第202話 豆粒級は失敗作か
朝の台所は、湯気で少し白い。
冬になってから、リゼは朝に必ず何かを煮ている。今朝は豆だった。鍋の蓋を取ると、甘い匂いが立った。
「今日、工房に行くんでしょう」
「行く」
「わたしも行くことになったんだけど」
「聞いてる」
昨日、廊下でルドーに捕まった。話は短かった。この人の話は、いつも短い。
学校が、教材の術盤を入れ替える。台数が多い。金も動く。だが、何を買えばいいのかが分からない。
「使う側の目も要る、と先生が言ってた」
「わたし、使う側なの?」
「学生で、術務室で、家でも使ってる。三つ兼ねてる」
「じゃあ行くわ」
リゼは椀を置いて、少し考えた。
「うちの術盤も、そろそろ替えたいのよね」
「遅いって言ってたな」
「遅いというか、重いものを開くと止まるの。……あれ、何を買えばいいの?」
「それを今日、見に行く」
俺も分かっていない。正直に言うと、この世界で演算晶がどう作られてどう売られているのかを、ちゃんと見たことがない。
現世でも、買う側でしかなかった。棚に並んでいるものから選ぶだけで、その並びがどうやって作られたのかは、考えたこともなかった。
———
白窯工房は、王都の北西、丘をひとつ越えた先にあった。
建屋の上だけ、空気が歪んで見える。煙は上がっていない。上がっていたら困るのだそうだ。
馬車から降りたのは四人だった。ルドー、リゼ、私。それから、今回の買い物を学校から任されているカヤ先生である。術式実技を持っている、二十代の後半の人で、声が大きい。
「思ったより静かですね」
カヤ先生が言った。
私も同じことを思っていた。工房というと、槌の音や炉の唸りを思い浮かべる。ここにはそれがない。人が少なく、床が異様にきれいで、皆が薄い布の面をつけている。
迎えに出てきた人が、面を下げて頭を下げた。
「工房長のトルガです。面を、それぞれお願いします」
五十くらいの、肩幅の広い人だった。声が低い。
「塵です。一粒でも落ちれば、そこだけ焼けません。掃除が、この工房の仕事の半分です」
———
奥の台に、皿ほどの大きさの晶が置いてあった。
円い。薄い。表面に細かい格子が焼き付いていて、灯りを傾けると、虹のような色が流れる。
「母晶といいます」
トルガさんが、縁を指でなぞった。
「これ一枚から、演算晶を百と少し切り出します」
「百」
リゼが覗き込んだ。
「一枚から百も取れるなら、安くなりそうなものだけど」
「取れれば、安くなります」
言い方に引っかかりがあった。
「取れれば、というのは」
私が訊くと、トルガさんは短く笑った。
「全部は、動きません」
———
切り出したばかりの演算晶を、トルガさんが布の上に置いた。
爪ほどの大きさである。表面は鏡のようで、覗き込むと細かい区画に分かれているのが見えた。
工房では、切り出した一つを玉と呼ぶらしい。ここから先、トルガさんはずっとその言い方だった。
「この中に、房がいくつかあります」
指で示していく。
「命令を実行する区画が、思考房。この型は四つ入っています。絵面を受け持つのが、描画房。すぐ脇にあるのが短憶晶で、よく使うものを近くに置いておくための、小さくて速い石です」
「棚の近くに、よく使う皿を出しておくやつね」
リゼが言った。
「そうです。奥まで取りに行くより、手元にあるほうが速い」
「それから、拍です」
トルガさんが、卓を指で軽く叩いた。
「演算晶は、この拍に合わせて動きます。拍が速ければ、同じ刻のあいだに多く働く。速い拍に耐える玉と、耐えない玉があります」
術勢拍と同じ言い方だな、と思った。王都の術勢も、正しく流れているかどうかを、ただ一つの拍で見ている。
数を合わせるという仕事は、どこでも似た形になるらしい。
———
「同じ母晶から切っても、全部が同じにはなりません」
トルガさんは指を折っていった。
・思考房が四つとも動くもの
・一つ、動かないもの
・短憶晶に欠けがあるもの
・高い拍では乱れるが、低い拍なら落ち着くもの
・描画房だけが死んでいるもの
「百のうち、四つとも動いて、拍も出て、欠けもないのは……月にもよりますが、まあ、半分は行きません」
「半分」
カヤ先生が声を上げた。
