第217話 名前で呼べる魔法
朝の食卓に、リゼが史料館の刷り物を置いていた。
昨日、入口でもらった薄い一枚である。立会場の絵と、開いていた年と閉じた年。閉じた年の数字は、思ったより新しかった。
「あの黒い盤、なんで嘘ついたの」
リゼが、豆の汁を椀に注ぎながら言った。
「嘘はついていない」
「じゃあ、なんで半分の値を出したの」
「今日の授業で、そこへ行く」
「今日の授業、ユウが喋るの?」
「先生が喋る。俺は、途中で呼ばれる」
「はいは一回だ、の低い方で」
「あれは、俺が二回言ったときの声だ」
リゼは、椀を置いた。
「で、今日は何の話」
「術盤は、なぜ急に広がったか」
「安くなったからでしょ」
「先生の前でそれを言うと、一語で切られる」
「じゃあ、何」
私は、パンをちぎった。
「昨日、テッサさんが言っていた。同じ、というのがいちばん難しかった、と。あれだ」
リゼは、少し考えた。この人が考えるときは、匙が止まる。
「……料理帖と同じね」
「料理帖」
「同じ料理帖を見ても、作る人で味が変わるでしょ。母さんの煮物と、私の煮物は、同じ帖から作ってるのに、同じ味にならない」
「そうだな」
「でも、帳面は、味が変わっちゃ駄目なのね」
「そういうことだ」
リゼの言い換えは、いつも台所から来る。今日は煮物だった。
AIエージェント:「観測:本日の講堂の議題に、あなたの名が含まれています」
「……議題は、術盤の話だ」
AIエージェント:「補足:術盤の話に、あなたの名が含まれています」
嫌な予感がした。だいたい当たる。
———
冬の終わりの講堂は、朝がいちばん寒い。石段の冷えが、座っている学生の背中から上がってくる。皆、外套を着たまま座っている。
リゼは、いつもどおり途中の列にいる。こちらを見ない。教室では他人、という運用は、今日は守られている。
ルドーが、表示盤の前に立った。
「昨日、床を見た」
それだけ言って、学生を見回した。
「問いだ。術盤は、なぜ、急に広がった」
「急に、って、いつからですか」
誰かが訊いた。
「お前たちが物心ついたころ、市場に術盤は無かった。いまは、麦屋の帳場に一台ある。それを急と言わずに、何と言う」
いつもの梯子が始まった。
「術盤が、安くなったからです」
人類は、便利になった理由を訊かれると、まず値段を答える。
「逆だ」
一語で切る。
「広がったから、安くなった。安くなったから広がったのなら、最初の一台は、なぜ売れた」
学生が黙った。
「記憶石が、増えたから」
「同じだ」
「生成変換器が、出たから」
「順が逆だ。あれは、広がったあとに来た」
「王都術務室が、頑張ったから」
ルドーは、少し間を置いた。
「頑張ったな」
それだけ言った。誉めたのか、切ったのか、分からない言い方である。この人の「頑張ったな」は、だいたい、切っている。
次の学生は、少し迷ってから、言った。
「……ユウ先生が、来たから」
講堂が、笑った。
笑いの中で、途中の列のリゼが、少しだけ笑ったのが見えた。笑ってから、すぐ顔を戻した。
私は、笑わなかった。笑える立場ではない。
ルドーは、笑わなかった。
「ユウ」
「はい」
「はいは一回だ」
一回しか言っていない。言い返さないのが、この講堂の作法である。
私は、表示盤の前へ出た。
「私一人で、そんなことはしていません」
最初に、それを言った。言っておかないと、この先の話が全部、自慢話になる。
「だが」
ルドーが言った。
「石をはめたのは、お前だ」
AIエージェント:「補足:焼き込んだのは、私です」
「黙れ」
講堂が、また笑った。
機械に補足されている側としては立場が無いが、言っていることは、合っている。
最悪だ。
———
「先に、何があったかを並べる」
ルドーが、表示盤に書いた。
取引所の床
帳面
王城の記録の仕事
