第208話 一瞬は遅すぎる
朝の広場は、四色に塗り分けられていた。
紅、蒼、黄、緑。烏賊飛散の祭典戦に出る隊の色である。旗が立ち、幟が下がり、露店の日よけまでその四色で染め分けてあるので、鐘楼の上から見下ろせば、さぞ盤面に似ていることだろう。
人が多い。子どもが多い。
烏賊の面をかぶった子どもが、墨の色をした飴を振り回して走っていく。その後ろを、親が走っていく。
「あれ、去年より高い」
リゼが露店を指した。烏賊の形をした焼き菓子である。
「去年はいくらだった」
「銅貨三枚。今、四枚」
「祭りだからな」
「祭りだからよ」
同じ結論に別々の道から着いたので、二つ買った。生地は甘く、足は八本あった。烏賊の足は十本のはずだが、焼き菓子にすると二本は折れるらしい。
———
今年の祭典戦は、国際戦だった。
これまでは王都と近郊の隊だけで争っていたのが、今年から西方新大陸、南方諸島、東方の都市圏の隊が加わっている。彩墨工房が三年かけて話をつけたと聞いた。幟に「万国」の二字が入っているのは、そのぶんの誇りだろう。
広場の正面には、人の背丈の四倍はある表示盤が立っていた。そこに盤面が映る。烏賊の姿をした怪獣が墨をまき散らし、地面を自分の色に塗り替えていく。塗った面積が広い方が勝ちだ。単純である。単純だから、子どもにも分かる。分かるから、広場が一斉に叫ぶ。
「墨が」
「ああ、あそこは取られたな」
ルドーが横にいた。いつの間に来たのか分からない。祭りの人混みでこの人だけ髪の色が動かないので、いると分かると急に見つかる。
「先生も見に」
「仮想遊戯はもはや文化だ」
そう言って、ルドーは烏賊の焼き菓子を買った。足を一本もいで食べ、残りを持ったまま盤面を見ている。文化の消費の仕方としては正しい気がした。
リゼが背伸びをした。
「西方の人たち、強いね」
たしかに強かった。西方新大陸の隊は、動きが荒いのに塗りが正確だった。荒く見えるのは、細かく避けないからだ。避けずに前へ出て塗る。塗りの速さで押し切る型らしい。
第三試合まで、そういう試合だった。
———
第四試合の途中で、盤面が止まった。
正確に言うと、盤面は止まっていない。試合が止まった。西方新大陸の隊が、四人そろって動きを止めたのである。
広場がざわついた。
表示盤の隅に、赤い印が出た。異議の印だ。祭典戦の規則で、隊は試合中に一度だけ異議を申し立てられる。
運営の席から人が走っていくのが見えた。
その日の午後、私は術務室から呼び出しを受けた。休日である。リゼがはっきりと嫌そうな顔をした。
「祭り、まだ三日あるのよ」
「三日あるから呼ばれたんだと思う」
「そう」
リゼは焼き菓子の残りを私の口に押し込んでから、鞄を持った。ついてくるつもりらしい。
「見に行くだけよ」
「そうか」
「祭りの続きだと思えばいいの」
だいたいこの人は、こういう理屈の立て方が上手い。
———
彩墨工房の運営部屋は、三年前より広くなっていた。
広くなった代わりに、人が増えていた。増えた人が全員、同じ顔をしている。困惑と諦め。祭りの熱が、この部屋の壁のところで止まっていた。
サナが立ち上がった。三年前より少し痩せている。
「ご無沙汰しています」
「祭典戦のたびに会いますね」
「祭典戦のたびに、何かが起きるんです」
そう言って、サナは笑わなかった。笑う気力の配分を、たぶんもう決めている。
机の上には、西方新大陸の隊から出た異議の書きつけが載っていた。通訳がついている。
読んだ。
三つ書いてある。
一、こちらの盤面では、壁の裏に入っていた。それなのに墨を浴びた
二、避けたはずの一撃が当たっている
三、王都の隊の攻めだけが、妙に早く届く
三つ目に、下線が二本引いてあった。
「隊長のヴェルカという人が、書いたそうです」
サナが言った。
「言葉を選んでいるのが分かります。本当は、四つ目を書きたかったんでしょう」
