第201話 二度鳴った実行鍵
西門の水番所は、水の音でできている。
王都を東西に抜ける水路が、西の外れでいちど広がり、川へ落ちる。その落ち口の脇に建つ、石造りの小屋である。屋根は低く、壁は水気を吸って黒い。中に入ると、床の下からずっと、低い唸りが聞こえていた。
水は、止まっているときでも音を立てる。
その音の中で、六人が黙っていた。
———
卓の前に座らされていたのは、四十くらいの人だった。
外套の肩が濡れたままになっている。朝から一度も外へ出ていないのだろう。手は膝の上で組まれていて、指の先だけが白い。
「ヤナさんです。今朝の水番でした」
迎えに出てくれた若い術務担当が、小声で言った。フィンである。魔文の整理を任せると早くて正確な人で、今日は先に着いて記録を取っていた。
「もう、二刻ほど、あの調子です」
卓の向こうには、水路局の人が三人。中央の年配の人が、こちらを見て立ち上がった。
「王都水路局の水番頭で、ゴダと申します。……お呼び立てして、申し訳ない」
「いえ。急ぎでよかったと思います」
水路局は、王都の水路と門を預かる部署である。術勢のための貯蔵湖の水門は供給庁が持っているが、街の中を流れる水は、ここが分けて持っている。同じ「水門」でも、開ける理由がまるで違う。
卓の上には、記録札の写しが広げてあった。
私が席に着く前に、ヤナさんが顔を上げた。
「押したのは一度だけです」
声が掠れていた。何度も同じことを言った人の声である。
「本当に、一度だけなんです」
———
ゴダさんが、記録札の写しをこちらへ回した。
朝の同じ刻に、同じ行が二つ並んでいた。
落とし門 一段開く
落とし門 一段開く
「記録の上では、実行の命令が二度入っています」
ゴダさんの言い方には、責める色がなかった。むしろ、困りきっていた。数字が人を追い詰めているのを、止められないでいる顔である。
「二度だ、と札が言っている以上、我々は二度として扱わねばならん。だが、この者は嘘をつく人間ではない。十六年やっている」
「押していません」
ヤナさんが、また言った。
「一段だけ開けるつもりで、一段ぶんを書いて、実行を押しました。一度です。指は、離しました」
部屋が静かになった。誰も何も言えないという静かさだった。
こういう場は、放っておくとどちらかを嘘つきにして終わる。だいたいは、立場の弱いほうが嘘つきになる。
私は卓の端に手を置いた。
「本人が嘘をついているとは限りません」
全員がこちらを見た。
「入力器が嘘をつくことがあります」
———
「……入力器が」
ゴダさんが繰り返した。
「符鍵盤です。今朝、その卓で使っていたものを、見せていただけますか」
ヤナさんが立ち上がろうとしたので、止めた。
「触らずに、そのままで。線を抜くところから、こちらでやります」
卓の上の符鍵盤は、水番所の湿気を十年吸ったような色をしていた。角が擦れ、実行鍵だけが、周りより深く沈んでいる。
いちばん多く、いちばん強く押される鍵である。
フィンが記録用の紙を構えた。
「まず、何が起きたのかを、水の側から確かめさせてください」
———
起きたことは、単純だった。
前の晩に雨が降った。水路の水嵩が上がる。朝いちばんに、落とし門を一段開けて、余った水を川へ落とす。西門の水番が、雨のあとに必ずやる仕事である。
その朝、門は二段開いた。
水嵩は、下げるつもりだった線より、さらに下まで落ちた。
「下流は、どうなりました」
「水車が三軒、半日止まった」
ゴダさんが答えた。
「粉挽きだ。水が足りんと、臼が回らん。それから、荷船が二艘、船着きの手前で底を擦って動けなくなった。荷下ろしが夕方までずれ込んで、市場の遅れは、まだ数えている」
「けが人は」
「おらん。誰も濡れておらん」
そこは、よかった。
ただ、私が気になったのは、そこではなかった。
「今朝の川は、水が少なかったですね」
ゴダさんが、少し黙った。
「……冬だからな」
「春の雪解けで川が満ちているときに、同じ二段が開いていたら、どうなりましたか」
誰も答えなかった。
答えたのは、ヤナさんだった。
「河岸の倉が、浸かります」
