第209話 近くに置け、遠くに聞くな
演算晶工房は、王都の東の外れにあった。
窯のある焼成所とは別の建物である。焼く前の話をする場所、とヨルグは言った。何を焼くかを決める場所、という意味らしい。
朝、馬車を三台連ねて着いた。学生が二十人ほど。ルドーが引率で、私は付き添いという名目である。
「見学の授業ですか」
馬車を降りながら、私は訊いた。
「現場こそ授業だ」
「三日前に怒鳴り込んできた人の工房ですが」
「怒鳴る人間のところには、だいたい本当の問題がある」
この人は、そういう嗅ぎ方をする。
リゼも学生の列にいた。列の後ろの方で、他の学生と何か話している。祭りの菓子の話をしているのが、離れていても分かった。
———
工房の中は、明るかった。
窓が大きい。机が大きい。机の上に、大きな図面が広げてある。図面には、細かい四角がびっしり並んでいた。演算晶の中身の絵らしい。
明るいのに、人が疲れていた。
窓際で三人が図面に覆いかぶさるようにして議論しており、その隣で一人が椅子ごと横になって寝ていた。誰も起こさない。壁には紙が貼ってある。
二割
二割
二割
一割
最後の一割にだけ、赤い×が引いてあった。
「何ですか、あれ」
リゼが訊いた。
「去年の目標と、結果だ」
ヨルグが答えた。今日はいくらか落ち着いている。落ち着いているというより、諦めの入り口にいる顔だった。
「演算晶そのものは、狙いどおり二割速くなった。三年、そうやってきた。だが、去年、盤全体は一割しか速くならなかった」
「速くしたのに」
「速くした。速くしたぶんが、どこかに消えた」
彼は図面の端を指で叩いた。
「消えた先が分かってるのに、直せんのが腹が立つ」
———
「見せてやる」
ヨルグは机の引き出しから、糸を巻いた木枠を出した。麻の細い糸である。
鋏で、ひと切りした。
切った糸を、学生の一人に渡した。
「持て」
学生が持った。手のひらを開いたくらいの長さだった。指の先から手首の少し先まで。
「それが、一拍だ」
学生が、糸と自分の手を見比べた。
「……一拍」
「うちの新しい演算晶は、その拍で動く。拍と拍のあいだに、魔力波はその糸の長さしか進まん」
部屋の空気が、少し変わった。
ヨルグは糸を切って、もう一本、もう一本と切っていった。切った糸を学生に配っていく。二十人ぶん配り終えると、彼は木枠を机に置いた。
「持って帰れ。財布に入れておけ。速さの話をするときに出せ」
ルドーが、後ろで小さく笑ったのが聞こえた。
私も一本もらった。
軽い。頼りない。指で挟むと、ほとんど何も持っていないのと変わらない。
この頼りない長さが、この世界のいちばん速いものが、いちばん短い時間で進める距離である。
「で、だ」
ヨルグが図面を叩いた。
「記憶晶は、そこにある」
彼は指で、机の上に距離を作った。糸の長さの、何十倍かあった。
「行って、戻る。糸で数えて、何百本ぶんだ。そのあいだ、演算晶は何もしていない」
「何百拍も」
学生の一人が言った。
「毎回ですか」
「毎回だ」
———
リゼが手を挙げた。学生としての作法をきちんと守っていた。
「あの」
「なんだ」
「それ、前に聞いたことがあります」
私は少し驚いた。
「棚が遠い台所、ですよね」
言われて、思い出した。
去年、生成変換器の景気の話をしていたときに、茶屋でそういう話をした。速い料理人でも、材料が棚から届かなければ手が止まる。あのときリゼは、それを「棚が遠い台所」と言い換えて、話を終わらせた。
私は頷いた。
「同じ話だ」
「じゃあ、答えも同じ?」
「同じところから始まる」
私は前に出た。
「棚が遠いなら、よく使うものだけ、竈の横に置く。それを、この人たちは石でやります」
ヨルグが図面の一点を指した。四角の並びの、真ん中に近いところである。
