第219話 公正な借用
術務室の朝は、来客から始まった。
扉を叩く音が、遠慮がちだった。遠慮がちな叩き方をする人は、だいたい、遠慮がちではない用件を持ってくる。
「ユウさん、いらっしゃいますか」
若葉綴り工房のナギだった。
東市場の裏通りの、小さな工房の主である。前に一度、術式庫の審査で止まっていた小術を、見に行ったことがある。あのときも、目の下に隈があった。今日も、ある。隈が、少し深くなっていた。
「お久しぶりです。……すみません、朝から」
「どうぞ」
ナギは、卓の前に座って、携帯術盤を両手で持った。持ち方が、前と同じだった。落としたら終わる物を持つ手である。
「知恵之実社が、次の版で、古い口を消すと触れました」
「口」
「文を映す口です。魔文の見出しを、小札の中に映すのに使っていました。……古い方の口です。新しい方が、二年前に出ていました。知っていました。でも、動いていたので」
「動いていたので、そのままにした」
「はい」
ナギは、携帯術盤を、卓に置いた。
「先月から、庫番審査が、古い口を使っている小術を、通さなくなりました。直しを出しても、審査返しです。理由の欄に、古い口、とだけ書いてある。……昨日まで通っていた術が、今日、通りません」
術務室の何人かが、こちらを見ていた。フィンの顔が、いちばん青い。自分の帳場の小術のことを考えている顔である。
「直す量は」
「三十箇所です。それは、いいんです。三日あれば直ります」
「では」
「問題は」
ナギは、そこで少し息を吸った。
「去年もあったことです。その前の年も。名前が変わる。渡すものの順が変わる。古い口に、いずれ消す、の印が付く。印が付いてから消えるまで、二年。二年は長いようで、工房が小さいと、あっという間です。……消えると、審査が止まる。審査が止まると、直しが出せない。直しが出せないと、客が離れます」
声だけは、折れていなかった。前と同じである。
「うちの小術の中身は、去年から、ほとんど変わっていません。変わっているのは、知恵之実社の呼び口の方です」
———
「呼び口、で思い出しました」
ナギが、フィンの卓の携帯術盤を見た。札面が、まだ昨日の報せを映している。神託社、恒河沙極社に敗れる。
「呼び口の互換で揉めるなんて、大変ですね」
少し、他人事の声だった。他人事だからである。
「他人事ですか」
セシルが、向かいの卓から言った。
「うちは、《珈琲》も《亜人》も使いませんから」
ナギは、少し笑った。笑ってから、隈のある目で、こう言った。
「うちは、呼び口を盗まれる心配は、少ないです。会社が、自分で壊すので」
術務室が、静かになった。
笑う話ではなかった。笑う話ではないと、皆が分かった。
「……閉じた庭園には、閉じた庭園の地獄がありますね」
私は言った。
「庭園」
「知恵之実社の携帯術盤は、術式庫からしか、小術を入れられません。壁のある庭です。外から勝手に入れない。だから、外から呼び口を写される心配も、少ない。……ただ、壁の中のことは、全部、庭の主が決めます。主が、この口はもう古い、と言えば、それが庭の中の法になります」
「気まぐれ、とは思っていないんです」
ナギが言った。
「新しい口の方が、きれいです。渡すものが少ない。返るものがはっきりしている。きれいなのは、分かるんです。……でも、きれいにされるたびに、こっちは、泣きながら移るんです」
人類は、きれいなものを作ると、それを使う人が古いものの上に立っていることを、忘れる。
私は、そのまま、言葉を選んだ。
「三日で直る、と言いましたね」
「はい」
「直してください。それから、次に、いずれ消す、の印が付いたら、消える前に直す。……それしか、言えません。壁の中では、庭の主より早く動くしか、ありません」
「分かっています」
ナギは、携帯術盤を、また両手で持った。
「分かっていて、来ました。誰かに、大変ですね、と言ってほしかったんだと思います」
「大変ですね」
私は言った。
「……ありがとうございます」
ナギは、頭を下げて、帰っていった。
入れ違いに、マリエが入ってきた。腕に、厚い綴りを抱えている。
「取り寄せたわ」
