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魔法世界は運用で回る  作者: 月の位相
夫婦編

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224/246

第224話 誰もいない、と答えた

 朝の術務室は、まだ夜の匂いがする。


 油と、冷めた茶と、人が長く座っていた椅子の匂い。窓は開けていない。春の光が、床の低いところだけを斜めに切っている。


 夜番が帰り、昼番が来る。一日でいちばん人の多い刻である。


 術務室の奥に、関所盤の間がある。


 王都の大事な術盤へは、外から直には入れない。住民台帳も、術勢網も、西門外の塔の制御盤も、配達符の台帳も、みな同じだ。まずこの関所盤に席を取り、そこから入り直す。


 入口を一つにすれば、誰が入ったかを一か所で見られる。それだけの理屈である。


 その代わり、入口が一つなので、混む。


 朝は、とくに混む。


———

 関所盤の番を、レイナという。


 夜が明けるころに来て、日が暮れるころに帰る。卓の右に茶の碗、左に薄い帳面。帳面の表紙が、手の脂で黒くなっている。


 その朝、レイナは、いつもどおりの手つきで《誰在》を叩いた。


 《誰在》。


 今この盤に、誰が席に着いているかを出すだけの、小さな術である。基本小術集のいちばん手前に入っている。名前のとおり、誰が在るか、それだけを言う。


 盤の面に、三行が出るはずだった。


 出たのは、一行だった。


   在席 なし


 レイナは、碗を持ち上げかけた手を止めた。


 もう一度、叩いた。


   在席 なし


 三度目も、同じだった。


「……おかしい」


 レイナが言った。


「今、私が入っているのに」


———

 私が着いたのは、その少しあとである。


 関所盤の間の前で、レイナが廊下へ出てきていた。手に薄い帳面を持ったまま、廊下の壁を見ている。壁を見る人は、だいたい困っている人だ。


「ユウさん」


「どうしました」


「《誰在》が、誰もいないと言います」


 私は、少し待った。


「誰もいないのですか」


「いません。私以外は」


「レイナさんは、いますね」


「います」


 レイナが、帳面で自分の肩を叩いた。


「私がいるのに、誰もいない、と出ます」


———

 卓の向こうから、フィンが顔を上げた。


 術務室の若手である。去年から帳場の小術を書いていて、最近は人に教える側にも回っている。


「《誰在》って、今どき誰が使ってるんですか」


 フィンは、悪気なく言った。本当に、悪気はない。


「観測盤を見れば、誰が入ってるかくらい出ますよ」


 人類は、毎日目に入らないものを、無いものと同じ棚に置く。置いてから、棚ごと忘れる。


 誰かが返事をする前に、廊下の向こうで椅子の倒れる音がした。


———

 最初に来たのは、住民台帳の保守の担当者だった。


「夜番の人が、まだ入ってるかどうかが分かりません」


 息が上がっている。


「昨夜、台帳の欄の直しを途中まで出しています。まだ続いているなら、私が触ると重なります。終わっているなら、私が続きをやります」


「魔文で聞けませんか」


「聞きました。返事がありません。朝ですから、寝ています」


 それはそうである。


「帰ったのなら、寝ていて当然です。残っているのなら、返事が無くても当然です。どちらも同じ顔をしています」


 レイナが、帳面を開いた。


「《誰在》は、そこを見る道具です」


———

 次は、監査の担当だった。


 この人は走らない。走らないが、顔は困っている。


「夜の在席と、作業記録の突き合わせが止まりました」


「突き合わせ、とは」


「夜のあいだ、誰がいつ席に着いて、いつ離れたか。それと、実際に何をしたかの記録を、並べて見ます。片方が空だと、並べられません」


「今朝の分は」


「空です。誰もいなかったことになっています」


 監査の担当は、そこで少し黙った。


「妙なのは、夜の前半です。前半には、ちゃんと入っています。名前も、刻も」


「途中から空になった、ということですか」


「途中からです。そして、その後ろに、誰かが台帳を直した記録が残っています。誰も席に着いていないのに、誰かが直したことになっています」


