第199話 名の空間の地価
翌朝の術務室の会議室は、席が足りなかった。
囁の運営からダリアと帳場の技師。魔安対からカナメ。商務院の消費者保護部門。術務室からは私とフィン、記録役にリゼ。それから、なぜかルドー先生がいた。
「先生は、なぜ」
「表札が土地になると聞いた。見に来た」
現場こそ授業だ、とこの人は言う。今日の現場は会議室である。
卓の端には、マリエの姿もあった。基幹記録庫の移行からこちら、王都の面倒ごとの進行役は、だいたいこの人のところへ流れ着く。今日は契約術務士の顔で来ているという。
「先に言っておくけど、私は長居しないわよ。約定と定めの話になったら呼んで」
「たぶん、すぐになります」
「でしょうね」
マリエは、嫌そうに笑った。
———
最初の議題は、ピノの名を返すことだった。
ダリアの隣で、囁の帳場の技師が、記録の束を広げた。
「昨日、言われて調べました。帳に残っていた記録を、全部です」
表示盤に、時系列で並べていく。
一、五日前の夜、@竜に、いつもと違う土地から入られている
二、入った直後、登録魔文先が変えられている
三、続けて、復旧用の答えと、紐づく術盤が変えられている
四、翌日から、投稿の中身が絵から霊薬の宣伝に変わっている
五、同じ入り口から、@塩、@鍵、@西門にも入られている
「見事に、同じ手順ですね」
「はい。同じ晩に、四つの名で、同じ順序の変更が走っています。別々の持ち主が、別々に不注意をしたのだとしたら、揃いすぎです」
「これだけ記録が残っていたのは、立派です」
技師は、少し複雑な顔をした。
「……正直に言うと、残っていたのは偶然です。帳の作り直しのときに、変更の控えを消し忘れていて。決めて残していた記録では、ありません」
「では、今日の決め事の一つ目はそれですね」
私は表示盤の隅に書いた。
変更の記録は、消し忘れではなく、決めて残す
「奪われたあとに戻せるかどうかは、奪われる前から決まっています。誰がいつ名に入り、何を変えたか。記録がなければ、元の持ち主が元の持ち主であることを、誰も証明できません。今回は、消し忘れに救われました。次は、救われないかもしれません」
カナメが頷いて、続きを引き取った。
「魔安対からも一つ。偽の受け取り札面は棚貸し工房から消えていたが、借り主の筋は追っている。竜恵商会は、名を買った側だと申し立てるだろう。裏の市で買っただけだと。だから、囁の帳の記録が要る。買った名だろうと、乗っ取られた名の売買なら、返してもらう」
「返せるんですか。定めの上で」
ダリアが訊いた。
「だから、マリエさんを呼んであります」
「もう出番なの」
マリエは、卓の端から身を起こした。
———
「整理するわよ。いま、囁の名前は、定めの上では何なの」
「……早い者勝ちで配る、利用の札です。定めには、譲り渡しの決まりも、取り上げの決まりも、ほとんど書いてありません。ここまで値打ちが出るものだと、思っていなかったので」
「でしょうね。で、これから決めるとして、道は二つ。名前を持ち主の完全な財産にするか、運営の持ち物で利用者は借りているだけ、とするか」
マリエは、指を二本立てた。
「先に言っておくと、どっちも地獄よ」
「両方ですか」
「名前に完全な所有権を認めると、転売屋が湧く。空いている良い名を先に取って、寝かせて、高く売る。それが商売として成立する。名の空間が、住む人のいない別荘地になるわ。逆に、運営がいつでも自由に取り上げられることにすると、今度は信用が死ぬ。六年使った名前を、運営の胸三寸で失うかもしれない場所に、誰が店の看板を掛けるの」
「真ん中を作るしかないですね」
「そう。人類が一番苦手なやつね」
会議室に、力のない笑いが起きた。
「でも、真ん中の作り方には、先例があるのよ」
マリエは続けた。
「土地。まさに土地。王都の借地の定めは、地主の土地を借りているだけの店子を、何百年もかけて守れるようにしてきた。長く住んで、商いを続けている店子を、地主は理由なく追い出せない。名前も、同じ形で書けるはずよ。名前は運営からの利用の許し。ただし、長く使い続けた利用者の利益は、定めで守る。乗っ取りによる移り渡りは、初めから無かったものにできる」
「それなら、@竜は」
「返せる。移り方が正しくなかったんだから、移っていないのと同じ。竜恵商会が裏の市でいくら払っていようと、それは商会と売り手の間の話。盗まれた絵を買った人が、絵の持ち主になれないのと同じよ」