「四つ目」
「王都に試合部屋があるから、王都が勝つのではないか」
部屋の空気が、少し重くなった。
———
「調べました」
運営の若い術師が、記録札を積み上げた。
「試合部屋は落ちていません。三日間、一度も」
「混みは」
「余裕があります。祭典戦を見込んで、三年前の三倍を用意しました。使っているのは半分以下です」
「魔法網は」
「魔法網卸に確かめました。文の落ちはゼロ。経路の切り替えもありません」
「試合部屋の中の記録は」
「全部そろっています。誰がいつ何を入れたか、順番まで残っています。その順番どおりに動かし直しても、同じ結果が出ます」
若い術師が、そこで一度息を吸った。
「つまり、盤は正しいんです。何度やり直しても正しいんです。それなのに」
「苦情が正しいかもしれない」
「……そうです」
サナが頭を抱えた。
「正常なのに、苦情が正しいかもしれない、というのが、いちばん困るんですよ」
その言葉を、私は覚えておくことにした。だいたいの現場が、いちばん困る場所はそこだ。壊れているなら直せばいい。壊れていないのに困っているとき、人は自分の頭を疑い始める。
リゼが部屋の隅から言った。
「壊れてないなら、悪いのは誰なの」
「誰でもない」
私は言った。
「距離です」
———
表示盤に、地図を描いた。
王都を真ん中に置き、西へ大きく海を描いて、その向こうに新大陸を置く。南に諸島。東に都市圏。祭典戦に出ている四つの地である。
「まず、思い違いを一つ外します」
私は、王都と新大陸のあいだに線を引いた。
「魔法は一瞬で届く、と皆さんは思っている。私も、この世界に来てからずっとそう思っていました」
「違うの」
リゼが言った。
「魔文も遠話鏡も、押したらすぐ向こうに出るじゃない」
「人が話すぶんには、すぐだ」
私は線の上に、小さな印を置いた。
「魔力波は――魔法の伝わりを運ぶ波は、途方もなく速い。母なる星を、一秒に七周半するくらい速い」
運営の席で、誰かが「七周半」と繰り返した。
「けれど、どれだけ速くても、届くまでの時間はゼロになりません。速いことと、時間がかからないことは、別のことです」
ルドーが、いつのまにか部屋の後ろに座っていた。焼き菓子はもう無い。
「ならば」
ルドーが言った。
「魔法が遅くなったのではないな」
「はい」
「我々が、魔法の遅さを見分けられるほど細かい遊戯を作ってしまった、ということか」
この人はいつも、二手で結論に着く。
「そのとおりです」
私は頷いた。
「人が話すときの遅れは、誰も気にしません。相手の返事が一瞬遅れても、会話は壊れない。でも烏賊飛散では、その一瞬が勝ち負けを決めます」
———
地図を消して、別の図を描いた。
左に、西方の隊の一人。右に、王都の試合部屋。あいだに矢印を二本。
「順に見ます」
私は矢印の一本目を指した。
「西方の選手が、避ける。避けたという合図が、王都の試合部屋へ向かって出発します」
二本目。
「試合部屋がそれを受け取って、盤面を書き換える。書き換えた結果が、西方へ戻ります」
「行って、戻る」
サナが言った。
「はい。行きと帰りで、二度かかります。これを往復の遅れと呼びます」
私は、王都の選手の位置に印を足した。
「同じことを、王都の選手についてもやります。ただし、こちらは近い。行きも帰りも、ほとんど無い」
部屋が静かになった。
「盤は、届いた順に処理しています。届いた順に処理するのは、正しいことです。ですが、届く順は、押した順ではありません」
若い術師の顔が変わった。
「……押した順じゃない」
「近い人の合図が先に着きます。遠い人の合図が後に着きます。同じ瞬間に押しても、盤に並ぶ順は違う」
「じゃあ」
サナが立ち上がりかけて、座り直した。
「ヴェルカさんの目には、何が見えていたんですか」
「少し前の盤面です」