 私は、そのときだけ、背中が冷えた。


 記録が無いより、辻褄の合わない記録のほうが、こわい。


———

 三番目は、関所盤そのものの仕掛けだった。


 この盤には、長く手を動かさない席を落とす決まりがある。一つの席が居座り続けると、次の人が入れないからだ。


 ただし、いきなりは落とさない。先に、その席へ知らせを出す。作業中なら、作業中だと答えればよい。


「知らせの出し先が、分かりません」


 レイナが言った。


「誰がいるかを、《誰在》で拾っていましたから」


「落とす側は、動いていますか」


「動いています」


 レイナが、帳面のあるところを指で押さえた。


「知らせずに落とします」


 最悪だ。


「止めてください」


「止めました」


 レイナは、私が言い終わる前にそう言った。この人は、番に向いている。


「止めたので、今度は誰も落ちません。落ちないので、席が埋まります」


———

 四番目は、外の人だった。


 王都の外から請けで来ている術士が、術勢網の盤へ入ろうとしていた。手順書を広げている。表紙が古い。


 その手順書の一行目に、こう書いてある。


   作業の前に《誰在》を行い、ほかに在席が無いことを確かめること

   在席がある場合は、魔文でその者へ作業の中身を確かめること


「確かめました」


 請けの術士が言った。


「誰もいませんでした」


 私は、その人の手を見た。手は、もう次の頁をめくっていた。


「待ってください」


「え」


「《誰在》が、今、誰もいないと言っています。それは、誰もいないという意味ではありません」


 請けの術士が、顔を上げた。


「……どういう意味ですか」


「分かりません、という意味です。ただ、誰もいない、という顔で出ています」


 その人は、手順書を閉じた。閉じるとき、指が少し震えていた。


 誰かが、供給網の盤に入っていたかもしれない。入っていたなら、二人で同じ経路を触るところだった。


———

 五番目が、いちばん地味で、いちばん多かった。


 障害のとき、人はまず「今、誰がいるか」を見る。


 観測盤はある。何年か前に据えた、各地の見張り値と記録札を一か所へ集める盤だ。よくできている。


 ただ、重い。


「障害のときは、いちばん重いんです」


 レイナが言った。


「みんなが一斉に見ますから。出るまでに、しばらくかかります」


「《誰在》は」


「すぐ出ます。一拍もかかりません」


 レイナは、卓の縁を指で叩いた。


「観測盤はあります。でも、最初に叩くのは、こっちなんです」


———

 フィンが、卓の向こうで小さくなっていた。


 私は、そちらへ行った。


「フィンさん」


「……すみません」


「謝らなくていいです。あなたが壊したわけではありません」


 フィンは、それでも小さくなっていた。


「でも、誰も使ってないと思っていました」


「それは、私も思います」


 私は言った。


「毎日見ている人は、少ないです」


 フィンが、顔を上げた。


「ただ」


 私は、表示盤へ歩いた。


「使っている人が少ない道具と、使われていない道具は違います」


 私は、二行を書いた。


   使う人が少ない

   使われていない


「上は、数の話です。下は、要る要らないの話です。上を見て下を決めると、今日みたいになります」


 フィンは、その二行を長く見ていた。


「とくに、番の道具はそうです」


 私は続けた。


「夜。障害。監査。年に一度の棚卸し。そういうときだけ出てくる道具ほど、壊れた日に騒ぎになります。普段の帳面には、ほとんど出てきません」


———

 昼前に、ルドーが来た。


 リゼを連れている。


「学生を連れてきた」


「一人ですか」


「一人で足りる」


 ルドーは、関所盤の間をひとわたり見た。人がいて、みな立っていて、誰も座っていない。そういう部屋の空気を、この人は一目で読む。


「現場こそ授業だ」


 リゼが、私の横に来た。


「壊れたの」


「壊れた」


「どこが」


「誰が今ここにいるか、を言う道具だ」


 リゼは、部屋の中を見回した。人がいる。十人以上いる。


「いっぱいいるじゃん」


「いる」


「いるのに?」


「いない、と出る」


 リゼは、少し考えて言った。