卓の上に、置いた。重い音がした。
「新大陸の最上法廷の裁定文。写しよ。王城の外務院を通したら、思ったより早く来た」
「厚いですね」
「反対の意見が、後ろに付いているの。それが、本体と同じくらい長いわ」
AIエージェント:「観測:厚さから推定して、午後までに読み終わる量ではありません」
「黙れ」
マリエは、外套を脱がなかった。
「午後、講堂で読むそうね。読む者、と言われて呼ばれたのは、わたしよ」
ルドーが呼んでいたのは、この人だった。
最悪だ。私は、この人が読んだ本を、この人の前で解説することになる。
———
午後の講堂は、昨日より人が多かった。
札面の話が、学校の中で回ったらしい。後ろの席には、昨日いなかった顔もある。ロルフは、昨日と同じ後ろの席に、昨日と同じ顔で座っていた。
表示盤には、昨日の四行が、そのまま残っている。
珈琲.文.並べ替え
王国.王都.術務室.帳場.締め
亜人.画面.触れ
公正な借用
ルドーが、表示盤の脇に立った。
「読む者だ」
マリエが、前へ出た。
「契約術務士の顔で来ています」
それだけ言って、綴りを教卓に置いた。厚い綴りが、教卓に置かれる音は、講堂の空気を少し変える。
「先に、この裁定の形を言うわ。中身の前に、形」
マリエは、表示盤に、一行書いた。
呼び口は、権利で守られるか
「訴えの、いちばん大きな問いは、これだった。神託社は、守られる、と言った。恒河沙極社は、守られない、と言った。……最上法廷は、これに、答えなかったの」
講堂が、少しざわついた。
「答えなかった?」
「答えなかった。正面から決めずに、こう言ったの。仮に守られるとしても、今回の恒河沙極社の借り方は、公正な借用である、と。だから、神託社の訴えは通らない」
マリエは、一行目の下に、書いた。
仮に守られるとしても、今回は公正
「裁きの場らしいですね」
私は言った。
「必要以上に、世界を壊さない」
途中の列から、声がした。
「世界を壊す?」
リゼである。学生に答える顔で、答えた。
「呼び口の扱いを間違えると、術師の仕事の仕方そのものが壊れます。呼び口は権利で守られる、と正面から言えば、世界中の全部の呼び口が、明日から、誰かの権利になります。守られない、と言えば、呼び口を設計した人の仕事が、明日から、全部ただになる。どちらも、世界を大きく動かす。……最上法廷は、動かさなかった。今回の借り方だけを、見た」
「鍋が誰のものかは決めないで、借り方は正しかった、って言ったってことですか」
「そういうことです」
マリエが、少し笑った。
「契約術務士は、そういう言い方を、あまりしないけれど。合っているわ」
———
「では、借り方を、どう見たか」
マリエは、表示盤を、一度消した。三行目まで消して、四行目の、公正な借用、だけを残した。ロルフが、後ろで、少し姿勢を変えたのが見えた。
「四つの目で見た、と書いてある。新大陸の法は、借用が公正かどうかを、この四つで見ることになっているの」
一、借りた物の性質
二、借りた目的
三、借りた量
四、市場への響き
「一つずつ、行くわ。ユウ、現場の言葉で足して」
「はい」
マリエは、一つ目を指した。
「借りた物の性質。裁定は、呼び口は、詩や物語から遠い、と言った。……ユウ」
「呼び口は、実用の道具です」
私は言った。
「昨日の石の話です。名と、渡すもの、返るもの、棚。これは、術師が、奥の術を呼ぶための道具です。詩ではない。ただ、道具にも、設計はあります。どの棚に何を置くかには、太陽工房の思想がある。……だから裁定は、呼び口には創作の面もある、と認めたうえで、こう言いました。呼び口の値打ちの多くは、それを覚えた術師たちの投資から来ている、と」
「覚えた人の側に、値打ちがある」
「はい。呼び口は、作品でもあります。同時に、道具でもある。道具の権利は、物語の権利と同じには、扱いにくい」
マリエが、頷いて、二つ目を指した。
「借りた目的。恒河沙極社は、標準基盤の写しを作ったのではなく、携帯術盤という別の場を作った。裁定は、そこを重く見た」
「《亜人》は、《珈琲》の城を建て替えたのではなく、別の大陸に、《珈琲》の扉の形をした門を作った」