根幹呼名盤
王城で二百年動いている術式
大商会の記録の盤
合計の小術。数え珠。映し鏡。割符
自分を書き換える術式
「全部、あった」
ルドーは、筆を置いた。
「仕事も、帳面も、術式も、あった。……では、何が無かった」
誰も答えなかった。
ルドーが、私を見た。
私は、筆を取って、ルドーの書いた列の下に、一行だけ書いた。
昨日と同じことを、今日も同じように
「これです」
私は言った。
「術盤に仕事を任せるには、昨日と同じことを、今日も同じようにやる必要があります。同じ札を入れたら、同じ値が出る。同じ帳面を足したら、同じ合計が出る。誰が入れても。誰が足しても。朝でも、夕方でも」
途中の列から、声がした。
「普通のことみたいだけど」
リゼである。学生としての発言なので、私は学生に答える顔で答えた。
「魔法では、それが普通じゃなかったんです」
講堂が、少し静かになった。
「昨日、テッサさんが言っていました。合計の小術を二人の書記が使うと、合計が違った。九百二十と、九百十八。どちらも、自分の術は正しいと言う。……これは、術者が下手だったわけじゃありません。魔法が、そういうものだったんです」
私は、講堂を見回した。
「皆さんは、火を灯せますね。水を温められる。基本の術は、誰でも使える」
頷く顔が、いくつかあった。
「では、隣の人と、同じ温さの湯を作れますか。まったく同じ温さの湯を、五日続けて」
頷く顔が、消えた。
「できないんです。魔法は、術者の腕で変わる。魔力で変わる。集中で変わる。詠唱の癖で変わる。その日の体調で変わる。同じ術を、同じように使っても、同じ答えが出るとは限らない。……火を灯すなら、それでいい。少し大きい火と、少し小さい火があっても、火は火です」
私は、表示盤の一行を、指で叩いた。
「でも、帳面に、少し大きい合計と、少し小さい合計があっては、困る」
ルドーが、短く言った。
「上手い書記と、下手な書記が、あってはならん」
「はい。同じ書記でなければならない。昨日の書記と、今日の書記が」
———
「実演をします」
私は、教卓の脇に置いてあった籠を引き寄せた。
籠の中には、木の椀が十個。安い椀である。市場で銅貨一枚で売っている。その全部に、同じ場所に、同じ長さの割れ目が入れてある。昨日の夜、ルドーが自分で割ったらしい。この人は、実演のための壊しものを、人に任せない。
「五人、前へ」
五人の学生が降りてきた。
「修繕の術を。この椀に。いつもどおりで結構です」
五人が、それぞれ、椀を持って唱えた。
修繕の術は、基本の術の中では長い方である。それでも、椀の割れ目くらいなら、学生でもだいたい直せる。
直った。
五つとも、直った。
私は、五つの椀を並べて、講堂に向けた。
「見てください」
一つ目は、きれいに直っていた。
二つ目は、割れ目の跡が、うっすらと残っていた。
三つ目は、直っているが、木目が、割れ目のところで少しずれていた。
四つ目は、きれいだった。ただし、椀の内側の塗りが、割れ目の周りだけ、少し濃くなっていた。
五つ目は、直っていた。触ると、割れ目のあった場所が、他より少しだけ盛り上がっていた。
「五つとも、直っています。五つとも、違います」
学生たちが、椀を見た。自分の椀と、隣の椀を見比べている。
「どれも、失敗ではありません。全部、修繕の術として、成功している。でも、同じではない。……これが、魔法です」
私は、籠から、残りの五つの椀を出した。
それから、懐から、小さな石を五つ出した。
薄い、平たい、透き通った石である。市場の雑貨屋で、直し石として売っているものだ。安い。携帯術盤の直しの小術を、これに移して使う。昨夜、私が、同じ小術を五つに移しておいた。中には、同じ修繕の手順が、同じ形で封じてある。
「今度は、これで」