「残りは捨てるんですか」
「捨てていたら、うちはひと冬で潰れます」
トルガさんは、面の下で少し笑ったようだった。
半分。最悪だ、と言いかけて、飲み込んだ。作っている人の前で言う言葉ではない。
「歩留まり、と言います」
私が言うと、リゼがこちらを見た。
「なにそれ」
「作ったもののうち、どれだけが使い物になるか、という話です」
「作れば作っただけ出来るわけじゃないのね」
「そうです。しかも、どれが欠けるかは、焼く前には分かりません」
塵一粒、熱の偏り、母晶の縁のほう。理由はいくつもあるが、要するに、同じつもりで焼いても同じにはならない。
人の手が入るものは、だいたいそうである。
———
切り出した演算晶は、隣の部屋へ運ばれていた。
検めの部屋である。
台がずらりと並び、一つずつ、術勢をつないでは離している。房を一つずつ起こして働かせ、拍を少しずつ上げて、どこで乱れるかを見る。短憶晶に書いて、読み返して、同じものが返るかを見る。
結果は、そのつど札に書き取られていた。
選別札という。演算晶一つに、必ず一枚つく。
動く思考房の数
短憶晶の大きさ
保証する拍の幅
食う魔力
向いている用途
「この札が、そのまま値になります」
トルガさんが、三つの箱を指した。
王冠級
銀冠級
豆粒級
「四つとも動いて、短憶晶も欠けず、高い拍で落ち着いているものが王冠級。房が一つ欠けるか、短憶晶が小さめのものが銀冠級。房も短憶晶も少なくて、描画房が死んでいるものが豆粒級です」
「上の二つは冠なのに、下だけ豆粒なんですね」
リゼが言った。
「名前をつけた人の気持ちが、そのまま出ています」
トルガさんが、はっきり言った。
———
「壊れているものを売るの?」
リゼが言った。
まっすぐな訊き方だった。この人は、遠回しに訊かない。
トルガさんが、少し黙った。答えを持っていないのではない。何度も同じことを訊かれてきた顔だった。
「……ええ。よく、そう言われます」
「言われますよね」
ここは私が言ったほうがいい、と思った。
「壊れている場所を隠して売るなら、それは詐欺です。でも、これは違います」
豆粒級の箱から、一つ取り上げた。
「動かない房を封じて、残りで何ができるかを書き出して、その範囲は保証する。そこまでやると、これは壊れ物ではなくなります。別の商品になります」
「封じる、というのは」
「印です」
トルガさんが、演算晶の縁を見せた。小さな紋が一つ、焼き付けてある。
「封止印といいます。死んだ房は、ここで閉じます。閉じずに出すと、術盤が使おうとして、そのたびに転びますので」
「動かないところを、動かないと決めて、閉めておくわけね」
「そうです」
リゼは、しばらく箱を見ていた。
「……戸が一つ開かない家を、二間の家として貸すようなものかしら」
「かなり近いです。三間だと言って貸したら詐欺ですが、二間だと言って貸すのは商売です」
線は、そこにしかない。
全部が完璧に出来上がるまで売らないと決めれば、値は上がり、捨てる山も高くなる。線を引けば、安い品が市場に出る。
人類は、うまくいかなかったものに値をつけるのが本当にうまい。感心すべきなのか嘆くべきなのか、いまだに決めかねている。
———
休憩室で茶が出た。
面を外すと、皆いっせいに息をついた。私も同じ顔をしているのだろう。
「正直に申し上げます」
カヤ先生が湯呑みを置いた。
「王都の魔法学校なんですから、学生にも王冠級を触らせるべきだと思います」
「豆粒級では」
「その、なんというか……」
「貧乏人向け、ですか」
「……言い方は、そうなりますけど」
悪い人ではない。学生にいいものを与えたいだけである。ただ、いいもの、の中身を一度も数えていない。
「先生の授業で、学生は何をしますか」
「え」
「一年の実技です。何を書かせますか」
カヤ先生は、少し考えてから答えた。
魔文を書く
魔法仮想文書を見る
文法をなぞる
小さな術式を動かす
帳簿と表を扱う
課題を綴じて出す
「これに、王冠級は要りません」
「でも」
「重いものも挙げます」
卓の上に、指で分けて書くように並べた。
大きな生成変換器を回す
込み入った幻影を描く
