第218話 呼び口は誰のものか
朝の食卓に、リゼが携帯術盤を立てかけていた。
行儀が悪い。行儀が悪いが、私の術盤も同じ向きで立ててあるので、何も言えない。
「神託社、負けたって」
リゼが、豆の汁を椀に注ぎながら言った。
「読んだ」
「神託社、恒河沙極社に敗れる。《亜人》における《珈琲》の呼び口の利用、新大陸の最上法廷が公正な借用と裁定——って、何の話?」
「呼び口の話だ」
「呼び口って、名前でしょ?」
リゼは、椀を置いた。
「名前を使っただけで、裁きになるの?」
「名前だけ、じゃない」
私は、パンをちぎった。
「でも、名前だからこそ、全部を独占されると困る」
「分からない」
「今日の講堂で、そこへ行く」
「また、ユウが喋るの?」
「先生が振る」
リゼは、匙を取った。この人が考えるときは、匙が止まる。今日は、止まらなかった。分からないことは分からないまま食べる、という判断である。健全だ。
AIエージェント:「観測:この裁きは、十一年続いていました」
「十一年」
リゼが、匙を止めた。
AIエージェント:「補足:あなたはこの裁きの当事者ではありません。ですが本日、講堂で当事者のように喋らされる見込みです」
「黙れ」
だいたい当たる。
———
術務室は、朝から札面の話だった。
「これ、見ました?」
フィンが、携帯術盤を卓に置いた。見た、と三人が同時に言った。
「まだやってたんですか、あの裁き」
セシルが、向かいの卓から言った。
「十一年です」
「十一年」
「上へ行って、下へ戻って、また上へ行った。最上法廷まで行って、やっと止まりました」
「《珈琲》の呼び口って、そんなに揉めるんですね」
「揉めます」
「《亜人》で術を書いてる人、王都にも多いですよ。うちの帳場の小術、《亜人》向けです」
フィンは、少し不安そうだった。自分の書いた小術が、十一年の裁きの上に載っていたと、今朝知った顔である。
「神託社が勝ってたら、どうなってたんですか」
誰かが訊いた。
「それを」
私は言った。
「午後の講堂で、やらされることになっています」
「やらされる、って」
「先生が、そう決めました」
セシルが、小さく息を吐いた。
「王都も、他人事ではないですからね」
「そうですね」
王都政府の記録庫は、恒河沙極社の板手である。あの入札で、神託社は負けている。王都は、この二社のどちらとも、無縁ではない。無縁でないものの争いは、読んでおかないと、あとで足元に来る。
最悪だ。
———
冬の終わりの講堂は、午後でも冷える。
学生は外套を着たまま座っている。リゼは、途中の列にいる。こちらを見ない。
ルドーが、表示盤の前に立った。
「札面を見た者は」
ほとんどの手が上がった。
「では、問いだ。呼び口とは、何か」
いつもの梯子が始まった。
「名前です」
「半分だ」
「術を呼ぶ、入口です」
「入口の、何だ」
学生が黙った。
「術式契約の、一種です」
「違う」
「……札です」
「札は物だ」
ルドーは、講堂を一度見回した。
「ユウ」
「はい」
「はいは一回だ」
一回しか言っていない。この講堂では、言い返さないのが作法である。
私は、表示盤の前へ出た。
———
「昨日の石を、持ってきました」
懐から、直し石を二つ出した。薄い、平たい、透き通った石である。雑貨屋で売っている。
「一つは、昨日の授業で使ったものです。直したあとに、髪の毛ほどの筋が残る。もう一つは、昨夜、中の術を書き直したものです。筋は残らない。少し遅い」
二つを、教卓に並べた。
「見た目は、同じです。中は、違う。……前へ、一人」
ラウが降りてきた。背が高いので、教卓が低く見える。
「割れた椀を、直してください。どちらの石でも」
「どちらでも?」
「どちらでも」
ラウは、右の石を取って、割れた椀に当てた。淡く光った。直った。筋は、無かった。
「もう一つも」
左の石。当てた。光った。直った。筋が、残った。
「同じ手で、同じことをしました」
私は言った。
「ラウさんは、石の中を知りません。知らなくても、直った。……なぜですか」
「同じ、呼び方だからです」
ラウが言った。
「そうです」
私は、表示盤に書いた。
呼び口 名。渡すもの。返るもの。置き場所
奥 呼ばれて、実際に動く術式列
