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魔法世界は運用で回る  作者: 月の位相
夫婦編

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第216話 声の市場

 静かな市場、というものを、私は初めて見た。


 王都商業史料館は、商務院の裏手にある。石造りの古い建物で、正面の扉が妙に大きい。人が一度に何十人も出入りすることを前提に作られた扉である。いまは、その扉を学生が二十人ほど、列になって通っている。


 中は、冷えていた。冬の終わりの、まだ暖まらない石の冷えである。


 匂いは、古い木と、蝋と、紙。


 そして、広い。


 天井の高い広間の真ん中が、すり鉢のように段になって沈んでいる。いちばん低いところは円い床で、そこを囲むように、三段の段が輪になっている。段の上には太い柱が八本。柱のそれぞれに、木の板が掛けてあり、板には字が彫ってある。


 麦。塩。油。銀鉱石。銅。浮遊石。羊皮紙。翼竜の飼料。


 柱の脇には帳面を置く台。段の外側には、人ひとりが走れるだけの通路。通路の先には小さな窓口が並び、窓口の上には「清算」と彫った板。


 壁には、黒い板が一面に貼ってある。板には、白い字で数字が並んでいた。書いた人が、もういないことが分かる字だった。


「現場こそ授業だ」


 ルドーが、入口で言った。


 いつもの台詞である。ただし、いつもは事故現場で言う。今日は、何も起きていない。


 この人が何も起きていない場所で授業をするのは珍しい。だから私は、たぶん、少し油断していた。


———

 案内をしてくれたのは、小柄な老婦人だった。


 名をテッサという。史料館の職員で、背は私の肩ほどしかない。右手の中指の、第一の節のところに、固く色の変わったところがある。長いあいだ筆を持った人の指である。


「こちらが、術盤化される前の、王都穀物・鉱石取引所の立会場です」


 声は、小さくなかった。この広間の大きさに慣れた人の声だった。


「建物と床と柱と板は、当時のものです。札と帳面は、復元したものです。本物は、清算所で燃やされるか、術盤に写されるかして、もう残っていません」


 学生たちは、すり鉢の縁に並んで、下の円い床を見下ろしていた。


「ここで、何をしていたんですか」


 誰かが訊いた。


「取引です。麦を買いたい商会と、麦を売りたい商会が、ここで値を決めて、量を決めて、帳面に書く。それだけです」


「それだけのために、こんなに広いんですか」


「それだけのために、こんなに広いんです」


 テッサは、段を降りて、円い床の真ん中に立った。


「ここに、仲買人が立ちます。柱ごとに三人から五人。麦の柱には麦の仲買人、塩の柱には塩の仲買人。買いたい人と売りたい人は、自分では叫びません。仲買人に頼みます。仲買人が、代わりに叫びます」


「叫ぶ」


「叫びます。麦、買い、五十袋、銅貨九つ、というふうに。売りたい仲買人が、それを聞いて、売り、五十袋、九つ、と返す。それで成立です」


 学生たちの顔に、うっすらと同じ表情が浮かんだ。


 うるさそう、という表情である。


「うるさそう」


 ラウが、そのまま口に出した。背が高いので、後ろから言っても聞こえる。


「うるさかったですよ」


 テッサは、笑わなかった。


「成立したら、仲買人が札を書きます。買った側と売った側の名、品、量、値。書いたら、走り使いに渡す。走り使いは、通路を走って、清算所の窓口へ持っていく。清算所は、その日の終わりに、札を全部並べて、誰が誰にいくら払うかを決めます」


 テッサは、壁の黒い板を指した。


「あの板は、掲示係の板です。取引が成立するたびに、いちばん新しい値を書き換えます。板を見れば、いま麦がいくらか、誰でも分かる」


「魔文で送ればいいのに」


 別の学生が言った。


「魔文が来たのは、床が閉じる少し前です。来ても、床では使いませんでした。叫ぶ方が速かったので」


「術盤で……」


「術盤は、ここにはありませんでした」


 学生が、黙った。


「術盤がない時代って、大変だったんですね」


 その声は、素直だった。素直に、遠い昔の話だと思っている声だった。


 私は、少し気になった。学生たちにとって、これは生まれる前の話に聞こえている。実際には、そこまで昔ではない。テッサの指を見れば分かる。あの節は、昔の指ではない。いまも筆を持っている指である。