「じゃあ、嘘つきだ」


「そうだ」


 私は言った。


「しかも、自信のある嘘つきだ」


———

 カナメが来たのは、そのあとだった。


 魔安対——王都魔術安全事故対応部の、いつもの黒い上着である。この人は、走ってきても息が乱れない。


「記録札を持ってきました」


 カナメは、巻物を卓に広げた。


「昨夜からの、関所盤の断りを全部拾いました」


 断り。


 《術鎧》が、術式の手を止めた記録である。


 半年ほど前から、王都の術盤には《術鎧》を着せるようになった。小さな術の一つ一つに、どこまで手を伸ばしてよいかを決めて、そこから外へは届かないようにする。万一その小術が乗っ取られても、届く先が狭ければ被害が狭い。


 巻物の上の方に、同じ形の行が並んでいた。


   断り 《術鎧》 《誰在》 文言札・共通語


 同じ行が、何十も続いている。叩かれた回数だけある。


「文言札」


 リゼが読んだ。


「読み物じゃないよね、これ」


 部屋の何人かが、同じ顔でこちらを見た。知らないのは、リゼだけではないらしい。


「読み物ではありません」


 私は言った。


「盤に出す言葉を、術式の中から外へ出して、別に持っておく札です。国ごと、言葉ごとに差し替えられます」


 遊戯の工房が新作を各国で同じ日に売ると決めたとき、さんざん触った仕組みだ。盤の面に出る「在席」という二文字も、術式の中に埋め込まれてはいない。文言札から引いてくる。


「で、それが読めないんだ」


「読めません。《術鎧》が、断っています」


 リゼは、巻物を上から下まで指でなぞった。


「人がいるか聞きたいだけなのに、言葉の札が読めないって断られてるの?」


「はい」


 リゼは、私の顔を見た。


「……間抜けじゃない?」


「間抜けですが、よくあります」


 ルドーが、卓の端で短く笑った。笑い声ではなく、鼻から抜けた息である。


———

 カナメは、笑わなかった。


「これは、こちらの落ち度です」


「鎧の型ですか」


「はい」


 カナメが、別の巻物を出した。


「《術鎧》は、小術ごとに型を取ります。《誰在》の型には、在席帳を読む許しを書きました。そこは書いてあります」


「文言札は」


「書いてありません」


 カナメは、それを事実として言った。言い訳の色が無い。


「《誰在》は、在席帳を読む術だと思っていました。言葉の札を読むとは、思っていませんでした」


「直せますか」


「今、直します」


———

 カナメが鎧の型に一行足し、型を入れ直した。


 巻物を見ていたレイナが、顔を上げた。


「断りが、止まりました」


「では」


 レイナが、《誰在》を叩いた。


 部屋の全員が、盤の面を見た。


   在席 なし


 誰も、しばらく何も言わなかった。


 リゼが、いちばん先に言った。


「直ってないよ」


「直っていない」


 私は言った。


 レイナがもう一度叩いた。同じだった。カナメが記録札を見直した。断りは、もう一行も出ていない。


 文言札は読めている。読めていて、なお、在席は空である。


「……じゃあ、あの間抜けは、なんだったの」


 リゼが言った。


 私は、巻物の、もう増えなくなった行の列を見た。


「本当に、ただの間抜けでした」


 いちばん目につく手掛かりが、いちばん大きな声で、関係のないことを言っていた。


 最悪だ。


———

 セシルが来た。


 基盤魔術班である。王都政府が記録基盤を板手へ移すと決めた年に、古い記録庫へ何本絡みついているかを、一本ずつ紙の上に並べた人だ。あのとき、数えたくないくらいです、と言った。


「基本小術集の入れ替えは、うちです」


 セシルは、椅子に座る前にそう言った。


「先の版で、基本小術集を差し替えました」


「差し替えた、とは」


「奥を、書き直したものに替えました」


 セシルは、卓に薄い板を置いた。


「土台は《人和》です。王都の大きな術盤は、だいたいこれで動いています。役所の机の上の盤は《窓辺》ですが、術務の盤はこちらです」


 《人和》。


 誰も持ち主ではない土台である。正典社という会社が版をまとめて配っているが、中は誰でも見られるし、誰でも直せる。無料で配られる。だから王都の役所から地方の診療所まで、みな同じものを使っている。