ダリアが、深く息を吐いた。
「……定めの書き直し、手伝ってもらえますか」
「そのために来たのよ。長居しないとは言ったけど」
マリエは、羊皮紙を引き寄せた。長居する人の手つきだった。
———
午後は、守りの設計に移った。
表示盤を消して、大きく書く。
重い名
「まず、名前に等級を作ることを提案します。第一等とか特等とかではなくて、守りの厚さの等級です。呼び方は、そうですね――重い名、とします」
「重い名」
「狙われる理由のある名、という意味です」
書き出していく。
重い名
・一文字、二文字の名
・辞書に載っている言葉
・地名、職業の名
・王国の役所、公の機関の名
・広く知られた商会、工房、人の名
・縁起の良い数字の並び
「これらの名は、普通の名と同じ守りではいけません。理由は昨日ダリアさんに申し上げたとおりです。価値があると分かっているものは、価値がある前提で守る」
「具体的には、何を厚くするんです」
技師が訊いた。
「変えにくく、気づきやすく、戻しやすく。この三つです」
表示盤に並べる。
変えにくく
・重い名の登録魔文先や復旧用の答えを変えるときは、一時符号のほかに、別の道でもう一度検める
・変えたあと七日は、名の譲り渡しと、さらなる変更を止める
気づきやすく
・大事な変更は、変更後の宛先だけでなく、変更前の宛先にも報せる
・いつもと違う土地からの出入りや、投稿の急な変わり方を、帳が見張る
戻しやすく
・変更の記録を、決めて残す
・乗っ取りの訴えを受ける窓口を作り、訴えのあった名は、調べのあいだ一時凍結できるようにする
「二つ目の、変更前の宛先にも報せる、というのは」
「今回、ピノさんは、締め出されるまで何も知りませんでした。魔文先を変えられた時点で、報せは全部、攻めた側に届くようになっていたからです。でも、変えられる前の魔文先は、まだピノさんの手元にあった。そこに一通、あなたの名の魔文先が変わりました、心当たりがなければここへ、と届いていれば、六刻は早く気づけました」
「鍵を替えられた家の、元の住人に報せを出すわけですね」
「そうです。表札を替えた者は、前の表札の持ち主に、いちばん知られたくない。だから、そこに報せるんです」
技師は、手元の帳面に、細かく書き付けていた。この人は、たぶん今晩から作り始める。作る人の書き付け方だった。
———
「一つ、訊いてよいか」
ルドー先生が、初めて口を開いた。
「危ない名を、全部禁じればよいのではないか。一文字の名も、辞書の言葉も、初めから配らなければ、奪い合いも起きん」
試すときの声だった。
「それをやると、辞書が利用禁止になります」
「ほう」
「重い名の一覧を、もう一度見てください。一文字の名、辞書の言葉、地名、職業の名、数字の並び。これを全部禁じると、人間が覚えやすい名前は、ほぼ全部禁止になります。残るのは@竜七八三四だけです。覚えにくい名前しか許されない名の空間は、安全ですが、誰も住みたがりません」
「危ういものと、値打ちのあるものが、同じものだと」
「同じものです。覚えやすいから価値が出て、価値が出るから狙われる。危うさだけを切り離すことは、できません。だから、禁じるのではなく、守りの厚さで差をつけるんです」
ルドーは、少しのあいだ表示盤を眺めた。
「土地と同じだな。人が集まる場所には、必ず地価が生まれる。それが紙の上でも、術盤の中でも、というわけか」
「はい。最初は、ただの早い者勝ちだったんです。でも人が集まると、順番が権利に見え始める。名前を完全な財産にすれば、名前の地主が生まれる。何も守らなければ、先に住んでいた人が奪われる。名の空間を運営するというのは、札を配ることではなくて、その真ん中を設計し続けることなんです」
「お前はついに、表札の土地争いまで面倒を見るようになったのか」
「できれば、見たくなかったです」
本音である。
———
決め事の最後に、公の名の話をした。
「もう一つだけ。王国の役所と、公の機関の名は、先に留めてください」
表示盤に書く。
留め名
・役所、公の機関、地名などの名は、あらかじめ留め置き、名乗りたい者は審査を通す
「いまなら、@王都出納局を、誰でも取れます。取って、偽の納付案内を流せます。囁で役所の報せを読むのが当たり前になればなるほど、この穴は深くなります。空いているから配る、ではなくて、配ってはいけない名を先に決めておく」