———

 私は、すり鉢の縁に立ったまま、しばらく黙っていた。


 黙って、床を見ていた。


 円い床。八本の柱。柱ごとの帳面台。外側の通路。通路の先の窓口。壁の板。


 人がいない状態で見ると、それは、ただの広い部屋である。


 だが、人を入れて動かすところを頭の中で描いてみると、部屋の形が、少しずつ意味を持ち始めた。


 柱は、品ごとの窓口だ。仲買人がそこに立つ。買いと売りが同じ柱に集まるようになっている。


 通路は、札が流れる道だ。走り使いがそこを通る。段の上の客とぶつからないように、外側に切ってある。


 壁の板は、みんなが見る板だ。帳面台の帳面が正で、板はその写しである。


 清算所は、その日の終わりに、全部の札を突き合わせる。


 人が、それぞれの場所に立って、それぞれのことだけをやる。


 これは。


「どうしたの」


 リゼが、隣に来ていた。学生の列から、一人だけ抜けてきている。教室では他人、という妻の運用は、たまに破られる。


「いや」


 私は言った。


「これはこれで、かなりよくできた仕組みだと思って」


 言ってから、気がついた。声が思ったより大きかった。


 学生たちが、こちらを見ていた。


 テッサも、こちらを見ていた。


 ルドーは、見ていなかった。壁の板を見ていた。見ていないのに、口の端が少しだけ動いた。


 最悪だ。


「……ユウ先生、いまの、どういう意味ですか」


 学生の一人が訊いた。


「よくできている、というのは」


「この部屋の形が、です」


 もう引き返せないので、私はすり鉢を降りた。


———

「柱を見てください」


 私は、麦の柱の脇に立った。


「麦の仲買人は、ここにしか立ちません。塩の仲買人は、塩の柱にしか立たない。買いたい人も売りたい人も、麦なら、麦の柱に来る。同じ品を扱う人が、同じ場所に集まる。だから、突き合わせが速い」


「宛先札……ですか」


 誰かが言った。


「近いです。ただ、宛先を札に書く代わりに、柱に人を立たせています」


 次に、通路を指した。


「走り使いは、ここしか通りません。客の段は通らない。仲買人の床にも入らない。札を運ぶ道が、初めから別に切ってある。人とぶつからないように」


「術線みたい」


「札が流れる線です」


 次に、帳面台。


「仲買人が成立を叫んだら、書記がここで帳面に書く。書記は、仲買人の言ったとおりに書くだけで、値を決めません。帳面が正です。壁の板は、その写し」


「……見せ板だ」


 ラウが言った。


 私は、少し驚いた。驚いてから、当たり前だと思った。この学生たちは、停留術塔の板を毎朝見て学校に来ている。あれは、正本台帳と見せ板の作りである。


「そうです。帳面が正本台帳、板が見せ板。正本が先で、見せ板が後。板の書き換えが遅れることはあっても、板の方が正しいことは無い。ここも同じです」


 私は、通路の先の窓口を指した。


「清算所は、その日の取引をあとでまとめて突き合わせる。取引のたびに払っていたら、仲買人は叫ぶ暇がなくなる。だから、決めるのは床で、払うのは窓口で、と分けてある」


 最後に、床の真ん中に戻った。


「そして、仲買人。買いと売りを聞いて、合う相手を見つけて、成立と言う。一人で、一つの柱の、全部の注文を頭の中で突き合わせている」


 私は、少し息をついた。


「人が、それぞれの場所で、それぞれのことだけをやる。運ぶ人は運ぶだけ。書く人は書くだけ。突き合わせる人は突き合わせるだけ。全部を一人でやろうとしていない。……これは、部屋の形が、仕事の形になっている、ということです」


