第198話 短い名は誰のものか
朝食の卓の向かいで、リゼが携帯術盤を見て笑っていた。
パンをちぎる手が、さっきから止まっている。
「何かあった?」
「西市場の八百屋のおじさんがね、囁で、届いたカブの山の絵を上げてるの。今日のカブは強い、って一言だけ付けて」
「強いカブ」
「見たら分かるわよ。強いのよ」
携帯術盤をこちらへ向けてくる。
カブの山の写し絵が出ていた。たしかに、強かった。
囁、というのは、ここ半年ほどで王都に広まった短文投稿の服務である。ささやき、と読む。
短い文を書いて、公開の札面に流す。他人の投稿を追い読みに登録すると、その人の囁が手元に届くようになる。返しも引き写しもできる。それだけの仕組みである。
それだけの仕組みが、王都を覆いつつあった。
若者は歩きながら囁を読み、商人は店先に囁の名を掲げ、新聞社は刷る前の報せを囁で流す。役所まで、災害の報せと手続きの案内に使い始めている。
リゼは、八百屋と、菓子屋と、王都報導社と、あとは職場の告知を追い読みしているらしい。
「ユウは登録しないの?」
「読む専門でいい。書くことがない」
「書くことがないって言う人ほど、始めると長いのよね」
人類への理解が深い。
———
その囁で、朝から話題になっていたのが、蓮丘庭園区の話だった。
蓮丘庭園区は、王都の北西にできた新しい住宅地である。れんきゅうていえんく、と読む。水路と蓮池を囲んで、同じ造りの立派な家が並ぶ。値段も立派で、普通に勤めて買える家ではない。
その一区画が、このたび売りに出た。
で、番地ごとに値が違った。
「ね、これ見て。七七七番地だけ、隣の倍よ」
「うん」
「同じ区画なのに、なんで七七七番地だけ高いの?」
「人間が、意味を見つけたからだ」
「雑な説明ね」
「雑だけど、そうなんだ」
リゼは携帯術盤の上で書き付けを繰った。
一番地、七番地、八十八番地、百番地。切りの良い数字と、縁起の良い数字。人気の番地は、どれも高い。家は同じである。土地の広さも同じである。違うのは、門柱に彫られる数字だけ。
「数字に、家賃が付くのね」
「覚えやすいものは、だいたい価値になる」
「ふうん」
リゼはカブの絵に戻りかけて、手を止めた。
「じゃあ、囁の名前も?」
いい質問だった。
朝食の卓でする質問としては、少しばかり、良すぎた。
———
その日の講堂は、いつもどおり満ちていた。
高い窓から光の帯が落ちて、石段の席に学生が並んでいる。リゼの顔も、その中にある。
ルドー先生は、教卓に手を置いて、開口一番こう訊いた。
「囁を使っている者」
手が、半分以上挙がった。
「では訊く。@竜という名と、@竜七八三四という名。術盤にとって、違いは何か」
名の頭の渦の印は、囁の名の印である。読むときは「あっと」と言う。誰が言い出したのかは、誰も知らない。
学生たちが、順に答えた。
「短い方が、速く探せます」
「長さ」
一語で切られた。
「短い方が、先に登録された古い名です」
「登録の話はしていない」
「あの……値打ちが、違うと思います」
「なぜだ」
「なぜ、と言われると……」
誤答の梯子が、いつもの高さまで積み上がった。
「ユウ」
「はい」
「はいは一回だ」
一回しか言っていないが。
———
私は表示盤の前に立った。
「まず、答えから言います。術盤にとって、違いはありません」
表示盤に書く。
名の空間
「囁の中では、名前はこういう決まりで扱われています」
・ある範囲の中で、名前をただ一人に割り当てる
・同じ範囲の中で、同じ名前を二人が使えない
・早い者勝ち
「この、名前を一意に割り当てる範囲のことを、名の空間と呼ぶことにします。囁は一つの名の空間です。蓮丘庭園区の番地も、一つの名の空間です。同じ区に七七七番地は二つ作れません」
「帳の中では、利用者はみんな、長い番号で扱われています。名前は、その番号に貼られた札にすぎません。だから術盤にとって、@竜も@竜七八三四も、ただの札です。長さが違うだけで、どちらも同じ働きをします」
ルドーが顎で先を促した。
「では、なぜ値打ちが違うのか。それは、名前を読むのが術盤だけではないからです」
表示盤に、続きを書く。
人間にとっての名前
・覚えられる
・口で伝えられる
・見間違えにくい
・信用が乗る
「人の注意には、限りがあります。人が覚えていられる名前の数にも、限りがあります。だから、覚えやすい名前は、それだけで人を呼び込む力を持ちます。店先に@甘と書いてあれば、明日も思い出せる。@甘味処東市場三号支店では、思い出せません」
講堂に小さな笑いが起きた。
「短い名。辞書に載っている言葉。地名。職業の名。こういう名前は、名の空間の中で、数が限られています。竜、という一文字の名は、囁にひとつしかありません。限られたものに人が価値を見つけると、何が起きるか。蓮丘庭園区で起きていることが、起きます」
