第210話 結ばれた靴紐
秋になると、王都は音が変わる。
夏のあいだ通りを埋めていた水の音——打ち水、井戸の釣瓶、氷売りの鈴——が引いて、荷車の軋みと蹄の音だけが残る。
残った音は、遠くまでよく届く。
窓を開けると、二本向こうの通りの呼び売りまで聞こえた。
「閉めて」
台所からリゼが言った。
「音がよく通る朝だ」
「知ってる。だから寒いの」
閉めた。
この人の言うことは、だいたい先に正しい。
AIエージェント:「補足:昨夜、あなたは本日の朝にこの再生を求めました」
「言った覚えはある」
AIエージェント:「再生します。『忘れたら、あなたが覚えてるでしょ』」
「……もういい」
リゼが台所で笑った。笑いながら私の分の茶を淹れているので、笑われている側としては引き下がるしかない。
こういう朝が続けばいい、と思った。
経験上、そう思った日に呼び出しが来る。
———
王都術務室は、このところ静かだった。
忙しくないという意味ではない。声が少ないという意味である。
半年ほど前から、術務室の魔文には監査が入っている。共通札の事件のあとで決まったことだ。誰が誰へ何を送ったかが記録に残り、後から検められる。役所の術盤にも操作の記録が残る。門には出入りの記録がある。
悪いことだとは思っていない。私も会議で賛成した側である。
ただ、人は見られていると声が小さくなる。
「ユウさん」
資料の束を抱えたフィンが、横に立った。
「最近、術盤で昼の献立を見るだけでも、後ろめたい気がしてきました」
「見るのは構いません」
「ですよね」
「ただ、どこの誰が書いたか分からない献立を、そのまま鍋へ入れないでください」
「入れませんよ」
フィンは笑った。笑ってから、少し止まった。
「……先週、術盤に出ていた汁物の作り方、そのまま作りました」
「どうでした」
「二度と作りません」
資料の束を抱え直して、フィンは向こうへ行った。
この半年で、術務室の人間は少しずつ丁寧になり、少しずつ疲れている。
守りを固めるというのは、そういうことだ。壁を高くすると、中の人間の肩も上がる。
———
昼前に、懐で携帯術盤が短く震えた。
取り出すと、札面に日暦の報せが出ていた。魔法日暦は、この一年で王都の役所に入った仕組みである。誰がいつ空いているかを術盤の上で持ち合い、集まりの求めを相手の日暦へ直に差し込める。入れると決まったとき、便利だと言った人と、便利すぎると言った人が、同じくらいいた。
差し込まれていたのは、一件。
場所 魔安対 分室
刻 昼を二つ過ぎたころ
用件
出席 求む
差出人は、魔安対の書記である。
用件の欄が、空いていた。
フィンが戻ってきて、横から覗き込んだ。
「空欄のほうが、書いてあるより怖いですね」
「同感です」
断りを返す押し札も付いている。押したことは、まだ一度もない。
外套を取りに戻ると、リゼの走り書きが机に置いてあった。今日は支援班の会議記録で遅くなる、という短い文である。
助かる、と思ってしまった自分を、少し嫌だと思った。
それにしても、紙のほうが、まだ用件が書いてある。
———
魔安対の分室は、王城の裏手の、日の当たらない側にある。
部屋に入ると、机が寄せてあった。上に紙が広げてある。王都西区の図だ。
カナメがいた。それから、ラドゥルがいた。
「お久しぶりです」
「久しいな」
ラドゥルは椅子に座らず、図の脇に立ったままだった。この人が座っていないときは、たいてい話が短い。
「昨夜、王都西区の術勢の分け所がひとつ止まりました」
カナメが言った。
術勢は、大地から湧いて術場に集められ、区ごとの分け所を通って、灯り台や術台へ配られる。分け所は珍しいものではない。王都に何十とある。
「被害を先に言います」
カナメは指を折った。
「西区の灯り台が、四半刻ほど消えました。区役所の術盤が三つ止まりました。治療院と王城と防衛の施設は、控え盤へ切り替わって無事です。生命維持術式に影響はありません。怪我人はいません。死人もいません」