 学生たちは、黙っていた。


 うるさそう、という顔は、もう無かった。代わりに、少し困った顔をしていた。古いものを馬鹿にするつもりで来て、馬鹿にできなくなったときの顔である。


 リゼが、小さく言った。


「人が、術盤の中に入ってるみたい」


 私は、リゼを見た。


 この人は、いつも、私が十行かけて言うことを一行で言う。


「たぶん、逆です」


 私は言った。


「人が術盤の中に入っているんじゃない。むしろ、術盤が後から、人の仕事を真似したんだと思います」


 テッサが、初めて、少しだけ笑った。


———

「では、動かしてみましょうか」


 テッサが言った。


 史料館には、体験の仕組みがあるらしい。学生に役を割り振って、昔の取引を一度やらせる。子ども向けにやることが多いそうで、テッサの声は、少しだけ子どもに向けるときの声になっていた。


 役が配られた。


 買い手が六人。売り手が六人。仲買人が三人、麦の柱に立つ。書記が一人。掲示係が一人。走り使いが二人。清算係が二人。監督官が一人。


 監督官は、ルドーがやることになった。木槌を渡されて、段の上の高い席に座った。この人は、木槌を持つと、やけに座りがいい。


 私は、何もやらなかった。


 やらないつもりだったが、テッサが最後に言った。


「ユウ先生は、書記の隣で、見ていてください。書記は、いちばん見えます」


 書記の隣に座った。帳面と、筆と、墨。


 リゼは、売り手の一人になった。手には、麦の袋の絵を描いた札が五枚。五十袋、ということらしい。


「始めます」


 ルドーが木槌を打った。


 最初の三十拍ほどは、静かだった。


 誰も、どう叫んでいいか分からなかったからである。


 それから、買い手の一人が、おそるおそる仲買人に何かを言い、仲買人が、おそるおそる叫んだ。


「麦……買い……三十袋……銅貨、八つ?」


「売り、三十袋、九つ」


「八つ」


「九つ」


 周りが、笑った。


 笑ったところで、二人目の買い手が別の仲買人に頼み、その仲買人が叫んだ。三人目も叫んだ。


 そこから先は、早かった。


 三人の仲買人が、同時に叫び始めた。買いと売りが混ざる。三十袋、と言ったのが、買いなのか売りなのか、聞いている側には分からない。仲買人の一人が「成立」と言ったが、誰と誰が成立したのかを、書記が聞き取れなかった。


「え、いまの、誰と誰ですか」


「僕と……あの、緑の」


「緑の人は、売りですか、買いですか」


「売りです」


「売りは八つって言いました?」


「九つです」


「じゃあ、成立してません」


「成立って言った」


「言ったけど、値が違う」


「僕の方が先に言いました」


「私の方が先」


「先に言った方が勝ちなんですか」


「知りません」


 走り使いが、書きかけの札を受け取って走ろうとして、書記が呼び止めた。書き終わっていない札を持っていかれそうになったからである。


 掲示係が、壁の板に書こうとして、何を書けばいいか分からず、筆を持ったまま止まった。


 二人目の走り使いが、通路ではなく仲買人の床を横切ろうとして、仲買人にぶつかった。仲買人が持っていた札が落ちた。


 リゼが、売り、と叫ぼうとして、仲買人に頼むのを忘れて、自分で叫んだ。


「売り、五十袋、九つ!」


 仲買人が三人とも振り向いた。


「誰の注文ですか、それ」


「私の」


「仲買人を通してください」


「……通します。売り、五十袋、九つ」


「じゃあ、それは何袋の五十袋ですか」


「袋は袋でしょう」


「大袋か、小袋か」


 リゼが、黙った。史料館の札には、大袋と小袋の絵があった。それを、誰も気にしていなかった。


 最悪だ。


 私は、書記の隣で、それを全部見ていた。書記は、帳面に、線を三本引いて、その横に「聞き直し」と書いていた。三十袋の取引を、二回書いていた。値が違う。片方は八つで、片方は九つ。どちらが本当かは、書記には分からない。