「地価か」
ルドーが言った。
「はい。名前に、地価が付きます。囁の帳の中では、ただの札なのに、です」
「本当の識別は長い番号で、名前は人間が覚えるための表札だと言ったな」
「言いました」
「では、表札は奪えるのか」
教卓の上で、ルドー先生は実に楽しそうだった。この人は、構造が軋む場所を見つけると楽しそうになる。
「奪えます」
私は正直に答えた。
「家はそのまま残っているのに、表札と、そこへ至る道案内だけを、そっくり持っていかれる。名の空間では、そういう奪われ方をします」
石段の中ほどで、リゼが手を挙げた。
「奪われたら、どうなるんですか。家は残ってるんですよね」
「残っています。でも、訪ねてくる人は、表札を頼りに来ます。表札を持っていった者の家に、あなた宛ての客と、あなた宛ての信用が、全部届くようになります」
講堂が、少しだけ静かになった。
「今日はここまでにします。名の空間は、便利な仕組みです。ただし、便利な名前に価値が生まれたとき、その価値を守る仕組みは、まだ誰も作っていません」
この「ただし」を、私はその週のうちに悔やむことになる。
———
三日後の朝、術務室に着くと、フィンが携帯術盤を持って立っていた。
この立ち方は、知っている。
「また遊戯の服務が終わりましたか」
「違います。今度は仕事の顔で来てます」
差し出された画面には、囁の投稿が並んでいた。
@竜、という名の投稿である。
竜の力を宿した霊薬、いまだけ半値。竜髄の腕輪、残りわずか。買うなら早く。効いた人の声、続々。
「……これは」
「ひどいでしょう。で、これが昨日まで」
フィンが画面を繰ると、同じ@竜の、昨日までの投稿が出た。
竜の絵だった。
雨の日の竜。市場の屋根で丸くなる竜。パンをくわえた竜。短い詩が添えてある。下手ではない。上手いというのとも違う。ただ、長く続けてきた者の絵だった。
「六年ぶん、あります。囁が始まった月からずっと。それが昨日の昼から、急にこれです」
霊薬の宣伝が、六年の絵の上に積もっていた。
「投稿の主は」
「締め出されています。いま、下で待ってもらってます」
最悪だ。
朝の器に、口を付ける間もなかった。
———
ピノという若い職人だった。
応接の椅子に、置き忘れられた荷物のように座っていた。
東市場の裏通りで、竜のぬいぐるみを作る小さな工房をやっているという。膝の上の袋から、握り拳ほどのぬいぐるみが覗いていた。緑の竜である。目の位置が少しずれていて、そのせいで、ひどく人が良さそうに見えた。
「囁は、始まった月から使っています。そのころは、好きな名前が全部空いていて」
ピノは、ぽつぽつと話した。
「竜が好きなので、竜にしました。それだけなんです」
「投稿は、ずっと絵を?」
「絵と、詩を少し。店の宣伝も、たまに。追い読みしてくれる人が、少しずつ増えて。竜の絵の人、って呼ばれて」
それで、と私は先を促した。
「五日前に、魔文が来たんです」
ピノは、写しを持ってきていた。卓の上に広げる。
囁運営より、大切なお知らせ
短い名をお持ちの利用者の皆さまへ
このたび、名の乗っ取りが相次いでいるため、短い名の利用者に本人検めをお願いしています
下の案内から、三日以内にお手続きください
お手続きのない場合、名は一時回収となります
「囁の運営の名前で、囁の印まで入っていて。本物だと思いました」
「思いますよ、これは」
本物そっくりに作ってある。そして、脅しの形も正しい。名は一時回収となります――大事なものを取り上げると脅して、急がせる。偽案内の魔文の、教科書どおりの作りだった。
「案内の先で、合言葉を入れました。それから、いつもの、あの、その場限りの数字も」
「一時符号ですね。合言葉のあとに、登録した魔文へ届く」
「はい。検めだと言うから、両方とも」
それで、終わりだった。
合言葉と一時符号を入れた、その直後である。本物の囁で、ピノの名に誰かが入った。登録魔文先が変えられ、復旧用の答えが変えられ、紐づく術盤が付け替えられた。朝になって、ピノが自分の名に入ろうとしたときには、もう、どの扉も開かなかった。
「運営には」
「行きました。窓口で、合言葉を他人に教えましたね、と言われました」
ピノは、膝の上の竜を、袋へ押し込んだ。
「教えました。教えたのは、そうなんです。でも」
しばらく黙って、それから言った。
「ただ、昔から使っていただけなんです。売るつもりなんて、なかった。竜の絵を上げる場所だったんです、あそこは」
返す言葉を、私はすぐには持っていなかった。
———
昼までに、分かったことを並べた。