私は言った。
途中の列から、声がした。
「それ、怒られそうな表現」
「実際、怒られています」
後ろの席で、ロルフが、鼻を鳴らした。笑ったのか、怒ったのか、分からない鳴らし方だった。
「三つ目」
マリエは、続けた。
「借りた量。ここは、数がある」
表示盤に、数を書いた。
写した呼び名文 一万一千五百行
標準基盤の全体 二百八十六万行
「およそ、二百五十分の一ね。三十七の棚。裁定は、携帯術盤の基盤を作るのに必要な範囲に限られていた、と見た」
「神託社は、それに、こう言い返しています」
私は、綴りの付箋の位置を、マリエから教わったとおりに開いた。
「量が少なくても、そこが、術師を引き寄せる心臓部だった」
「そして、反対の意見も、同じところを突いているわ」
マリエが、綴りの後ろの方を、指で示した。
「二人の裁定官が、反対した。八人のうち、二人。反対の意見は、こう書いてある。写したのは、呼び名文の全部だ。奥を除けば、恒河沙極社は、三十七の棚の呼び名文を、一行残らず写した。紙に写せば六百枚になる。分母を何にするかで、答えは変わる、と」
「分母」
リゼが、小さく言った。
「量が少ないから軽い、とは言い切れません」
私は言った。
「でも、全体を丸ごと持っていったわけでもない。……二百五十分の一と見るか、全部と見るかで、話が変わる。最上法廷は、前者を採りました。反対した二人は、後者を採った」
———
「四つ目」
マリエは、表示盤の、いちばん下を指した。
「市場への響き。これが、いちばん長い」
「そして、いちばん、腹の立つところです」
私は言った。
「裁定は、こう見ました。《亜人》は、標準基盤の代わりではない。標準基盤が動いていたのは、机の上の大きな術盤です。《亜人》は、手の中の小さな術盤。市場が、違う。太陽工房も、携帯術盤へ出ようとしたことはあった。うまくいかなかった。……そして」
私は、少し言葉を切った。
「《亜人》が広がったことで、《珈琲》の呼び口を知る術師は、増えた。《珈琲》の側にも、益があった可能性がある。裁定文は、そう書いています」
途中の列から、声がした。
「訴えた側にも、得があったかもしれない、ってこと?」
「そういう見方です」
ルドーが、初めて口を開いた。
「怒っている者には、かなり腹立たしい言い方だな」
「はい」
私は言った。
後ろの席のロルフは、何も言わなかった。何も言わない人が、いちばん聞いている。
「ただし」
マリエが、綴りの後ろを、また指した。
「反対の意見には、損の側も書いてあるわ。ある大商会が、《珈琲》の契約を神託社と結び直すときに、《亜人》を引き合いに出して、値を四十分の一まで値切った、と。《亜人》があるなら、《珈琲》はそこまで要らない、という理屈ね」
「四十分の一」
「四十分の一」
「得もあった。損もあった」
私は、表示盤の四行を見た。
「どちらも本当です。どちらを大きく見るかで、裁定は変わる。……六対二でした」
講堂が、静かだった。
六対二。八人が同じ綴りを読んで、六人と二人に分かれた。それが、十一年の終わりだった。
———
「では、逆を、考えてみます」
私は、マリエから、筆を受け取った。
「神託社が、勝っていたら」
表示盤の脇に、書いた。
呼び口を写せなくなる
古い技を、新しい基盤へ持っていけなくなる
術師が最初に覚えた基盤の中に、一生、閉じ込められる
基盤を作るたびに、全部違う呼び口を、覚え直させられる
大きな商会が呼び口を握れば、後から来る基盤を、締め出せる
教材も、覚えた手も、囲い込みの道具になる
「六つある」
ルドーが言った。
「六つあります。どれも、起きます」
私は、筆を置いた。
「呼び口を強く囲いすぎると、術師の手が、人質になります」
講堂が、静かになった。
「昨日、ロルフ先生が言いました。《珈琲》を覚えた者は、どこの商会へ行っても《珈琲》で食える、と。それは、呼び口が、誰か一人のものではなかったからです。呼び口を一社が完全に握れば、その約束は、握った一社のものになる。……私が、この裁定を、たぶん正しいと思うのは、そこです」
「では、恒河沙極社が正しいのか」
ルドーが言った。