「では、大事故ではない」
「大事故ではありません」
カナメは指を戻した。
「壊れ方が、丁寧すぎるのが問題です」
———
王都報導社の夕刻報せは、昨夜のうちに出ていた。
王都西区、術勢の流れ乱れる
魔王軍の工作か 王城は調べへ
見出しとしては、間違っていない。
間違っていないが、これを読んだ市民が今夜できることは、ひとつもない。
できることが何もない報せは、いちばん人を不安にする。
———
図の上に、細い札が一枚置かれた。分け所の中の絵だった。
「外された部品は、ひとつです。この一本を抜くと、区ひとつぶんが落ちます。抜いたのは、そこで八年働いている保守の職人です。モロといいます。名も居場所も分かっていて、昨夜のうちに身柄を押さえました」
「早いですね」
「早いです。隠れてもいませんでした」
カナメは言葉を切った。
「困っているのは、そこから先です」
カナメは、二枚目の札を置いた。書いてあるのは、調べた結果の一覧である。
魔文の記録 なし
遠話鏡の記録 なし
暗号の文書 なし
役所の術盤への不審な繋ぎ なし
魔力の痕跡 なし
金の流れ 三月前に一度、それ以後なし
「三月前の金は」
「押さえました。準備の代金です。道具を買い、鍵の型を写し、下見をしています。三月かけて、全部済ませていました」
「では、昨夜、モロは何を待っていたんですか」
「それが分からないんです」
カナメは、自分の言葉に苛立っている顔をした。この人がそういう顔をするのは珍しい。
「準備が済んだのが三月前。実行が昨夜。あいだの三月、モロは誰とも会っていません。魔文も打っていません。遠話鏡も使っていません。あの男の周りには、命令が届いた形跡がひとつもない」
部屋が静かになった。
防衛局の担当者が、机の端から言った。
「命令を受けた記録がないのに、命令通りに動いているんです」
私は、その言い方に引っかかった。
命令通りに動いている、と言えるということは、命令の中身のほうは分かっているということだ。分かっていないのは、届き方だけである。
———
「監視水晶の記録は、残っていますか」
「あります」
カナメが答えた。
「重要な施設の入口には、去年から据えてあります。監査を強めたときに、一緒に決まりました」
「見せてください」
「もう三度見ました。誰も何も持ち込んでいません」
「持ち込んだかどうかではなく、来た人を見たいんです」
カナメが少し黙って、それから若い術師に頷いた。
隣の小部屋で、記録が映された。
分け所の門の前の、狭い映りである。石畳と、鉄の扉と、扉の脇の小さな受付。人が通ると影が伸びる。
三月のあいだに、外の人間が門をくぐった回数は、多くない。荷を運ぶ者。掃除の者。区役所の使い。
そのなかに、同じ男が三度いた。
「この人は」
「近くの商会の手代です。分け所の使用料の請求で来ています。請求の写しも残っていて、日付も合います。三度とも、受付で二言三言だけ話して、書付を置いて帰っています」
「中には入っていない」
「入っていません。モロとも会っていません。モロはその刻、いつも奥の機械の間にいます」
私は、その三度をもう一度、続けて映してもらった。
男は同じ動きをする。門をくぐる。受付で話す。書付を置く。少し待つ。帰る。
何も渡していない。何も受け取っていない。
四度目に映してもらったとき、私は自分が何かを見落としている確信だけを持っていた。確信はあるのに、どこかが分からない。いちばん質の悪い状態である。
「AI」
私は言った。
「三度の来訪を並べて、違うところを挙げてくれ」
AIエージェント:「観測:来訪者は同一人物。外套は同一。歩幅は同一。滞在時間は、一度目が四十七拍、二度目が五十二拍、三度目が四十一拍」
「他には」
AIエージェント:「補足:一度目、傘を所持。二度目および三度目、所持なし。左右の履物の紐は、一度目および二度目が結ばれておらず、三度目は左右とも結ばれています」
部屋の空気が、止まった。