「それと対で、本人検め印ですね」
ダリアが言った。
「役所や、大きな工房や、報導社の名には、これは本人だと運営が検めた印を付けようと思っていました。偽物と見分けが付かないと、うちの上でお触れの偽物が流れるので」
「いいと思います。検めた、という事実ごと記録に残せば、紛争のときの拠り所にもなります」
マリエが、羊皮紙から顔を上げた。
「そこ、一つだけ釘を刺しておくわ。取り上げの手続きは、必ず書いて、必ず記録を残すこと。乗っ取りの返還も、留め名も、本人検め印も、ぜんぶ運営が名前を動かす力の話よ。その力を、恣意で使ったと言われたら、囁の信用ごと死ぬ。力を持つなら、力の使い方を縛る文を、自分で先に書きなさい」
「肝に銘じます」
ダリアは、今日いちばん深く頷いた。
———
十日ほどで、@竜は返った。
帳の記録が乗っ取りを裏付け、定めの新しい条文が移り渡りを無効にし、竜恵商会の申し立ては退けられた。商会は霊薬の中身の方でも商務院に睨まれていたらしく、王都から店を畳んで消えた。偽の受け取り札面の借り主の筋は、魔安対がまだ追っている。
返った日の夕方、ピノが術務室へ来た。
礼を言いに来たのだろうが、応接で頭を下げたきり、しばらく言葉が出てこないようだった。
「六年ぶんの絵は」
「残っていました。宣伝の投稿は消されて、絵は、そのまま」
「よかった」
「今朝、久しぶりに一枚上げたんです。そうしたら」
ピノは、携帯術盤をこちらへ向けた。
朝の光の中の竜の絵に、お帰り、の言葉が、画面の下まで並んでいた。
「……名前って、こういうものだったんだな、って」
それはたぶん、この件のいちばん正しい要約だった。
帰り際、ピノは袋から緑の竜のぬいぐるみを出して、卓に置いた。
「お礼です。あの、大したものじゃなくて」
目の位置の少しずれた竜が、卓の上からこちらを見た。
大したものである。
———
囁の運営は、月の変わり目に、新しい定めと守りの仕組みを公にした。
重い名の追加の検め。変更の報せ。乗っ取りの窓口。留め名。本人検め印。名の売り買いの禁止。
囁の上の受け取られ方は、まあ、いつもどおりだった。手間が増えた、と文句を言う者がいて、やっと眠れる、と書く短い名の持ち主がいて、こんな決まりでは裏の市は消えない、と冷めたことを言う者がいた。
三番目の意見は、正しい。
裏の市では、いまも短い名に値が付いている。守りが厚くなった分、値は上がったという話すらある。守り方を変えても、@竜が欲しい人がいなくなるわけではない。
だからこれは、一回の事故対応ではなく、名の空間の運用を始める話なのだった。運用に、終わりの日はない。
———
休みの日の朝、リゼが携帯術盤とにらめっこをしていた。
「どうした」
「わたしも、囁で書いてみようと思って。カブの人みたいなのを」
「いいと思う」
「で、名前を取ろうとしたんだけど」
リゼは、画面をこちらへ向けた。
その名は、すでに使われています。
「わたしの名前、もう使われてる」
「よくある」
「よくあるで済まさないでよ。わたしの名前よ」
「王都に、同じ名前の人が何人いると思う」
「……それは、そうだけど」
リゼは唇を尖らせて、画面に戻った。しばらく指を動かして、また止まる。
「花の名前も、菓子の名前も、ぜんぶ使われてる。じゃあ、数字を足すしかないの?」
「人類はそうやって敗北を受け入れてきた」
「大げさね」
「名の空間では、だいたいみんな負けるんだ。早い者勝ちの世界で、俺たちはたいてい、遅く来た側だから」
AIエージェント:「提案:@リゼ七八三四は、現在も空いています」
「その番号、授業のたとえ話でしょ。縁起が悪いわよ」
リゼはしばらく画面と睨み合って、やがて、何かを打ち込んだ。
「取れた」
「何にしたの」
「@カブより強い妻」
「……取れたんだ、それ」
「誰も取ってなかった。世界で、わたしだけ」
妻は、ひどく満足そうだった。
覚えやすい名前は取り尽くされ、短い名前には地価が付き、名の空間では、だいたいみんな負ける。
それでも、長い名前の側には、まだ誰も立っていない場所が、いくらでも残っている。
負け方にも、良い負け方というものがあるらしい。
卓の端では、目の位置のずれた緑の竜が、朝の光の中で、こちらを見ていた。




