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魔法世界は運用で回る  作者: 月の位相
夫婦編

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199/253

第199話 名の空間の地価

 翌朝の術務室の会議室は、席が足りなかった。


 囁の運営からダリアと帳場の技師。魔安対からカナメ。商務院の消費者保護部門。術務室からは私とフィン、記録役にリゼ。それから、なぜかルドー先生がいた。


「先生は、なぜ」


「表札が土地になると聞いた。見に来た」


 現場こそ授業だ、とこの人は言う。今日の現場は会議室である。


 卓の端には、マリエの姿もあった。基幹記録庫の移行からこちら、王都の面倒ごとの進行役は、だいたいこの人のところへ流れ着く。今日は契約術務士の顔で来ているという。


「先に言っておくけど、私は長居しないわよ。約定と定めの話になったら呼んで」


「たぶん、すぐになります」


「でしょうね」


 マリエは、嫌そうに笑った。


———

 最初の議題は、ピノの名を返すことだった。


 ダリアの隣で、囁の帳場の技師が、記録の束を広げた。


「昨日、言われて調べました。帳に残っていた記録を、全部です」


 表示盤に、時系列で並べていく。


 一、五日前の夜、@竜に、いつもと違う土地から入られている

 二、入った直後、登録魔文先が変えられている

 三、続けて、復旧用の答えと、紐づく術盤が変えられている

 四、翌日から、投稿の中身が絵から霊薬の宣伝に変わっている

 五、同じ入り口から、@塩、@鍵、@西門にも入られている


「見事に、同じ手順ですね」


「はい。同じ晩に、四つの名で、同じ順序の変更が走っています。別々の持ち主が、別々に不注意をしたのだとしたら、揃いすぎです」


「これだけ記録が残っていたのは、立派です」


 技師は、少し複雑な顔をした。


「……正直に言うと、残っていたのは偶然です。帳の作り直しのときに、変更の控えを消し忘れていて。決めて残していた記録では、ありません」


「では、今日の決め事の一つ目はそれですね」


 私は表示盤の隅に書いた。


 変更の記録は、消し忘れではなく、決めて残す


「奪われたあとに戻せるかどうかは、奪われる前から決まっています。誰がいつ名に入り、何を変えたか。記録がなければ、元の持ち主が元の持ち主であることを、誰も証明できません。今回は、消し忘れに救われました。次は、救われないかもしれません」


 カナメが頷いて、続きを引き取った。


「魔安対からも一つ。偽の受け取り札面は棚貸し工房から消えていたが、借り主の筋は追っている。竜恵商会は、名を買った側だと申し立てるだろう。裏の市で買っただけだと。だから、囁の帳の記録が要る。買った名だろうと、乗っ取られた名の売買なら、返してもらう」


「返せるんですか。定めの上で」


 ダリアが訊いた。


「だから、マリエさんを呼んであります」


「もう出番なの」


 マリエは、卓の端から身を起こした。


———

「整理するわよ。いま、囁の名前は、定めの上では何なの」


「……早い者勝ちで配る、利用の札です。定めには、譲り渡しの決まりも、取り上げの決まりも、ほとんど書いてありません。ここまで値打ちが出るものだと、思っていなかったので」


「でしょうね。で、これから決めるとして、道は二つ。名前を持ち主の完全な財産にするか、運営の持ち物で利用者は借りているだけ、とするか」


 マリエは、指を二本立てた。


「先に言っておくと、どっちも地獄よ」


「両方ですか」


「名前に完全な所有権を認めると、転売屋が湧く。空いている良い名を先に取って、寝かせて、高く売る。それが商売として成立する。名の空間が、住む人のいない別荘地になるわ。逆に、運営がいつでも自由に取り上げられることにすると、今度は信用が死ぬ。六年使った名前を、運営の胸三寸で失うかもしれない場所に、誰が店の看板を掛けるの」


「真ん中を作るしかないですね」


「そう。人類が一番苦手なやつね」


 会議室に、力のない笑いが起きた。


「でも、真ん中の作り方には、先例があるのよ」


 マリエは続けた。


「土地。まさに土地。王都の借地の定めは、地主の土地を借りているだけの店子を、何百年もかけて守れるようにしてきた。長く住んで、商いを続けている店子を、地主は理由なく追い出せない。名前も、同じ形で書けるはずよ。名前は運営からの利用の許し。ただし、長く使い続けた利用者の利益は、定めで守る。乗っ取りによる移り渡りは、初めから無かったものにできる」


「それなら、@竜は」


「返せる。移り方が正しくなかったんだから、移っていないのと同じ。竜恵商会が裏の市でいくら払っていようと、それは商会と売り手の間の話。盗まれた絵を買った人が、絵の持ち主になれないのと同じよ」