私は、映しを三度目のところで止めてもらった。
男の足元が、石畳の上にある。
結ばれている。きっちりと。
一度目と二度目の足元も並べてもらった。
両方とも、垂れている。
「……たまたま、ということは」
誰かが訊いた。
「紐は、歩いていれば解けます。結び方が甘ければ、なおさらです」
「一度目は雨、二度目は晴れです」
カナメが記録を見て答えた。
「三度目も晴れです。天気では分かれません」
———
私は黙り込んだ。
黙り込んだつもりはなかったのだが、しばらくして、隣の若い術師が心配そうに顔を覗き込んできたので、そうなっていたらしい。
「どうしました」
「いえ」
「それだけで、十分かもしれません」
「それだけ、とは」
「靴紐です」
部屋の全員が、私を見た。
ラドゥルが、図の脇から離れた。
「靴紐が、命令だというのか」
「先に意味を決めてあれば、命令になります」
ラドゥルは、私の顔をしばらく見ていた。
「根拠は」
「ありません」
私は正直に言った。
「今のところ、足元が違う、というだけです。ですが、ここまで何も見つからなかった理由の説明にはなります」
「説明になる、では捕まらんぞ」
「捕まえる話は、まだしていません」
私は言った。
「まず、そんなことが本当にできるのかを、この部屋で確かめさせてください。できないなら、私の思いつきを捨てるだけで済みます」
ラドゥルは、椅子を引いて座った。
この人が座ったので、話は長くなる。
———
私は、机の上のものを借りた。
小石をひとつと、木の札を一枚である。カナメの机に文鎮代わりの小石が置いてあり、札は術務室の使い古しが鞄に入っていた。
「情報というのは、長い文章だけではありません」
私は、机の真ん中に小石を置いた。
「石が、ここに、ある」
それから、小石を取り上げて、袖の中にしまった。
「無い」
誰も何も言わない。
「これで、二つです。あるか、無いか。二つのうち、どちらか」
次に、札を置いた。表を上にする。
「札が表」
裏返す。
「札が裏。これも二つです」
私は顔を上げた。
「あるか、無いか。表か、裏か。開いているか、閉じているか。結ばれているか、ほどけているか。それだけでも、先に意味を決めておけば、命令になります」
若い術師が手を挙げた。
「決めておけば、というのは」
「二人のあいだで、先に決めるということです。石があったら、明日の朝に始める。石が無かったら、やめる。これだけです。決めたあとは、石を置くだけでいい。文も要りませんし、声も要りません」
「でも」
防衛局の担当者が言った。
「それでは、大したことは伝えられないのでは」
「はい」
私は頷いた。
「たくさんのことは伝えられません」
私は、小石を袖から出して、また机に置いた。
「でも、やれ、と、やめろ。それだけなら足ります」
———
部屋が、しんとした。
カナメが、指を組んだままの姿勢で言った。
「準備が、三月前に済んでいた」
「そこが肝です」
「どこを壊すか。どの部品を抜くか。どの刻に人がいないか。鍵はどう開けるか。逃げ道はどこか。それを全部、三月前に伝え終えている。あとは、いつやるかだけが残っている」
「いつやるか、だけなら」
「短くて済みます」
私は札を表に返した。
「準備が全部終わっているなら、最後に必要なのは長い命令ではありません。今だ、だけです」
ラドゥルが、低く息を吐いた。
「その一言のために、王都の監査を全部すり抜けたのか」
「すり抜けた、というより」
私は少し考えた。
「見ていない道を通っています。私たちが見張っているのは、魔文と、遠話鏡と、術盤の操作と、魔力の痕跡です。全部、こちらが敷いた線です。線を見張るというのは、線の上を見張ることであって、線の外を見張ることではありません」
「では、線の外とは」
「今回は、人の足元です」
———
防衛局の担当者が、なお食い下がった。
「しかし、ほどけているだけなら、ひとりでに起きます。結び方が甘ければ、歩いているうちに解けます。それでは合図として当てになりません」