水番の声だった。十六年やっている人の答えだった。
「今日は、川が受けてくれただけです」
———
符鍵盤の線を抜いて、隣の部屋の試し台へ持っていった。
水路の門につながっていない術盤である。何を押しても、水は一滴も動かない。こういう部屋があること自体は、この水番所の良いところだった。
「フィンさん、押した数と、出た数を、そのまま書き取ってください」
「はい」
まず、字の鍵を押した。
ゆっくり、間を空けて、五十回。
二度出たのは、二回だった。
「二回ですね」
「二回です」
次に、実行鍵。
同じように、ゆっくり五十回。
十一回。
「十一」
フィンの手が止まった。
「……五回に一度、じゃないですか」
「そうなります」
五回に一度、当たりが出る鍵で、王都の水を上げ下げしていたわけである。
最悪だ。
条件を変えていった。
強く押すと増えた。
斜めに押すと、さらに増えた。
冷えた手で押したときが、いちばん多かった。
冬の朝、急いでいる水番の指が、いちばん再現しやすい条件だった。
符鍵盤の裏の留め具を外して、中を見た。
実行鍵の下の緩衝晶が、白く濁っていた。他の鍵の石は、まだ透いている。
そして、板の内側に、薄い茶色の輪が残っていた。
「これは」
「……茶をこぼしました」
ヤナさんが、戸口から言った。いつの間にか来ていた。
「三年前です。すぐ拭いて、乾かして、動いたので、そのまま使っていました」
———
「たまに、字が二つ出ることはありました」
ヤナさんは、卓の脇に立ったまま続けた。
「書き直せば済むので、そういうものだと思っていたんです。でも、実行の鍵で起きるとは……」
「字なら、笑い話で済みます」
濁った石を、指で示した。
「実行鍵だと、事故になります」
ヤナさんの顔が、また白くなった。追い打ちをかけたいわけではない。
「なぜ、替えなかったんですか」
訊いたのは、責めるためではなかった。ここは必ず訊いておかないと、話が人の心がけで終わる。
「……替えが、なくて」
ヤナさんは、小さく言った。
「頼めば、いつか来ます。ただ、来るまで門が止まります。雨のあとに門が開かないほうが、まずいので」
それだ、と思った。
私はゴダさんのほうを向いた。
「なら、これはこの人だけの問題ではありません。替えを置かないまま門を任せてきた、水路局のやり方の問題です」
ゴダさんは、何も言い返さなかった。しばらく濁った石を見て、それから、短く息を吐いた。
「……置いていなかった。金の話ですらない。板一枚だ。誰も、要るとは思っていなかった」
———
表示盤を借りて、三つに分けて書いた。
起きたこと
・実行鍵が震えた
・緩衝晶が減っていて、震えを一つに丸めきれなかった
・同じ命令が、短いあいだに二度届いた
盤面が、それを通した理由
・二度目を受けるとき、いまの開き具合を見せていない
・同じ命令が続けて来ても、止めていない
・危ない操作なのに、実行鍵ひとつで進む
その板が、そこに置かれ続けた理由
・調子の悪い符鍵盤を、危ない操作の卓に置いていた
・替えがなかった
・「たまに二つ出る」を、誰にも言っていなかった
・入力器を検める決まりがない
・調子の悪い入力器を外す決まりも、ない
「三つとも欠けていたので、事故になりました。逆に言うと、どれか一つでも埋まっていれば、今朝は何も起きていません」
「石が減ったのは、この者のせいではないな」
ゴダさんが言った。
「石は減ります。必ず減ります。減ることは事故ではありません。減った石が、危ない卓に載っていたことが事故です」
悪いのは、この人の指ではない。この板を、この卓に置き続けたやり方である。
———
対策も、同じ三つに分けた。
入力器
・この符鍵盤は、今日で外す
・危ない操作をする卓の符鍵盤と、書きものをする符鍵盤を、同じ扱いにしない
・替えを一枚、必ず置く
・濡らした板は、動いていても外す
・年に一度、実行鍵の震えを検める
「検めは、さっき試し台でやったことをそのまま決まりにすれば足ります。ゆっくり五十回押して、二度出た数を数える。難しい道具は要りません」
「それなら、うちの者にもできる」