私は言った。
「西方の選手が見ている盤面は、王都の試合部屋が少し前に作ったものです。それが海を渡ってくるあいだに、王都では次が起きている。だから、彼が壁の裏に入ったと思った瞬間、盤の上では、まだ入っていない」
「そんな」
「彼は嘘をついていません。彼の盤面では、本当に避けていました」
私は、二つの図に丸をつけた。
「同じ試合をしているのに、見えている世界が、完全には一致していないんです」
サナが、口を押さえた。
その姿を、私は三年前にも見た。
———
「直せますか」
サナが訊いた。
「無くせません」
私は正直に言った。
「距離があるかぎり、往復の遅れは残ります。ただ、遅れには二種類あります」
表示盤に、二行書いた。
削れる遅れ
削れない遅れ
「混んでいる、待ちの列が長い、造りが雑で無駄に往復している。これは削れます。皆さんは、そこはもう削り終えています」
若い術師が、少しだけ顔を上げた。
「削れないのは、距離です。海の幅は変えられません。ですから、やることは一つしかない」
私は、地図をもう一度描いた。今度は、王都だけでなく、四つの地すべてに丸を置いた。
「試合部屋を、王都だけに置かないことです」
———
「各地に置く、ということですか」
「はい。同じ地の隊どうしの試合なら、その地の近くの試合部屋でやる。去年の雲上遊戯のときと同じ考え方です。あのときも、王都の近くに席を置きました」
「あれは混みの話でした」
「混みも遅れも、置く場所で変わります。置く場所で変わらないものはありません」
サナが、机の紙に何か書き始めた。
「国際戦は、どうすれば」
「三つあります」
私は指を折った。
「一つ。参加する隊の場所を見て、四つの地からの往復がなるべく等しくなる場所を選ぶ。真ん中に近い試合部屋を使う」
「南方諸島が、いちばん真ん中に近いです」
「なら南方に置いてください。王都で見せるのはかまいません。盤面を映すのと、盤面を作るのは、別の仕事です」
サナの手が止まった。
「王都の観客は、怒りますよ」
「そうでしょうね」
「王都の隊も、怒ります」
「そうでしょうね」
私は二本目の指を折った。
「二つ。往復の遅れを、試合の前に測っておく。四人ぶん測って、差が大きすぎる組み合わせは、初めから作らない。組み合わせを決めるのは運営の仕事で、これは技術ではなく規則の話です」
「測るのは、できます」
「三つ目が、いちばん嫌われます」
私は、三本目を折った。
「近い人を、わざと遅らせる」
部屋が、はっきりと静まった。
「全員の遅れを、いちばん遠い人にそろえるんです。そうすれば、盤に並ぶ順が、押した順と同じになります」
「王都の選手だけが、損をします」
「損はしません。今まで得をしていたのを、やめるだけです」
サナは、しばらく黙っていた。
それから、小さく笑った。今日初めて笑った。
「その言い方、使わせてもらっていいですか」
「どうぞ」
「たぶん、そう言わないと、うちの隊が納得しないので」
———
「先読みという手もあります」
私は付け足した。
「相手の合図が届く前に、届くだろうと見込んで、盤を先に進めておく。届いた合図が見込みと違っていたら、そこまで巻き戻して、引き直す」
「巻き戻す」
「はい。うまくいけば、遅れがほとんど見えなくなります」
「うまくいかないと」
「墨が、いきなり消えます」
運営の席で、誰かが呻いた。
「見込みで塗った墨が、巻き戻しで消えるからです。塗ったはずの床が、次の瞬間には塗られていない。人はこれを、盤の不正だと思います」
「直したのに、不信が増えるんですね」
「補正は、遅れを消す道具ではありません。遅れをどこへ押しつけるかを決める道具です」
サナが紙を裏返して、そこに一行だけ書いた。
どこへ押しつけるかを決める
しばらく見てから、彼女は言った。
「――決めるのは、うちですね」