「石の名。石に何を渡すか。割れた物と、素材の指し示し。何が返るか。直った、か、直らない、か。そして、その石がどの棚に置いてあるか。……この四つを合わせたものを、呼び口と呼んでいます」
学生が、書き写す音がした。
「奥は、その口の向こうで、実際に動いている術です。昨日の石と、昨夜の石は、奥が違う。呼び口は、同じ。だから、呼ぶ側の手は、一つも変えなくてよかった」
私は、二つの石を、並べて掲げた。
「これが、呼び口の値打ちです。奥を書き換えても、呼ぶ側の術は、一行も直さなくていい。呼ぶ側は、奥を知らなくていい。……昨日、名前で呼べる、と言いました。名前で呼べるということは、名前の向こうを、見なくていいということです」
途中の列から、声がした。
「注文の言い方、みたいなものですか」
リゼである。学生としての発言なので、学生に答える顔で答えた。
「注文の言い方」
「同じ言い方で頼めば、厨房が変わっても、同じ皿が出てくる。お客は、厨房を見ない」
「……かなり近いです」
この人は、いつも、私が十行かけて言うことを一行で言う。今日は、厨房だった。
「では」
ルドーが言った。
「接ぎ口と、何が違う」
この講堂で、前に出た言葉である。言葉は、人と人の接ぎ口。
「接ぎ口は、人と人です。呼び口は、術と術です」
私は答えた。
「ただ、呼び口を覚えるのは、人です。だから結局、人の話になります」
———
「呼び口は、中身ではありません」
私は、表示盤の二行を指した。
「でも、中身へ到達するための道です。道だからこそ、作った人の工夫もあるし、歩く人の投資もあります」
「投資」
「覚えることです。石の名を覚える。何を渡すかを覚える。どの棚にあるかを覚える。一つの呼び口の一式を、体に入れるのに、術師は、何年も使います」
ルドーが、腕を組んだ。
「道を作った者の権利と、道を覚えた者の自由が、ぶつかるわけか」
「はい」
「それが、十一年か」
「それが、十一年です」
ルドーは、少しの間、表示盤を見ていた。
それから、講堂の後ろの方へ、顎を向けた。
「《珈琲》の話は、俺より詳しい者がいる」
後ろの席から、一人の男が立ち上がった。
白髪。背は高くない。学校の講師の外套を着ているが、外套の下の袖口が、術盤を触る人間の袖口だった。擦れて、光っている。
ロルフ。この学校で《珈琲》の講座を持っている講師である。私は、廊下ですれ違うことはあっても、話したことは無かった。
「太陽工房にいた」
ルドーが、それだけ言った。
講堂が、少し静かになった。
———
「《珈琲》は、術語だ。そして、術語だけではない」
ロルフは、表示盤の前には立たなかった。後ろの席の脇に立ったまま、講堂の全員に届く声で言った。長く、人に教えてきた声だった。
「一度書けば、どの術盤でも動く。太陽工房は、それを作りたかった」
その言葉は、私も、一度使ったことがある。この世界に来て間もないころ、王国式と東方式の間に、共通の型を作ったときだ。あのとき自分の口から出た言葉が、他人の口から、別の場所の話として聞こえてくるのは、妙な気分だった。
「術盤ごとの違いを、隠す。《珈琲》で書いた術は、一度、共通の型に編まれる。それぞれの術盤には、その型を受けて動かす仮想盤が載っている。だから、書く側は、どの術盤で動くかを、考えなくていい」
ロルフは、指を一本立てた。
「一つ。同じ呼び口を覚えれば、どの術盤でも同じように術を書ける。標準の呼び口の一式を、太陽工房が決めた。文を並べ替える口。刻を数える口。魔文を送る口。標準基盤、と呼んだ」
二本。
「二つ。学校で教えやすい。商会で採りやすい。だから、術師の技が、一つの術盤に閉じ込められない。《珈琲》を覚えた者は、どこの商会へ行っても《珈琲》で食える」
三本。
「三つ。名の作法。これは、あとで言う」
指を下ろした。
「太陽工房は、《珈琲》を、商品にしたかったのではない。術師の、共通の言葉にしたかった」
ルドーが、それを受けて言った。
「太陽工房は、《珈琲》を、鎖ではなく橋にしたかった」
ロルフが、ルドーを見た。
「それは、うちの親方の言葉です」
「知っている」
ルドーは、それだけ言った。この人は、たまに、こういう仕込みをする。
「いい言い方ですね」
私は言った。本当に、いい言い方だと思った。
「いい言い方だった」
ロルフが言った。過去形だった。
