第200話 押したのは一度だけ
冬の講堂は、朝のうちだけ寒い。
石の壁が夜のあいだに冷えきっていて、人が入ってもしばらくは温まらない。学生は外套を着たまま座っている。天窓から落ちる光の中を、白い息がいくつも上がっていく。
その光の下、教卓の上に、見慣れないものが置いてあった。
符鍵盤である。
術盤に字や命令を打ち込むための板で、鍵が並んでいる。押すと、その鍵の合図が術盤へ飛ぶ。学校のものも、術務室のものも、家のものも、だいたい同じ形をしている。
ただ、教卓の上のそれは、ひどく古かった。
角が擦れて丸くなり、白かったはずの鍵が、いくつも黄ばんでいる。
ルドー先生が、その端を指で叩いた。
「三年前まで、一年の教室にあったものだ」
———
「近ごろ、課題の綴りに、同じ字が二つ入っているものが増えた」
講堂に小さく笑いが起きた。何人かは笑っていない。心当たりのある顔である。
「学生が字数を水増ししているのかと思ったが、どうも違うらしい」
ルドーは符鍵盤を、教卓の真ん中へ押し出した。
「問う。なぜ二つ出る」
手が挙がる。
「書き手が急いでいるからです」
「三十人が、同じ字だけ急ぐか」
「写しの術がずれて……」
「写していない」
「呪いです」
「面白い。だが違う」
三人が短く切られて、講堂が静かになった。
「ユウ」
「はい」
「はいは一回だ。打ってみろ」
教卓の前に出て、符鍵盤に手を置いた。
自分の名を打つ。
『ユウ』
普通に出た。
「出ましたが」
「もう一度」
『ユウウ』
……出た。
最悪だ。公開処刑の匂いがする。
「リゼ」
ルドーが指した。リゼが前へ出てくる。術務室の仕事が始まってからも、講義には学生の顔で座りに来る人である。今日は、少し楽しそうな顔をしていた。
鍵を押す。
『リゼゼ』
「あ、ほんとだ。『リゼ』って打とうとしたら『リゼゼ』になった」
「嫌な壊れ方ですね」
軽く言ったが、内心はそうでもなかった。
字が増えるだけの故障は、字が増えるだけでは終わらない。それが、この手の壊れ方の嫌なところである。
ついでに言うと、昔もこの講堂で、同じことをやらされた。あのときは符丁表が食い違っていて、リゼの名が記号に化けた。今日は、リゼの名の文字が増えている。
この学校では、なぜかリゼの名が犠牲になる。
———
符鍵盤の鍵を一つ、外して見せた。
鍵の下に、小さな金具が二枚ある。押すと触れ合い、離すと離れる。触れているあいだだけ、術盤へ合図が飛ぶ。
触れ金という。符鍵盤の中で、いちばん働く部品である。
表示盤に書いた。
押す
中で触れ金が触れる
合図が一つ出る
「私たちは、鍵を一つ押したとき、こうなっていると思っています。押して、中で触れ金が触れて、合図が一つ出る」
「違うのか」
「押した瞬間に、触れ金は震えます」
書き足した。
押す
触れる 離れる 触れる 離れる 触れる
合図が三つ出る
「物が物に当たるので、当たり前といえば当たり前です。板を床に落とすと、一度では止まらずに、何度か跳ねますよね。あれと同じことが、指の下で起きています。ごく短いあいだに、何度も」
「戸を一回叩いたのに、二回聞こえるようなものね」
リゼが言った。
「近いです。しかも、叩いたほうには、二回鳴ったことが聞こえません」
「人間は一回押したつもりなのに?」
「術盤から見ると、三回くらい押されていることがあります」
「最低ね」
「最低です」
講堂が少し笑った。
「では、なぜ普段は困らない」
ルドーが先を促した。この人は、便利なものを便利なまま通してくれない。
「緩衝晶が入っているからです」
表示盤に、新しく書いた。
緩衝晶
「鍵と術盤のあいだに挟んである、粒のような石です。短いあいだに来た合図の揺れを吸って、一つに丸めます。丸める幅は、まばたきより、ずっと短い」
「そんな短い話か」
「人の指は、どれだけ速く叩いても、その幅より速くは動きません。だから、その幅の中に二つ来たら、これは人ではない、と決めてしまえるんです」
学生の何人かが、自分の手を見た。速く叩けるかどうか試したくなったらしい。無理です、と言っておいた。
———
「ただし」
ルドーが姿勢を直した。この人は、私が「ただし」と言うときだけ、そうする。
「緩衝晶は、減ります」
表示盤に足した。
緩衝晶が減る理由
・長く使う
・古い作りで、はじめから丸める幅が狭い
・安く作ってある
・濡らす
「厄介なのは、減ったことが外から見えないところです。石は割れません。焦げません。見た目は昨日と同じです。字が二つ出るまで、誰も気づけない」
教卓の上の符鍵盤を、指で示した。