「はい」
「技術の話だと思って聞きに来たんですけど」
「途中までは技術の話でした」
「途中からは」
「祭典戦を、どういう催しにしたいか、という話です」
———
夕方近くに、話はもう一つの方へ流れた。
「そもそも、烏賊飛散は遅れに弱い遊戯なんです」
私はそう言った。
「一瞬の反応で勝ち負けが決まる遊戯ほど、距離に殺されます。逆に、手番があって、考える時間がある遊戯なら、海を越えても成り立つ」
ルドーが後ろから言った。
「盤上遊戯なら、返事が半刻遅れても成立するな」
「はい。文で指し合う棋譜の会は、昔から国をまたいでいます」
「では、遊戯の作り方そのものが変わるということか」
「変わります」
私は表示盤を消した。
「遠くの人と遊びたいなら、遠くの人と遊ぶための作り方があります。塗りの遊戯を国際戦にするなら、一瞬の当て合いより、陣の取り合いの比重を上げる。持ち時間を少し長くする。そのくらいの直しで、ずいぶん違います」
サナが、また書きつけた。
「作り直しですか」
「祭典戦の規則を足すだけでも、だいぶ変わります」
「規則なら、今夜のうちに出せます」
サナの声が、少し戻っていた。
問題が消えたからではない。何と戦えばいいのかが分かったからだ。人はだいたい、それだけで顔つきが変わる。
———
異議への回答は、その晩に出た。
彩墨工房は、遅れを認めた。
文は短かった。西方新大陸の隊の言い分は正しかったこと。盤に不正は無かったこと。原因は距離であること。残りの日程では四つの地からの往復を測って公表し、国際戦の試合部屋を南方諸島へ移すこと。王都の隊の遅れは、遠い側にそろえること。
最後に一行あった。
この催しは、近い者が勝つ催しではありません
王都の観客席からは、当然、文句が出た。
次の日、ヴェルカが自分の隊を連れて広場に出てきて、王都の隊と握手をした。通訳が間に合わないくらい、両方が同時に喋っていた。
その様子を見て、リゼが言った。
「あれ、何を話してるの」
「たぶん、遅れの数字の話だ」
「そんなわけないでしょ」
そんなわけはなかった。あとで聞いたら、焼き菓子の値段の話をしていたそうである。西方新大陸には烏賊の焼き菓子が無く、ヴェルカは十本ぶんの足を全部つけろと主張したらしい。
文化とは、そういうところから始まる。
———
祭典戦の四日目、術務室に怒鳴り声が入ってきた。
私が呼ばれた部屋ではなく、廊下に入ってきた。廊下で怒鳴っているのが聞こえるという意味である。
「速いんだよ! 演算晶は速い!」
扉が開いた。
入ってきたのは、痩せた男だった。年は四十くらい。指先が黒い。演算晶の縁を磨く粉の色だ。工房の名を名乗った。演算晶工房の、ヨルグ。
「十分速い。去年より二割速い。拍も上げた。房も増やした」
「はい」
「なのに、盤全体は一割も速くならん!」
彼は机に手をついた。
「記憶晶が遠いんだ!」
私は、少し黙った。
「取りに行って、戻ってくるまでに、演算晶が何百回も手を止めて待ってる。速い演算晶が、待ってるんだよ。手ぶらで!」
「……ああ」
私は椅子を勧めた。
「そちらでも、同じ問題が出ましたか」
「そちら?」
「今、海の向こうで同じ話をしていました。距離の話です」
ヨルグは座らなかった。座る代わりに、両手を広げた。
「海と一緒にするな。うちのは手のひらに載る。手のひらの上で、遠すぎるんだ」
「分かります」
「分かるもんか。母なる星を一秒に七周半する速さでも、盤の中じゃ遅すぎるんだぞ!」
窓の外で、祭典戦の歓声が上がった。
王都の隊が勝ったらしい。遅れをそろえた上で勝ったので、今日の勝ちには誰も文句を言えない。
私は歓声を聞きながら、思った。
ついに、魔法の速さに文句を言う時代になったか。
最悪だ。
いや――違うな。
文句が出るということは、そこまで来たということだ。