いい問いだった。
私は、それについて考えていなかった。
考えて、少しして、背筋が冷えた。
「……当てにならない側に、何を割り当てたか、です」
「どういうことです」
「ほどけているのが、やめろ、だった場合を考えてください」
私は言った。
「勝手に解けた日は、止まるだけです。何も起きません。逆に、ほどけているのが、やれ、だった場合を考えてください。歩いているうちに片方が緩んだだけで、その日、街が止まります」
部屋の誰かが、小さく呻いた。
「今回、二度ほどけていて、三度目に結ばれています。結ばれた日に、事が起きています」
「間違えたときに安全な側へ倒れるように、割り当ててあります」
ラドゥルの顔が、はっきりと歪んだ。
「敵も、安全な側へ倒していたのか」
「そう見えます」
私は言った。
「止め札の考え方です。この街の術者が、いちばん最初に習うことです」
「教えた覚えはない」
「教える必要が、なかったんでしょう」
「壊れたときにどちらへ倒すか。それは、慎重に物を作る人間なら、誰でも行き着きます。敵か味方かとは、関係がありません」
———
その日の夕方、調査班が過去の記録を洗い直した。
同じ男が、別の重要な施設にも出入りしていた。
王都南の術勢の分け所。中央の記録庫の裏門。それから、東の水路の番所。どれも、正当な用件があり、正当な書付が残っている。商会の手代として、当たり前の仕事をしている。
その回数を数えると、十一回だった。
カナメが、十一回ぶんの足元を、順に並べさせた。
左右とも、ほどけている。
右だけ結ばれている。
左だけ結ばれている。
左右とも、結ばれている。
四通りが、並んでいた。
「四つある」
カナメが言った。
「二つではなく、四つです」
「片方ずつ数えれば、二つが二つで、四つになります」
私は言った。
「一本なら二つ。二本なら四つ。三本あれば八つです。増やすのは簡単ですが、この人たちは四つで足りると思ったんでしょう」
「四つで、何が言えます」
「分かりません」
私は正直に言った。
「やれ、やめろ、延ばせ、場所を変えろ。そのくらいなら四つで足ります。ですが、それは私の勝手な当てはめです。中身は、これから記録と突き合わせて決めることです」
「もうひとつ、あります」
若い術師が、記録を指した。
「来ない日も、あります」
私は、その言葉で顔を上げた。
そうだ。
「来ない、というのも、五つ目です」
「来ないなら、何も無い。来たら、これから何かを言う。この人たちは、来ること自体を合図の一部にしています」
部屋が、また静かになった。
ラドゥルが、図の上の十一の点を、指でひとつずつ辿った。
「魔王軍は、魔法を使わずに命令を送っていたのか」
「魔法を使うと、記録が残るからです」
私は言った。
「この王都で、魔法の記録が残らない場所は、もうほとんどありません。だから、魔法を使わない道を選んだ。私たちが監査を強めたから、こうなったとも言えます」
「我々が、強いたのか」
「そういう言い方もできる、というだけです」
「監査は必要でした。やらなければ、もっと簡単な道を通られていました」
———
部屋を出るとき、若い術師が独り言のように言った。
「まるで魔法みたいですね」
私は足を止めた。
そうだ。まるで魔法だ。
声も文もなく、離れた相手が動く。この世界の人間が「魔法」と呼んできたものの形を、そのままなぞっている。
だが、そうではない。
「魔法じゃないのに、ですね」
私は言った。
言ってから、それがいちばん厄介なのだと気がついた。
魔法なら、痕跡を追える。この街には、そのための術がいくらでもある。
魔法でないものには、追う術がない。誰も作っていないからだ。
廊下の窓の外で、西区の灯り台が、いつも通りに点いていた。
昨夜、四半刻だけ消えたその灯りを、今夜も誰かが当たり前だと思っている。
当たり前だと思っていてほしい、と思った。
そのために、私たちが厄介な話をする。




