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魔法世界は運用で回る  作者: 月の位相
夫婦編

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201/246

第201話 二度鳴った実行鍵

 西門の水番所は、水の音でできている。


 王都を東西に抜ける水路が、西の外れでいちど広がり、川へ落ちる。その落ち口の脇に建つ、石造りの小屋である。屋根は低く、壁は水気を吸って黒い。中に入ると、床の下からずっと、低い唸りが聞こえていた。


 水は、止まっているときでも音を立てる。


 その音の中で、六人が黙っていた。


———

 卓の前に座らされていたのは、四十くらいの人だった。


 外套の肩が濡れたままになっている。朝から一度も外へ出ていないのだろう。手は膝の上で組まれていて、指の先だけが白い。


「ヤナさんです。今朝の水番でした」


 迎えに出てくれた若い術務担当が、小声で言った。フィンである。魔文の整理を任せると早くて正確な人で、今日は先に着いて記録を取っていた。


「もう、二刻ほど、あの調子です」


 卓の向こうには、水路局の人が三人。中央の年配の人が、こちらを見て立ち上がった。


「王都水路局の水番頭で、ゴダと申します。……お呼び立てして、申し訳ない」


「いえ。急ぎでよかったと思います」


 水路局は、王都の水路と門を預かる部署である。術勢のための貯蔵湖の水門は供給庁が持っているが、街の中を流れる水は、ここが分けて持っている。同じ「水門」でも、開ける理由がまるで違う。