術務室の小会議室である。フィンが囁の側の記録を集め、私が魔文と偽の受け取り札面の写しを検めた。
表示盤に書く。
一、偽の魔文は、少なくとも十七人に届いている
二、届いた先は、全員が短い名の持ち主
三、@竜のほかに、@塩、@鍵、@西門が奪われている
四、偽の受け取り札面は、棚貸し工房の借り棚に三日だけ置かれ、もう消えている
五、@竜は昨日から、竜恵商会なる商会の霊薬の宣伝をしている
「短い名だけ、狙い撃ちです」
フィンが言った。
「合言葉の漏れなら、当たった者から漏れます。長い名も短い名も、均等に。これは違う。先に名の一覧を眺めて、値打ちのある名を選んでから、その持ち主にだけ魔文を撃っている」
「魔安対には」
「朝のうちに報せました。カナメさんが、囁の運営と話す席を作るそうです。それと――」
フィンは、少し言いにくそうにした。
「裏の市の話が出ています。囁の短い名が、名指しで売り買いされている札面があると。@竜は、奪われる前の月に、売り物の一覧に載っていたそうです」
売り物の一覧に、載っていた。
持ち主は、売るつもりなどなかったのにである。
AIエージェント:「観測:当該の名は、一覧上で家一軒分に相当する値が付けられていました」
「……家一軒」
思わず、繰り返した。フィンも黙った。
六年、竜の絵を上げるだけの場所だったものに、持ち主の知らないところで、家一軒分の値札が下がっていた。
———
夕方、囁の運営の責任者が術務室へ来た。
ダリアという、よく喋る、疲れた顔の女性だった。囁は始めて六年ほどの服務だが、この半年の利用者の増え方に、中の人数がまるで追いついていないという。
「まず、こちらの言い分を先に言います。合言葉と一時符号を、自分で入れてしまっているんです。錠は破られていません。鍵を、渡してしまっている」
「そうですね」
「利用の定めにも、合言葉の管理は利用者の責めと書いてあります。これを運営の落ち度と言われると、正直、つらい」
「それも、そうです」
ダリアは、拍子抜けした顔をした。
「……責めに来たのではないんですか」
「事実の並べ方を変えに来ました」
私は表示盤を、彼女の方へ向けた。
「一人が騙されたのなら、その人の不注意です。でも、短い名の持ち主だけが十七人選ばれて、同じ魔文で釣られて、四人が奪われて、奪われた名が裏の市で売られている。ここまで並ぶと、これは不注意の話ではありません。狙われているのは人ではなくて、名です」
「名……」
「囁の名の空間に、地価が生まれているんです。皆さんが早い者勝ちで配った札に、あとから、家一軒分の値が付いた。値が付いたのに、守りは昔のまま、ただの札の守りです。価値があると分かっているものを、価値がないものと同じ守り方で置いている。攻める側から見れば、これほど良い的はありません」
ダリアは長いこと表示盤を見ていた。
それから、疲れた顔のまま言った。
「うちは、短文の置き場を作ったつもりだったんです。土地を配ったつもりは、ないんです」
「みんな、そうなんです」
私は、少しだけ言葉を選んだ。
「名の空間を作る人は、いつも、ただの札を配っているつもりで始めます。人が集まってから、札が土地になる。囁が悪いのではなくて、囁が育ったんです」
「育ったら、どうすればいいんですか」
その問いへの答えは、一晩では並ばない。
明日、魔安対と、術務室と、囁とで席を作ることになった。ピノの名を取り戻す道筋と、次の@塩と@鍵を出さない仕組みと、その両方を。
———
帰り道、リゼと市場通りを歩いた。
夕方の店先に、囁の名を書いた札が、あちこちに掛かっている。@甘。@靴。@夕刊。どれも短い。どれも、覚えやすい。
「あの札、全部、狙われ得るのよね」
「価値の分だけね」
「授業で聞いたときは、面白い話だと思ったけど」
リゼは、店先の札をひとつずつ見ながら歩いた。
「普通の人は、自分の名前が資産だなんて思って使ってないわよ。ピノさんだって、ただ竜が好きだっただけでしょう」
「そこが、この話のいちばん嫌なところなんだ」
空が暮れて、店々の灯りが点き始める。
「土地なら、高くなれば売って引っ越せる。でも名前は、その人が六年住んだ場所そのものだから。値が付いた瞬間に、住んでいる人が、いちばん危なくなる」
「……守れるの?」
「守り方を、明日から設計する」
私は、市場の札をもう一度見た。
@甘の菓子屋から、焼き菓子の匂いがしていた。店主は、自分の店の札に家一軒分の値が付き得ることを、たぶんまだ知らない。
知らないままでいられる世界の方が、よかったのだけれど。
名の空間に、もう地価は生まれてしまった。生まれた地価は、消えない。
だったら、やることは一つである。
最悪だ、と一応言っておく。言ってから、明日の席次を考え始めた。