「太陽工房は、その後、神託社に買われた。《珈琲》の権利は、神託社のものになった。私は、買われた年に工房を出て、王都へ来た」
それ以上は、言わなかった。
———
「恒河沙極社の話を」
ルドーが、私に戻した。
私は、表示盤の脇に、もう一段書いた。
携帯術盤 新しい市場。急に大きくなった
恒河沙極社 携帯術盤の基盤《亜人》を作った
欲しかったもの
「携帯術盤が、急に売れ始めた時期があります。恒河沙極社は、そこへ基盤を出したかった。《亜人》です。ただ、基盤を出しても、術がなければ、誰も買いません。術を書く術師が、要る。それも、急いで、大勢」
「集めれば、いい」
「集めるのに、何年もかかります。新しい呼び口を、術師の体に入れるのは、何年もかかる。……そこで、恒河沙極社は、《珈琲》の呼び口を、《亜人》に写しました」
私は、三行目の続きに書いた。
欲しかったもの 《珈琲》を覚えた術師の、手
「恒河沙極社が欲しかったのは、《珈琲》そのものというより、《珈琲》を覚えた術師たちの手です」
途中の列から、声がした。
「手?」
「その呼び方を覚えた人たちが、明日から《亜人》でも術を書けるように、したかったんです。奥は、自分たちで書きました。仮想盤も、自前です。写したのは、呼び口の側だけ。名と、渡すもの、返るもの、棚の位置。……標準基盤の百六十六の棚のうち、三十七の棚ぶんを」
「契約は」
ルドーが訊いた。
「話し合いは、ありました。まとまらなかった。恒河沙極社は、契約なしで出しました」
講堂の何人かが、顔を見合わせた。
「……それは、駄目なのでは」
「駄目かどうかを、十一年、争ったんです」
私は言った。
「呼び口は、覚えた術師の頭の中にもあります。名前を読むのは、術盤だけではない。だから、呼び口には、値打ちがある。値打ちがあるものを、契約なしで写した。……神託社は、そう言いました」
———
「神託社の言い分を、読みます」
私は、札面の写しを出した。裁きの記録から、報導が抜いたものである。
「呼び口は、ただの札ではない。術師たちがそこを通って《珈琲》の力に触れる、門である。門を、写されたのだ」
講堂が、静かだった。
「神託社の契約術務士の言葉です。私は、神託社という会社の商いの仕方を、あまり好きではありません。……ですが、この言い分には、筋があると思います」
「筋」
ルドーが言った。
「呼び口は、太陽工房が設計したものです。どの棚に、何を置くか。何と名づけるか。何を渡させて、何を返すか。全部、誰かが決めた。決め方には、思想がある。奥だけ自分で書けば許されるなら、呼び口を設計した人の仕事は、ただ乗りされる。……それに、恒河沙極社の中の文で、許しが要ると書いていた者がいたことも、裁きの場に出ました」
「では、恒河沙極社は」
私は、写しの、次の行を読んだ。
「我々は、《珈琲》の店を盗んだのではない。《珈琲》を飲み慣れた術師が、旅先でも同じ注文をできるようにしたのだ」
講堂が、少し笑った。
笑ってから、笑った口を、何人かが手で押さえた。
「……上手いですね」
「上手いです。やや、詭弁めいています」
私は言った。
「ですが、全部が嘘というわけでもない。恒河沙極社は、携帯術盤という、新しい場を作りました。奥は、自前で書いた。写したのは、術師が既に覚えていた部分だけ。呼び口の写しを禁じれば、古い技を新しい基盤へ持っていく道が、全部塞がります。……こちらにも、筋がある」
私は、写しを畳んだ。
「どちらにも筋があるので、十一年かかりました」
ルドーが言った。
「筋が二本あると、長い」
「長いです」
———
「三つ目を、まだ言っていない」
後ろの席から、ロルフが言った。
「名の作法だ」
ルドーが、頷いた。私は、表示盤を一度消して、脇へどいた。ロルフは、今度は前へ来た。
「《珈琲》では、術に名を付けるとき、頭に、出どころを付ける」
ロルフは、表示盤に書いた。字が、速い。
珈琲.文.並べ替え
王国.王都.術務室.帳場.締め
「一行目は、標準基盤の術だ。太陽工房が作った。頭は、珈琲。二行目は、たとえば王都術務室が自分で書いた術だ。……術務室の名札は、術務室.王都.王国、だな」
「そうです」
私は答えた。魔法仮想文書の置き場を示す、あの名札である。