 卓の上には、記録札の写しが広げてあった。


 私が席に着く前に、ヤナさんが顔を上げた。


「押したのは一度だけです」


 声が掠れていた。何度も同じことを言った人の声である。


「本当に、一度だけなんです」


———

 ゴダさんが、記録札の写しをこちらへ回した。


 朝の同じ刻に、同じ行が二つ並んでいた。


 落とし門 一段開く

 落とし門 一段開く


「記録の上では、実行の命令が二度入っています」


 ゴダさんの言い方には、責める色がなかった。むしろ、困りきっていた。数字が人を追い詰めているのを、止められないでいる顔である。


「二度だ、と札が言っている以上、我々は二度として扱わねばならん。だが、この者は嘘をつく人間ではない。十六年やっている」


「押していません」


 ヤナさんが、また言った。


「一段だけ開けるつもりで、一段ぶんを書いて、実行を押しました。一度です。指は、離しました」


 部屋が静かになった。誰も何も言えないという静かさだった。


 こういう場は、放っておくとどちらかを嘘つきにして終わる。だいたいは、立場の弱いほうが嘘つきになる。


 私は卓の端に手を置いた。


「本人が嘘をついているとは限りません」


 全員がこちらを見た。


「入力器が嘘をつくことがあります」


———

「……入力器が」


 ゴダさんが繰り返した。


「符鍵盤です。今朝、その卓で使っていたものを、見せていただけますか」


 ヤナさんが立ち上がろうとしたので、止めた。


「触らずに、そのままで。線を抜くところから、こちらでやります」


 卓の上の符鍵盤は、水番所の湿気を十年吸ったような色をしていた。角が擦れ、実行鍵だけが、周りより深く沈んでいる。


 いちばん多く、いちばん強く押される鍵である。


 フィンが記録用の紙を構えた。


「まず、何が起きたのかを、水の側から確かめさせてください」


———

 起きたことは、単純だった。


 前の晩に雨が降った。水路の水嵩が上がる。朝いちばんに、落とし門を一段開けて、余った水を川へ落とす。西門の水番が、雨のあとに必ずやる仕事である。


 その朝、門は二段開いた。


 水嵩は、下げるつもりだった線より、さらに下まで落ちた。


「下流は、どうなりました」


「水車が三軒、半日止まった」


 ゴダさんが答えた。


「粉挽きだ。水が足りんと、臼が回らん。それから、荷船が二艘、船着きの手前で底を擦って動けなくなった。荷下ろしが夕方までずれ込んで、市場の遅れは、まだ数えている」


「けが人は」


「おらん。誰も濡れておらん」


 そこは、よかった。


 ただ、私が気になったのは、そこではなかった。


「今朝の川は、水が少なかったですね」


 ゴダさんが、少し黙った。


「……冬だからな」


「春の雪解けで川が満ちているときに、同じ二段が開いていたら、どうなりましたか」


 誰も答えなかった。


 答えたのは、ヤナさんだった。


「河岸の倉が、浸かります」


 水番の声だった。十六年やっている人の答えだった。


「今日は、川が受けてくれただけです」


———

 符鍵盤の線を抜いて、隣の部屋の試し台へ持っていった。


 水路の門につながっていない術盤である。何を押しても、水は一滴も動かない。こういう部屋があること自体は、この水番所の良いところだった。


「フィンさん、押した数と、出た数を、そのまま書き取ってください」


「はい」


 まず、字の鍵を押した。


 ゆっくり、間を空けて、五十回。


 二度出たのは、二回だった。


「二回ですね」


「二回です」


 次に、実行鍵。


 同じように、ゆっくり五十回。


 十一回。


「十一」


 フィンの手が止まった。


「……五回に一度、じゃないですか」


「そうなります」


 五回に一度、当たりが出る鍵で、王都の水を上げ下げしていたわけである。


 最悪だ。


 条件を変えていった。


 強く押すと増えた。

 斜めに押すと、さらに増えた。

 冷えた手で押したときが、いちばん多かった。


 冬の朝、急いでいる水番の指が、いちばん再現しやすい条件だった。


 符鍵盤の裏の留め具を外して、中を見た。


 実行鍵の下の緩衝晶が、白く濁っていた。他の鍵の石は、まだ透いている。


 そして、板の内側に、薄い茶色の輪が残っていた。


「これは」


「……茶をこぼしました」


 ヤナさんが、戸口から言った。いつの間にか来ていた。


「三年前です。すぐ拭いて、乾かして、動いたので、そのまま使っていました」


———

「たまに、字が二つ出ることはありました」


 ヤナさんは、卓の脇に立ったまま続けた。


「書き直せば済むので、そういうものだと思っていたんです。でも、実行の鍵で起きるとは……」


「字なら、笑い話で済みます」


 濁った石を、指で示した。


「実行鍵だと、事故になります」