 AIエージェント:「観測:叫ばれた注文十四件。帳面に残った注文四件。補足:受け皿があふれています」


「黙れ」


 書記の学生が、こちらを見た。


「何か言いました?」


「何でもありません」


 人類は、仕組みを与えられただけでは動かない。動かし方まで与えられて、やっと動く。それを、私はいま、すり鉢の底で見ている。


 ルドーが、木槌を打った。


 止まった。


 止まってから、清算係の二人が、走り使いから受け取った札を並べた。札は五枚。帳面には四件。板には、一つの値が書いてあった。八つ。成立していない値である。


「……合いません」


 清算係が言った。


 ルドーが、高い席から、テッサを見た。


「よく、これで市場が動いていたな」


「動いていました」


 テッサは、すり鉢の底で言った。


「動かすための作法がありましたから」


———

「作法」


 ルドーが繰り返した。


 テッサは頷いて、麦の柱に立った。


「教えていないことを、皆さんはやりました。それは、皆さんが悪いのではありません。私が教えていないからです。ここで働く者は、床に立つ前に、作法を三月習います」


 テッサは、指を一本立てた。


「一つ。叫ぶ順は決まっています。柱の名、買いか売りか、量、単位、値。この順でしか言わない。順が違う叫びは、聞かなかったことにする」


 二本。


「二つ。仲買人は、聞いた注文を、必ず一度、繰り返します。買い、三十、大袋、八つ、と。繰り返しが違っていたら、頼んだ側が、その場で止める。繰り返しを聞いて止めなかったら、その注文は頼んだ側のものです」


 三本。


「三つ。二人が同時に叫んだら、監督官が指した方が先。指されなかった方は、もう一度言い直す。自分の方が早かった、と言い争うことは、ここでは禁じられていました」


 四本。


「四つ。札には番号を書きます。走り使いは、番号の無い札を運びません。清算所は、番号の無い札を受け取りません。書きかけの札は、番号を書く前なので、運ばれない」


 五本。


「五つ。帳面は、消さない。間違いは、線を引いて、横に書き直す。線を引いた字も、残す。あとで、なぜ直したかを見られるように」


 テッサは、手を下ろした。


「あと、手の形。声が届かないときのために、量と値を手で示す形が決まっていました。指を外へ向ければ売り、内へ向ければ買い。指の数が値。掌の向きが単位」


 テッサは、それを実際にやって見せた。小さな手が、床の上で、いくつかの形を作った。素早くて、迷いのない形だった。


 学生の一人が、言った。


「……符丁表みたい」


「符丁表です」


 私は言った。


「言葉の順を決める。曖昧な言い方を禁じる。同じ形には同じ意味しかない。あれは、術盤の符丁表と同じものです。順番だけが、逆で。……こっちが、先にあった」


 テッサが、私を見た。


「先生は、どちらの人ですか」


「どちら、とは」


「術盤の側の人ですか。それとも、こちら側の」


 答えに困った。


「……術盤の側から来て、こちらを見ている人です」


「そうですか」


 テッサは、それ以上訊かなかった。


———

 二度目は、作法つきでやった。


 テッサ自身が、麦の仲買人の一人に立った。


 最初の叫びで、違いが分かった。


「麦、買い、三十、大袋、八つ」


 仲買人役の学生が、順番どおりに叫んだ。少し、たどたどしい。


「麦、買い、三十、大袋、八つ。……売り、ありますか」


 テッサが繰り返して、周りに問うた。


 リゼが、今度は仲買人に頼んだ。仲買人が叫ぶ。


「麦、売り、五十、大袋、九つ」


「九つは高い」


「八つ半」


「八つ半、なら三十だけ」


「三十、大袋、八つ半、成立」


 テッサが言って、そのあとで、こう続けた。


「札、四番。買い、緑。売り、青。三十、大袋、八つ半」


 書記が書く。書きながら、口の中で繰り返す。書き終わってから、走り使いに渡す。走り使いは、札の番号を確かめてから、通路を走る。掲示係は、書記が頷いたのを見てから、板に八つ半と書く。


 遅かった。


 一度目より、はっきりと遅かった。


 だが、間違えなかった。


 同時に叫んだ二人がいたときは、ルドーが木槌の柄で片方を指した。指されなかった方が、言い直した。誰も言い争わなかった。言い争うことが禁じられている、と聞いたからである。