「その基本小術集を、《錆》で書き直した束に替えました」


「理由は」


「安全です」


 セシルは、板の上に線を引いた。


「古い方の奥は、長く使われてきたぶん、危ない書き方の名残があります。書き直した方は、そこを術語の側で塞いでいます」


———

「錆」


 リゼが、板を覗き込んで言った。


「なんで、錆なの」


「さあ」


 セシルが言った。


「作った人に聞いてください。術語の名前は、たいてい、あとから誰かが理屈をつけます」


 私は、表示盤の前に立った。この話は、少し戻らないと分からない。


   境目見を、誰が持つか


「受け皿の端を超えないかを確かめる仕組みを、境目見と呼びます。術語の作りは、これを誰が持つかで変わります」


 私は、下に三行書いた。


   一、書く術者が、自分で書く

   二、動かす側が、走っている最中に見る

   三、編み台が、編むときに見る


「一つ目が、低級術式です」


 私は、一行目を指した。


「魔力の流れに直に触ります。速くて、細かいところまで届きます。その代わり、守りは術者が自分で書きます」


「書き忘れると」


 レイナが言った。


「受け皿があふれます」


 受け皿は、札文を一時だけ受け取る、大きさの決まった器である。決まりより長い札文を流し込むと、隣の区画へこぼれる。こぼれた先に別の術式の命令が置いてあれば、こぼれた札文が、そのまま命令として読まれる。


 前に一度、申請札受理盤で起きた。あのとき私が勧めたのは、二つ目だった。境目見を、人の注意力ではなく、動かす側に持たせる。


「二つ目は、術者が書き忘れていても止まります」


 私は、二行目を指した。


「読み書きのたびに、端を確かめますから。……その代わり、確かめるぶんだけ重くなります」


 私は、表示盤の脇へ一行足した。


   一日に何万回も叩かれる、小さな道具


「基本小術集は、これです。二つ目の作りの上には、載せにくい」


「そこで、三つ目です」


 セシルが言った。


「《錆》は、一つ目の速さのまま、三つ目を持っています」


 私は、そこで手を止めた。


「編み台が、ですか」


「編み台が見ます」


 セシルが、三行目を指した。


「受け皿の端を超える書き方を見つけたら、そもそも編みません。動く術式になる前に、止まります」


 リゼが言った。


「厳しい先生だね」


「厳しいです」


 セシルは、そこで初めて少し笑った。


「毎日怒られます。私も、まだ怒られています」


———

 これが、この術語の値打ちである。


 受け皿あふれは、書いた人が忘れて、使う人が踏む。踏んだことに気づくのは、たいてい、踏み抜いたあとだ。《錆》は、その順番を入れ替える。書いた人が、書いた日に、編み台の前で止められる。