「そこも、違います」
私は、表示盤の反対側に、もう一段書いた。
携帯術盤の市場を、握りたかった
《珈琲》の術師を、短い刻で引き込みたかった
呼び口は借りたが、一度書けばどこでも、の約束は守らなかった
互換の名で、自分の基盤へ囲い込んだ
《亜人》だけの呼び口が増え、結局、別の世界になった
「恒河沙極社も、術師の自由のためだけに、やったわけではありません。自分たちの基盤を大きくするためです。互換は、術師の自由を広げます。同時に、大きな商会が自分の庭を広げるための道具にもなる。恒河沙極社は、その両方を持っていた」
途中の列から、声がした。
「じゃあ、どっちが正しいの?」
小声だったが、講堂が静かだったので、皆に聞こえた。
「どっちも、正しさを少しずつ持っていて、欲も持っています」
私は言った。
「裁定は、どちらが正しいかを決めたのではありません。今回の借り方は、法の側から見れば通る、と決めただけです。……行儀の側は、法は決めない。昨日、ロルフ先生が、そう言いました」
後ろの席で、ロルフが、頷いた。
———
「同じことは、前にもあった」
その、ロルフが言った。
講堂が、後ろを向いた。
「微柔社だ」
王都の役人は、たぶん全員、この会社の術を毎日触っている。触っている自覚は、あまり無い。
役所の机に載っている術盤の、いちばん下で動いている土台は、たいてい微柔社の《窓辺》である。帳面を書く術式も、文を清書する術式も、その上に載っている。術師が使う術編み台も出しているし、近ごろは借り場にも手を伸ばしている。神託社のように基幹の記録庫を売るのでもなく、知恵之実社のように自分で術盤まで作って庭を閉じるのでもない。人の机の上で動くものを、土台から道具まで揃えて売る商会だ。
土台というのは、そういうものである。うまくいっているうちは、名前を思い出してもらえない。
ルドーが、顎で先を促した。ロルフは、座ったまま話した。
「《珈琲》が出て、まだ若かったころだ。微柔社が、自分の基盤の《窓辺》に、《珈琲》を載せた。こちらは、契約があった。太陽工房と、正式に結んだ。……載せたのはいい。ただ、《窓辺》でしか動かない継ぎ足しを、《珈琲》の中に混ぜた。標準の一部を、省いた。《珈琲》の看板を掲げたまま、《珈琲》を割った」
「太陽工房は」
「訴えた。契約に反する、と。何年か揉めて、微柔社は、金を払って、その《珈琲》を引っ込めた」
ロルフは、そこで、一度息を継いだ。
「引っ込めたあとが、肝心だ。微柔社は、《珈琲》の代わりに、自前の基盤を作った。《点網》という」
「基盤、というのは」
ルドーが訊いた。
「《珈琲》と、同じ形のものだ。仮想盤があって、共通の型があって、標準の呼び口の一式があって、その上で書く術語がある。……名は網だが、網ではない。あの名は、当時から誰も分かっていなかった」
講堂が、少し笑った。
「形が《珈琲》に似ているのは、当たり前だ。《珈琲》を載せられなくなった穴に、同じ形のものを、自分で彫ったのだから。……ただ、呼び口は、写さなかった。棚の名は、全部、自分で付け直した」
「写さなかったんですか」
私は訊いた。
「《点網》は、写さなかった。そのうえで、微柔社は、もう一つ作った。《鋭珈》という」
ロルフは、続けた。
「《珈琲》によく似た言葉で書けて、動くのは《点網》の上だ。そして、《鋭珈》には、《珈琲》の呼び口が、いくらか付いていた。古い版の、一部だ。《珈琲》の術師が、そのまま書けるように。……《珈琲》は名乗らなかった。《珈琲》の術師を、《窓辺》へ移すための橋だった。《珈琲》そのものでは、なかった」
ロルフは、そこで言葉を切った。
「訴えなかった」
「訴えなかった。太陽工房も、そのあとの神託社も」
私は、少し考えた。
「微柔社の時は、《珈琲》を名乗りながら《珈琲》を割った、という怒りが、強かったんでしょうね」
「《亜人》とは違うのか」
ルドーが訊いた。
「似ています。でも、違いもあります。微柔社は、《珈琲》そのものの看板を掲げて、互換を壊した。《亜人》は、別の基盤として、呼び口を写した。……看板を掲げて割るのと、看板を掲げずに写すのとは、法の上では、かなり違うことになります」