 清算のとき、札は七枚、帳面は七件、板は最後の値だった。


 合った。


「合いました」


 清算係が、少し嬉しそうに言った。


 学生たちが、少し疲れた顔で、それでも少し嬉しそうにしている。動かないと思っていたものが動くのを見た顔である。


 私も、少し嬉しかった。嬉しいついでに、頭の中で、いまの動きを一つずつ数えていた。


 叫ぶ順を決める。繰り返して確かめる。同時なら監督官が順を決める。番号の無い札は運ばない。帳面は消さず、線を引いて足す。


 今ではこれは、全部、術盤の中にある。


 言い方を変えると、今術盤の中にあるものは、全部、ここから持っていったものである。


 一つずつ、置き換えてみた。


 叫ぶ順が決まっているのは、受け札である。数を受ける器に名を入れてはいけない、というあれだ。柱の名、売買、量、単位、値。この順でしか受け取らない。順の違う叫びを聞かなかったことにするのは、形の違う札を弾く入力札と、同じことをしている。


 仲買人の繰り返しは、届いたと返すことだ。聞いたものを、聞いたとおりに返す。返された側は、違っていればその場で止める。止めなければ、それで決まったことになる。魔文の受け取り盤も、中継所も、同じことをしている。届いたか、ではなく、何が届いたか、を返させる。


 同時に叫んだ二人を監督官が指すのは、順番門である。二つの書き込みが同じ刻に来たとき、どちらが先かを、書かれる側ではなく、門が決める。決めなければ、二人とも自分が先だと言う。二人とも、嘘をついていない。


 帳面を消さないのは、無効化記録だ。間違いを消せば、間違いがあったことも消える。線を引いて横に書けば、なぜ直したかが残る。消せない台帳の一件で王都が学び直したことを、この床は最初から知っていた。


 そして、番号。


 通り印を作ったのは私だと、王都では言われることがある。許可札発行窓口の客が、どの盤も止まっていないのに待たされていた年に、講堂で教えて、窓口で試したものである。一件ごとに、最初の受付で通し番号を打つ。その番号を、どの机へ行っても引き継がせる。番号が無ければ、次の机は受け取らない。そうすれば、一件の仕事がどこを通り、どこで止まったかが、あとから読める。


 それは、走り使いの札の番号である。


 四番の札。書記が番号を書き、走り使いが番号を確かめてから走り、清算所は番号の無い札を受け取らない。テッサは、それを三十年、書いていた。


 私が思いついたのではない。この床では、番号を打つのが当たり前だったので、誰も名前を付けなかった。名前が付いていないものは、術盤へ移すときに、誰かが付け直すことになる。付け直した者が、作った者に見える。


 最悪だ。


 最悪なのだが、悪い話ではない。


 私が窓口へ持っていったのは、思いつきではなく、三十年動いたものだった。あのとき、うまくいく気しかしていなかった自分を、少し許してやってもいい。


———

「テッサさん」


 リゼが、売り手の札を返しながら、訊いた。


「今のやり方だと、遅いですよね。人が確かめるところが多くて」


「遅いです」


「じゃあ、悪いところしか無いんですか。術盤に比べて」


 テッサは、少し考えた。


「一つ、見ていただきましょうか」


 テッサは、学生の一人を呼んだ。買い手役の、痩せた学生である。何か耳打ちをした。


 学生が、仲買人役のところへ行って、注文を頼んだ。仲買人が叫ぶ。


「麦、買い、百、大袋、……銅貨、一つ」


 床が、静かになった。


「一つ」


「一つ、です」


 テッサが、仲買人役の隣に立ったまま、言った。


「私なら、それは繰り返しません」


「……作法では、繰り返すことになっていますよね」


「なっています。ですが、繰り返しません。麦の大袋が銅貨一つで買えたことは、私が床にいた三十年で、一度もありません。値を聞き違えたか、頼んだ人が単位を間違えたか、それとも、何か企んでいるか。三つのどれかです。だから、私はまず、頼んだ人の顔を見ます」


 テッサは、痩せた学生の顔を見た。学生が、少し笑った。


「……この顔は、企んでいる顔ですね」


 笑いが起きた。


「本気の顔と、試している顔は、違います。仲買人は、それを見ます。見て、書かない。書かないで、聞き直す。作法の外の話です。作法には、書いてない」


 テッサは、柱に手を置いた。


「荷が濡れていたときの値引きは、その場で決めました。決まりはありません。仲買人と買い手と売り手が、その場で顔を見て決めました。信用できない商会の仲買人が来たときは、誰も繰り返しませんでした。決まりはありません。皆が、覚えていただけです」