 厳しい先生に毎日怒られるのと、優しい先生に一度だけ本番で怒られるのと、どちらがましか、という話である。


 王都の術盤の底で一日じゅう叩かれている小さな道具を、片端から《錆》で書き直す。理屈は、通っている。


「正典社は、置き換える前に、外へ検めを頼んでいます」


 セシルが言った。


「返ってきた指摘の数は、多かったそうです」


「多かったのに、置き換えたのですか」


「多かったから、置き換えたんです」


 セシルは、私を見た。


「見つけて直せたものが百と少し。それが検めの成果です。見つけられていないものは、古い方にもあります。数えられていないだけで」


 私は、うなずいた。


 筋が通っている。通っているから、厄介になる。


———

「《誰在》も、その束に入っています」


 セシルが言った。


「入れ替えたのは、いつですか」


「先の版のときです。三月ほど前になります」


 レイナが顔を上げた。


「三月前は、動いていました」


「動いていました」


 セシルもうなずいた。


「入れ替えの日に、私が試しの場で叩きました。出ました。私の名前が」


 私は、そこで手を止めた。


「一人でしたか」


「……一人でした」


 セシルは、そこまで言って、目を細めた。


「自分だけが入っている状態で、一度だけ叩きました」


「試しの場の土台は、いつの版ですか」


 セシルが、顔を上げた。


 答えるまでに、少し間があった。


「……一つ前です」


「一つ前の土台は」


「在席帳へ、書きます」


 部屋が、静かになった。


「その日は、正しく出たんです」


 セシルが言った。


「一人ぶん、正しく。一つ前の土台の上で」


———

 私は、表示盤に書いた。


   《誰在》は、どこを読んでいるか


「セシルさん。書き直したほうの《誰在》は、どこを見ていますか」


「在席帳です」


「古いほうは」


「同じです。在席帳です」


「では、在席帳を見ましょう」


———

 在席帳は、王国じゅうの術盤が持っている、一冊の帳面である。


 誰かが席に着くと、そこへ一行増える。離れると、その行が消える。《誰在》も、監査の突き合わせも、自動の落としも、みなこの一冊を読んでいる。


 古い。今の土台よりも古い。


 レイナが、関所盤の在席帳を開いた。


 一行も無かった。


 白紙ではない。帳面そのものが、置かれていない。


「……無い」


 レイナが言った。


「捨てたんですか」


「捨てていません」


 セシルが言った。


「私は、捨てていません」


———

 そこから先は、三人で掘った。


 カナメが記録札を遡り、セシルが版の控えを出し、レイナが関所盤の起こし直しの記録を並べた。


 出てきたものは、単純だった。


 三月前の版で、《人和》の土台は、在席帳へ書くのをやめていた。


 やめた、という触れは出ていた。正典社の触れ書きにも、版の覚え書きにも書いてある。誰も隠していない。


 ただ、王都の誰も読んでいなかった。


 そして、レイナが並べた紙の、いちばん上に日付があった。


 昨夜である。


「基盤改めは、夜のうちにやります」


 レイナが言った。


「人が少ない刻にしか、関所盤は止められません。昨夜、三月ぶんまとめて版を上げました」


「三月ぶん」


「関所盤は、いちばん後ろに回すことになっています」


 レイナは、自分の帳面の表紙を撫でた。


「大事な盤だから、最後に上げる。……そう決めたのは、私です」


「正しいです」


 私は言った。


「壊れる盤を、いちばん後ろに置いたのではありません。いちばん壊れてほしくない盤を、いちばん後ろに置きました。順番は、正しい」


 私は、紙の日付を見た。


「ただ、前を歩いた盤の誰も、悲鳴を上げませんでした」


———

「書かないなら、どこに書いているんですか」


 レイナが聞いた。


「座の控えです」


 セシルが、板の上に新しい線を引いた。


「一つの席につき、一枚。誰が、いつ、どの道から入ったか。土台の側が、自分で持っています」


「それは、あるんですか」


「あります」


 セシルが控えの束を出した。三枚あった。


 レイナ。住民台帳の保守。請けの術士。


 部屋にいる三人だった。


 リゼが、その三枚を上から覗き込んだ。


「あるじゃん」


「ある」


「じゃあ、なんで《誰在》は無いって言うの」


「読んでいる場所が、違うからだ」


 私は言った。


「《誰在》は、在席帳を読む。在席帳は、もう誰も書いていない。誰も書いていない帳面を、正しく読んで、正しく、一行も無い、と答えている」


 リゼは、しばらく三枚の控えを見ていた。


「……誰も嘘ついてないんだ」


「ついていない」


「全員、ちゃんと仕事してるのに、答えだけ間違ってるの」


「そうだ」


 リゼは、控えの束を卓に戻した。


「気持ち悪い」


 私も、そう思う。


———

「なぜ、やめたのですか」


 私はセシルに聞いた。悪いことをした人を探しているのではない。やめた理由が良ければ、話はそこで終わらない。


「二つあります」


 セシルは、覚え書きを開いた。


「一つ。在席帳は、刻の欄の桁が足りません。ある年から先の刻が、書けません」


「あふれる」


「あふれます。その年が来たら、帳面が嘘の刻を書き始めます。誰もいないより、たちが悪い」


「もう一つは」


「誰でも書けることです」


 セシルは、そこを指で押さえた。


「同じ盤にいる者なら、誰でもあの帳面へ書けます。読めるだけでなく、書けます。居なかった者を居たことにできますし、居た者を消せます」


 私は、監査の担当のほうを見た。


 監査の担当は、口を開けて、それから閉じた。


「……今まで、あれを突き合わせの片側にしていました」


「していました」


「あれは、そういう帳面だったんですか」


「そういう帳面です」


 セシルが言った。


「だから、土台は書くのをやめました。代わりに、座の控えを土台の側で持って、外からは触らせないようにしました。出入りの記録も、別の帳へ移しました。そちらは刻の桁が足ります」