五人に、石を一つずつ渡した。
「椀の割れ目に、当てるだけです。詠唱は要りません」
五人が、当てた。
石が、五つ、淡く光った。
直った。
私は、五つの椀を並べた。
五つとも、きれいに直っていた。
五つとも、椀の内側の、割れ目のあった場所の、少し上に、髪の毛ほどの薄い筋が残っていた。
同じ場所に。同じ長さで。五つとも。
「……同じだ」
誰かが言った。
「同じです。直り方も同じ。残った筋も同じ。誰が当てても、同じ場所に、同じ筋が残る」
私は、椀を一つ、掲げた。
「この筋は、たぶん、石に封じた術の癖です。癖まで、同じに出る。……同じ、というのは、こういうことです。上手いか下手かではない。昨日と今日で変わらない。誰と誰で変わらない。この五つの椀を、五日後に五人の別の学生が直しても、同じ筋が出ます」
ルドーが言った。
「筋は、欠点ではないのか」
「欠点です」
私は答えた。
「ただし、同じ欠点です。同じ欠点は、直せる。石の中の術を一度直せば、五つとも直る。……五人の学生の癖は、五人分、直さないといけない」
講堂が、静かになった。
この静けさは、感心の静けさである。私は、そこに、一言足した。
「ただし」
いつもの「ただし」である。
「同じように動くことと、正しく動くことは、別です。石の中の術が間違っていれば、五つとも、同じように間違えます。上手い術者なら気づく間違いを、石は、誰にも気づかせないまま、同じように五回やる」
私は、椀を置いた。
「この話は、あとで、史料館の盤に戻ります」
———
「なぜ、その石を、お前が作った」
ルドーが言った。
問いではない。この人は、順序を守る。昨日の床から、今日の石へ。今日の石から、最初の日へ。
私は、少し、息を吸った。
「私がこの世界に来た最初の日に、広場で、子どもが泣いていました」
その話は、この講堂の学生の何人かは、噂で知っている。噂でしか知らない。
「木の馬の玩具が、割れていました。木と、塗りと、金具。素材が混ざった玩具です。教師が、修繕の術を唱えて、二度、失敗した。詠唱が長くて、途中で崩れた。子どもは泣き続けていた」
あの日、直せるかどうかは、その場に立った人の腕で決まっていた。
「私は、露店で、飾り用の石を買いました。安い石です。……買ったのは、正確には、私ではありません。財布が無かったので」
途中の列で、リゼが、少しだけ姿勢を変えたのが見えた。
「その石に、修繕の手順を、初めから終わりまで、丸ごと封じました。素材を見分けるところから、冷やして固めるところまで。それを、玩具に触れさせた。……直りました」
「それで」
「それで、終わりのつもりでした。あのときは、泣いている子どもを黙らせただけだと思っていた」
私は、表示盤の一行を見た。
「王城で、詠唱を短くする石を作りました。学校で、呼びかけ一つで手順を順に走らせる仕組みを作った。先生が、あのとき、言いました。これは詠唱ではない、呼びかけだ、と」
「言った」
ルドーが言った。
「名は、お前が付けた。妙な名だった」
「妙な名でした」
講堂が、少し笑った。
「術を石に封じること自体は、前からありました。この世界に」
私は続けた。
「昨日の棚に、記録の盤がありました。大商会が名人を一人抱えて動かしていた盤です。あれも、石に術を封じたものです。私が来る前から、封じた石はあった」
「あった」
ルドーが言った。
「高い石に、名人が一人で、一つの術を封じた。名人が辞めれば、直せなかった」
「はい。私がやったのは、三つです」
私は、指を折った。
「一つ。飾り屋の石に、封じた。名人の石ではなく、露店の石に。だから、安い」
二本。
「二つ。手順を、丸ごと封じた。途中を術者に任せなかった。だから、誰が触れても同じに動く」
三本。