 ダリアが、深く息を吐いた。


「……定めの書き直し、手伝ってもらえますか」


「そのために来たのよ。長居しないとは言ったけど」


 マリエは、羊皮紙を引き寄せた。長居する人の手つきだった。


———

 午後は、守りの設計に移った。


 表示盤を消して、大きく書く。


 重い名


「まず、名前に等級を作ることを提案します。第一等とか特等とかではなくて、守りの厚さの等級です。呼び方は、そうですね――重い名、とします」


「重い名」


「狙われる理由のある名、という意味です」


 書き出していく。


 重い名

  ・一文字、二文字の名

  ・辞書に載っている言葉

  ・地名、職業の名

  ・王国の役所、公の機関の名

  ・広く知られた商会、工房、人の名

  ・縁起の良い数字の並び


「これらの名は、普通の名と同じ守りではいけません。理由は昨日ダリアさんに申し上げたとおりです。価値があると分かっているものは、価値がある前提で守る」


「具体的には、何を厚くするんです」


 技師が訊いた。


「変えにくく、気づきやすく、戻しやすく。この三つです」


 表示盤に並べる。


 変えにくく

  ・重い名の登録魔文先や復旧用の答えを変えるときは、一時符号のほかに、別の道でもう一度検める

  ・変えたあと七日は、名の譲り渡しと、さらなる変更を止める


 気づきやすく

  ・大事な変更は、変更後の宛先だけでなく、変更前の宛先にも報せる

  ・いつもと違う土地からの出入りや、投稿の急な変わり方を、帳が見張る


 戻しやすく

  ・変更の記録を、決めて残す

  ・乗っ取りの訴えを受ける窓口を作り、訴えのあった名は、調べのあいだ一時凍結できるようにする


「二つ目の、変更前の宛先にも報せる、というのは」


「今回、ピノさんは、締め出されるまで何も知りませんでした。魔文先を変えられた時点で、報せは全部、攻めた側に届くようになっていたからです。でも、変えられる前の魔文先は、まだピノさんの手元にあった。そこに一通、あなたの名の魔文先が変わりました、心当たりがなければここへ、と届いていれば、六刻は早く気づけました」


「鍵を替えられた家の、元の住人に報せを出すわけですね」


「そうです。表札を替えた者は、前の表札の持ち主に、いちばん知られたくない。だから、そこに報せるんです」


 技師は、手元の帳面に、細かく書き付けていた。この人は、たぶん今晩から作り始める。作る人の書き付け方だった。


———

「一つ、訊いてよいか」


 ルドー先生が、初めて口を開いた。


「危ない名を、全部禁じればよいのではないか。一文字の名も、辞書の言葉も、初めから配らなければ、奪い合いも起きん」


 試すときの声だった。


「それをやると、辞書が利用禁止になります」


「ほう」


「重い名の一覧を、もう一度見てください。一文字の名、辞書の言葉、地名、職業の名、数字の並び。これを全部禁じると、人間が覚えやすい名前は、ほぼ全部禁止になります。残るのは@竜七八三四だけです。覚えにくい名前しか許されない名の空間は、安全ですが、誰も住みたがりません」


「危ういものと、値打ちのあるものが、同じものだと」


「同じものです。覚えやすいから価値が出て、価値が出るから狙われる。危うさだけを切り離すことは、できません。だから、禁じるのではなく、守りの厚さで差をつけるんです」


 ルドーは、少しのあいだ表示盤を眺めた。


「土地と同じだな。人が集まる場所には、必ず地価が生まれる。それが紙の上でも、術盤の中でも、というわけか」


「はい。最初は、ただの早い者勝ちだったんです。でも人が集まると、順番が権利に見え始める。名前を完全な財産にすれば、名前の地主が生まれる。何も守らなければ、先に住んでいた人が奪われる。名の空間を運営するというのは、札を配ることではなくて、その真ん中を設計し続けることなんです」


「お前はついに、表札の土地争いまで面倒を見るようになったのか」


「できれば、見たくなかったです」


 本音である。


———

 決め事の最後に、公の名の話をした。


「もう一つだけ。王国の役所と、公の機関の名は、先に留めてください」


 表示盤に書く。


 留め名

  ・役所、公の機関、地名などの名は、あらかじめ留め置き、名乗りたい者は審査を通す


「いまなら、@王都出納局を、誰でも取れます。取って、偽の納付案内を流せます。囁で役所の報せを読むのが当たり前になればなるほど、この穴は深くなります。空いているから配る、ではなくて、配ってはいけない名を先に決めておく」