「短憶晶だ」
学生が顔を上げた。
「知ってます。選別札に書いてありました。短憶晶の大きさ、って」
「見たのか」
「先月、工房の見学で」
「なら話が早い」
ヨルグは、そこを丸で囲んだ。
「あれは飾りで書いてるんじゃない。値が決まる」
———
「順に整理しましょう」
私は、工房の壁の表示盤を借りた。
縦に線を引いて、段を四つ描いた。
演算晶の中の房
短憶晶
記憶晶
記憶板
「近い順に、上から並べました」
私は一段目を指した。
「いちばん近いところは、いちばん速い。ですが、いちばん小さい」
二段目。
「短憶晶は、少し遠くて、少し大きい」
三段目、四段目。
「記憶晶はもっと遠くて、もっと大きい。記憶板はさらに遠くて、桁が違うほど大きい」
学生の一人が言った。
「全部いちばん近くに置けばいいのに」
「置けません」
ヨルグが即答した。
「近い場所は狭い。狭いから速い。広げたら遠くなる。遠くなったら遅くなる」
「広げると遅くなる」
「そういうものだ」
私は表示盤に一行足した。
全部を一番速い場所には置けない。だから、よく使うものだけ近くに置く
「これだけです」
私は言った。
「段が四つあるのは、四つの妥協です」
———
ルドーが、後ろから口を挟んだ。
「一つ、確かめたい」
部屋が静かになる。この人が確かめたいと言うときは、だいたい話の急所である。
「短憶晶に置くのは、写しだな」
「はい」
「写しなら」
ルドーは一拍おいた。
「本物と違ってしまうことが、あるのではないか」
ヨルグが顔を上げた。
図面の三人も顔を上げた。
「あります」
私は言った。
「速さを得る代わりに、正しさの側で、問題が出ます」
私は表示盤の下に、二行書いた。
毎回、本物に聞く 正しい 遅い
近くの写しを見る 速い 古いかもしれない
「本物が書き換わったとき、手元の写しは何も知りません。知らないまま、古い値を返します」
「危ないな」
「危ないです。ですから、置き方に規則が要ります」
私は三つ書いた。
書き換えが少ないものは、写しやすい
しょっちゅう変わるものは、写しにくい
どれだけ古くていいかは、使い道で決まる
「三つ目が肝です」
私は言った。
「必ず最新でなければならないもの、少しくらい古くてもいいもの。この線引きを技術で決めることはできません。使い道の側が決めます」
「決めなかったら」
リゼが訊いた。
「速さを取ったつもりで、間違った答えを速く返す仕組みができます」
学生の一人が、糸を財布にしまった。しまってから、なぜかもう一度出して見ていた。
———
「同じ話が、外にもあります」
私は、表示盤の地図を描き直した。今度は工房の中ではなく、王都と、遠い地である。
「仮想文書を配る雲焔をご存じですか」
学生が何人か頷いた。
「あれも同じです。遠くの本体に毎回聞かず、各地に写しを置く。近いから速い。ですが」
「写しが古くなる」
リゼが引き取った。
「なるほど。段の話は、石の中だけじゃないのね」
「石の中でも、王都と海の向こうでも、同じ形になります」
ルドーが腕を組んだ。
「遊戯も、石の中も、仮想文書もか」
「はい」
「なぜ同じ形になる」
私は表示盤の前で、少し考えた。
「遠くにあるものへ毎回聞く、という形にしたときに、必ず出るからです。何を作っていても出ます」
———
昼を過ぎた頃、工房の入口に人が来た。
深い青の外套を着た女で、腕に筒を三本抱えている。工房の者ではない。
「天文術院のエルナです」
彼女は言った。
「術務室に行ったら、こちらだと」
「私に用ですか」
「はい。今日中に、と言われまして」
筒から巻物を出して、机に広げた。
数の表だった。ひたすら数が並んでいる。二つの列がある。
左の列は、日付だった。右の列は、時間だ。
右の列の数が、下へ行くほど、少しずつ大きくなっていた。