ゴダさんが頷いた。ここは、水路局の仕事にしておきたかった。私が毎年五十回押しに来る話にしてはいけない。
盤面
・危ない操作は、実行鍵ひとつで通さない
・短いあいだに同じ命令が続けて来たら、二度目は止める
・二度目の前に、いまの開き具合を出し直す
・確かめの言葉を、書き写させる
「二つ目は、番組の夜にやったものと同じ形です」
「連打止めですか」
フィンが顔を上げた。竜騎士の最終回の夜に、待機廊と一緒に入れたやつである。
「そうです。あのときは、人が焦って何度も押すのを止めました。今度は、人が押していないのに二度来るのを止めます。押しているのが指か板かは、盤面から見れば同じことです」
「四つ目の、確かめの言葉は、たとえばこうです。門を動かす前に、盤面が『西門落とし門 一段開く』と出す。水番はそれを、自分で打ち写してから実行を押す。実行鍵を続けて叩くだけでは、絶対に進まない形にします」
「面倒だな」
ゴダさんが正直に言った。
「面倒です。だから、危ない操作にだけ付けます」
そこは、はっきり言っておいた。
「全部の操作を重くすると、今度は誰も文を読まなくなります。読まずに打ち写す癖がつくと、確かめの言葉は、ただの手間になります。危ない操作だけ、ちゃんと止まるようにします」
———
「一つ、よろしいですか」
フィンが手を挙げた。
「支援金のときの、命令印は使えませんか。同じ命令が二度来たら、二度目は効かない、というやつです」
いい問いだった。私も、着いてすぐ同じことを考えた。
「半分は使えます。ただ、それだけだと足りません」
表示盤に書いた。
一段開く
一段開く
「これが二行並んでいるとき、二行目が鍵震えなのか、水番が本当にもう一段開けたかったのかは、命令の中身からは分かりません。どちらも、まったく同じ文だからです」
「あ」
「同じ文だから、一度しか効かせないようにすると、本当に二段開けたい日に開かなくなります。かといって通すと、今朝になります」
書き直した。
三段開きから、四段開きへ
「命令に、いまどうなっているかを書いてもらいます。三段開きの門を、四段にする。同じ命令が続けて届いても、二度目のときには門はもう四段なので、『三段開きから』の前提が合いません。合わなければ、通しません」
ゴダさんが、表示盤を見たまま言った。
「……門の側が、聞き返すわけか。お前が言っているのは、いまの門の話か、と」
「そうです。門は自分の開き具合を知っています。命じる側だけが、知らないふりをしていました」
「そちらのほうが、面倒が少なそうだ」
「はい。それに、この形なら、鍵震え以外でも効きます。手が滑っても、魔文が二度届いても、同じ理屈で止まります」
フィンが、手元に細かく書き付けていた。この人は、たぶん今晩から下書きを作る。
———
日が傾いてから、もう一度、全員を試し台の部屋に集めた。
ヤナさんにも来てもらった。ゴダさんも、水路局の三人も、フィンもいる。
問題の符鍵盤を、試し台につないだ。
「ヤナさん。今朝と同じように、一段ぶんを書いて、実行を押してください」
ヤナさんの手が止まった。
「……押して、いいんですか」
「この台は、どこにもつながっていません。何が起きても、水は動きません」
冷えた手が、鍵の上に置かれた。
一段ぶんを書く。
そして、実行鍵を、一度押した。
指は、すぐに離れた。全員が見ていた。誰の目にも、一度だった。
試し台の記録札に、行が出た。
落とし門 一段開く
落とし門 一段開く
部屋が、静かになった。
水の音だけが、床の下から聞こえていた。
私は記録札を見たまま言った。
「記録札は、正しいです。実行の命令は、二度入っています」
少し間を置いた。
「でも、この人が二度押したとは限りません」
ヤナさんが、口を開けて、閉じた。
それから、両手で顔を覆った。声は出さなかった。二刻ぶん、出せなかったものが出ていく音だけがした。
誰も、何も言わなかった。
———
「記録札は、術盤が何を受け取ったかを教えてくれます」
しばらくして、私は続けた。
「人が何をしたかは、教えてくれません。そこは、別のことです」
「……我々は、朝から、ずっとそこを混ぜていたわけだ」
ゴダさんが言った。