「それと対で、本人検め印ですね」


 ダリアが言った。


「役所や、大きな工房や、報導社の名には、これは本人だと運営が検めた印を付けようと思っていました。偽物と見分けが付かないと、うちの上でお触れの偽物が流れるので」


「いいと思います。検めた、という事実ごと記録に残せば、紛争のときの拠り所にもなります」


 マリエが、羊皮紙から顔を上げた。


「そこ、一つだけ釘を刺しておくわ。取り上げの手続きは、必ず書いて、必ず記録を残すこと。乗っ取りの返還も、留め名も、本人検め印も、ぜんぶ運営が名前を動かす力の話よ。その力を、恣意で使ったと言われたら、囁の信用ごと死ぬ。力を持つなら、力の使い方を縛る文を、自分で先に書きなさい」


「肝に銘じます」


 ダリアは、今日いちばん深く頷いた。


———

 十日ほどで、@竜は返った。


 帳の記録が乗っ取りを裏付け、定めの新しい条文が移り渡りを無効にし、竜恵商会の申し立ては退けられた。商会は霊薬の中身の方でも商務院に睨まれていたらしく、王都から店を畳んで消えた。偽の受け取り札面の借り主の筋は、魔安対がまだ追っている。


 返った日の夕方、ピノが術務室へ来た。


 礼を言いに来たのだろうが、応接で頭を下げたきり、しばらく言葉が出てこないようだった。


「六年ぶんの絵は」


「残っていました。宣伝の投稿は消されて、絵は、そのまま」


「よかった」


「今朝、久しぶりに一枚上げたんです。そうしたら」


 ピノは、携帯術盤をこちらへ向けた。


 朝の光の中の竜の絵に、お帰り、の言葉が、画面の下まで並んでいた。


「……名前って、こういうものだったんだな、って」


 それはたぶん、この件のいちばん正しい要約だった。


 帰り際、ピノは袋から緑の竜のぬいぐるみを出して、卓に置いた。


「お礼です。あの、大したものじゃなくて」


 目の位置の少しずれた竜が、卓の上からこちらを見た。


 大したものである。


———

 囁の運営は、月の変わり目に、新しい定めと守りの仕組みを公にした。


 重い名の追加の検め。変更の報せ。乗っ取りの窓口。留め名。本人検め印。名の売り買いの禁止。


 囁の上の受け取られ方は、まあ、いつもどおりだった。手間が増えた、と文句を言う者がいて、やっと眠れる、と書く短い名の持ち主がいて、こんな決まりでは裏の市は消えない、と冷めたことを言う者がいた。


 三番目の意見は、正しい。


 裏の市では、いまも短い名に値が付いている。守りが厚くなった分、値は上がったという話すらある。守り方を変えても、@竜が欲しい人がいなくなるわけではない。


 だからこれは、一回の事故対応ではなく、名の空間の運用を始める話なのだった。運用に、終わりの日はない。


———

 休みの日の朝、リゼが携帯術盤とにらめっこをしていた。


「どうした」


「わたしも、囁で書いてみようと思って。カブの人みたいなのを」


「いいと思う」


「で、名前を取ろうとしたんだけど」


 リゼは、画面をこちらへ向けた。


 その名は、すでに使われています。


「わたしの名前、もう使われてる」


「よくある」


「よくあるで済まさないでよ。わたしの名前よ」


「王都に、同じ名前の人が何人いると思う」


「……それは、そうだけど」


 リゼは唇を尖らせて、画面に戻った。しばらく指を動かして、また止まる。


「花の名前も、菓子の名前も、ぜんぶ使われてる。じゃあ、数字を足すしかないの?」


「人類はそうやって敗北を受け入れてきた」


「大げさね」


「名の空間では、だいたいみんな負けるんだ。早い者勝ちの世界で、俺たちはたいてい、遅く来た側だから」


 AIエージェント:「提案:@リゼ七八三四は、現在も空いています」


「その番号、授業のたとえ話でしょ。縁起が悪いわよ」


 リゼはしばらく画面と睨み合って、やがて、何かを打ち込んだ。


「取れた」


「何にしたの」


「@カブより強い妻」


「……取れたんだ、それ」


「誰も取ってなかった。世界で、わたしだけ」


 妻は、ひどく満足そうだった。


 覚えやすい名前は取り尽くされ、短い名前には地価が付き、名の空間では、だいたいみんな負ける。


 それでも、長い名前の側には、まだ誰も立っていない場所が、いくらでも残っている。


 負け方にも、良い負け方というものがあるらしい。


 卓の端では、目の位置のずれた緑の竜が、朝の光の中で、こちらを見ていた。


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