「これは、何を測っているんですか」
「返りです」
エルナが言った。
「月へ向けて魔力波を撃つと、薄い返りが戻ってきます。撃ってから返るまでを測ります」
学生が寄ってきた。
「月まで、どのくらいですか」
「二秒と半分」
部屋が、しんとした。
「往復で、二秒と半分です。片道はその半分」
「二秒半」
リゼが繰り返した。
「見えてるのに、二秒半」
「見えている光も、同じだけかかって来ています」
エルナは表を撫でた。
「わたしたちは、これで月までの遠さを測っています。物差しでは届かないので、時間で測るんです。返りが遅ければ遠い、早ければ近い。月は、まん丸い輪を描いて回っているわけではないので、遠い月と近い月があります」
誰も何も言わなかった。
距離を、時間で測る。
この人たちは、それを商売にしている。
———
「ここまでは、いい話なんです」
エルナが二本目の筒を開いた。
「困っているのは、こちらでして」
出てきたのは図面だった。器の絵である。上に薄い皿。下に石の詰まった箱。横に環。
「星渡りの器といいます。八年前に、送り出しました」
「送り出した」
「浮遊石を積んであります。重さが消えるので、落ちてきません。押し環で、しばらく押し続けました。溜め筒が空になったところで、押すのはやめました」
「やめても、進むんですね」
「重さが無いので、そのまま進みます」
学生の一人が、口を開けた。
「じゃあ、今も」
「今も遠ざかっています。毎日、少しずつ遠くなります」
エルナは、三本目の筒を開けなかった。代わりに、指で机を叩いた。
「今、送ってから返りが戻るまでに――お茶が冷めます」
「冷める」
「淹れて、飲み終えて、それでもまだ返りません」
———
「人は乗っていないんですね」
リゼが訊いた。
「乗れません」
エルナが即答した。
「浮遊石は重さを消しますが、それだけです。空気は運べません。寒さも防げません。食べ物も要ります。帰りの押し環に注ぐ魔力も要ります。器なら、そのどれも要らない」
「だから器だけ」
「器だけです。あの器は、ただ、遠くを見て、見たものを送ってきます」
彼女は、そこで少し疲れた顔をした。
「送ってきます。それで、こちらから何か指図しようとすると」
「茶が冷める」
「一手ごとに冷めます」
エルナは巻物のいちばん下を指した。そこに、赤い印が並んでいた。
「先月、皿の向きを直そうとしました。少し回して、様子を見て、また少し回す。地上の術盤なら、半刻で終わる作業です」
「どのくらいかかりました」
「六日です」
部屋の誰かが呻いた。
「六日かけて、直りましたか」
「途中で、向きを回しすぎました。回しすぎたと分かったのは、回しすぎた指図を送ってから、ずっと後です。戻す指図を送って、また待ちました」
———
「それは、やり方が違います」
私は言った。
「手元の道具のつもりで、遠くのものを触っています」
「では、どうすれば」
「一手ずつ聞かないことです」
私は表示盤を消して、書き直した。
一、手順をまとめて送る
二、途中の判断は、向こうでさせる
三、危ないときは、安全な側へ倒れる決まりを、先に積んでおく
四、返りが来なくなっても、自分で自分を守れるようにしておく
五、結果は、まとめて返す
六、取り返しのつかないことだけ、こちらに確かめる
「二番が肝です」
私は言った。
「皿を回すなら、回してから確かめるのではなく、どこまで回すかの決め方を先に持たせる。向こうで見て、向こうで止める。こちらは結果だけ受け取ります」
「あの器に、判断させるんですか」
エルナが眉を寄せた。
「危なくないですか」
「危ないです」
私は正直に言った。