途中の列から、声がした。
「分かるような、分からないような」
「だいたい、みんなそうです」
講堂が、少し笑った。
「でも」
別の学生が、手を上げた。
「《鋭珈》は、《亜人》と、形が似ていますよね。呼び口をいくらか借りて、奥は自前で、別の基盤に載せる。……なぜ、《鋭珈》のときは訴えなくて、《亜人》のときは訴えたんですか」
いい問いだった。私が答える前に、マリエが答えた。
「分からない、が答えよ」
マリエは、綴りを閉じた。
「考えられることは、いくつかある。《鋭珈》が出たとき、《珈琲》の権利を持っていたのは太陽工房で、神託社ではなかった。《鋭珈》は、あまり広がらなかった。二社の間に、別の取り決めがあったかもしれない。争う値打ちが、無かったのかもしれない。……そして、《亜人》は、大きくなりすぎた」
「大きくなりすぎた」
「訴えるかどうかは、正義だけでなく、相手の大きさと、勝った時に取れるものでも決まるわ」
身も蓋もない言い方だった。
身も蓋もない言い方は、契約術務士の仕事の一部である。学生たちは、少し嫌そうな顔をした。嫌そうな顔をしながら、書き写していた。
———
「もう一つ、今朝、術務室に来た人がいました」
私は言った。
「知恵之実社の携帯術盤向けに、小術を作っている工房の人です。知恵之実社が、古い呼び口を次の版で消すと触れて、庫番審査が、古い口を使う小術を通さなくなった。昨日まで通っていた術が、今日、通らない。……その人は、こう言いました。うちは呼び口を盗まれる心配は少ないです。会社が自分で壊すので」
講堂の何人かが、笑った。笑ってから、笑った口を、手で押さえた。
「知恵之実社の携帯術盤は、術式庫からしか小術を入れられません。壁のある庭です。外から呼び口を写される心配は、少ない。……その代わり、壁の中のことは、全部、庭の主が決めます。主が口を変えれば、中の術師は、泣きながら移る。閉じた庭園には、閉じた庭園の地獄があります」
私は、表示盤の、神託社が勝っていたら、の六行を指した。
「こちらは、開いた庭の地獄です。呼び口を誰でも写せるなら、写した側が、勝手に橋を書き換える。……そして、あちらは、閉じた庭の地獄。誰も写せないなら、主が、勝手に橋を落とす」
「どちらの地獄がましだ」
ルドーが訊いた。
「分かりません」
私は言った。
「たぶん、地獄の種類を選べることが、いちばん大事です。両方の庭があって、術師が、どちらの庭で食うかを選べる。……一つの庭しか無くなったら、それは、どちらの地獄でも、地獄です」
———
「で」
ルドーが、表示盤の前へ来た。
「お前は、どう読む」
短い。この人はいつも、答えを一言で持ってこいという顔で訊く。
私は、少し考えた。
「呼び口を、誰も写せなくなれば、技術は詰まります。裁定は、たぶん正しい。……でも、呼び口を作った人たちの思想や投資が踏みにじられた、と感じる気持ちも、分からなくはないです」
後ろの席を、見なかった。見なくても、そこにいるのは分かっていた。
「裁定は、線を一本、引いただけです。写してよかったか、という線を。線の両側に、まだ、人がいます」
ルドーは、しばらく黙っていた。
「法の外の線は、誰が引く」
「行儀の話は、たぶん、術師が、自分たちで引きます。何年もかけて。……《珈琲》の名の作法が、法で決まっていなかったのと、同じです。あれは、術師が、自分たちで守っていた作法でした」
ロルフが、後ろで、小さく息を吐いたのが分かった。
途中の列から、声がした。
「呼び口って、ただの入口じゃないんだね」
小声だった。学生としての小声である。
私は、学生に答える顔で、答えた。
「はい。入口であり、道であり、約束であり、記憶です」
講堂が、静かだった。
表示盤には、昨日の三行の跡が、消した後にも、薄く残っている。珈琲。王国。亜人。その下に、今日の四つ。
ロルフが、立ち上がって、外套を取った。表示盤の前を通るとき、一度だけ足を止めて、薄い跡を見た。何も言わなかった。何も書き足さなかった。
そのまま、講堂を出ていった。
誰も、消さなかった。
消すのは、明日でいい。