 私は、表示盤に書いた。


   在席帳をやめたのは、正しい


「正しいです」


 私は言った。


「間違っていません。桁があふれる帳面と、誰でも書ける帳面を、番の道具の土台にしたままにはできません」


「じゃあ、なんで壊れたの」


 リゼが言った。


「やめたことを、読む側へ伝える道が無かったからだ」


———

 カナメが、もう一つ持ってきた。


「古いほうの《誰在》を、一つだけ戻して叩きました」


「出ましたか」


「出ません」


 カナメが、新しい巻物を広げた。


   断り 《術鎧》 《誰在》 座の控え


「古いほうの《誰在》は、座の控えも読めます」


 カナメは、そこを指した。


「読めるのに、読ませていません。私が書いた型に、座の控えの許しが無いからです」


 私は、二つの巻物を並べた。


 書き直したほうの《誰在》は、《術鎧》を外しても直らない。読む先が空だからだ。


 古いほうの《誰在》は、《術鎧》を外せば直る。読む先は生きていて、鎧が邪魔をしているだけだからだ。


 症状は、一つだった。


 誰もいない、と言う。


 原因は、二つあった。


———

 ルドーが、卓の端から言った。


「二つあるものを、一つだと思って探したわけだな」


「はい」


「だから、最初の手掛かりで止まった」


「止まりました」


 私は、文言札の断りの巻物を、いちばん端へ寄せた。


「この巻物が、いちばん目につきました。何十行も並んでいて、断りだと書いてあって、直し方も分かりやすい。直しました。気持ちよく直りました」


「直ったのは、鎧の型だな」


「鎧の型です」


 私は言った。


「《誰在》は、一度も直っていません」


———

「ユウ」


 ルドーが、いつもの声で言った。


「誰が悪い」


 私は、部屋を見た。


 セシルは、安全のために基本小術集を入れ替えた。正しい。

 カナメは、万一に備えて《術鎧》を着せた。正しい。

 土台をまとめている者は、あふれる帳面と誰でも書ける帳面を捨てた。正しい。

 レイナは、毎朝いちばん手前の道具を叩いて、部屋を守ってきた。正しい。


「誰も、悪くありません」


「では、なぜ壊れた」


「壊した人が怠けていた、だけでは説明が足りません」


 私は言った。


「その道具がどこで使われているかを、誰も正確に知らなかったんです」


 ルドーは、それきり何も言わなかった。


 この人が何も言わないときは、だいたい、そこで合っている。


———

 その日のうちに、応急の手は打った。


 カナメが鎧の型に座の控えの許しを足し、古いほうの《誰在》を関所盤に戻した。叩くと、三行出た。


 レイナ。住民台帳の保守。請けの術士。


 部屋の全員が、その三行を見た。誰も、歓声は上げなかった。


「戻っただけです」


 レイナが言った。


「昨日までできていたことが、また、できるようになっただけ」


「はい」


「それでも、ありがたいです」


 レイナは、碗を持ち上げた。朝から一口も飲んでいない茶が、すっかり冷めていた。


———

 私は、記録札の巻物を、もう一度端から見ていた。


 見ていて、手が止まった。


 《誰在》のほかにも、断られている名前があった。


 《名乗り》。《立処》。《刻》。《前の在席》。《数え》。《写し》。《差取り》。


 どれも、基本小術集の手前の方にある、小さなものばかりだ。


 断りの数は多くない。多くないのは、叩かれた回数が少ないからだ。月に一度とか、年に一度とか、そういう数え方をされる道具である。


 そして、そのうちのいくつかは、在席帳を読んでいる。


「セシルさん」


「はい」


「在席帳を読んでいる小術は、《誰在》のほかに、いくつありますか」


 セシルは、すぐには答えなかった。


「……数えていません」


「数えれば分かりますか」


「小術の数は、数えられます」


 セシルは、そこで首を振った。


「その小術が、どの手順書の何行目に書かれているかは、数えられません」


 板手へ移すと決めた年に、この人は、古い記録庫に絡みついた術式を一本ずつ紙に並べた。あのときは、数えたくないくらいです、と言った。数えたくないだけで、数えられはした。術式は、紙の上に出せる。