「三つ。呼びかけ一つで、走るようにした。石の中で何が起きているかを、呼ぶ側が知らなくていい。名前で呼べば、動く」
三本の指を、そのまま、講堂に向けた。
「安い。同じ。名前で呼べる。……昨日、床で言ったことです。安く、速く、同じように。魔法に足りなかったのは、三つ目でした。私は、三つ目を、露店の石で、はめたんだと思います」
しばらく、誰も何も言わなかった。
「あれは、魔法を短くしたんじゃない」
私は言った。
「魔法を、呼び出せる部品にしたんだと思います」
———
「足りなかったもの、に名は無いのか」
ルドーが訊いた。
「同じ問いに、同じ答えを返すこと。それだけでは長い」
「……ぶれなさ、と呼んでいます」
私は言った。
「揺れない。ぶれない。昨日と同じ。……この世界の魔法に足りなかったのは、強さでも速さでもなくて、ぶれなさでした」
ルドーが、表示盤の一行の横に、書いた。
ぶれなさ
妙な名だ、とは言わなかった。
「では、訊く」
ルドーが、筆を置いた。
「根幹呼名盤は、古代の賢者が作った。あれは、術盤ではないのか」
「術盤です」
「なら、ぶれなさは、古代からあったのではないか」
「ありました。根幹呼名盤の中には」
私は答えた。
「ただ、あれは一つしかない。山のように大きい。作れたのは、古代の賢者だけです。動かせるのは、神殿と王城だけ。再起動には、七賢者の石が要る。……麦屋の帳場には、置けません」
「置けんな」
「古代にも、ぶれない術はあった。でも、それは、一部の賢者と国家が、一度だけ作れる、巨大で高価なものでした。市場の小商人が、役人が、学校が、家が、使えるものではなかった」
ルドーは、頷いた。
「古代の賢者は、山ほどの装置で、一度やった」
それから、私を見た。
「お前は、露店の石で、何度もやった」
講堂が、静かになった。
褒められているのだ、と気づくまでに、少しかかった。この人に褒められることが、あまり無いからである。
「……そこまで格好よく言われると、困ります」
私は言った。
途中の列から、小さな声がした。
「でも、ちょっと格好いい」
小声だったが、講堂が静かだったので、皆に聞こえた。
誰が言ったかも、皆に分かった。
「……もっと困る」
講堂が、笑った。
リゼは、顔を伏せていた。伏せたまま、耳が赤かった。
最悪だ。
悪くない最悪である。
———
「もう一つ、訊く」
ルドーは、笑いが収まるのを待たなかった。
「古い術式には、自分を書き換えるものまであった。二百年動いている術式もある。……なら、昔から、魔法は手続きだったのではないか」
「手続きでは、ありました」
私は答えた。
「でも、保守できる部品ではなかった」
「違いは」
「出納局の術式を思い出してください」
私は、表示盤の下の方に、書いた。
書いた本人しか、動きが分からない
術書に書いてある姿と、走っている姿が違う
何が決まりで、何が癖か、分からない
自分を書き換えるのが、工夫なのか、事故なのか、分からない
その術盤でしか、動かない
「あれは、名人の術でした。名人が、狭い術座と遅い術盤の中で、走るために工夫した術です。工夫だから、走った。走ったから、長く使われた。……でも、名人が辞めたあと、誰も、それが何をしているか、言えなかった」
ナザルさんの顔を思い出す。名人の術を壊すことになりますか、と訊いた顔である。
「現代の術盤に載せるには、まず、動きを観測して、決まりを書き出して、書き換えをやめた固定術式に組み直しました。動きを固定して、名前を付けて、どこからどこまでがその術か、境目を切った。……それをやって、初めて、部品になった」
私は、筆を置いた。
「古い術式は、生き物みたいでした。現代の術盤で扱うには、まず、道具にしないといけなかった」
「生き物か」
「生き物です。走るし、育つし、書いた人にしか懐かない」