大量の記録を集計する
術式を丸ごと解いて読む
「こちらには要ります。ただ、一年の学生が毎日やることではありません」
「……年に、数えるほどです」
「では、年に数えるほどのために、全部の卓を王冠級にしますか」
カヤ先生が黙った。
———
「最高の演算晶を十台置くより、十分な演算晶を百台置いたほうが、学べる学生は増えます」
金は決まっている。決まっているものを分けるとき、いちばんやってはいけないのは、いちばん高いものを基準に数え始めることである。
「高い包丁を買っても、料理が上手くならないみたいな?」
リゼが言った。
「かなり近いです。しかも王冠級は、魔力もよく食います」
「食うの?」
「よく食います」
トルガさんが引き取った。
「王冠級を百台、同じ講堂で回すと、術線が持ちません。増やすなら術線から引き直しです。工事が要ります」
「工事」
カヤ先生の顔が、はっきり変わった。数字が動いたらしい。
金は、たいてい人の考えを変える。理屈より速い。
「それに、熱が出ます」
トルガさんが続けた。
「夏の講堂に、王冠級が百台。窓を開けても追いつきません」
私は表示盤を借りて、書いた。
安い
魔力を食わない
熱を出さない
静か
替えが利く
「安いことも、魔力を食わないことも、広い意味では性能です。性能というのは、速さの別名ではありません」
「……速さだと思っていました」
「だいたいの人がそう思っています。私も、しばらくそう思っていました」
———
「まとめます」
表示盤に、買い方の骨だけを書いた。
学生の卓には、豆粒級を数多く
重い演習のために、王冠級の共用術盤を少しだけ
共用術盤は、要る日に先に取る
もっと重いものは、服務的魔術を借りる
選ぶ基準は、いちばん速いものではなく、その用途に足りるもの
「最後の一行が、いちばん大事です」
私は下の行を指した。
「役所も学校も、買い物のときに『いちばん良いもの』と書きたがります。良いの中身を書いていないと、値札の高い順に並べるしかなくなります」
ルドーが、ここまで黙って聞いていた。腕を組んだまま、短く言った。
「全員に最高の道具を与えるより、全員が確実に触れる道具を用意するほうが、授業としては正しいか」
「少なくとも、魔文を書くのに王冠級は要りません」
「そうだな」
ルドーは、それだけ言って頷いた。この人は、納得したときほど言葉が減る。
「……納得は、まだしていません」
カヤ先生が正直に言った。
「でも、百台のほうが授業になるのは、分かります」
こういう人のほうが、あとで信用できる。納得していないことを納得した顔で飲み込む人は、次の会議で必ず蒸し返す。
———
帰りの馬車を待っているところで、トルガさんが追いかけてきた。
面はもう外していた。丘の上の風が冷たい。
「ユウ様。……もう一つ、よろしいですか」
「なんです」
「豆粒級のことで、困っておりまして」
封止印の話かと思った。違った。
「最近の母晶、出来が良すぎるのです」
……。
「それ、いいことでは?」
「豆粒級にする玉が、足りません」
風の音が、急に大きく聞こえた。
———
馬車が来た。
リゼが乗り込みながら、こちらを見た。
「困った顔してる」
「してる」
「いいことなのに?」
「いいことなんだけどな」
うまく行きすぎたので困る、というのは、聞いた瞬間は冗談に聞こえる。だが、たいていの場合、それは本物の困りごとである。
最悪だ。帰り道で考えることが増えた。
馬車が動き出すと、皆すぐに黙った。丘の道はよく揺れる。カヤ先生は綴りを見ていて、ルドーは早々に寝ていた。リゼは窓の外を見ている。
懐で携帯術盤が小さく光った。
AIエージェント:「観測:本日、あなたは一度も術式を書いていません」
「今日は書かなくていい日なんだよ」
小さい声で返した。リゼが横目でこちらを見て、また窓へ目を戻した。
AIエージェント:「補足:本日行われたのは、用途と値の対応づけです」
「それを仕事だと言い張れるようになるまで、何年もかかったんだよ」
丘を下ると、王都の灯りが見えてきた。数え切れないほどある。
あの灯りの下の卓に、いま何が載っているのか。今日まで一度も、考えたことがなかった。