「壊れて動かない道具は、まだ親切なほうです。持ち主が必ず気づくので。壊れているのに動く道具が、いちばん厄介です」
「なるほど」
ルドーが腕を組んだ。
「人間の意思と、術盤の命令のあいだにも、信用できない継ぎ目があるわけか」
「あります。しかもその継ぎ目は、だいたい机の上に、雑に置かれています」
講堂が笑った。笑い声が引くのを待って、続けた。
「私たちは、術盤に何かを命じるとき、自分の意思がそのまま命令になったと思っています。でも、術盤が見ているのは人の意思ではありません。触れ金から来た合図です。そのあいだに、板と、石と、線が挟まっています」
———
「前に、長い仕事の話をしましたね。営業再開支援金の」
「二重支給のやつ」
リゼが言った。あのときも、この講堂にいた。
「あれは、支給の命令が窓口から金庫番まで旅をするあいだに、二度届くことがある、という話でした。だから命令印を付けて、二度目は効かないようにした」
表示盤の端に、小さく書いた。
一度だけ、が難しい
「今日のは、その手前です。人の指と、術盤のあいだ。旅は、指一本ぶんしかありません。それでも二度になります」
「近ければ確かだと思っていたな」
ルドーが言った。
「はい。近ければ確かだ、というのは、だいたい思い込みです。むしろ、いちばん近いところは、誰も疑わないぶんだけ危ない」
人類は、遠くの橋には検分を入れるが、玄関の段差は死ぬまで直さない。
———
「字が二つ出るのは、笑い話で済みます。打ち直せばいい」
そこで一度、言葉を切った。
「その鍵が、実行の鍵だったら、どうなりますか」
講堂が静かになった。
実行鍵。書いた文を術盤へ渡すための鍵である。何を命じるにせよ、最後にこれを押す。書く中身は人によって違っても、最後に押す鍵だけは、王都のどの卓でも同じである。
「命令を出す卓では、入力器を信じきらないほうがいいです。鍵ひとつで進むものは、鍵ひとつで二度進みます」
「守りようはあるのか」
「三つあります。丸める石を良くする。盤面の側でも受け止める。調子の悪い入力器を、危ない卓に置かない」
書いた。
入力器で守る
盤面で守る
置き方で守る
「この三つは、どれか一つでは足りません。石はいつか減ります。盤面の守りは、急いでいる人ほど嫌がります。置き方の決まりは、替えの品がないと守れません」
「一つでは足りぬ、はお前の口癖だな」
「私が言い出したことにされると困りますけど、はい」
———
その話をしている最中に、懐で携帯術盤が短く鳴った。
授業のあいだは切っておくのが礼儀だが、術務室からの急ぎだけは通す向きにしてある。年に何度も鳴らない。
開いた。
西門水番所 実行の命令が二度受理された疑い
水番は一度しか押していないと申し立てている
記録札には二度
水路の水嵩が予定より下がり、下流に影響
至急、来られたし
顔に出たらしい。ルドーがこちらを見た。
「なんだ」
「……今、その話をしていたところです」
魔文を読み上げた。
講堂が、妙な静かさになった。授業で聞いた話が窓の外で起きていると知ったときの、あの静かさである。
「授業で扱った怪談が、王都で実演されたわけか」
「実演しなくていいんですよ、こういうのは」
鞄を取った。
「行きます」
「行け。現場こそ授業だ」
通路を出ようとしたところで、リゼが小声で言った。
「一度しか押してないって言ってる人、いま、どんな顔してるのかしらね」
……その一言が、いちばん効いた。
記録は二度だと言っている。本人は一度だと言っている。どちらかが嘘をついていることになっている。そういう場に、いま誰かが立たされている。
「うん。急ぐ」
———
外へ出ると、風が冷たかった。
講堂を振り返ると、天窓の光の中で、教卓の上の符鍵盤が見えた。黄ばんだ鍵が、何食わぬ顔で並んでいる。
最悪だ。
AIエージェント:「補足:鍵震えの起きる符鍵盤では、実行鍵がもっとも早く痛みます。理由:もっとも多く、もっとも強く押されるためです」
「……それ、先に言ってくれ」
AIエージェント:「観測:あなたは先ほどまで、その符鍵盤を授業の道具として扱っていました」
「言い返すな」
言い返されるまでもない。誰も、あの板を道具として検めていなかった。三年前に教室から下げられて、それきり誰の持ち物でもなくなり、今朝は教材になった。
人間は、壊れていない道具を見に行かない。壊れてからしか見に行かない。そしてそのころには、たいてい、何かが起きている。
西へ向かって歩き出した。水路の匂いが、風に混じり始めていた。