ルドーは、少しだけ、鼻を鳴らした。
「懐かれても、困る」
「困ります」
———
「先生」
途中の列で、手が上がった。リゼである。今日は、よく喋る。
「昨日から思ってたんですけど」
「言え」
「昔は、魔法を封じた石は、名人のものだった。いまは、雑貨屋で売ってる。……それって、魔法が、偉い術師のものから、みんなの道具になった、ってことですよね」
「そう言えると思います」
私は答えた。
リゼは、少し迷ってから、続けた。
「前に、休みの日に、道で見ました。女の子が、木の馬の玩具を割って泣いてて。お母さんが、携帯術盤を出して、直しの小術で、直したんです。木と、金具と、塗りを、指で示して。小さな直し石に術が移って、割れ目が寄った。……ユウ先生のときみたいに、教師も、大人も、困っていなかった。お母さん一人で、直した。誰も、驚いていなかった」
その話は、聞いている。ケーキを持って帰った日の、おやつの時間に聞いた。
聞いたときは、すごいな、としか言えなかった。講堂で聞くと、少し違って聞こえる。
「……それは」
私は、言葉を探した。
「たぶん、私が最初の日にやったことの、いちばん正しい行き先です」
ルドーが、言った。
「術式を学ぶことと、術式を使えることが、分かれたのだな」
「はい」
私は答えた。
「それは、大きいです。学ばなくても、使える。学んだ人が封じた石を、学んでいない人が、名前で呼べる。……魔法学校の商売としては、少し困るかもしれませんが」
「困らん」
ルドーは言った。
「封じる側は、減らん。増える」
その言い方は、たぶん、この人なりの、学校の将来についての見通しだった。
———
夕方、史料館へ行った。
ルドーと、リゼと、私である。学生はいない。テッサが、奥の盤の布を、もう外して待っていた。
「講堂で、話しました」
私は言った。
「昔の魔法に足りなかったのは、ぶれなさだった、と」
「ぶれなさ」
テッサが、繰り返した。
「同じ札を入れたら、同じ値が出ること。誰が入れても。いつ入れても」
「……それは、この盤に、無かったものですね」
「無かったものです。見せていただけますか」
私は、盤の口の裏を開けてもらった。
中には、細い管が幾筋も走っていて、管の途中に、小さな石が幾つも埋めてある。読み取りの術を封じた石である。三十年前の石だ。私の露店の石より、ずっと立派で、ずっと高い。
私は、石の並びを、しばらく見ていた。
それから、テッサに訊いた。
「この盤は、朝、誰が起こしていましたか」
「銀嶺商会の術者です。毎朝、詠唱で起こしました。半刻かかりました」
「術者は、いつも同じ人でしたか」
「……いいえ。三人が、交代で」
それで、一つ分かった。
「湿った日に、読みが変わった、と言っていました。札が湿ると、墨が、少し光ります。この石は、たぶん、墨の光り方で数を読んでいます。乾いた札と湿った札は、この石にとっては、別の札です」
「別の札」
「人間なら、湿った札を見て、昨日の三十袋の札だ、と分かる。同じだと分かる力が、人間にはあります。この石には、それが無い。……そして、起こす術者が変われば、読み方の癖も変わった。朝の術者の魔力で、石の感じ方が、少し違った」
「封じてあるのに、ですか」
「封じてはありました。ただ、途中を、術者に任せていた。朝、起こすところを。……手順の一部でも術者に残っていれば、そこから、ぶれが入ります。露店の石は、そこを残さなかった。それだけの違いです」
私は、口の裏を閉じた。
「それと、もう一つ」
「はい」
「この盤には、自分が何を読んだかを、残す場所がありません」
テッサが、盤を見た。
「窓に値を出して、管で帳面へ写す。それだけです。何を読んで、なぜその値にしたかを、どこにも残さない。だから、半分の値を出した日、盤に訊けなかった。何を読んだんだ、と。……訊けないから、嘘をついたことになった」