 ヤナさんの顔が、また白くなった。追い打ちをかけたいわけではない。


「なぜ、替えなかったんですか」


 訊いたのは、責めるためではなかった。ここは必ず訊いておかないと、話が人の心がけで終わる。


「……替えが、なくて」


 ヤナさんは、小さく言った。


「頼めば、いつか来ます。ただ、来るまで門が止まります。雨のあとに門が開かないほうが、まずいので」


 それだ、と思った。


 私はゴダさんのほうを向いた。


「なら、これはこの人だけの問題ではありません。替えを置かないまま門を任せてきた、水路局のやり方の問題です」


 ゴダさんは、何も言い返さなかった。しばらく濁った石を見て、それから、短く息を吐いた。


「……置いていなかった。金の話ですらない。板一枚だ。誰も、要るとは思っていなかった」


———

 表示盤を借りて、三つに分けて書いた。


 起きたこと

  ・実行鍵が震えた

  ・緩衝晶が減っていて、震えを一つに丸めきれなかった

  ・同じ命令が、短いあいだに二度届いた


 盤面が、それを通した理由

  ・二度目を受けるとき、いまの開き具合を見せていない

  ・同じ命令が続けて来ても、止めていない

  ・危ない操作なのに、実行鍵ひとつで進む


 その板が、そこに置かれ続けた理由

  ・調子の悪い符鍵盤を、危ない操作の卓に置いていた

  ・替えがなかった

  ・「たまに二つ出る」を、誰にも言っていなかった

  ・入力器を検める決まりがない

  ・調子の悪い入力器を外す決まりも、ない


「三つとも欠けていたので、事故になりました。逆に言うと、どれか一つでも埋まっていれば、今朝は何も起きていません」


「石が減ったのは、この者のせいではないな」


 ゴダさんが言った。


「石は減ります。必ず減ります。減ることは事故ではありません。減った石が、危ない卓に載っていたことが事故です」


 悪いのは、この人の指ではない。この板を、この卓に置き続けたやり方である。


———

 対策も、同じ三つに分けた。


 入力器

  ・この符鍵盤は、今日で外す

  ・危ない操作をする卓の符鍵盤と、書きものをする符鍵盤を、同じ扱いにしない

  ・替えを一枚、必ず置く

  ・濡らした板は、動いていても外す

  ・年に一度、実行鍵の震えを検める


「検めは、さっき試し台でやったことをそのまま決まりにすれば足ります。ゆっくり五十回押して、二度出た数を数える。難しい道具は要りません」


「それなら、うちの者にもできる」


 ゴダさんが頷いた。ここは、水路局の仕事にしておきたかった。私が毎年五十回押しに来る話にしてはいけない。


 盤面

  ・危ない操作は、実行鍵ひとつで通さない

  ・短いあいだに同じ命令が続けて来たら、二度目は止める

  ・二度目の前に、いまの開き具合を出し直す

  ・確かめの言葉を、書き写させる


「二つ目は、番組の夜にやったものと同じ形です」


「連打止めですか」


 フィンが顔を上げた。竜騎士の最終回の夜に、待機廊と一緒に入れたやつである。


「そうです。あのときは、人が焦って何度も押すのを止めました。今度は、人が押していないのに二度来るのを止めます。押しているのが指か板かは、盤面から見れば同じことです」


「四つ目の、確かめの言葉は、たとえばこうです。門を動かす前に、盤面が『西門落とし門 一段開く』と出す。水番はそれを、自分で打ち写してから実行を押す。実行鍵を続けて叩くだけでは、絶対に進まない形にします」


「面倒だな」


 ゴダさんが正直に言った。


「面倒です。だから、危ない操作にだけ付けます」


 そこは、はっきり言っておいた。


「全部の操作を重くすると、今度は誰も文を読まなくなります。読まずに打ち写す癖がつくと、確かめの言葉は、ただの手間になります。危ない操作だけ、ちゃんと止まるようにします」


———

「一つ、よろしいですか」


 フィンが手を挙げた。


「支援金のときの、命令印は使えませんか。同じ命令が二度来たら、二度目は効かない、というやつです」


 いい問いだった。私も、着いてすぐ同じことを考えた。


「半分は使えます。ただ、それだけだと足りません」


 表示盤に書いた。


 一段開く

 一段開く


「これが二行並んでいるとき、二行目が鍵震えなのか、水番が本当にもう一段開けたかったのかは、命令の中身からは分かりません。どちらも、まったく同じ文だからです」


「あ」


「同じ文だから、一度しか効かせないようにすると、本当に二段開けたい日に開かなくなります。かといって通すと、今朝になります」


 書き直した。


 三段開きから、四段開きへ


「命令に、いまどうなっているかを書いてもらいます。三段開きの門を、四段にする。同じ命令が続けて届いても、二度目のときには門はもう四段なので、『三段開きから』の前提が合いません。合わなければ、通しません」