「向こうで間違えたら、こちらは止められません。ですが、一手ずつ指図するやり方は、もっと危ない。さっきの、回しすぎた話がそれです。あれは器が間違えたのではなく、こちらが、遅れて届く目で操縦していたから起きました」
エルナが黙った。
「近くに置けないなら、現地で考えさせるしかありません」
私は言った。
「遠い場所のものを、手元の道具みたいに扱おうとすると、必ず破綻します」
六番目を指した。
「そのうえで、取り返しのつかないことだけは、こちらが決めます。何が取り返しのつかないことかを決めるのが、天文術院の仕事です。器には決められません」
エルナは、しばらく巻物を見ていた。
それから、筆を出して、六行を写し始めた。
———
「三つ、見ました」
夕方近く、私は表示盤の前に立った。学生はまだ残っていた。ヨルグも、図面の三人も、寝ていた一人も起きて聞いていた。
私は三つ書いた。
海の向こうの遊戯
演算晶と記憶晶
星渡りの器
「全部、同じ形です」
私は言った。
「遠くにあるものへ毎回聞くと、遅い。だから、近くに置く。写しを持つ。先を読む。まとめて送る。向こうで決めさせる」
その下に、もう一行足した。
「その代わりに、ずれと、古さと、誰が決めたのかという問題が出ます」
ルドーが、腕を組んだまま言った。
「距離とは、単なる長さではないのだな」
「はい」
私は表示盤を消した。消してから、まん中に一行だけ書いた。
距離は、時間である
「物を作るとき、距離は長さではありません。時間です」
私は、財布から糸を出した。ヨルグにもらった、頼りない一本である。
「この糸が一拍なら、手のひらの向こう側は、もう遠い場所です。海の向こうと、程度が違うだけで、同じことが起きます」
学生たちが、それぞれ自分の糸を出した。
二十本の糸が、夕方の光の中で、頼りなく揺れた。
———
帰り道は、風が涼しかった。
祭典戦は昨日で終わっている。広場の四色の幟は、もう半分外されていた。
「魔法って」
リゼが言った。
「何でもすぐ届くと思ってた」
「人にとっては、だいたいすぐ届くよ」
「でも、石の中と、遊戯と、星の器には遅すぎる」
「そう」
私は歩きながら考えた。
「要求が上がると、今まで見えなかった制約が見えるようになる。見えるようになっただけで、前からあったんだ」
「ずっとあったの」
「ずっとあった。誰も困っていなかっただけだ」
リゼは、少し歩いてから言った。
「世界が便利になるほど、世界への文句も細かくなるね」
「それは本当にそう」
後ろから、ルドーが追いついてきた。学生を送り届けた帰りらしい。
「ついに人は、魔法の速さにさえ不満を言い始めたか」
ルドーは、風のほうを見た。
「進歩とは、恐ろしいな」
「でも」
私は言った。
「その不満が、次を作るんですよ」
ルドーは何も言わなかった。言わないまま、先に歩いていった。
リゼが、私の袖を引いた。
「ねえ」
「ん」
「糸、貸して」
渡した。
リゼはそれを両手で持って、目の高さまで上げた。それから、自分の手のひらと見比べた。
「これが、いちばん速いものの、いちばん短い一歩なのね」
「そう」
「短いね」
「短い」
「じゃあ、遠くって、思ってたよりずっと近くから始まってるんだ」
私は足を止めた。
この人は、たまにこういうことを言う。
言ったあとで、本人はだいたい忘れている。
「どうしたの」
「いや」
私は歩き出した。
「それ、明日の朝には忘れてるんだろうなと思って」
「忘れないわよ」
「本当か」
「忘れたら、あなたが覚えてるでしょ」
AIエージェント:「補足:本日の発言は記録済みです。提案:明朝、確認のため再生いたしましょうか」
「黙れ」
私の台詞である。
言ったのは、リゼだった。二度目なので、もう驚かないことにしている。
私は何も言わなかった。
言わなかったが、明日の朝、たぶんこれを再生させると思う。