「……人が、覚えていた」


「人が、覚えていました。床にいる全員が、同じことを覚えていました。それは、帳面には書いてありません」


 ルドーが、高い席で言った。


「ただ遅いだけでは、なかったのだな」


「はい」


 私は答えた。


「人間が入っているからこそ、処理できる例外があります。決まりに無いことが起きたとき、決まりの外で止まれる。作法に無い顔を見て、書かないでいられる。……術盤は、これが、あまり得意ではありません」


 術盤は、書けと言われれば書く。銅貨一つでも書く。


 だから、いま術盤の前には、テッサの代わりに、入力札と境目見と見立てが置いてある。人が見ていたものを、一つずつ、術に置き換えて。


 まだ、置き換え切れていない。


———

「でも」


 リゼが言った。


 この人の「でも」は、だいたい、いちばん大事な問いの前に来る。


「魔法は、あったのよね。昔から」


「ありました」


「じゃあ、どうして、もっと早く、こういうのを魔法でやれなかったの。術盤が無くても、魔法はあったんでしょう」


 テッサが、私を見た。私が答える番だと思ったらしい。


 私は、すぐには答えなかった。


 代わりに、テッサが言った。


「あったんですよ。魔法で楽をする道具は」


 テッサは、すり鉢の縁の、壁際の棚へ皆を連れていった。


 棚には、道具が並んでいた。


 数を数える珠。細い軸に通した珠が、術をかけると勝手に動いて、袋の数を足す。


 帳面の合計を出す小術の札。帳面の上に置くと、列の合計が浮かぶ。


 価格の板を遠くへ映す鏡。床の板を、別室の商会の部屋へ映すためのもの。


 押すと帳面へ写る割符。仲買人が押せば、書記が書かなくても帳面に残る。


 そして、いちばん奥に、大きな一枚の板。大商会が、自分の部屋に置いていた記録の盤だという。


「どれも、ありました。私が書記になった頃には、もう、ありました」


「じゃあ、なぜ使わなかったんですか」


「使いました。使って、やめました」


 テッサは、合計の小術の札を取り上げた。


「これで出した合計は、監査で通りませんでした。同じ帳面に、二人の書記がこれを使うと、合計が違ったことがあるんです。一人は九百二十。もう一人は、九百十八。どちらも、自分の術は正しいと言う。どちらが正しいかは、手で足すまで分からない。だから、手で足しました。手で足すなら、最初から手で足せばいい」


 珠を取り上げた。


「これは、疲れている術者が使うと、数え落とします。術者の魔力で動くものですから。朝は合って、夕方は合わない」


 鏡を指した。


「これは、映すのに、部屋ごとに術者が一人要りました。術者の腕で、映りが違う。高い」


 割符。


「これは、押す力と、押す人の魔力で、写る字が違いました。同じ人が押しても、日によって薄い。薄いと、清算所が読めない」


 記録の盤。


「これは、大商会が、名人の術者を一人抱えて動かしていました。その術者が辞めたら、動かなくなりました。動かし方が、その人の中にしか無かったからです」


 テッサは、札を棚に戻した。


「どれも、魔法です。魔法だから、術者で変わる。術者の腕で。魔力で。その日の体調で。同じ術を、同じように使っても、同じ答えが出るとは限らない。……帳面は、同じ答えが出なければ、帳面ではないんです」