 ゴダさんが、表示盤を見たまま言った。


「……門の側が、聞き返すわけか。お前が言っているのは、いまの門の話か、と」


「そうです。門は自分の開き具合を知っています。命じる側だけが、知らないふりをしていました」


「そちらのほうが、面倒が少なそうだ」


「はい。それに、この形なら、鍵震え以外でも効きます。手が滑っても、魔文が二度届いても、同じ理屈で止まります」


 フィンが、手元に細かく書き付けていた。この人は、たぶん今晩から下書きを作る。


———

 日が傾いてから、もう一度、全員を試し台の部屋に集めた。


 ヤナさんにも来てもらった。ゴダさんも、水路局の三人も、フィンもいる。


 問題の符鍵盤を、試し台につないだ。


「ヤナさん。今朝と同じように、一段ぶんを書いて、実行を押してください」


 ヤナさんの手が止まった。


「……押して、いいんですか」


「この台は、どこにもつながっていません。何が起きても、水は動きません」


 冷えた手が、鍵の上に置かれた。


 一段ぶんを書く。


 そして、実行鍵を、一度押した。


 指は、すぐに離れた。全員が見ていた。誰の目にも、一度だった。


 試し台の記録札に、行が出た。


 落とし門 一段開く

 落とし門 一段開く


 部屋が、静かになった。


 水の音だけが、床の下から聞こえていた。


 私は記録札を見たまま言った。


「記録札は、正しいです。実行の命令は、二度入っています」


 少し間を置いた。


「でも、この人が二度押したとは限りません」


 ヤナさんが、口を開けて、閉じた。


 それから、両手で顔を覆った。声は出さなかった。二刻ぶん、出せなかったものが出ていく音だけがした。


 誰も、何も言わなかった。


———

「記録札は、術盤が何を受け取ったかを教えてくれます」


 しばらくして、私は続けた。


「人が何をしたかは、教えてくれません。そこは、別のことです」


「……我々は、朝から、ずっとそこを混ぜていたわけだ」


 ゴダさんが言った。


「混ぜます。私も混ぜます。記録が残っているものは、正しく見えるので」


 実際、記録は正しかった。何ひとつ間違っていない。ただ、それが人の行いを写しているとは、誰も約束していなかっただけである。


「これから、事故が起きたときの順番を決めておきませんか」


 表示盤に書いた。


 人に訊く前に

  ・記録札を見る

  ・盤面の作りを見る

  ・入力器を試し台にかける


「人に訊くのを最後にしろ、という話ではありません。人に訊く前に、道具を疑っておく。それだけで、朝から二刻、人を座らせずに済みます」


———

 落としどころは、その場で決まった。


 ヤナさんは、厳重注意になった。無罪にはならなかった。「たまに二つ出る」を三年間、誰にも言っていなかったからである。


「言っても、替えは来ないと思っていました」


 ヤナさんは、そう言った。


「それは、たぶん当たっています」


 私は答えた。


「だから、言わなかったことより、言っても替えが来ない造りのほうを直します。そちらは、あなたの担当ではありません」


 ゴダさんが、その場で三つ決めた。


 王都の水番所と、門を動かす卓の入力器を、すべて数え直す。

 替えの符鍵盤を、各所に一枚ずつ置く。

 調子の悪い入力器を外したことで門が遅れても、外した者を咎めない。


 三つ目を言ったとき、ゴダさんは少し言い淀んだ。


「……これを書いておかんと、誰も外さんのだろうな」


「外しません。外して遅れたら、外した人のせいになりますから」


「そうか」


 ゴダさんは、羊皮紙にそのまま書いた。


 帰りがけ、ヤナさんが追いかけてきて、頭を下げた。


 礼を言いたいのだろうが、言葉になっていなかった。


「あの板、どうされます」


 私は訊いた。


「捨てます」


「一枚だけ、実行鍵を残しておいてもらえますか。石ごと」


「……なぜです」


「新しく入る人に、見せるためです。壊れて動かない道具より、壊れているのに動く道具のほうが怖いというのは、言葉で言っても伝わりません」


 ヤナさんは、少し考えて、頷いた。


———

 家に帰ったのは、夜だった。


 リゼが台所から顔を出した。


「おかえり。どうだった、二度押した人」


「押してなかった」


「あら」


「鍵盤が二度鳴ってた。授業でやったやつが、そのまま出た」


 湯を浴びて、遅い夕食を食べながら、順に話した。水車が半日止まったこと。荷船が底を擦ったこと。三年前にこぼした茶のこと。


「一回押しただけなのに、二回命令されたことになるなんて、怖いわね」


「怖いよ。しかも、地味だから後回しにされる」


「壊れたらすぐ替えればいいのに」


「それができる所は、だいたい最初から事故が少ない」


「……できないところほど、事故が起きるのね」


「そう。世界はだいたい、そういう嫌な対称性でできてる」


 リゼは、しばらく黙って皿を片づけていた。


「その人、今日はちゃんと眠れるかしら」


「わからない」


 正直に言った。


「疑われた二刻は、消えないからね。俺たちが直せるのは、次の人が同じ二刻を過ごさなくて済むところまでだ」


「それは、けっこう大きいと思うけど」


「そう思っておく」


———

 食後、リゼが居間の卓で携帯術盤ではなく、家の符鍵盤を叩き始めた。


「なにしてるの」


「囁の下書き。長い名前だと、打つのも長いのよ」


 誰のせいでもない。


 しばらく鍵の音が続いて、途中で止まった。


「ねえ」


「うん」


「見て」


 覗き込むと、画面にこう出ていた。


 きょうも、カブは強かったた


「……た、が二つある」


「二つあるわね」


 リゼが、ゆっくりこちらを向いた。


「これも替えましょう」


「はい」


 その夜のうちに、家の符鍵盤は棚の上へ上げられた。翌日、新しいものが来るまで、リゼの投稿は一日遅れた。


 水路の門よりは、ずっと安い遅れである。


AIエージェント:「観測:本日、あなたは同じ話を二度しました。補足:一度目は講堂、二度目は西門です」


「今日はそれ、笑えないんだよ」


 押したのは一度だけだった。それでも、二度届いた。


 人の指と術盤のあいだには、たったそれだけの隙間しかない。その隙間に、板と、石と、線が挟まっている。


 私たちは、その隙間を信じすぎている。


 最悪だ、と小さく言って、灯りを落とした。


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