「混ぜます。私も混ぜます。記録が残っているものは、正しく見えるので」
実際、記録は正しかった。何ひとつ間違っていない。ただ、それが人の行いを写しているとは、誰も約束していなかっただけである。
「これから、事故が起きたときの順番を決めておきませんか」
表示盤に書いた。
人に訊く前に
・記録札を見る
・盤面の作りを見る
・入力器を試し台にかける
「人に訊くのを最後にしろ、という話ではありません。人に訊く前に、道具を疑っておく。それだけで、朝から二刻、人を座らせずに済みます」
———
落としどころは、その場で決まった。
ヤナさんは、厳重注意になった。無罪にはならなかった。「たまに二つ出る」を三年間、誰にも言っていなかったからである。
「言っても、替えは来ないと思っていました」
ヤナさんは、そう言った。
「それは、たぶん当たっています」
私は答えた。
「だから、言わなかったことより、言っても替えが来ない造りのほうを直します。そちらは、あなたの担当ではありません」
ゴダさんが、その場で三つ決めた。
王都の水番所と、門を動かす卓の入力器を、すべて数え直す。
替えの符鍵盤を、各所に一枚ずつ置く。
調子の悪い入力器を外したことで門が遅れても、外した者を咎めない。
三つ目を言ったとき、ゴダさんは少し言い淀んだ。
「……これを書いておかんと、誰も外さんのだろうな」
「外しません。外して遅れたら、外した人のせいになりますから」
「そうか」
ゴダさんは、羊皮紙にそのまま書いた。
帰りがけ、ヤナさんが追いかけてきて、頭を下げた。
礼を言いたいのだろうが、言葉になっていなかった。
「あの板、どうされます」
私は訊いた。
「捨てます」
「一枚だけ、実行鍵を残しておいてもらえますか。石ごと」
「……なぜです」
「新しく入る人に、見せるためです。壊れて動かない道具より、壊れているのに動く道具のほうが怖いというのは、言葉で言っても伝わりません」
ヤナさんは、少し考えて、頷いた。
———
家に帰ったのは、夜だった。
リゼが台所から顔を出した。
「おかえり。どうだった、二度押した人」
「押してなかった」
「あら」
「鍵盤が二度鳴ってた。授業でやったやつが、そのまま出た」
湯を浴びて、遅い夕食を食べながら、順に話した。水車が半日止まったこと。荷船が底を擦ったこと。三年前にこぼした茶のこと。
「一回押しただけなのに、二回命令されたことになるなんて、怖いわね」
「怖いよ。しかも、地味だから後回しにされる」
「壊れたらすぐ替えればいいのに」
「それができる所は、だいたい最初から事故が少ない」
「……できないところほど、事故が起きるのね」
「そう。世界はだいたい、そういう嫌な対称性でできてる」
リゼは、しばらく黙って皿を片づけていた。
「その人、今日はちゃんと眠れるかしら」
「わからない」
正直に言った。
「疑われた二刻は、消えないからね。俺たちが直せるのは、次の人が同じ二刻を過ごさなくて済むところまでだ」
「それは、けっこう大きいと思うけど」
「そう思っておく」
———
食後、リゼが居間の卓で携帯術盤ではなく、家の符鍵盤を叩き始めた。
「なにしてるの」
「囁の下書き。長い名前だと、打つのも長いのよ」
誰のせいでもない。
しばらく鍵の音が続いて、途中で止まった。
「ねえ」
「うん」
「見て」
覗き込むと、画面にこう出ていた。
きょうも、カブは強かったた
「……た、が二つある」
「二つあるわね」
リゼが、ゆっくりこちらを向いた。
「これも替えましょう」
「はい」
その夜のうちに、家の符鍵盤は棚の上へ上げられた。翌日、新しいものが来るまで、リゼの投稿は一日遅れた。
水路の門よりは、ずっと安い遅れである。
AIエージェント:「観測:本日、あなたは同じ話を二度しました。補足:一度目は講堂、二度目は西門です」
「今日はそれ、笑えないんだよ」
押したのは一度だけだった。それでも、二度届いた。
人の指と術盤のあいだには、たったそれだけの隙間しかない。その隙間に、板と、石と、線が挟まっている。
私たちは、その隙間を信じすぎている。
最悪だ、と小さく言って、灯りを落とした。