 学生たちは、黙っていた。


 私も、黙っていた。


 黙りながら、学校の門に掲げられた言葉を思い出していた。この世界に来た三日目に見た言葉である。


 術式は責任、詠唱は証拠。


 あのとき私は、宗教か監査か、どちらかに寄っていると思った。


 監査だったのだ。


 詠唱を証拠にしなければならないほど、術の結果は、術者によって揺れた。だから、誰が、どう唱えたかを残さないと、あとで責められなかった。


 あの校訓は、この棚の道具が、この床で負けた理由を、五文字と五文字で書いたものだった。


「……ユウ」


 ルドーが、高い席から言った。


「答えろ」


「はい」


 私は、棚から床の方へ向き直った。


「計算できる魔法が、無かったわけじゃありません。数えることも、足すことも、映すことも、写すことも、できた。全部あった」


 合計の札を、指した。


「でも、市場の取引を任せられるほど、安く、速く、同じようには、動かなかったんです」


 同じように。


 そこに、力を入れた。


「安いか、速いか、同じか。三つ揃わないと、帳面は任せられない。……昔の魔法は、たぶん、三つ目がいちばん足りなかった」


 テッサが、小さく頷いた。


 頷いてから、こう言った。


「同じ、というのが、いちばん難しかったんです。人間でも」


———

 史料館のいちばん奥に、布をかけたものがあった。


 背の高い、四角いものである。


「これは、見ていただくつもりはなかったのですが」


 テッサは、少し迷ってから、布を外した。


 現れたのは、黒い盤だった。


 壁の掲示板を縦に半分にしたくらいの大きさで、上の方に、値を出す窓が並んでいる。窓の下に、札を差し込む口がある。口の脇に、細い管が伸びていて、管の先が、帳面台のような台につながっている。


「自動価格掲示盤、と呼ばれていました」


 テッサは言った。


「銀嶺商会が、私が書記になったころに、作らせたものです。仲買人が、成立した札をこの口に入れる。盤が札を読んで、いちばん新しい値を、窓に出す。掲示係が要らなくなる。同時に、管を通って、帳面に写る。書記が要らなくなる。……そういう、つもりのものでした」


「動いたんですか」


「動きました。半年ほど」


「それで」


「やめました」


 テッサは、盤の口に、指を触れた。


「同じ札を入れても、日によって、違う値を出しました。札の角度で、読みが変わった。湿った日は、乾いた日と違う数を読んだ。値を出す順が、入れた順と、たまにずれた。三十袋の札と、三百袋の札を、取り違えた。……そして一度、麦の値を、本当の半分で出しました」


「半分」


「板の値を見た商会が、一斉に売りました。床は、その日、一刻止まりました。清算所が全部を突き合わせて、盤の値が間違いだったと分かるまで」


 誰も、何も言わなかった。


「銀嶺商会は、盤を引き取りました。作らせた術者は、原因が分からなかった。当時の記録には、こう書いてあります」


 テッサは、盤の脇に貼られた古い紙を指した。


 私は、読んだ。


 盤が嘘をついた。


「盤が、嘘をついた、と」


 テッサが言った。


「私は、そう思っていました。三十年」


 私は、盤を見た。


 窓が並び、口があり、管があって、台がある。形だけ見れば、いまの術盤と、そう変わらない。札を入れて、読んで、写す。


 だが、この盤の中にあったものは、いまの術盤の中にあるものとは、違う。


「……盤が嘘をついたんじゃないと思います」


 私は言った。


「たぶん、同じ札を、同じ札として扱えなかったんです」


 リゼが、こちらを見た。


「同じなのに?」


「同じなのに」


 私は、口に手を触れた。木の口である。少し、湿っている。


「札は同じでも、角度が違う。湿り気が違う。入れる人の手が違う。入れた刻が違う。私たちには、それは全部同じ札です。……でも、当時の魔法にとっては、同じじゃなかった」


 盤は、嘘をついていない。


 盤は、見えたとおりに答えていた。ただ、見え方が、毎回違っただけだ。


 人間の書記なら、湿った札を見て、これは昨日の三十袋の札と同じものだ、と分かる。同じだと分かる力が、人間にはある。この盤には、無かった。


 だから、これは嘘ではない。


 揺れである。


 テッサは、しばらく、盤を見ていた。


「……三十年、嘘だと思っていました」


「嘘の方が、分かりやすいですから」


「そうですね」


 テッサは、布を戻した。


「先生。よければ、もう一度、いらしてください。これが、なぜそうなったのか、私は、まだ聞いていません」


「……はい」


 答えてから、ルドーを見た。


 ルドーは、木槌を返しに窓口の方へ歩いていくところで、こちらを見ていなかった。


 見ていないのに、言った。


「次の授業は、講堂だ」


 次の授業。


 この人は、いつも、私の返事より先に予定を決める。


 最悪だ。


 布の下で、盤は、黙っていた。三十年、黙っていたのと同じ顔で。


 嘘をついたことにされたまま、黙っていた。


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