 今度は、絡みついている先が、人の手順だった。


 手順は、紙の上に無い。番の頭の中と、表紙の黒くなった帳面と、十年前に辞めた誰かが書いた一行の中にある。


———

「これ、《誰在》だけでは終わらないかもしれません」


 私は言った。


 レイナが、冷めた茶をようやく飲んだ。


 リゼが、私の横で、巻物の小さな名前の列を見ていた。


「小さい道具が、まだいっぱいあるんだね」


「ある」


「全部、こうなるの」


「分からない」


 私は言った。


「どれが誰に使われているか、こちらが分かっていない。だから、どれが壊れるかも分からない」


「壊れてから分かるの」


「壊れてから分かる」


 リゼは、その言い方が気に入らなかったらしい。眉のあいだに、短い線が入った。


「それ、道具のほうが偉そうだね」


 言われてみれば、そうである。


———

 AIエージェント:「観測:本日、関所盤で《誰在》が叩かれた回数は四十七回です。うち四十四回は、同一人物によるものです」


「レイナさんだ」


 AIエージェント:「補足:直近三月の平均は、一日あたり二回です」


「……二回」


 AIエージェント:「観測:この土台の版が王都の術盤に入り始めたのは、三月前です。関所盤に入ったのは、昨夜です」


「知っている」


 AIエージェント:「補足:同じ版が入っている王都の術盤は、四百十二枚あります。この三月のあいだに《誰在》が叩かれたのは、そのうち十四枚です」


「十四」


 AIエージェント:「補足:十四枚のいずれにおいても、《誰在》は誤った答えを返しました。異議の記録は、ありません」


 私は、手を止めた。


 三月のあいだ、十四の場所で、この道具は嘘をついていた。誰も、何も言わなかった。


「……なぜ、誰も言わなかった」


 AIエージェント:「観測:誤った答えは、正しい答えと同じ形をしています」


 部屋が、静かだった。


 気づかなかったのは、誰も見なかったからではない。見た者が、少なかったからでもない。


 見た者が、それを信じたからだ。


「……ありがとう」


 AIエージェント:「提案:本日以降、朝いちばんに叩く道具を一つに絞らないことを推奨します」


「それも、ありがとう」


———

 帰り道、西の空がまだ明るかった。


 春は、日が長くなる。


 リゼが、私の半歩前を歩いている。


「ねえ」


「なんだ」


「《誰在》って、怒られてかわいそうだったね」


「怒られてはいない」


「怒られてたよ。嘘つき、って言われてた」


 言ったのはこの人である。


「あれは、頼まれたことをやっただけだ」


 私は言った。


「在席帳を読め、と言われて、読んだ。書いてなかったから、何も書いてない、と答えた。言われたことは、全部やっている」


「じゃあ、悪いのは誰」


「誰でもない」


「またそれだ」


 リゼは、少し歩いてから言った。


「でも、怖いのは分かった」


「どこが」


「間違ってたら怒れるけど、間違ってないのに間違ってるのは、怒る先が無い」


 この人は、いつも、私が十行かけて言うことを一行で言う。


 最悪だ。


———

 その夜、私は、卓に一枚だけ紙を置いた。


 書いたのは、一行だった。


   在席帳を読んでいるものを、全部並べる


 並べ終わるまで、何日かかるかは分からない。


 並べ終わったところで、それは小術の側の話でしかない。その小術に寄りかかっている人の側は、まだ一人も数えられていない。


 小さい道具は、小さいから安全なのではない。


 小さいから、誰がどこで使っているかを、忘れられるだけだ。


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