「それを、逆から読む。王国.王都.術務室。その下に、自分の術を置く。こうすると、王都の術務室が書いた術と、南の商都の術務室が書いた術は、絶対に同じ名にならない。諸侯連合の術務室とも、東方の術務室とも、被らない。……同じ名札は、世界に二つ無いからだ。名の空間の話は、この学校で、もうやったな」
学生が、頷いた。囁の名の話である。
「名を見れば、誰がどこから来た術か、分かる。その作法を、《珈琲》は最初から持っていた。誰の術でも、頭を見れば、家が分かる」
ロルフは、三行目を書いた。
亜人.画面.触れ
書いてから、筆を置いた。
「恒河沙極社は、こうした」
講堂は、まだ、何が起きたのか分かっていない顔だった。
「頭が、亜人だ。新大陸.恒河沙極、でも、新大陸.恒河沙極.亜人、でもない。名札を逆から読んでいない。……客の作法で来るなら、二行目のように書く。あいつらは、一行目と同じ場所に、自分の名を置いた」
私は、少し考えてから、訊いた。
「《珈琲》の標準も、珈琲、で始まっています。あれも、名札ではありませんね」
「家主だからだ」
ロルフは、即座に言った。
「家の名は、家主だけが使う。それが、家主の作法だ。恒河沙極社は、客として来て、客の作法を守らず、家主の作法を取った。家主の棚の隣に、自分の名の棚を打ち付けた。……何百も」
ロルフは、表示盤の三行目を、指で叩いた。
「《珈琲》の呼び名は、誰が、どこから来た術なのかを示す作法だった。あいつらはそこへ、《亜人》、《亜人》、《亜人》と、杭を打ち込んだ。互換ではない。占領だ」
講堂が、静かになった。
この静けさは、感心の静けさではなかった。怒っている人間を前にしたときの、静けさである。
「……それに」
ロルフは、声を少し落とした。
「《亜人》で書いた術は、《珈琲》の盤では動かない。頭に亜人が付いた棚を使うからだ。《珈琲》を覚えた術師は、《亜人》へは、すぐ渡れる。だが、《亜人》で書いたものを、《珈琲》へは戻せない。……一度書けば、どこでも動く。あれは、そういう約束だった。あいつらが架けたのは、片道の橋だ」
誰も、何も言わなかった。
「《亜人》が出た日、親方は、祝いの文を出した」
ロルフが言った。
「本気で喜んでいたと思う。《珈琲》の橋が、また一本増える、と。……その工房が買われて、買った側が、訴えた。私は、神託社のやり方が好きなわけではない。契約の値の付け方も、保守の縛り方も、あの会社は、術師のためには動かない。だが」
ロルフは、表示盤から、手を離した。
「だが、恒河沙極社にも、腹が立つ。橋を渡ってきて、橋の名を、書き換えた」
———
私は、しばらく、三行目を見ていた。
亜人.画面.触れ。
術盤にとっては、ただの札である。頭が何であっても、術盤は困らない。困るのは、人だ。名を読むのが、術盤だけではないからだ。
私は、恒河沙極社の言い分に、筋があると言った。今も、そう思っている。呼び口を写す道が塞がれれば、術師の手は、最初に覚えた基盤の中に、一生閉じ込められる。それは、たぶん、恒河沙極社が勝ったことより、ずっと悪い。
それでも。
「……それは、ちょっと分かります」
声が出ていた。
ロルフが、こちらを見た。
「私は、どちらかといえば、恒河沙極社の側で読んでいました。今も、裁定は、たぶん正しいと思っています。……ですが、家主の棚の隣に、自分の名の棚を打ち付けた、というのは、分かります。それは、法の話とは、別の話です」
「別の話だ」
ロルフは言った。
「法が決めるのは、写してよかったか、だ。行儀がよかったか、は、法は決めない」
行儀の話。
この言葉を、私は少し前に、別の人から聞いている。はっきり禁じられていないことと、何でも許されていることは、同じではない、と言った人である。
ルドーが、表示盤の前へ戻った。
「裁定は、恒河沙極社の利用を、公正な借用と言った」
三行目の下に、一行だけ書いた。
公正な借用
「何が公正で、何が借用か。……続きは、明日だ。裁定文を読む」
筆を置いた。
「読む者を、呼んである」
この人は、いつも、私の返事より先に、予定を決める。
講堂が、ざわつきながら立ち上がった。ロルフは、後ろの席へ戻って、自分の外套を取った。誰とも話さなかった。
リゼが、途中の列で、こちらを一度見た。教室では他人、という運用のぎりぎりの目だった。
最悪だ。
私は、表示盤の四行を、消さずに残した。
明日、この上に、裁定を書く。