テッサは、しばらく黙っていた。
「書記は、聞き取れなかったら、聞き直します」
それから、言った。
「この盤は、聞き直しませんでした」
「そうです。聞き直せる作りに、なっていなかった」
人間の書記なら、分からないときに、分からない顔ができる。この盤は、分からないときにも、分かった顔で値を出した。それは、嘘ではない。だが、嘘より、質が悪いことがある。
ルドーが、盤を見たまま、言った。
「今の術盤は、違うのか」
「違います。少しだけ」
私は答えた。
「同じ札を同じ札として扱う。読んだものを記録札に残す。分からないときは、分からないと出す。……全部、この盤が持っていなかったものです。全部、あとから、一つずつ足しました」
私は、盤から離れた。
「今の術盤も、やっていることは、あまり変わらないのかもしれません」
リゼが言った。
「人がやっていたことを、石と術式がやってるだけ?」
「はい」
私は言った。
「ただ、疲れず、同じように、ずっと速く」
ルドーが、それに足した。
「そして、壊れたときには、人間より分かりにくく壊れる」
「……それは、本当にそうです」
テッサが、盤の脇の、古い紙を見た。
盤が嘘をついた。
「これは、直したほうがいいですか」
「直さないでください」
私は言った。
「消さずに、線を引いて、横に書き直してください。作法の五つ目です」
テッサは、小さく笑った。
「何と書きましょう」
「……盤は、見えたとおりに答えた。見え方が、毎日違っただけ」
テッサは、筆を取った。三十年、帳面を書いた指で、古い紙の上に、線を一本引いた。線の下に、字が残った。横に、新しい字が並んだ。
消さない。線を引いて、足す。
三十年前の床の作法が、三十年前の盤の札を、直した。
———
帰り道は、もう暗かった。
ルドーは、史料館の前で別れた。別れ際に、一言だけ言った。
「次の授業も、講堂だ」
次の授業。この人は、いつも、私の返事より先に予定を決める。
リゼと二人で、市場通りを歩いた。夕方の市場は、まだ声がある。呼び売りの声。荷車の音。麦屋の帳場に、術盤が一台。帳場の主人が、それを見ながら、客と値の話をしている。
かつて、市場は、人の声で動いていた。
札が走り、帳面が積まれ、叫び声が値を決めた。
いまは、石と術式が、同じことをしている。
だが、情報を運び、並べ、選び、記録し、確かめる、という営みは、変わっていない。すり鉢の床でテッサがやっていたことを、いまは麦屋の帳場の盤がやっている。それだけである。
変わったのは、それを誰が、どれほど速く、どれほど同じようにできるか、だった。
そして、その代わりに、壊れたときに、誰も、盤の顔を読めなくなった。
「ねえ」
リゼが言った。
「講堂で、財布が無かった、って言ったでしょ」
「言った」
「あの石、銀貨二枚だったのよ」
「……覚えているのか」
「覚えてるわよ。あとで返して、って言ったのに、返してもらってないもの」
この人は、こういうところを、忘れない。
「……家賃と相殺してくれ」
「家賃、取ってないわよ」
「じゃあ、家賃代わりだ」
「それは、私の台詞」
リゼは笑った。笑ってから、少し真面目な顔になった。
「でも、あの二枚で、あれが始まったのね」
「始まった、というほどのことは、していない」
「講堂で、格好いいって言われてたけど」
「言ったのは、君だ」
「学生として言ったの」
そういうことにしておく。
AIエージェント:「補足:露店の石の代金は、いまも未払いです」
「黙れ」
「今のは合ってるわ」
リゼが言った。
合っている。合っているのだが、機械に帳面をつけられるのは、少し困る。
三十年前の盤より、この機械は、よほど正確に、私の借りを覚えている。




