。それだけ言って、終いの印を一つ置いて、消える。


 だが、その短い答えを前提にして、人は手順書を書き、夜を越え、事故を避け、責任を次の者へ渡してきた。


 小さな道具を変えるときは、その道具だけを見ても足りない。


 その道具に寄りかかっている人の姿まで、見なければならない。


 そして、たいていの場合、その人たちは、自分が寄りかかっていることに気づいていない。


 気づくのは、外れた朝である。


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